2018年4月9日月曜日

新疆に入った日本人

  「新疆ウイグル自治区と日本人①~⑦」中田吉信 アジア・アフリカ資料通報
              1983年8月~1985年7月 国立国会図書館

 金子民雄は「中央アジアに入った日本人」文庫版(1992年)のあとがきで、元版(1973年)を書いた頃は、新疆ウイグル自治区には全く立ち入ることは出来ず、現地の情報もなかったと述べている。当時は日中平和友好条約締結前で、新疆はおろか中国本土に入るのも容易ではなかった。金子は比較的情報の多い明治の三名について記述している。西徳ニ郎、福島安正、日野強である。この中で新疆入りしたのは日野のみである。それ以降については全くお手上げであったという。第一次大戦後から第二次大戦前までの戦間期である大正・昭和前期はどのような状況であったのか。その空白を埋める貴重な記録が、「アジア・アフリカ資料通報」に連載された中田吉信の論考「新疆ウイグル自治区に入った日本人」である。本論考では①を明治期の浦敬一、波多野養作、桜井好孝、林出賢次郎、日野強にあてている。②公文直太朗、佐多繁治③成田哲夫、継屯④~⑤副島次郎は大正期を扱っている。昭和前期は⑥小泉浩太⑦大西忠である。情報の多い明治期や近年著書が復刊された副島次郎(「アジアを跨ぐ」白水社1987年)を除いて、知れざる大正・昭和前期の人々について以下内容を要約して紹介する。
 大正期は中華民国初期にあたり、本土と異なり新疆省の政情は比較的安定していた。また「日支陸軍共同防滴軍事協定」(1918年5月16日)が締結され、日本陸軍は蒙古・新疆地区に諜報機関を設置することが認められていた。
公文直太朗1891~1929)は1913年(大正2)11月北京を出発し、5か月かけて蘭州経由嘉峪関に至った。ゴビを横断しハミに至り、ウルムチ、トルァン、トクスン、クチャを経てカシュガル至った。インド国境では英軍に捕らえられたが、数年インド滞在の後渡米した。1924年(大正13)帰国。公文に関しては不明なことが多い。その旅程を報じたのは「痛快なる旅行家ー何人の助けも借らず単身植物採集をしつつ中央亜細亜を横断せんとす」(大正2年9月26日)という満州日日新聞の記事である。
(佐多繁治)は元陸軍下士官で、宗教研究を名目にして軍の依頼によりウルムチで諜報活動に従事した。ウルムチに来たのは1916年(民国5年)。三井物産の調査をしていたとも言われている。この当時佐多以外にも数人の日本人が新疆にいた。それもロシアとの国境の街タルバガタイに。3人の芸妓とその家族である。彼女達は「情報」を佐多に送っていた。
成田少佐一行)日本陸軍は1918年「日支陸軍共同防滴軍事協定」により新疆省に諜報機関を正式に設置した。その配置は成田少佐以下次のようである。
ウルムチ: 成田哲夫(駐在員 少佐)、大滝剛一(嘱託)、金子信貴(雇用人)
イリ:   長嶺亀助(駐在員 大尉)、佐藤甫(嘱託)
カシュガル:相場重雄(駐在員 大尉)、富永三省(嘱託)
またタルバガタイには田島大尉が派遣されていた可能性もある。1921年1月「協定」は終了し、諜報機関員は帰国した。然し彼等は9人の間諜(カシュガリア人4人、英国籍者3人、中国人2人)を残していった。
(継屯 つぐたむろ)1919年新疆省主席楊増新顧問の名目で新疆入りした。成田少佐一行支援のためである。洛陽近くまで汽車で行き、そこから馬車で西安、蘭州を経て、涼州、粛州、安西、ハミ経由でウルムチに入った。当時継は陸軍少佐であった。
 昭和に入ると、中国の排日気運は年ごとに強まった。新疆に入るのは命がけでまさしく「潜入」であった。この時期新疆入りに失敗した小泉浩太となんとか潜入を果たした大西忠を著者はあげている。
小泉浩太1903~1932?)小泉は日本に亡命したトルコ・タタールの志士クルバン・ガリの弟子になり、語学を学びイスラム教に改宗し、メッカ巡礼を計画した。その計画は帰化城からオルドス経由で新疆に入り、アフガン、イラン、イラク、シリア、エジプトからメッカ入りを目指すという綿密かつ気宇壮大なものであった。実際の旅程はそのようにはならなかった。1931年(昭和6)5月10日北京出発。包頭到着後31日出立しオルドス経由で6月16日寧夏に入った。馬公子の隊商に加わって行った。小泉手記(「回教の首都を目指して」)によれば、その後蘭州に達したことが分かる。ここまでは旅は順調であった。然し蘭州で「挙動不審の廉」で中国官憲に逮捕される。なんとか釈放され8月新疆に向けて出立するが行方不明となる。小泉の消息に関しては二つ情報がある。①8月中旬安西付近で「米人1名、スウェーデン人1名、日本人1名」が遭難という米国漢口領事の報告,②安西で捕らえられ陝西まで送られ、楊虎城の部下に殺害されたというものである。1931年9月には満州事変が勃発しており、日本人が中国奥地まで入るのは極めて危険であった。
(于華亭もしくは大西忠?~1942)1930~34年新疆はイスラム教徒の反乱によりおおいに乱れた。ハミのイスラム教徒支援のため新疆入りした馬仲英軍に「于華亭」と名乗る日本人がいた。大西忠である。盛世才は回想録で「馬仲英の背後には日本帝国主義がいる」、「于華亭は実は日本の"agent"ー特務機関であった」と記している。大西はその後奇台の戦闘で盛世才軍に捕らえられ、ウルムチに監禁されていた。密電解読の特殊技能があり優遇されていたが、1942年ウルムチ第五監獄で獄死した。大西は1930年8月参謀本部今田少将によって密かに天津に派遣された。天津駐屯軍松本健児参謀長は甘粛の馬仲英工作のため大西を派遣した。馬仲英とともに新疆進攻を計画するためである。著者は、大西は陸軍将校であるが、何らかの事情で軍から逃亡し、北京で川村狂堂の援助で西北地区に入り、馬仲英軍に投じたとも推測している。
 その頃新疆に潜入した日本人は他にもいた。例えば1935年5月に漢人に変装した二人の日本人がハミのヨルバス・ハンに会い飛行場建設計画を協議している。またホータンの馬虎山配下の「スギシャン」副官は杉山あるいは椙山という日本人である。「青海帰り」と自称していた大陸浪人大迫武夫はホータンまで潜入していた可能性がある。いずれも関東軍の防共回廊工作を担当する特務機関員である。彼等は小泉や大西と同じようにみな帰らなかった。日本人が合法的に新疆を旅行することが可能になるのは「平和友好条約」締結後の1980年代以降である。