2017年4月4日火曜日

通州事件~昭和史の謎を追う⑯

   「通州事件~日中戦争泥沼化への道」 広中一成 星海社 2016年

 2015年10月ユネスコは、中国政府の強い働きかけを受けて「南京大虐殺文書」を世界記憶遺産に登録した。日本側はユネスコ分担金を見直しするとして強く反発した。その一連の動きの中で、「新しい歴史教科書をつくる会」は同年12月11日文科省で会見し、「通州事件に関する文書」を2017年の世界記憶遺産登録を目指してユネスコに申請すると発表した。そして「通州事件」に関する書籍の刊行が続いた。すなわち本書(2016年12月)と「慟哭の通州」(加藤康雄 飛鳥新社2016年11月)である。まさに「水掛け論」の様相を呈している。80年前の「通州事件」とはどのような事件であり、また何故起きたのだろうか。
(通州事件)
 通州は北京の東20キロに位置し、大運河の北の終点であった。日本の傀儡冀東政権(冀東防共自治政府)の首都であり、盧溝橋事件勃発後も比較的安全と思われていた。その通州で1937年7月29日未明に冀東政権の治安部隊である保安隊が突如反乱を起こした。反乱したのは張慶余、張硯田に率いられた約7千人である。日本守備隊の兵力は少なく(歩兵1個小隊を中心に兵站部隊約140人)、兵営を包囲され交戦中に、反乱軍は多数の日本居留民(日本人と朝鮮人)を虐殺した。居留民の被害状況は死者225人(日本人114、朝鮮人111)、生存者196人(日本人94、朝鮮人102)であった。遺体の状態は凄惨で、それは虐殺、屠殺であった。この事実は日本国民に強い衝撃を与えた。7月7日盧溝橋で始まった日中両軍の衝突は停戦交渉と戦闘を繰り返していたが、これによって一挙に戦争への道を突き進むことになる。
(張慶余手記)
 何故保安隊は反乱を起こしたのか。従来Aデマ宣伝説(日本軍が29軍に敗北している)、B保安隊誤爆説(日本の爆撃機が29軍と間違えて保安隊を誤爆した)、C軍統謀略説、D中国共産党謀略説などがあり、日本ではBの保安隊誤爆説が信じられていた。然し1982年中国で長い間沈黙していた事件の首謀者張慶余が回想記(「冀東保安隊反正始末記」)を発表した。それによると張慶余と張硯田は、冀東政権成立前から抗日の意思を持ち、29軍の宋哲元と内通していた。日中両軍の本格的戦闘が始まったら、日本軍の不意をついて通州で反乱を起こし、日本軍を挟み撃ちするよう指示されていた。あまつさえ両者には宋より各1万元が贈らていた。
(通州の日本人)
 ところで通州の日本居留民はそこで何をしていたのか。彼らの中には密輸品や麻薬などの禁制品を扱うものが少なくなかった。冀東地区が緩衝地帯になってから、密輸品は大連から海路で運びこまれるようになった。そして冀東政権成立以降、「冀東特殊貿易」(1936年12月)という政策でピークを迎えた。すまわち「査検」のためとして国民政府の1/4相当の特別税を新設して密輸を合法化した。その税収は冀東政権の財政収入に匹敵する。のみならず国民政府の関税収入に大きな打撃を与えた。国民政府と中国人は国土を奪われることより、税収を盗まれることに怒りを覚えた。また熱河省のアヘンは坂田組のトラックで公然と冀東地区を通過した。山内三郎によれば、通州はヘロインの密輸基地の観を呈したという。「徴兵検査前の日本人の青少年がヘロイン製造と販売のいずれかにちょっと手を染めるだけで、身分不相応な収入を得ることができ」(山内三郎「麻薬と戦争」)、製造から中卸までは日本人が、小卸から先の販売はすべて朝鮮人が行っていた。
 「通州事件」は天津・北京では失敗したが、「「同時多発テロ」というべきものであった。上記のような日本居留民と、北京議定書や塘沽停戦協定に違反して駐留する日本守備隊がその標的とされた。然しこの保安隊の暴虐は後に「南京」で高い代償を払うことになる。日本の新聞は「通州事件」を「第二の尼港事件」として中国人の残虐性を呼号し、反中感情を煽った。鈴木茂三郎や神近市子の冷静な意見はあったが、それは少数に過ぎない。「通州事件」の遠因は支那駐屯軍の所謂「華北分離政策」の「空想性」の露呈に起因するのだが、日本国民の憤激は収まらなかった。「防支膺懲」と「抗日救国」の空疎なスローガンが飛び交い、停戦交渉は頓挫して、日中両軍は全面戦争に突入する。