2013年5月19日日曜日

ビルマの氷の山 カカボラジ

  「幻の山、カカボラジ」  尾崎 隆  山と渓谷社  1997年

 ビルマの最北端の山カカボラジ(5881米)は、ながらく未踏でチベット国境に聳え立っている。
亜熱帯であるにかかわらず山頂は万年雪におおわれ白く輝いている。それ故全山水晶で出来ていると地元では言い伝えられている。ビルマのみならず東南アジアの最高峰である。この山に初
めて登頂したのが本書の著者尾崎隆とミャンマー国籍のナンマー・ジャンセン(ラワン名、チベット名はアンセー)である。
 ヤンゴンからジエット機で1時間20分でカチン州の州都ミッチーナに着く。ミッチーナから更に北へ250キロ、民間航空機が離発着できる最北の町プータオ(フォート・ヘルツ)がある。現在では
エアー・パガンのATR機がマンダレーからミッチーナ経由で週2便就航している。プータオはカカボラジへのゲートウェイの町である。キングトン・ウォード以降、1960年の川村俊蔵をのぞけば、尾崎がこの町を数十年ぶりに訪れた外国人であった。
 プータオから北東に2週間以上のキャラバンで人の住むビルマ最北の村タフダンに着く。このルートは「ビルマ 氷の山」の著者キングトン・ウォードが詳しい。
イラワジ川の東の支流ヌマイ・カの最上流を目指してジャングルを進む。北緯27度だが熱帯の密林とかわらない。蚊や虻そして蛭に悩まされる。パンマンディとサンク川合流点の中間地点を越えると植生が変わる。亜熱帯から温帯性松林になる。サンク谷を西にたどればチベットのザユールに至る峠ディプ・ラーがある。然し1937年ウォードが踏査した頃には、この道はほとんど廃れていた。その北のガムラン谷を遡ったが、源頭はせりあがり、谷を取り囲む岩壁の高さは1000米もある。その上部には尖塔が聳え立っている。かくして南面よりのウォードのカカラボジへのアプローチは失敗した。
 カカラボジ主峰はビルマとチベット自治区の国境線上に地図では記載されている。地形的にはチベット側からの登頂が容易かもしれない。然し1957年の中国・ビルマ間の国境に関する協定ではビルマ側にあることが合意されている。チベlット側から登頂することはミャンマー政府は許可しない。尾崎隊(日・仏・ミャンマー合同登山隊)は1995年の偵察行を踏まえて、二度にわたって北東面からの登頂に挑戦する。
タフダンから4日行程でラサンダンの岩小屋(無人)に至る。標高は2500米。アドウィン川沿いの道をカカボラジの方へ左折するあたりから高山植物帯に入る(3000米)。3500米の森林限界を越え、モレーン上の3900米にベースキャンプを設営する。第一キャンプはその上の4300米。恐竜の背のような岩稜を避け雪の沢を登り、その先250米の岩壁を登る。危険な氷河を越え、その岩壁の上5100米地点に第二キャンプを設置する。第三キャンプは白い雪のピークの手前5400米。「ここから先、カカボラジの頂上までは未知の世界だ。極度に困難なピッチがここから始まる。岩壁はそそり立ち、まるでヨーロッパ・アルプスのドリューのように私たちを威圧する。」(本書P221)そして「登って、登って、登りまくった。突然、目の前から障害物がいっさい消え、絶頂に放り投げられたような気分になった。」(同P222)1996年9月15日15時12分ついに氷の山カカボラジ初登頂に成功したのである。すぐ近くにはチベット高原が、そしてはるか彼方にはインドのアルナチャール・ヒマラヤの山が見える。

2013年5月4日土曜日

「シルクロード史観」論争 ~古書の宝庫を訪ねてみれば4

  「中央アジアの歴史」  間野英二  講談社現代新書 1977年

 かつて「シルクロード史観」というのがあった。中央アジアはもっぱらシルクロードが通過する地域としてのみ意義があるという観念で、中央アジア史を東西交通史・東西交渉史としてとらえた。日本人の仏教伝来や正倉院文物に対する憧憬も、おりからのマスコミのシルクロードブームとあいまって「シルクロード史観」の定説としての流行の後押しをした。
 この「シルクロード史観」に疑問を投げかけたのが本書である。著者は中央アジア史は三つの立場から取り扱われたという。①は東西交渉史・東西交通史の立場で、この交渉路を経由して文物・思想がいかに伝番したかに関心が払われる。②は中国の西域経営史、中国人の西方発展史である。③はトルコ民族史の立場で、トルキスタン成立以降現行の中央アジア諸民族がいかに形成されたかを解明する。日本の学会の伝統的な立場は①と②で、とくに①は所謂「シルクロード史観」である。著者間野は③である。
 著者によれば16世紀に中央アジア出身の人間によって書かれた2冊の書物(「バーブル・ナーマ」「ターリヒ・ラシーディー」)の精読から、16世紀前半中央アジアでおきた重要事件の記述はあるが、東西交通や中国についての記述は皆無であるという。それらは中央アジアの住民にとって重要事ではなかった。むしろ北部草原地帯のトルコ系遊牧民が最大の関心事であった。
「このように考えると、中央アジアの住民の手になる記録によってではなく、主に中国人とかヨーロッパ人の手になる記録に基づいて、中央アジアをもっぱら東西交通の一大中継地とか、中国人の西方発展の対象地としてとらえることに私はためらいをおぼえざるを得なくなってくる」(同書10頁)
 本書の刊行を契機に、「シルクロード史観」から脱却しようという動きがおこり、所謂「シルクロード論争」が勃発した。「歴史公論」(1978年12月号)では、「画期的である」(堀川徹)という評価と、
「シルクロード研究を誤解している」(長澤和俊)という批判が掲載された。その後護雅夫は「ある時代の人々にとって日常茶飯であった事柄が必ず記録されるわけでなく、現地の資料に書かれてないから東西交通が重要でなかったとは言えない」とし、南北関係と東西関係をともに重視する視点を示した。「論争」は間野が護の批判を黙殺したため、継続せず「すれ違い」で終わった。然し結果として中央アジア史は現地人が書いた現地の資料によって解明されねばならないという間野の主張はその後学会の常識となった。
 「論争」はすでに過去のものとなったが、現在からふりかえって思いつくことを二点あげてみよう。
第一は「シルクロード」の範囲を余り拡大して考えないことである。松田寿夫によればそれは「中国の黄河流域から河西通廊を通り、タクラマカン砂漠の南北いずれかのへりをたどって、パミールを西に超える道」である。にもかかわらず「パミールの西側から地中海沿岸まで跡付けようとするのは、世俗的関心をあおりたてる」ということになる。「西南シルクロード」や「海のシルクロード」という使用方は、まさに売らんがためのサギまがいのキヤッチコピーである。第二は研究者の立場の困難さである。間野のいう②の立場は、いうまでもなく現行中国の「ウイグル・チベット問題」を正当化する論理に用意に導かれてゆく。また③の立場はつきつめればかつての「東トルキスタン共和国」のようにウイグル民族の分離独立を擁護する立場になりかねない。
 本書は1977年講談社より「新書東洋史」の1分冊として刊行された。その序章「中央アジアをどう見るか」は当時の学会に衝撃を与えた記念碑的論考である。然し肝心の本編歴史叙述部分は必ずしも成功してるとはいえない。そのため話題性にもかかわらず「洛陽の紙値を高める」ということにはならなかった。たまに古書店の店頭で端本として雑本に混じって見かけるが、その分「貴重な一冊」かもしれない。