2024年1月27日土曜日

楼蘭王国~在りし日の姿

「楼蘭古城にたたずんで」 長澤和俊 朝日新聞社  1989年

 

 本書は、1988年朝日新聞社など日中共同楼蘭探検隊に顧問として同行した著者の記録である。楼蘭、ミーラン、ニヤの3か所の遺跡を踏査した東洋史学者は、1,2の中国人を除けば世界中で著者ただ一人である。楼蘭研究30年、「楼蘭王国」や「楼蘭王国史研究」の著書がある長澤の眼に楼蘭の「在りし日」の姿はどのように映ったのか。楼蘭古城の滞在・見学は10月3,4日の2日間にしか過ぎない。

 楼蘭は「流砂に埋もれた都」と思われているが、実は全く違う。楼蘭古城(LA)は周囲20~30キロを白いヤルダンで囲まれている。LAの位置は中国隊の測量によれば、東経89度55分22秒、北緯40度29分55秒である。そこはロプ湖の北岸から西に約26キロ、孔雀河の南約20キロに位置している。孔雀河の支流の一つはLAの西方6キロの地点で分流しLAの南北を流れ、更に東方16キロで再び合流し、ロプ湖に注いでいる。孔雀河とLAの間には4本の乾河の跡があり、かつては水に恵まれていたと思われる。

 LAはほぼ正方形で、城壁は西壁と北壁は約327メートル、東壁は約333,5メトル、南壁は約329メートルで、総面積は約10万8千240平方メートル(甲子園球場3個分)もある。城壁の幅は基部で5,5メートルから5,9メートルある。城内には西北から東南に流れる水路跡がある。水路は幅16,8メートル、深さ4,5メートルある。この灌漑水路は北側の城壁外の水路もしくは外堀から20センチ角の暗渠(1乃至2~3個)によって、城内に導入され貯水池を経て暗渠で城外に排出されていた。LAは巨大な外堀に囲まれていたと推測される。そして西壁と東壁には城門があり、西壁は甕城になっていた。 古城内の主な遺跡は北東隅にある仏塔、三間房、その北にある大きな家である。仏塔は高さ約10メートルあり、最も目立つ遺跡である。往時は金色に輝いていたかもしれない。その東側には僧房があった。仏塔の南側には立派な木造建築物の建物がある。楼蘭国王の住居、宮殿であろう。三間房は中国駐屯軍の軍司令部、おそらく魏,晋、前涼の西域長史府の跡である。

 LAの周囲はヤルダンに囲まれた不毛の地であるが、その西側の河川敷跡には砂原が所々あり、農耕しようと思えば出来ないことはない。LA西部や北部には、魏晋時代屯田が10か所程度営まれていた。LAには長官の西域長史以下、副長官の司馬、属吏として監察の督郵、綱紀の功曹 、門下の主簿、録事掾などの胥吏がいる。各地の屯田には兵20数名を率いた将が屯田事業に従事していた。屯田の兵士は約300名、文官属吏ら50~60名、護衛兵や、ニヤ遺跡の駐屯員を合わせると楼蘭屯戊の駐屯員は400~500名。そうちLAにいたのは100名足らずで、意外に少ないのである。

 孔雀河の下流域にはBC3800年頃からトハラ語派の人々が住み着いていた。楼蘭(LA)~敦煌間は隊商にとっては17日間行程である。やや長いが、ここから以東には水はなく白龍堆の険路が続く。LAはヤルダン群の真っただ中であるが、北方の遊牧民の襲撃も防ぎ安く、北道にも南道にも通じる要衝であった。BC1500年頃には玉の市場が設けられていた。やがて市場の長は王になった。最初は玉の中継市場に王城が併設されるという簡素のものであった。然しBC2世紀の後半には、西域のオアシスには不釣り合いな巨大城郭都市に成長していた。「史記」大宛伝には「楼蘭・姑師には城郭があり、塩沢に臨むんでいる」と記述されている。東西の交易ルートがここを通るかぎり、楼蘭は永遠の繁栄を約束されていた。





 

2023年10月2日月曜日

楼蘭王国の滅亡

「第5世紀東トルキスタン史に関する一考察」内田吟風 古代学10-11968年


 楼蘭はBC1500年頃、タリム盆地に進出したトハラ語派の人々によって設けられた、玉の取引のための市場であった。それはやがて周囲を土壁で囲む都市になった。市場の長は国王となった。楼蘭王国の成立である。そこはタリム河の末端、ロプ湖に近いあたり、中国(敦煌)に向け隊商が水を得ることが出来る最後の地点であった。東西の貿易ルートが、ここを通るかぎり、楼蘭は永遠の反映を約束されていた。それから千年以上の時が流れたが、トハラ語派の人々はまだこの地に住んでいた。楼蘭は漢(中国)と匈奴の間を振り子のように揺れたが、BC77年漢がこの国を決定的に支配下に置いた。国名を変えて鄯善国とした。「鄯」という漢字はこの時作られた。然し中国の正史(「漢書」西域伝)が雄弁に語る鄯善国が、その終焉まで連綿と続いたのではなかった。

(5王の時代)楼蘭(クロライナ=LA)やニヤで出土したカロシュティー文書は一緒に出土した紀年漢文書から、その歴史的範囲がブラフ教授によってAD236~341年(榎一雄AD256~341年、長澤和俊AD203~288年)にわたることが判明した。そして5人の王(ペーピヤ、タージャカ、アムゴーカ、マヒリ、ヴァスマナ)の存在が明らかになった。これらの王はクシャン朝の王に似た称号「大王、王中の王、偉大にして戦勝者であり、徳篤く正法に住したる国王陛下、天子アムクヴァガ」を持っていた。文書からは、クロライナからニヤに至る広ぼう900キロに及ぶ領域を駅伝で結ぶ楼蘭王国の姿が浮かび上がる。それはプラクリットを公用語とする北インド(クシャン)風の整然たる官僚国家であった。ブラフ教授はアムゴーカ王の17年をAD263年とする新説を発表した(後に榎は283年、長澤は228年に比定)。文書中の称号「ジツーガ」が「侍中」の音訳であり、アムゴーカ王が晋の宗主権を受け入れたため、クシャン風の称号から変わったとする。そこはクシャン朝の植民国家=第二鄯善王国であった。然し晋の西域進出により、この国は以降衰亡の道を歩み始めることになる。内田は、鄯善王国の滅亡が、巷間云われるようなロプ湖の移動など自然環境の変異によるものでないことを力説している。政治的混乱と貿易の途絶が、土地の生産力に比しはるかに多い人口を擁していたオアシス都市国家=鄯善の散滅の最大の原因だとしている。

(滅亡の過程)西北中国に五胡の諸王朝が成立すると鄯善は入朝形式の朝貢貿易を求めた。まず前涼は晋を踏襲しLAに西域長史府を置いた(AD328年 李柏文書)。AD335年前涼(楊宣)の西域遠征に鄯善王元孟は案内を務めた。前秦が優勢になると休密駄は入朝(AD381年)し、「使持節散騎常侍・都督西域諸軍事・寧西将軍」の官職に侍せられた。AD400年インドに求法途上の東晋僧法顕がLAに1か月ほど滞在し、楼蘭最末期の姿を伝えている。河西に北涼が建国すると、AD421年鄯善王比竜は北涼に入朝。北涼は河西全域を支配して、シルクロードを巡る東西貿易の実権を掌握していた。然し華北に北魏朝が成立すると、北涼による中間搾取の存在は好ましいものではなかった。はたせるかなAD439年北魏による北涼遠征が行われた。敗れた北涼王の弟たち(沮渠無諱と安周)は敦煌に逃れ、AD442年安周は鄯善(LA)を攻撃した。比竜は北魏の使者とともにかろうじて北涼軍を撃退、安周は東城に退いた。かつての伊循城である。比竜は安心できず、クロライナの4千余家(人口の半分)を率いて且末城(チェルチン)に逃れた。翌年無諱はクロライナに進駐、安周をローラン王とした。北魏に知られることを恐れ、安周は再び東西交通を遮断した。然しこの計画は北魏の知るところとなり、AD445年大武帝は万度帰を派遣してローラン遠征を敢行した。万度帰はローラン王真達(比竜の子)を捕らえて魏都に連行した。そしてAD448年交趾公の韓牧を鄯善王に任命、クロライナに駐屯させ(北魏の鄯善鎮)、北魏の郡県なみに税を徴収した。これによってひとまず鄯善王国は断絶した。かくして旧鄯善領は北部の鄯善鎮と南部の且末を中心とした地区(まだ比竜が命脈を保っている)に二分された。その後、南部はAD452年吐谷渾に制圧された。また北部は柔然、丁零など遊牧民の徹底的な略奪を受け、住民は四散した。然しLAにはまだ名目的ではあるが、北魏の鄯善鎮は存続していた。AD504,505,517年には白兎などを奉献している。AD542年頃且末王の兄鄴米が衆を率いて内附した。すでにAD542年頃旦末を通過した宋雲はその人口を百余家として、ほぼ散滅寸前の状況であった。そしてAD644年末に玄奘がこの地方を通過した時には人煙は全く途絶していた。




2023年4月5日水曜日

再び楼蘭王国の王都について

「クシャン王朝と漢代西域」小谷仲男 富山大学人文学部紀要17号 1991年

 楼蘭の王都については既に述べたように三説ある。①終始楼蘭古城(LA遺跡)にあったとする北方説。②初めLAにあったが、BC77年の改名時(楼蘭→ 鄯善)にミーラン、チャルクリック方面に移動したとする南遷説。③ミーラン、チャルクリック方面にあったとする南方説。スタインや日本の東洋史学者(藤田豊八、大谷勝鎮、松田寿男)、中国人学者は②で(旧説)、それ対して榎一雄、長澤和俊が新説として①を提唱した。現在はこれがほぼ定説と考えられていた。然しこの北方説には問題点がある。それはLAが晋時代の軍事拠点ではありえても、漢代に遡れる遺物が全く発見されていないということであった。

(クシャン貨幣の発見)1980年、新疆楼蘭考古隊によってLAからクシャン貨幣が発見された。1988年、発掘調査の概要とともに写真一葉を添えて正式報告された。大きさは、直径2.7センチ、厚さ3ミリ、重さ16.3グラム。その表面図柄は「ラクダに騎乗した人物」とし、裏面は図柄なし。クシャン貨幣だとするが、どの王の発行貨幣とは述べられていない。著者は同様の貨幣をガンダーラ(パキスタン製北部のランガート仏教寺院址)で発掘しており、ヴィマ・カドフィセス銅貨であるとしている。図柄はインドのコブウシによりかかるシヴァ神である。そしてクジュラ・カドフィセス(丘就卻)とヴィマ・カドフィセス(閻膏珍)の活動期はAD25~125年のあいだである。この1枚のクシャン貨幣は発行時期(漢代)にLAにもたらされたか、それとも後代(晋時代)かは不明である。

 ヴィマ・カドフィセス貨幣が発見されたのは、LAの三間房の西南住居址付近である。スタインの遺跡地図によれば、三間房(LAⅡ ⅱ~ⅳ)と住居址(LAⅢ)とのあいだ、南斜面に臨んだ台地上である。三間房から出土した漢文書(600点以上)のうち紀年文書は約50点。年代は三国魏の嘉平4年(AD252)から西晋の永嘉6年(AD312)に及ぶ。あきらかにLAは魏晋時代の西域経営の拠点であり、三間房は西域長史の駐在署であった。スタインは、貨幣が発見された「建物LAⅢ、ⅲの南斜面には、床下90㎝のところから日乾しレンガの壁あるいは基壇(幅1.8m)の一部が顔をのぞかせており、同じ配置でより古い建物が下層に埋まっている可能性がある」(スタイン「セリンディア」)と観察している。

 そして近年LA発掘のクシャン貨幣が漢代にもたらされた可能性を示唆する発掘例が報告されている。①1914年にスタインはLAの東北数キロの墓地でヘレニスティクな「ヘルメスの杖と人頭部」の有名な毛織物を見つけた。1980年に楼蘭考古隊が同じ墓(孤台墓地 MA2と改名)を再調査し、まだ多くの絹・毛織物が堀残されているのを発見、その中に隷書文字を織り込んだ錦断片など、漢代に遡る遺物の存在を指摘している。②1984年新疆ウイグル博物館は、ホータン近辺の洛浦県山晋拉墓地を発掘調査し、スタインが孤台墓地で発掘したものに、遜色ないヘレニスティクなな男性頭部や反人反馬ケンタウルスの姿を意匠とするつづれ織り断片を発見している。報告書は漢代の墓葬としている。

 LAは、そこで発見された漢文書からその当時(魏晋時代)「楼蘭」と呼ばれた場所であることは間違いない。そこが漢代に遡れるか疑問視されていたが、上記の発掘物は疑問を解く重要な証拠である。楼蘭の王都は、そのオアシス隊商都市の性格上、シルクロードのの孔道に沿うことが必須の条件であった。LAこそがその条件に最も適合していたのである。「より古い建物が下層に埋まっている」というスタインの予想が現実になるかもしれないのである。



2022年11月23日水曜日

ティリヤ・テペの黄金遺宝「シルクロードの黄金遺宝~シバルガン王墓発掘記」V,サリアニディ 岩波書店1988年

  本書は1978~9年アフガニスタン北部、古代のシルクロードの要衝であるシバルガンの北東5キロにあるティリヤ・テペの発掘の記録である。ティリヤ・テペは綿畑の中にある直径100メートル、高さ3メートルの平凡な小丘である。発掘は著者サリアニディを隊長とするソ連・アフガニスタン調査隊によって実施された。1971年予備調査、77年から本格調査が再開された。然し79年2月アフガニスタンの政治状況悪化により中断した。6基の古代の墓を発掘したが、その成果は実に驚くべきものであった。
(ティリヤ・テペの遺宝)第1号墓の墓主は25~35歳の女性。出土した黄金細工の大部分は服飾品で他と比べて少ない。第2号墓は30~40歳の女性。あごには細長い黄金薄板のあごあてがつけられている。これは3,4,5,6号墓の墓主も同様である。この女性の黄金服飾品は豪華である。こめかみを飾る一対の黄金垂飾、次いで一対の襟止金具。デザインはイルカに乗った少年。胸元のペンダントは女神アフロディテをかたどる。そして黄金の腕輪一対(重さ507.5グラム)、足輪一対(重さ623,9グラム)。指輪は左手の2個、右手に1個。副葬品として、足元に銀製の鉢と前漢時代の中国製銅鏡。第3号墓は18~25歳の女性。マウンドの頂上付近にあったので、この墓だけ野ネズミに食い荒らされている。黄金の鉢(重さ305グラム)を枕にし、黄金の首輪(重さ765グラム)、腕には一対の腕輪(各290グラム)、指輪3個、靴止留金具と黄金尽くしである。副葬品として中国製銅鏡、銀製鉢がある。さらに貨幣が2枚。パルティア銀貨(ミトリダテス二世、在位BC123~88年)、ローマ・アウレウス金貨(ティペリウス皇帝、AD16~21年に打刻)である。第4号墓の墓主は30歳くらいの男性で身長は2メートルに近い。馬を殉葬させている。圧巻は黄金腰帯(重さ840グラム)である。死者の左側には長い鉄剣と黄金製の短剣鞘、右側には黄金製の短剣鞘があり鉄製の短剣が納られている。インド金貨が1枚見つかっている。第5号墓は15~20歳の女性。6つの墓の中では最も遺物が少ない。黄金製のあごあてや首飾り、足輪(306.7グラム)、副葬品として銀製の鉢がある。第6号墓の墓主は25~30歳の女性。銀製の鉢を枕にして装身具は他の女性より一段と豪華である。頭には高い歩揺金冠(214グラム)、こめかみには一対の黄金垂飾をつけ、襟留金具(一対97.2グラム)、首飾りと胸飾りが3本、手首には黄金腕輪(一対150グラム)、足には足輪(一対243.3グラム)がある。左手には宝石をはめた指輪、右手に儀杖を持つ。副葬品として中国の鏡2面がある。そして貨幣が2枚発見されている。パルティア金貨(フラーティス三世、在位BC70~57年)とパルティア銀貨(フラーティス四世、在位BC38~32年)で、後者は死者の口の中から見つかった。6基の墓から発掘された黄金製品は2万点にのぼる豪勢さである。
(墓葬の王)第3号墓出土ティペリウス皇帝の金貨から墓葬の時期はAD20~30年代と推定される。4号墓の男性は族長クラス(翕候)で他は殉死した婦人たちである。とくに6号墓の女性をサリアニディは「スキタイの女王」と名付けている。彼らの王宮はどこにあったのか。それはティリヤ・テペのすぐ近くにあるエムシ・テペである。墓はすべてエムシ・テペが望める北西部分に集中している。エムシ・テペは北アフガニスタンで十指にはいる首都的中心であった。高い城壁、日干しレンガの上に築かれた内城。支配者は常にここからティリャ・テペの丘にある一族の墓を眺めていたのかもしれない。これが盗掘を免れた根拠でもある。
(五翕候の位置)大月氏が滅ぼしたのは大夏ではなくバクトリアである。大夏(グレコバクトリア王国)はサカ系遊牧民(サラウカエ)によって既に簒奪されていた(BC140年)。
サカラウエを打ち滅ぼしたたのがアシアナイ族のトハラの諸王(大月氏)である(BC139年)。大月氏は征服したバクトリアに五翕候を置いた。すなわち中国に近い東から西に休密翕候(ワハン東部)、雙靡翕候(マストウジ)、貴霜翕候(ワハン西部)、肸頓翕候(バダフシャン)、都密翕候(テルメズ)である。アフガニスタン北東部に偏って位置している。この中から貴霜翕候のカドフィセスが他の四翕候を併呑しクシャン王朝を創建した(AD60年頃)。中国の史書「後漢書」はこれを旧名に因んで大月氏と呼ぶ。ティリャ・テペは、五翕候の中で最も西に位置する翕候より更に西にある。
 著者によれば、五翕候のうち少なくとも二つが、アム河を境界として、西バクトリアに位置していた。そしてここに来住した遊牧民は、二つの異なった人種タイプで示されている。その第一はアム河の北に見られるタイプである。ハルチャンで発見された壁画や塑像の顔は「鼻は大きくなくて、真っ直ぐであり、目はいわゆるモンゴルひだのない中程度の大きさ」で、ユーロオペロイドの勝ったタイプである。すなわちヘラウス貨幣に見えるクシャン王の顔である。第二は南に見られるタイプである。ティリャ・テペの人物像は「モンゴル風にあごひげがない」モンゴロイドが勝ったユーロオペロイドである。第二タイプの遊牧民の名称は分からないが、この地は後世トハリスタンと呼ばれるようになる。サリアニディは「墓葬の王」が、クシャン国家最初の王か、五翕候の一人か特定することは困難だとしている。大月氏という名称が、単一の部族ではなく、互いに親近ではあるが同一でない複数の部族グループを意味しているからである。いずれにしてもそれは、クシャンが勃興し、クシャン朝が成立する直前のことである。




2022年5月16日月曜日

大月氏の五翕候とは 「敦煌懸泉漢簡に記録された大月氏の使者」小谷仲男 史窓72号 2015年

漢代の史料に見える大月氏の五翕候について現地(大夏)の土着勢力か、あるいは大月氏が分封した有力諸侯かという論争がある。これは東洋史上の有名な論である。前者には白鳥庫吉、桑原隲蔵、羽田亨、松田寿男、榎一雄などがいる。後者には江上波男、内田吟風がいる。日本の東洋史学会の主流は前者だが、著者は後者である。「翕候」は諸侯、小君長の意である。大月氏はアムダリアの北側に王庭を置き、征服した大夏の地に5人の翕候を置き統治した。すなわち休密、雙靡、貴霜、肸頓、高附の五翕候である。この翕候の実態を解明するに資する重要な発見が近年あった。 
(「懸泉漢簡」の発見)敦煌の東64キロの「懸泉置」と呼ばれる駅伝遺跡から大量の前漢時代の木簡が発掘された1990~92年)。出土木簡の総数35000本、うち文字の残るもの23000本。紀年木簡は1900本である。その中で大月氏の使者に関する木簡17本の存在が明らかになった。ただし第1簡は 烏孫簡で、実際は16簡である。そのうち最古の第2簡は甘露2年(BC52年)の紀年をもつ。それらの木簡は大月氏の使者が、漢朝への朝貢および帰国の途上、懸泉置において宿舎や食事、交通手段の便宜を供与されたことが記録されている。さらに驚くべきは、大月氏のみならず五翕候から派遣された使者の記載も見えるのである。すなわち第3簡(BC43年)は、大月氏への使者として派遣された柏聖忠が帰国に際し連れてきた雙靡翕候の使者萬若山と副使蘇に対して敦煌太守が発給した公用旅券である。第4簡(BC37年)は、自発的に朝貢目的で敦煌まで来た休密翕候ほか西域諸国の使者に対して、敦煌郡の太守が役人を派遣し、長安まで送迎させるために発給した公用旅券である。かくして大月氏の使者には、大月氏王から派遣された使者と五翕候がそれぞれ独自に派遣した使者の両様があることが分かった。これは「懸泉漢簡」によって初めて知ることが出来る歴史情報である。  翕候の実態はつかみにくいが、遊牧社会における支配体制に関する名称であり、小王に相当するもの(部族集団の長)と考えられる。五翕候を大夏の土着の支配者とする考え方は「漢書」西域伝の読み誤りによる。例えば小竹武夫「漢書」(ちくま文庫)である。 「大月氏本行国也。・・・・皆臣畜之。」でいったん区切らねばならない。ところが小竹訳では、次の文書を「皆臣畜之、共稟漢使者」と続けて読み、「大夏は・・・・いずれもみな臣従して月氏を養い、ともに漢の使者に糧食を供給した」と解釈するのである。然し「共稟漢使者・・・・」から始まる文書こそ、五翕候に関する「漢書」の独自情報なのである。その直前までは「史記」(大宛列伝)の引用である。著者が提案する読み方は「共稟漢使者、有五翕候。一曰休密翕 候・・・・」と続ける。以下五翕候の情報(治所、西域都護・陽関からの里数)が詳細に記される。漢王朝にとって、五翕候への関心は、漢の使者が大月氏に赴くとき、沿道で食料、宿舎、交通手段が確保できるかが問題であり、懸泉置で大月氏の使者たちが接待を受けたように、漢の使者たちが、大月氏王の領内や各翕候の領内で同様の接待が確保される必要があった。このような関係が成立したのは、西域都護の設置(BC59年)、烏孫の帰順(BC52年)以降であり、「漢書」の五翕候情報は以外に遅い時期のものである。  「懸泉漢簡」の解読により五翕候が大月氏に所属することが明らかになっが、それだけで大月氏の五翕候が人種的に大月氏と同一民族とは言い切れない。このことを解決しない限り、大月氏=クシャン人とすることはできない。

2021年8月31日火曜日

関学闘争外伝⑤~経済学部学生運動小史Ⅳ

 69年度の新学期が始まったのは6月30日であった。全共闘は6・9王子集会で24名の逮捕者をだし、13日の上ヶ原キャンパスの封鎖解除により闘争拠点を失うなど、大きな打撃を受けていた。然し組織が雲散霧消したわけではなかった。神大の六甲台に拠点を移し、キャンパス奪回を狙っていた。授業再開の30日、法学部本館(法闘委8時)、第一別館(文闘委10時)を封鎖した。当局は11時40分機動隊を導入した。キャンパスは鉄柵で囲まれており、逃げ遅れた学生5人が逮捕・検挙された。この「戒厳令」状況(校内ヘルメット着用禁止、柵の設置)に新入生の反発は強かった。社会学部1年7組が「我々は6・30の大学側の一方的な機動隊導入に断固抗議する」という学長代行宛ての抗議声明(クラス決議)を出した。これに並行して全共闘は、授業等に介入して新入生に情宣活動を行った。経済学部でも7/7,14のチャペルアワーや授業に介入した。キ反連(キリスト者反戦連合)や経闘委で、いずれもノンヘルである。  参議院での大学立法強行採決(8/3)に抗議して4日8時全共闘は100人で5学部(法・商・経・文・神)を封鎖した。各学部100名ほどの学生が討論に加わった。経済学部でも200人ほどが参加した。その後150名で大阪城公園の「大学立法粉砕・全国全共闘統一行動」に向かった。社闘委はこの日の闘争に参加しなかった。経闘委では,すでにフロントや先鋒隊が消滅し、ブント、ML、中核の数名とべ平連、自主講座などのノンセクトでようやく封鎖部隊を編制していた。また経済学部(森ゼミ)と社会学部(森川ゼミ)の1年生が「大学立法反対」のゼミ決議を呼びかけ、10を超えるゼミ・クラスが賛同した。新入生の闘争組織の萌芽がようやく現れた。一方全共闘は9月の全国全共闘結成と11月決戦に希望をつないでいたが、各党派内で分裂が進行しつうあり、商・神など組織が崩壊、機能不全に陥る闘争委員会もあった。反帝学評は社青同解放派を主軸に社青同国際主義派など加えた緩い組織であったが、革労協結成に向けて解放派左派に純化しつつあった。フロントもブントに追随する左派が「平和共存と構造改革路線」を揚棄し、小集団になった。ブントも社学同関学支部(中間派)と関学反戦(右派)に分裂含みであった。 9月5日全国全共闘連合結成大会が日比谷公園で開催された。全国の大学から3万4千人が結集した。議長山本義隆、副議長秋田明大だが、実態は書記局員の構成(中核派、社学同、社青同解放派、学生インター、ML派、フロント、プロ学同、共学同)に明らかなように8派共闘にほかならなかった。「来るものは拒まず、去るものは追わない」のが全共闘の流儀であった。然し新しく結成された赤軍派は連合ブントにより入場を拒まれた。また革マル派中心の東神大、国学院、ICUの全共闘には招請状すらなく排除されていた。それは8派による11月決戦に向けての全共闘大衆の囲い込みの場であった。関学全共闘も参加したが発言の場はなかった。然しその8派連合は最初から分裂含みであった。赤軍派の陰画である連合ブント(中核派も)は、銃器・爆弾による「前段階武装蜂起」には踏み切れず、「武装蜂起宣伝主義」に陥らざるを得なかった。また反帝学評も小人数のアリバイ的ゲリラ闘争を採用するしかなかった。これは革マル派が多用した戦術である。他派もその中間で右往左往することになる。  10月関西では10-11月闘争に向けて、「全共闘軍団」への参加要請(中核派)や「中電マッセンストと北大阪制圧闘争」(連合ブント)が呼号されていた。関学キャンパスでも各セクトは準備に余念がなかった。10月15日7学部校舎が全共闘100人(神大など支援40人含む)によって封鎖され、16日も法・経・文3学部が全共闘(50人)に封鎖された。いずれも機動隊により即日解除された。封鎖を敢行した反帝学評、フロント、ML派などの部隊は即日上京した。反帝学評は18日首相官邸(7人突入、5人逮捕)、自民党本部(7人全員逮捕)に突入した。ML派は18日東京拘置所(7人全員逮捕)、19日自衛隊市ヶ谷駐屯地(5人逮捕)に突入した。またフロントは21日銀座・築地方面で火炎瓶闘争を敢行した。関学のメンバーもこれに加わり、多くは帰らなかった。残存のブントなど全共闘部隊は「北大阪制圧闘争」に参加した。関学全共闘は組織的にも人的にもほぼ壊滅した。すでに入試闘争以来、逮捕者120名、拘留者91名、起訴71名という甚大な被害を受けていた。さらに事後逮捕が相次いでいた。  そして11月。13日扇町公園で「佐藤訪米阻止全関西総決起集会」が全共闘、反戦、高校生、べ平連それに総評労働者など3万人が結集して開かれた。16-17現地闘争に向けての最後のカンパニア集会のはずであったが、多いに荒れた。機動隊の徹底した検問、弾圧に対し連合ブント・プロ学同は火炎瓶・鉄材攻撃で阻止線を分断したが、この過程で岡山大生糟谷君が虐殺され、63名が重傷を負わされたまま逮捕された。この集会には、関学全共闘の新たな部隊80名が参加した。これは経済学部を中心にした69年度新入生のノンセクト共闘会議が「小寺近代化路線粉砕」などクラス討論を組織して結集した新たな闘う部隊であった。 10-11月闘争で反帝学評がほぼ姿を消し、革マル派(関学全学闘)が1年ぶりに登場した。外人部隊(全学連関西共闘会議)50人を投入して、中央芝生で集会後、学生会館に突入し情宣活動を展開した。そして全共闘不在の学内では、正常化路線の一環として「学長選挙」が着々と進行していた。学長選考規定及び学長辞任請求規定信任(11/8)、第一次学長選挙(11/29)、第二次選挙(12/24)で小寺代行が学長に就任した。これに対しノンセクト共闘会議は、学長選の実施自体が「小寺近代化路線」の内実であることを暴露する情宣活動を経済学部・社会学部で強力に展開した。旧全共闘派はなにおしたのか。彼らは訪米阻止闘争の前日(11/12)に中央協議会を開き、任期切れの全学執行委員会・各学部自治会の任期を来年1月まで延長し、2月初めに選挙を行うとした。然し中央協議会は12/1,9と開催されたが、全執・学部自治会とも理学部以外は代理出席でしかなく、経済学部はそれもなかった(経自は新川委員長が招集権を放棄し辞任)。責任者はすべて10,11月闘争で逮捕、拘留されていた。学院側の中央協議会との了解事項は「全執の1月末までの任期延長は認める。学生自治の問題で学院の関与する問題ではない」、「学生会予算については、全執を通さない限り交付を受けない」(上ヶ原ジャーナル)というものであった。これは実質的に自治会の崩壊状態に学院側が手を貸すものであり、「小寺近代繪路線」の実質を象徴するものであった。この時点で自治会が存在していたのは法、神、理の3学部であった。旧全共闘派はこれに対し、状況を打開するいかなる方針もなかった。  11/16-17佐藤訪米阻止闘争は、各党派軍団による国電蒲田駅周辺のゲリラ闘争に終始した。4/28の限界を乗り越えるいかなる方策もなく1493名の逮捕で幕を閉じた。21日佐藤ーニクソン会談による日米共同声明が発表され、安保堅持ー72年沖縄返還が表明された。12月27日衆議院総選挙が行われ、闘わざる社会党は歴史的大敗北を喫し、1969年は暮れた。(この項続く)

2021年5月31日月曜日

「地球の歩き方 東京2021~22」 ダイヤモンド・ビッグ社 2020年

 「地球の歩き方 東京」の売れ行きが好調だと言う。「歩き方」は1979年にそれぞれアメリカ編、ヨーロッパ編として創刊された。初めて知らない国や都市を訪ねる旅行者のために、客観的な視点で情報を提供するという編集方針はその後も変わらず一貫している。  本書でも「旅の準備と技術」のコーナーは設けられている。例えば「習慣とマナー」では銭湯の入り方が入念に説明されている。あたかも「トルコ」編のハマムの記述を彷彿とさせる。さらに国の登録有形文化財「稲荷湯」や昭和情緒が残る「大黒湯」、壁面に富岳三十六景」が描かれた「荒井湯」など7件の銭湯が紹介される充実ぶりである。また「文豪たちが愛した名店と味」も必見である。森鴎外の「雁」に登場する「伊豆栄 本店」の鰻や、、芥川龍之介が愛した「浅野屋」の天ぷらそば、三島由紀夫が最後の晩餐に選んだ「鳥割烹 末げん」の鳥鍋などが紹介される。見逃せないのは東京に唯一残る路面電車である「東京さくらトラム」(都電荒川線)の案内である。沿線には、昔ながらの商店街や名所旧跡が多い。一日乗車券を使って散策すれば、昭和の下町情緒が甦る。かつて都電は40路線もあったのである。これらを読めば東京はまるで未知の街のような相貌をもって現れてくる。それは明治の初めに禁断の日本を旅したイザベラバードの紀行を読むかのようでもある。  東京に住んでいる人にもそうでない人にも本書は有益である。とくに昨今のコロナ下で不自由な「ステイホーム」を強いられている人々には、本書を読むことはささやかな福音である。