2025年11月11日火曜日

楼蘭研究の現段階

「日本における楼蘭研究100年 」伊藤敏雄 歴史研究54 2017年3月


 1900年スウェン・ヘデインによって楼蘭遺跡が発見された。翌年の再調査による出土資料の「楼蘭」の文字から、それが「史記」大宛伝の伝える楼蘭の都城であることが明らかになった。日本における楼蘭研究はその直後の1920年代から始まった。それから100年に及ぶ研究の歩みを著者は5期に区分して整理し、研究の到達点と課題を述べている。本論考は掲載誌(「歴史研究」54 大阪教育大学)が一般読者にはやや利用しにくいこともあり、以下その要旨を紹介し、楼蘭研究の現段階を検証する。

(研究史の概要)

①黎明期(1910年代~50年代)この時期の特徴は国都の位置をめぐる論争として始まったことである。スタインに触発された藤田豊八は国都(伊循城)をチャルクリック、扞泥城をミーランに比定した(1924)。南方説である。これに対し大谷勝鎮は国都の南遷を説き、楼蘭故城から扞泥城(アブダン)へ遷り、さらに伊循城(ミーラン)に遷ったとした(1933)。南遷説である。また松田寿男も「漢書」西域伝の里程を分析し、その中で楼蘭と鄯善の位置を別にし(1956)、後に南遷説を唱える(1963)基礎を築いた。

②興隆期(1960年代)この時期榎一雄、長澤和俊によるカローシュティ文書を用いた研究が進んだ。榎は文書中のクロライナが楼蘭で、クロライナ=クヴァニ(扞泥城)=マハムタ・ナガラ(大都市)とし、国都扞泥城を楼蘭故城に比定した(1961,63,65,66)。また文書の年代を3世紀後半~4世紀と推定した。その後アムゴーカ王の17年を283年と推定し、5世紀頭まで楼蘭(LA)が国都であると修正した(1967)。また1963年日本で初めて楼蘭に関する概説書が刊行された。長澤「楼蘭王国」とヘルマン(松田寿男訳・解説)「楼蘭」である。前者は楼蘭故城(LA)を扞泥城に比定し、終始LAが国都であったとする北方説を主張する。後者は松田が詳細な解説を付し、楼蘭から扞泥城に南遷したとし、扞泥城をミーラン、伊循城をチャルクリックに比定する南遷説である。長澤は松田の弟子にあたるが、子弟が北方説、南遷説に分かれた。ともあれ良書は一般向け概説書ではあるが、内容が豊富で、日本における楼蘭研究の基礎になった。

③発展期(1970年代)この時期長澤の精力的な研究が学界をリードした。「魏晋楼蘭屯戊攷」(1975)で魏晋楼蘭屯戊の時期と官制を考察し、更に魏の屯戊は222年に設置され、晋は魏の屯戊を継承したとする(1977)。これは出土漢文文字資料を本格的に用いた初めてのもので注目された。またカローシュティ文書の研究から、2世紀後半にクシャン朝移民団の征服による第二鄯善王朝建国を唱えた。魏の西域経営は222年から始まり、228年から魏の勢力が決定的に鄯善に及んだとし、5人の王の時代を203~288/90年と推定した。

④展開期(1980年代~90年代前半)この時期の特徴は研究者の増大と研究の緻密化・深化である。まず1988年朝日新聞・テレビ朝日主催の日中共同楼蘭探検隊の成果である。参加して楼蘭故城を訪問した長澤・伊藤敏雄は経過・成果を紹介した。伊藤は楼蘭故城は漢代の遺跡ではないという中国側の見解を重視するが、長澤は否定的である。この年、黄文弼の「ロプノール考古記」(田川純三訳)が刊行された。出土漢文文字資料の研究では候燦(1984)や伊藤(1983)などをもとに長澤は自説を大幅に修正・増補して屯戊の実体を整理した(1990,91)。カローシュティ文書のについては、長澤以外山本光郎が取り組んだ。「漢書」西域伝中の「寄田仰穀」について考察し(1984)、鄯善王国に関する歴史的・民族的問題を概観した(1990)。また李柏文書の出土地については、片山章雄がLA説を提唱(1988)し、ほぼ決着した。

⑤新展開期(1990年代後半~)海外諸機関との共同調査が進展した。2006年からの地球研と新疆文物研究所の小河墓共同調査で、小河墓地域の自然環境の変遷を追求した。王炳華の「滄桑楼蘭」の邦訳「楼蘭~幻のオアシス」(2007)が刊行されたが、その成果が反映されている。また井ノ口泰淳らサンスクリット学者による、バローの英訳によらないカロシュティー文書の研究が進んだ。赤松明彦はその研究の現状と課題を整理して、「扞泥」をクロライナ(楼蘭)とする根拠はないとした。赤松の「楼蘭王国」(2005)は最も新しい概説書である。出土漢文文字資料の研究も進展した。梅原郁は長澤の「楼蘭=LA=扞泥城=鄯善の王都」説を否定した(2001)。伊藤は国都に関する3説(北方説、南方説、南遷説)を検討・整理し、前漢の西域都護設置後か後漢前期に楼蘭地区から若羗地区に遷ったとする南遷説を主張した(2008)。衛星写真を利用した考古学的研究も登場した。相馬秀廣は衛星写真を新疆自治区の地理環境の研究に用いた。伊藤・相馬は于志勇の研究をふまえLE故城が伊循城である可能性を強調した(2014)。伊藤は楼蘭の滅亡について、若羌地区と楼蘭地区に分けて考察することを提唱した(2014)。前者はは北魏の征服後、遊牧民の攻撃・支配により住民が離散し廃墟化した。後者は国都南遷後、戦略的重要性が低下し駐屯軍が派遣されなくなり荒廃したとする(2013)。

(研究の到達点と課題)

伊藤は以下のように整理する。

①国都の位置について研究は出尽くした。北方説は否定されたが、南遷説か南方説の確定には、今後の新たな考古学的発見が待たれる。

②楼蘭の滅亡について考察法(2地区に分ける)は示されたが、史料・考古学的成果が不足し、研究の進展は望みにくい。

③李柏文書の出土地についてはLAで結着。

④カローシュティ文書については、1990年代後半原文を用いた研究が進展したが、2008年以降研究が減少している。

⑤出土漢文文字資料を用いた研究は長澤(1975)以降展開され、1990年代以降進展しつつある。今後古文書学的研究をふまえた文字資料の利用が課題となる。

⑥日中共同ニヤ遺跡学術調査(1988年開始)や海外諸機関との共同研究が展開されているが、その進展が期待される。

(解決されたものともちこされたもの)

 以上伊藤の「日本における楼蘭研究100年」の概要をやや詳しく紹介した。李柏文書出土地のように結着がついたものや、出土漢文文字資料研究、海外諸機関との共同研究など今後の成果に期待できるものもある。然し楼蘭の滅亡についての伊藤の見解は現段階では推測の域を出ない。またカローシュティ文書の取り扱いについては要注意である。この文書はあくまで「2~4世紀の文書」という限界性がある。したがって著者の北方説の否定には疑義が残る。国都問題は南遷説がやや有力ではあるが、結着は持ち越されたというべきである。   ともあれ本論文は、わが国における100年に及ぶ楼蘭研究の全容を要領よくまとめており、とくに巻末の詳細な註記は今後の研究者の手引き、研究の基礎となるものである。また一般読者にもおおいに参考となり有益である。



 







2025年3月30日日曜日

新疆ウイグル自治区の現在

    「新疆ウイグル自治区」熊倉潤 中公新書 2022年

 旧ソ連領の中央アジア(ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、カザフスタン各共和国)が「西トルキスタン」と呼ばれるのに対し、新疆ウイグル自治区はかつて「東トルキスタン」」と呼ばれらた。然し、この名称は現在中国では禁句になっている。中国内でこの語を使用することは、中国からから分離・独立を求める国家反逆罪とみなされ極めて危険である。なぜ「東トルキスタン」という名称が禁句となったのか。

 中国で「西域」と呼ばれたこの地方にはBC3千年頃からから印欧語族の一派であるトハラ語族の人々が移住してオアシスに住み着いていた。「楼蘭の美女」として知られる白色人種の人々である。そして9世紀モンゴル高原に覇を唱えた東ウイグル可汗国の人々が、キルギスに圧迫されて天山北麓に移り、ウイグル王国を成立させた。ほぼ「西域」を掌握した。このテュルク系の人々がオアシスを支配下に置き、元からの白色人種と混交し、「西域」のテュルク化が進行した。そして10世紀以降イスラム化も進行した。そ結果、以降この地は「東トルキスタン」と呼称されるようになった。

 中国がタリム盆地を直接支配下に置くようになったのは、ようやく清朝の乾隆帝時代の1759年である。然し、圧倒的に多数のウイグルに少数の漢人。中国の新疆統治は容易ではなかった。清は間接統治であったが、後継の中華民国は新疆省を設け統治を強化した。多数派のウイグルは三度の「独立」を試みた。①ヤクブ・ベく政権(1870~77年)、②東トルキスタン・イスラム共和国(1933~34年)、③東トルキスタン共和国(1944~49年)である。然し、大国の思惑に翻弄され、いずれも短命に終わり、挫折した。とくに、東トルキスタン共和国は、第二次世界大戦終了にともなう、ソ連と民国の裏取引(外モンゴル独立の承認と東北部権益の引き換え)により見殺しにされた。そして1949年の中華人民共和国の成立にともない、民国を中共に乗り換えたソ連により「共和国」幹部はソ連領内に連行されたともいう。かくて三度の独立の失敗によって、ウイグルははその独立を半永久的に失うにいたった。とくに「共和国」のイリ蜂起などは否定され「三区革命」と言いかえられた。「共和国」幹部を物理的に抹殺(ソ連の手を借りて)して、唯一のこったサイフジンと結託した「後ろ暗さ」故に「東トルキスタン」の名称やその独立を云々することはタブーとなったのである。

(新疆ウイグル自治区の成立)

 1949年11月人民解放軍第一野戦兵団がウルムチに進軍し、12月新疆人民政府が成立した。中共の統治は当初微温的なものであったが、土地改革の進行とともに強制的なものになった。その第一歩となったのが新疆建設兵団の誕生(1954年10月)と新疆ウイグル自治区の成立(1955年10月)であった。「兵団」の誕生は、大量の漢人の移住となり、新疆の総人口2585万人のうち、漢人は実に1092万人(ウイグルは1162万人)とほぼ拮抗するにいたった(2020年現在)。また「自治区」成立により「民族区域自治」が提唱され、「独立」は明確に否定された。

(中国共産党の異民族統治政策)

 中国の異民族政策は、異民族を排除する「排外」と包み込む「融和」が伝統的に交互に続いてきた。中共は当初コミンテルンの指導を受け民族の独立を容認していたが、政権をとると、ソ連の連邦制を含めて「独立」は否定された。それに代わって「民族区域自治」が打ち出されたのである。新疆統治もその例にもれない。文革後の一時期「融和」の時代(胡耀邦)もあったが、習近平体制の現在は「排外」に大きく舵がきられた。とくにチベットで悪名を轟かせた陳全国が「自治区」の書記に就任(2016~21)すると沸点に達した。監視カメラや顔認証などのAI技術の駆使と「親戚制度}という家庭内の監視の徹底はジョージ・オーエルの世界のようにグロテスクである。更に2017年3月の「自治区脱過激化条例」の制定を契機に「職業技能教育訓練センター」が設けられた。その実態は洗脳と強制労働であり、「現代のラーゲリ」「民族ジェノサイド」であると欧米メディアは非難する。その規模はあまりにも大きいという。一方中国は「事実無根」「内政干渉」とにべもないが、「脱過激化」一定の成果をあげたとして、陳全国を離任(解任ではない)させる。

 著者は中国の新疆政策は、一部には「ジェノサイド」ないし「文化的ジェノサイド」に重なるものもあるが、欧米の非難するような「ジェノサイド」ではないという。「新疆政策」の内容は、①産児制限の厳格化、②「訓練センター」への収容、③綿花畑での綿つみ労働への動員・内地への集団就職、④AI/親戚制度による徹底管理、⑤中国語教育の普及・「中華民族共同体」意識の鋳造である。これはウイグル人を完全に排除するものではなく、「民族」の破壊というより、「民族」の改造を目的にしたものであるという。然し、「中華民族」ないし「共同体」というのは歴史的にもフィクションにしか過ぎないのではないか。

 著者は、欧米メディアの告発、中国側の反論・プロパガンダに与せず、第三者的立場から、本書を書いたという。その冷静な記述には好感がもてる。また巻末の詳細な関連年表、参考文献は「新疆問題」を考える上で非常に有益で、座右に置きたい一冊である。


2025年3月1日土曜日

楼蘭王はどこ居たか

 「楼蘭 幻のオアシス」 王炳華/渡辺剛訳 牧歌舎 2009年


 日本で出版された楼蘭王国史の概説書としては次の4書がある。①「楼蘭王国」長澤和俊(校倉書房1963年、レグルス文庫1970年、徳間文庫1978年)②「楼蘭 流砂に埋もれた王都」A・ヘルマン/松田寿男訳・解説 平凡社(東洋文庫)1963年③「楼蘭王国ロプ・ノール湖畔の四千年」」赤松明彦 中公新書2005年④「楼蘭 幻のオアシス」王炳華/渡辺剛 牧歌舎2009年 ①は最も内容豊富で優れた概説書である。徳間文庫版はその時点での新情報も取り入れ中身も一新しているが、やや古い。②はさらに古い。③は楼蘭人の始原を印欧族の移動・アファナシェヴォ文化に求める学説を紹介している。またカロシュティー文書からはクロライナ王都説は証明できないとするなどユニークである。④は現行、最も新しい概説書である。楼蘭の始原については③より更に詳しい。また1988年日中共同楼蘭探検隊に参加したおりのLA踏査の知見が反映している。

 楼蘭の王都については北方説(王都はLA)、南方説(ミーランもしくはチャルフリク)、南遷説(最初はLA,後にミーラン・チャルフリクに移動)の3説がある。中国では伝統的に楼蘭が漢の属国になった時に国名変更(楼蘭→鄯善)とともに王都も湖北から湖南に移動したと考えられていた。①長澤は北方説で王都は一貫してLAであるとの立場である。②ヘルマン同様、松田も南遷説(LAからチャルフリク)で、更に詳しい「漢書」地理的考証をしている。③赤松は王都は「カロシュティー文書が唯一出土していない場所」ミーランとしている。④は南遷説で、国名変更時にLAからチャルフリクに移動したとしている。それでは楼蘭王はどこに居たのか。

 本書の著者王炳華はLA踏査の知見から前漢時代の王宮はLA内の三間房だとしている。三間房は東西12.5m南北8.5mと小さいが、それは広い敷地(1800平方m)の一部に過ぎない。LA全体(10万8千平方m)の中では大きい部分を占めている。「前77年から、楼蘭は鄯善と名前を変え、扞泥に遷都したからといって、大きな変化があったわけではなかった。(中略)ここは東西交通の重要拠点、孔雀河下流の最も理想的なオアシスとして、最終的に遺棄されるまで大きな変化もなく、変わったのは古城の主だけであった。(本書P99)」魏晋時代の西域長史府は楼蘭王の宮廷を踏襲していたのである。ヘディンやスタインはここで大量の木簡、竹簡、紙文書を発掘したが、1980年新疆考古作業者も62枚の残簡を発掘している。文書紀年は4世紀の40年代のものである。

 長澤は①の段階では、三間房は中国軍進駐以前貴族の館で、王宮は仏塔南の「大きな家」だとしていた。然しLA踏査以降は次のように改めている。「遺跡の現状から見て、まず王宮跡は三間房にあったと見てよいであろう。数は必ずしも多いとは言えないが、ここからカロシュティー文書がが出土しているのは、その一証といえよう。(中略)三間房は現在廃墟と化しているが、これを土台にしてさらにその上に二階があったとすれば、いかにも王宮にふさわしい威容を示したことであろう。(「楼蘭王国史の研究」1996年P194)」魏晋の駐屯軍が進出した結果、西域長史が住むようになった。そして楼蘭王は三間房の北側(スタインのⅤもしくはⅥ)に移住したとしている。

  また王、長澤と共にLAを踏査した伊藤敏雄は三間房西側の大宅院(スタインのⅣ)を前漢時代の王宮と推測している。スタインはここを「土着民の政府」とみなした。ちなみに伊藤は南遷説であり、「大宅院は比較的早期の建築であり、仏塔は相対的に晩期の建築で、(中略)官署は更に遅い建築」(「楼蘭の遺跡」大阪教育大紀要1990年)であるとしている。

 LAは後漢時代以降の遺跡で前漢時代には遡れないと言われていた。然し楼蘭を踏査した3人の論者は前漢時代の王宮は、三間房(王、長澤)、西側の大宅院(伊藤)としている。中国軍の進駐以降はそれぞれの論拠により異なる。これに関して富谷至は興味深い指摘をしている。LAで発掘された漢簡とカロシュティー簡が、同じ木簡を使いながら、書写材料としての使用法に連続性が認められないというのである。そして「中国の行政の在り方が、この地の王国、少なくともカロシュティーを使う民族には受け入れられなかったことを示すものであろう」(「流沙出土の文字資料」京大出版会2001年)として、お互いそれぞれ独自の行政を行っていたと考えている。「この地の王国」とは楼蘭王国である。長澤が主張するように中国の軍司令部(西域長史府)と楼蘭王はLA城内に同居していたのか。LAはかなりの面積(甲子園球場3個分)があるから、それは十分可能である。

2024年1月27日土曜日

楼蘭王国~在りし日の姿

「楼蘭古城にたたずんで」 長澤和俊 朝日新聞社  1989年

 

 本書は、1988年朝日新聞社など日中共同楼蘭探検隊に顧問として同行した著者の記録である。楼蘭、ミーラン、ニヤの3か所の遺跡を踏査した東洋史学者は、1,2の中国人を除けば世界中で著者ただ一人である。楼蘭研究30年、「楼蘭王国」や「楼蘭王国史研究」の著書がある長澤の眼に楼蘭の「在りし日」の姿はどのように映ったのか。楼蘭古城の滞在・見学は10月3,4日の2日間にしか過ぎない。

 楼蘭は「流砂に埋もれた都」と思われているが、実は全く違う。楼蘭古城(LA)は周囲20~30キロを白いヤルダンで囲まれている。LAの位置は中国隊の測量によれば、東経89度55分22秒、北緯40度29分55秒である。そこはロプ湖の北岸から西に約26キロ、孔雀河の南約20キロに位置している。孔雀河の支流の一つはLAの西方6キロの地点で分流しLAの南北を流れ、更に東方16キロで再び合流し、ロプ湖に注いでいる。孔雀河とLAの間には4本の乾河の跡があり、かつては水に恵まれていたと思われる。

 LAはほぼ正方形で、城壁は西壁と北壁は約327メートル、東壁は約333,5メトル、南壁は約329メートルで、総面積は約10万8千240平方メートル(甲子園球場3個分)もある。城壁の幅は基部で5,5メートルから5,9メートルある。城内には西北から東南に流れる水路跡がある。水路は幅16,8メートル、深さ4,5メートルある。この灌漑水路は北側の城壁外の水路もしくは外堀から20センチ角の暗渠(1乃至2~3個)によって、城内に導入され貯水池を経て暗渠で城外に排出されていた。LAは巨大な外堀に囲まれていたと推測される。そして西壁と東壁には城門があり、西壁は甕城になっていた。 古城内の主な遺跡は北東隅にある仏塔、三間房、その北にある大きな家である。仏塔は高さ約10メートルあり、最も目立つ遺跡である。往時は金色に輝いていたかもしれない。その東側には僧房があった。仏塔の南側には立派な木造建築物の建物がある。楼蘭国王の住居、宮殿であろう。三間房は中国駐屯軍の軍司令部、おそらく魏,晋、前涼の西域長史府の跡である。

 LAの周囲はヤルダンに囲まれた不毛の地であるが、その西側の河川敷跡には砂原が所々あり、農耕しようと思えば出来ないことはない。LA西部や北部には、魏晋時代屯田が10か所程度営まれていた。LAには長官の西域長史以下、副長官の司馬、属吏として監察の督郵、綱紀の功曹 、門下の主簿、録事掾などの胥吏がいる。各地の屯田には兵20数名を率いた将が屯田事業に従事していた。屯田の兵士は約300名、文官属吏ら50~60名、護衛兵や、ニヤ遺跡の駐屯員を合わせると楼蘭屯戊の駐屯員は400~500名。そうちLAにいたのは100名足らずで、意外に少ないのである。

 孔雀河の下流域にはBC3800年頃からトハラ語派の人々が住み着いていた。楼蘭(LA)~敦煌間は隊商にとっては17日間行程である。やや長いが、ここから以東には水はなく白龍堆の険路が続く。LAはヤルダン群の真っただ中であるが、北方の遊牧民の襲撃も防ぎ安く、北道にも南道にも通じる要衝であった。BC1500年頃には玉の市場が設けられていた。やがて市場の長は王になった。最初は玉の中継市場に王城が併設されるという簡素のものであった。然しBC2世紀の後半には、西域のオアシスには不釣り合いな巨大城郭都市に成長していた。「史記」大宛伝には「楼蘭・姑師には城郭があり、塩沢に臨むんでいる」と記述されている。東西の交易ルートがここを通るかぎり、楼蘭は永遠の繁栄を約束されていた。





 

2023年10月2日月曜日

楼蘭王国の滅亡

「第5世紀東トルキスタン史に関する一考察」内田吟風 古代学10-11968年


 楼蘭はBC1500年頃、タリム盆地に進出したトハラ語派の人々によって設けられた、玉の取引のための市場であった。それはやがて周囲を土壁で囲む都市になった。市場の長は国王となった。楼蘭王国の成立である。そこはタリム河の末端、ロプ湖に近いあたり、中国(敦煌)に向け隊商が水を得ることが出来る最後の地点であった。東西の貿易ルートが、ここを通るかぎり、楼蘭は永遠の反映を約束されていた。それから千年以上の時が流れたが、トハラ語派の人々はまだこの地に住んでいた。楼蘭は漢(中国)と匈奴の間を振り子のように揺れたが、BC77年漢がこの国を決定的に支配下に置いた。国名を変えて鄯善国とした。「鄯」という漢字はこの時作られた。然し中国の正史(「漢書」西域伝)が雄弁に語る鄯善国が、その終焉まで連綿と続いたのではなかった。

(5王の時代)楼蘭(クロライナ=LA)やニヤで出土したカロシュティー文書は一緒に出土した紀年漢文書から、その歴史的範囲がブラフ教授によってAD236~341年(榎一雄AD256~341年、長澤和俊AD203~288年)にわたることが判明した。そして5人の王(ペーピヤ、タージャカ、アムゴーカ、マヒリ、ヴァスマナ)の存在が明らかになった。これらの王はクシャン朝の王に似た称号「大王、王中の王、偉大にして戦勝者であり、徳篤く正法に住したる国王陛下、天子アムクヴァガ」を持っていた。文書からは、クロライナからニヤに至る広ぼう900キロに及ぶ領域を駅伝で結ぶ楼蘭王国の姿が浮かび上がる。それはプラクリットを公用語とする北インド(クシャン)風の整然たる官僚国家であった。ブラフ教授はアムゴーカ王の17年をAD263年とする新説を発表した(後に榎は283年、長澤は228年に比定)。文書中の称号「ジツーガ」が「侍中」の音訳であり、アムゴーカ王が晋の宗主権を受け入れたため、クシャン風の称号から変わったとする。そこはクシャン朝の植民国家=第二鄯善王国であった。然し晋の西域進出により、この国は以降衰亡の道を歩み始めることになる。内田は、鄯善王国の滅亡が、巷間云われるようなロプ湖の移動など自然環境の変異によるものでないことを力説している。政治的混乱と貿易の途絶が、土地の生産力に比しはるかに多い人口を擁していたオアシス都市国家=鄯善の散滅の最大の原因だとしている。

(滅亡の過程)西北中国に五胡の諸王朝が成立すると鄯善は入朝形式の朝貢貿易を求めた。まず前涼は晋を踏襲しLAに西域長史府を置いた(AD328年 李柏文書)。AD335年前涼(楊宣)の西域遠征に鄯善王元孟は案内を務めた。前秦が優勢になると休密駄は入朝(AD381年)し、「使持節散騎常侍・都督西域諸軍事・寧西将軍」の官職に侍せられた。AD400年インドに求法途上の東晋僧法顕がLAに1か月ほど滞在し、楼蘭最末期の姿を伝えている。河西に北涼が建国すると、AD421年鄯善王比竜は北涼に入朝。北涼は河西全域を支配して、シルクロードを巡る東西貿易の実権を掌握していた。然し華北に北魏朝が成立すると、北涼による中間搾取の存在は好ましいものではなかった。はたせるかなAD439年北魏による北涼遠征が行われた。敗れた北涼王の弟たち(沮渠無諱と安周)は敦煌に逃れ、AD442年安周は鄯善(LA)を攻撃した。比竜は北魏の使者とともにかろうじて北涼軍を撃退、安周は東城に退いた。かつての伊循城である。比竜は安心できず、クロライナの4千余家(人口の半分)を率いて且末城(チェルチン)に逃れた。翌年無諱はクロライナに進駐、安周をローラン王とした。北魏に知られることを恐れ、安周は再び東西交通を遮断した。然しこの計画は北魏の知るところとなり、AD445年大武帝は万度帰を派遣してローラン遠征を敢行した。万度帰はローラン王真達(比竜の子)を捕らえて魏都に連行した。そしてAD448年交趾公の韓牧を鄯善王に任命、クロライナに駐屯させ(北魏の鄯善鎮)、北魏の郡県なみに税を徴収した。これによってひとまず鄯善王国は断絶した。かくして旧鄯善領は北部の鄯善鎮と南部の且末を中心とした地区(まだ比竜が命脈を保っている)に二分された。その後、南部はAD452年吐谷渾に制圧された。また北部は柔然、丁零など遊牧民の徹底的な略奪を受け、住民は四散した。然しLAにはまだ名目的ではあるが、北魏の鄯善鎮は存続していた。AD504,505,517年には白兎などを奉献している。AD542年頃且末王の兄鄴米が衆を率いて内附した。すでにAD542年頃旦末を通過した宋雲はその人口を百余家として、ほぼ散滅寸前の状況であった。そしてAD644年末に玄奘がこの地方を通過した時には人煙は全く途絶していた。




2023年4月5日水曜日

再び楼蘭王国の王都について

「クシャン王朝と漢代西域」小谷仲男 富山大学人文学部紀要17号 1991年

 楼蘭の王都については既に述べたように三説ある。①終始楼蘭古城(LA遺跡)にあったとする北方説。②初めLAにあったが、BC77年の改名時(楼蘭→ 鄯善)にミーラン、チャルクリック方面に移動したとする南遷説。③ミーラン、チャルクリック方面にあったとする南方説。スタインや日本の東洋史学者(藤田豊八、大谷勝鎮、松田寿男)、中国人学者は②で(旧説)、それ対して榎一雄、長澤和俊が新説として①を提唱した。現在はこれがほぼ定説と考えられていた。然しこの北方説には問題点がある。それはLAが晋時代の軍事拠点ではありえても、漢代に遡れる遺物が全く発見されていないということであった。

(クシャン貨幣の発見)1980年、新疆楼蘭考古隊によってLAからクシャン貨幣が発見された。1988年、発掘調査の概要とともに写真一葉を添えて正式報告された。大きさは、直径2.7センチ、厚さ3ミリ、重さ16.3グラム。その表面図柄は「ラクダに騎乗した人物」とし、裏面は図柄なし。クシャン貨幣だとするが、どの王の発行貨幣とは述べられていない。著者は同様の貨幣をガンダーラ(パキスタン製北部のランガート仏教寺院址)で発掘しており、ヴィマ・カドフィセス銅貨であるとしている。図柄はインドのコブウシによりかかるシヴァ神である。そしてクジュラ・カドフィセス(丘就卻)とヴィマ・カドフィセス(閻膏珍)の活動期はAD25~125年のあいだである。この1枚のクシャン貨幣は発行時期(漢代)にLAにもたらされたか、それとも後代(晋時代)かは不明である。

 ヴィマ・カドフィセス貨幣が発見されたのは、LAの三間房の西南住居址付近である。スタインの遺跡地図によれば、三間房(LAⅡ ⅱ~ⅳ)と住居址(LAⅢ)とのあいだ、南斜面に臨んだ台地上である。三間房から出土した漢文書(600点以上)のうち紀年文書は約50点。年代は三国魏の嘉平4年(AD252)から西晋の永嘉6年(AD312)に及ぶ。あきらかにLAは魏晋時代の西域経営の拠点であり、三間房は西域長史の駐在署であった。スタインは、貨幣が発見された「建物LAⅢ、ⅲの南斜面には、床下90㎝のところから日乾しレンガの壁あるいは基壇(幅1.8m)の一部が顔をのぞかせており、同じ配置でより古い建物が下層に埋まっている可能性がある」(スタイン「セリンディア」)と観察している。

 そして近年LA発掘のクシャン貨幣が漢代にもたらされた可能性を示唆する発掘例が報告されている。①1914年にスタインはLAの東北数キロの墓地でヘレニスティクな「ヘルメスの杖と人頭部」の有名な毛織物を見つけた。1980年に楼蘭考古隊が同じ墓(孤台墓地 MA2と改名)を再調査し、まだ多くの絹・毛織物が堀残されているのを発見、その中に隷書文字を織り込んだ錦断片など、漢代に遡る遺物の存在を指摘している。②1984年新疆ウイグル博物館は、ホータン近辺の洛浦県山晋拉墓地を発掘調査し、スタインが孤台墓地で発掘したものに、遜色ないヘレニスティクなな男性頭部や反人反馬ケンタウルスの姿を意匠とするつづれ織り断片を発見している。報告書は漢代の墓葬としている。

 LAは、そこで発見された漢文書からその当時(魏晋時代)「楼蘭」と呼ばれた場所であることは間違いない。そこが漢代に遡れるか疑問視されていたが、上記の発掘物は疑問を解く重要な証拠である。楼蘭の王都は、そのオアシス隊商都市の性格上、シルクロードのの孔道に沿うことが必須の条件であった。LAこそがその条件に最も適合していたのである。「より古い建物が下層に埋まっている」というスタインの予想が現実になるかもしれないのである。



2022年11月23日水曜日

ティリヤ・テペの黄金遺宝「シルクロードの黄金遺宝~シバルガン王墓発掘記」V,サリアニディ 岩波書店1988年

  本書は1978~9年アフガニスタン北部、古代のシルクロードの要衝であるシバルガンの北東5キロにあるティリヤ・テペの発掘の記録である。ティリヤ・テペは綿畑の中にある直径100メートル、高さ3メートルの平凡な小丘である。発掘は著者サリアニディを隊長とするソ連・アフガニスタン調査隊によって実施された。1971年予備調査、77年から本格調査が再開された。然し79年2月アフガニスタンの政治状況悪化により中断した。6基の古代の墓を発掘したが、その成果は実に驚くべきものであった。
(ティリヤ・テペの遺宝)第1号墓の墓主は25~35歳の女性。出土した黄金細工の大部分は服飾品で他と比べて少ない。第2号墓は30~40歳の女性。あごには細長い黄金薄板のあごあてがつけられている。これは3,4,5,6号墓の墓主も同様である。この女性の黄金服飾品は豪華である。こめかみを飾る一対の黄金垂飾、次いで一対の襟止金具。デザインはイルカに乗った少年。胸元のペンダントは女神アフロディテをかたどる。そして黄金の腕輪一対(重さ507.5グラム)、足輪一対(重さ623,9グラム)。指輪は左手の2個、右手に1個。副葬品として、足元に銀製の鉢と前漢時代の中国製銅鏡。第3号墓は18~25歳の女性。マウンドの頂上付近にあったので、この墓だけ野ネズミに食い荒らされている。黄金の鉢(重さ305グラム)を枕にし、黄金の首輪(重さ765グラム)、腕には一対の腕輪(各290グラム)、指輪3個、靴止留金具と黄金尽くしである。副葬品として中国製銅鏡、銀製鉢がある。さらに貨幣が2枚。パルティア銀貨(ミトリダテス二世、在位BC123~88年)、ローマ・アウレウス金貨(ティペリウス皇帝、AD16~21年に打刻)である。第4号墓の墓主は30歳くらいの男性で身長は2メートルに近い。馬を殉葬させている。圧巻は黄金腰帯(重さ840グラム)である。死者の左側には長い鉄剣と黄金製の短剣鞘、右側には黄金製の短剣鞘があり鉄製の短剣が納られている。インド金貨が1枚見つかっている。第5号墓は15~20歳の女性。6つの墓の中では最も遺物が少ない。黄金製のあごあてや首飾り、足輪(306.7グラム)、副葬品として銀製の鉢がある。第6号墓の墓主は25~30歳の女性。銀製の鉢を枕にして装身具は他の女性より一段と豪華である。頭には高い歩揺金冠(214グラム)、こめかみには一対の黄金垂飾をつけ、襟留金具(一対97.2グラム)、首飾りと胸飾りが3本、手首には黄金腕輪(一対150グラム)、足には足輪(一対243.3グラム)がある。左手には宝石をはめた指輪、右手に儀杖を持つ。副葬品として中国の鏡2面がある。そして貨幣が2枚発見されている。パルティア金貨(フラーティス三世、在位BC70~57年)とパルティア銀貨(フラーティス四世、在位BC38~32年)で、後者は死者の口の中から見つかった。6基の墓から発掘された黄金製品は2万点にのぼる豪勢さである。
(墓葬の王)第3号墓出土ティペリウス皇帝の金貨から墓葬の時期はAD20~30年代と推定される。4号墓の男性は族長クラス(翕候)で他は殉死した婦人たちである。とくに6号墓の女性をサリアニディは「スキタイの女王」と名付けている。彼らの王宮はどこにあったのか。それはティリヤ・テペのすぐ近くにあるエムシ・テペである。墓はすべてエムシ・テペが望める北西部分に集中している。エムシ・テペは北アフガニスタンで十指にはいる首都的中心であった。高い城壁、日干しレンガの上に築かれた内城。支配者は常にここからティリャ・テペの丘にある一族の墓を眺めていたのかもしれない。これが盗掘を免れた根拠でもある。
(五翕候の位置)大月氏が滅ぼしたのは大夏ではなくバクトリアである。大夏(グレコバクトリア王国)はサカ系遊牧民(サラウカエ)によって既に簒奪されていた(BC140年)。
サカラウエを打ち滅ぼしたたのがアシアナイ族のトハラの諸王(大月氏)である(BC139年)。大月氏は征服したバクトリアに五翕候を置いた。すなわち中国に近い東から西に休密翕候(ワハン東部)、雙靡翕候(マストウジ)、貴霜翕候(ワハン西部)、肸頓翕候(バダフシャン)、都密翕候(テルメズ)である。アフガニスタン北東部に偏って位置している。この中から貴霜翕候のカドフィセスが他の四翕候を併呑しクシャン王朝を創建した(AD60年頃)。中国の史書「後漢書」はこれを旧名に因んで大月氏と呼ぶ。ティリャ・テペは、五翕候の中で最も西に位置する翕候より更に西にある。
 著者によれば、五翕候のうち少なくとも二つが、アム河を境界として、西バクトリアに位置していた。そしてここに来住した遊牧民は、二つの異なった人種タイプで示されている。その第一はアム河の北に見られるタイプである。ハルチャンで発見された壁画や塑像の顔は「鼻は大きくなくて、真っ直ぐであり、目はいわゆるモンゴルひだのない中程度の大きさ」で、ユーロオペロイドの勝ったタイプである。すなわちヘラウス貨幣に見えるクシャン王の顔である。第二は南に見られるタイプである。ティリャ・テペの人物像は「モンゴル風にあごひげがない」モンゴロイドが勝ったユーロオペロイドである。第二タイプの遊牧民の名称は分からないが、この地は後世トハリスタンと呼ばれるようになる。サリアニディは「墓葬の王」が、クシャン国家最初の王か、五翕候の一人か特定することは困難だとしている。大月氏という名称が、単一の部族ではなく、互いに親近ではあるが同一でない複数の部族グループを意味しているからである。いずれにしてもそれは、クシャンが勃興し、クシャン朝が成立する直前のことである。