2025年3月30日日曜日

新疆ウイグル自治区の現在

    「新疆ウイグル自治区」熊倉潤 中公新書 2022年

 旧ソ連領の中央アジア(ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、カザフスタン各共和国)が「西トルキスタン」と呼ばれるのに対し、新疆ウイグル自治区はかつて「東トルキスタン」」と呼ばれらた。然し、この名称は現在中国では禁句になっている。中国内でこの語を使用することは、中国からから分離・独立を求める国家反逆罪とみなされ極めて危険である。なぜ「東トルキスタン」という名称が禁句となったのか。

 中国で「西域」と呼ばれたこの地方にはBC3千年頃からから印欧語族の一派であるトハラ語族の人々が移住してオアシスに住み着いていた。「楼蘭の美女」として知られる白色人種の人々である。そして9世紀モンゴル高原に覇を唱えた東ウイグル可汗国の人々が、キルギスに圧迫されて天山北麓に移り、ウイグル王国を成立させた。ほぼ「西域」を掌握した。このテュルク系の人々がオアシスを支配下に置き、元からの白色人種と混交し、「西域」のテュルク化が進行した。そして10世紀以降イスラム化も進行した。そ結果、以降この地は「東トルキスタン」と呼称されるようになった。

 中国がタリム盆地を直接支配下に置くようになったのは、ようやく清朝の乾隆帝時代の1759年である。然し、圧倒的に多数のウイグルに少数の漢人。中国の新疆統治は容易ではなかった。清は間接統治であったが、後継の中華民国は新疆省を設け統治を強化した。多数派のウイグルは三度の「独立」を試みた。①ヤクブ・ベく政権(1870~77年)、②東トルキスタン・イスラム共和国(1933~34年)、③東トルキスタン共和国(1944~49年)である。然し、大国の思惑に翻弄され、いずれも短命に終わり、挫折した。とくに、東トルキスタン共和国は、第二次世界大戦終了にともなう、ソ連と民国の裏取引(外モンゴル独立の承認と東北部権益の引き換え)により見殺しにされた。そして1949年の中華人民共和国の成立にともない、民国を中共に乗り換えたソ連により「共和国」幹部はソ連領内に連行されたともいう。かくて三度の独立の失敗によって、ウイグルははその独立を半永久的に失うにいたった。とくに「共和国」のイリ蜂起などは否定され「三区革命」と言いかえられた。「共和国」幹部を物理的に抹殺(ソ連の手を借りて)して、唯一のこったサイフジンと結託した「後ろ暗さ」故に「東トルキスタン」の名称やその独立を云々することはタブーとなったのである。

(新疆ウイグル自治区の成立)

 1949年11月人民解放軍第一野戦兵団がウルムチに進軍し、12月新疆人民政府が成立した。中共の統治は当初微温的なものであったが、土地改革の進行とともに強制的なものになった。その第一歩となったのが新疆建設兵団の誕生(1954年10月)と新疆ウイグル自治区の成立(1955年10月)であった。「兵団」の誕生は、大量の漢人の移住となり、新疆の総人口2585万人のうち、漢人は実に1092万人(ウイグルは1162万人)とほぼ拮抗するにいたった(2020年現在)。また「自治区」成立により「民族区域自治」が提唱され、「独立」は明確に否定された。

(中国共産党の異民族統治政策)

 中国の異民族政策は、異民族を排除する「排外」と包み込む「融和」が伝統的に交互に続いてきた。中共は当初コミンテルンの指導を受け民族の独立を容認していたが、政権をとると、ソ連の連邦制を含めて「独立」は否定された。それに代わって「民族区域自治」が打ち出されたのである。新疆統治もその例にもれない。文革後の一時期「融和」の時代(胡耀邦)もあったが、習近平体制の現在は「排外」に大きく舵がきられた。とくにチベットで悪名を轟かせた陳全国が「自治区」の書記に就任(2016~21)すると沸点に達した。監視カメラや顔認証などのAI技術の駆使と「親戚制度}という家庭内の監視の徹底はジョージ・オーエルの世界のようにグロテスクである。更に2017年3月の「自治区脱過激化条例」の制定を契機に「職業技能教育訓練センター」が設けられた。その実態は洗脳と強制労働であり、「現代のラーゲリ」「民族ジェノサイド」であると欧米メディアは非難する。その規模はあまりにも大きいという。一方中国は「事実無根」「内政干渉」とにべもないが、「脱過激化」一定の成果をあげたとして、陳全国を離任(解任ではない)させる。

 著者は中国の新疆政策は、一部には「ジェノサイド」ないし「文化的ジェノサイド」に重なるものもあるが、欧米の非難するような「ジェノサイド」ではないという。「新疆政策」の内容は、①産児制限の厳格化、②「訓練センター」への収容、③綿花畑での綿つみ労働への動員・内地への集団就職、④AI/親戚制度による徹底管理、⑤中国語教育の普及・「中華民族共同体」意識の鋳造である。これはウイグル人を完全に排除するものではなく、「民族」の破壊というより、「民族」の改造を目的にしたものであるという。然し、「中華民族」ないし「共同体」というのは歴史的にもフィクションにしか過ぎないのではないか。

 著者は、欧米メディアの告発、中国側の反論・プロパガンダに与せず、第三者的立場から、本書を書いたという。その冷静な記述には好感がもてる。また巻末の詳細な関連年表、参考文献は「新疆問題」を考える上で非常に有益で、座右に置きたい一冊である。


2025年3月1日土曜日

楼蘭王はどこ居たか

 「楼蘭 幻のオアシス」 王炳華/渡辺剛訳 牧歌舎 2009年


 日本で出版された楼蘭王国史の概説書としては次の4書がある。①「楼蘭王国」長澤和俊(校倉書房1963年、レグルス文庫1970年、徳間文庫1978年)②「楼蘭 流砂に埋もれた王都」A・ヘルマン/松田寿男訳・解説 平凡社(東洋文庫)1963年③「楼蘭王国ロプ・ノール湖畔の四千年」」赤松明彦 中公新書2005年④「楼蘭 幻のオアシス」王炳華/渡辺剛 牧歌舎2009年 ①は最も内容豊富で優れた概説書である。徳間文庫版はその時点での新情報も取り入れ中身も一新しているが、やや古い。②はさらに古い。③は楼蘭人の始原を印欧族の移動・アファナシェヴォ文化に求める学説を紹介している。またカロシュティー文書からはクロライナ王都説は証明できないとするなどユニークである。④は現行、最も新しい概説書である。楼蘭の始原については③より更に詳しい。また1988年日中共同楼蘭探検隊に参加したおりのLA踏査の知見が反映している。

 楼蘭の王都については北方説(王都はLA)、南方説(ミーランもしくはチャルフリク)、南遷説(最初はLA,後にミーラン・チャルフリクに移動)の3説がある。中国では伝統的に楼蘭が漢の属国になった時に国名変更(楼蘭→鄯善)とともに王都も湖北から湖南に移動したと考えられていた。①長澤は北方説で王都は一貫してLAであるとの立場である。②ヘルマン同様、松田も南遷説(LAからチャルフリク)で、更に詳しい「漢書」地理的考証をしている。③赤松は王都は「カロシュティー文書が唯一出土していない場所」ミーランとしている。④は南遷説で、国名変更時にLAからチャルフリクに移動したとしている。それでは楼蘭王はどこに居たのか。

 本書の著者王炳華はLA踏査の知見から前漢時代の王宮はLA内の三間房だとしている。三間房は東西12.5m南北8.5mと小さいが、それは広い敷地(1800平方m)の一部に過ぎない。LA全体(10万8千平方m)の中では大きい部分を占めている。「前77年から、楼蘭は鄯善と名前を変え、扞泥に遷都したからといって、大きな変化があったわけではなかった。(中略)ここは東西交通の重要拠点、孔雀河下流の最も理想的なオアシスとして、最終的に遺棄されるまで大きな変化もなく、変わったのは古城の主だけであった。(本書P99)」魏晋時代の西域長史府は楼蘭王の宮廷を踏襲していたのである。ヘディンやスタインはここで大量の木簡、竹簡、紙文書を発掘したが、1980年新疆考古作業者も62枚の残簡を発掘している。文書紀年は4世紀の40年代のものである。

 長澤は①の段階では、三間房は中国軍進駐以前貴族の館で、王宮は仏塔南の「大きな家」だとしていた。然しLA踏査以降は次のように改めている。「遺跡の現状から見て、まず王宮跡は三間房にあったと見てよいであろう。数は必ずしも多いとは言えないが、ここからカロシュティー文書がが出土しているのは、その一証といえよう。(中略)三間房は現在廃墟と化しているが、これを土台にしてさらにその上に二階があったとすれば、いかにも王宮にふさわしい威容を示したことであろう。(「楼蘭王国史の研究」1996年P194)」魏晋の駐屯軍が進出した結果、西域長史が住むようになった。そして楼蘭王は三間房の北側(スタインのⅤもしくはⅥ)に移住したとしている。

  また王、長澤と共にLAを踏査した伊藤敏雄は三間房西側の大宅院(スタインのⅣ)を前漢時代の王宮と推測している。スタインはここを「土着民の政府」とみなした。ちなみに伊藤は南遷説であり、「大宅院は比較的早期の建築であり、仏塔は相対的に晩期の建築で、(中略)官署は更に遅い建築」(「楼蘭の遺跡」大阪教育大紀要1990年)であるとしている。

 LAは後漢時代以降の遺跡で前漢時代には遡れないと言われていた。然し楼蘭を踏査した3人の論者は前漢時代の王宮は、三間房(王、長澤)、西側の大宅院(伊藤)としている。中国軍の進駐以降はそれぞれの論拠により異なる。これに関して富谷至は興味深い指摘をしている。LAで発掘された漢簡とカロシュティー簡が、同じ木簡を使いながら、書写材料としての使用法に連続性が認められないというのである。そして「中国の行政の在り方が、この地の王国、少なくともカロシュティーを使う民族には受け入れられなかったことを示すものであろう」(「流沙出土の文字資料」京大出版会2001年)として、お互いそれぞれ独自の行政を行っていたと考えている。「この地の王国」とは楼蘭王国である。長澤が主張するように中国の軍司令部(西域長史府)と楼蘭王はLA城内に同居していたのか。LAはかなりの面積(甲子園球場3個分)があるから、それは十分可能である。

2024年1月27日土曜日

楼蘭王国~在りし日の姿

「楼蘭古城にたたずんで」 長澤和俊 朝日新聞社  1989年

 

 本書は、1988年朝日新聞社など日中共同楼蘭探検隊に顧問として同行した著者の記録である。楼蘭、ミーラン、ニヤの3か所の遺跡を踏査した東洋史学者は、1,2の中国人を除けば世界中で著者ただ一人である。楼蘭研究30年、「楼蘭王国」や「楼蘭王国史研究」の著書がある長澤の眼に楼蘭の「在りし日」の姿はどのように映ったのか。楼蘭古城の滞在・見学は10月3,4日の2日間にしか過ぎない。

 楼蘭は「流砂に埋もれた都」と思われているが、実は全く違う。楼蘭古城(LA)は周囲20~30キロを白いヤルダンで囲まれている。LAの位置は中国隊の測量によれば、東経89度55分22秒、北緯40度29分55秒である。そこはロプ湖の北岸から西に約26キロ、孔雀河の南約20キロに位置している。孔雀河の支流の一つはLAの西方6キロの地点で分流しLAの南北を流れ、更に東方16キロで再び合流し、ロプ湖に注いでいる。孔雀河とLAの間には4本の乾河の跡があり、かつては水に恵まれていたと思われる。

 LAはほぼ正方形で、城壁は西壁と北壁は約327メートル、東壁は約333,5メトル、南壁は約329メートルで、総面積は約10万8千240平方メートル(甲子園球場3個分)もある。城壁の幅は基部で5,5メートルから5,9メートルある。城内には西北から東南に流れる水路跡がある。水路は幅16,8メートル、深さ4,5メートルある。この灌漑水路は北側の城壁外の水路もしくは外堀から20センチ角の暗渠(1乃至2~3個)によって、城内に導入され貯水池を経て暗渠で城外に排出されていた。LAは巨大な外堀に囲まれていたと推測される。そして西壁と東壁には城門があり、西壁は甕城になっていた。 古城内の主な遺跡は北東隅にある仏塔、三間房、その北にある大きな家である。仏塔は高さ約10メートルあり、最も目立つ遺跡である。往時は金色に輝いていたかもしれない。その東側には僧房があった。仏塔の南側には立派な木造建築物の建物がある。楼蘭国王の住居、宮殿であろう。三間房は中国駐屯軍の軍司令部、おそらく魏,晋、前涼の西域長史府の跡である。

 LAの周囲はヤルダンに囲まれた不毛の地であるが、その西側の河川敷跡には砂原が所々あり、農耕しようと思えば出来ないことはない。LA西部や北部には、魏晋時代屯田が10か所程度営まれていた。LAには長官の西域長史以下、副長官の司馬、属吏として監察の督郵、綱紀の功曹 、門下の主簿、録事掾などの胥吏がいる。各地の屯田には兵20数名を率いた将が屯田事業に従事していた。屯田の兵士は約300名、文官属吏ら50~60名、護衛兵や、ニヤ遺跡の駐屯員を合わせると楼蘭屯戊の駐屯員は400~500名。そうちLAにいたのは100名足らずで、意外に少ないのである。

 孔雀河の下流域にはBC3800年頃からトハラ語派の人々が住み着いていた。楼蘭(LA)~敦煌間は隊商にとっては17日間行程である。やや長いが、ここから以東には水はなく白龍堆の険路が続く。LAはヤルダン群の真っただ中であるが、北方の遊牧民の襲撃も防ぎ安く、北道にも南道にも通じる要衝であった。BC1500年頃には玉の市場が設けられていた。やがて市場の長は王になった。最初は玉の中継市場に王城が併設されるという簡素のものであった。然しBC2世紀の後半には、西域のオアシスには不釣り合いな巨大城郭都市に成長していた。「史記」大宛伝には「楼蘭・姑師には城郭があり、塩沢に臨むんでいる」と記述されている。東西の交易ルートがここを通るかぎり、楼蘭は永遠の繁栄を約束されていた。





 

2023年10月2日月曜日

楼蘭王国の滅亡

「第5世紀東トルキスタン史に関する一考察」内田吟風 古代学10-11968年


 楼蘭はBC1500年頃、タリム盆地に進出したトハラ語派の人々によって設けられた、玉の取引のための市場であった。それはやがて周囲を土壁で囲む都市になった。市場の長は国王となった。楼蘭王国の成立である。そこはタリム河の末端、ロプ湖に近いあたり、中国(敦煌)に向け隊商が水を得ることが出来る最後の地点であった。東西の貿易ルートが、ここを通るかぎり、楼蘭は永遠の反映を約束されていた。それから千年以上の時が流れたが、トハラ語派の人々はまだこの地に住んでいた。楼蘭は漢(中国)と匈奴の間を振り子のように揺れたが、BC77年漢がこの国を決定的に支配下に置いた。国名を変えて鄯善国とした。「鄯」という漢字はこの時作られた。然し中国の正史(「漢書」西域伝)が雄弁に語る鄯善国が、その終焉まで連綿と続いたのではなかった。

(5王の時代)楼蘭(クロライナ=LA)やニヤで出土したカロシュティー文書は一緒に出土した紀年漢文書から、その歴史的範囲がブラフ教授によってAD236~341年(榎一雄AD256~341年、長澤和俊AD203~288年)にわたることが判明した。そして5人の王(ペーピヤ、タージャカ、アムゴーカ、マヒリ、ヴァスマナ)の存在が明らかになった。これらの王はクシャン朝の王に似た称号「大王、王中の王、偉大にして戦勝者であり、徳篤く正法に住したる国王陛下、天子アムクヴァガ」を持っていた。文書からは、クロライナからニヤに至る広ぼう900キロに及ぶ領域を駅伝で結ぶ楼蘭王国の姿が浮かび上がる。それはプラクリットを公用語とする北インド(クシャン)風の整然たる官僚国家であった。ブラフ教授はアムゴーカ王の17年をAD263年とする新説を発表した(後に榎は283年、長澤は228年に比定)。文書中の称号「ジツーガ」が「侍中」の音訳であり、アムゴーカ王が晋の宗主権を受け入れたため、クシャン風の称号から変わったとする。そこはクシャン朝の植民国家=第二鄯善王国であった。然し晋の西域進出により、この国は以降衰亡の道を歩み始めることになる。内田は、鄯善王国の滅亡が、巷間云われるようなロプ湖の移動など自然環境の変異によるものでないことを力説している。政治的混乱と貿易の途絶が、土地の生産力に比しはるかに多い人口を擁していたオアシス都市国家=鄯善の散滅の最大の原因だとしている。

(滅亡の過程)西北中国に五胡の諸王朝が成立すると鄯善は入朝形式の朝貢貿易を求めた。まず前涼は晋を踏襲しLAに西域長史府を置いた(AD328年 李柏文書)。AD335年前涼(楊宣)の西域遠征に鄯善王元孟は案内を務めた。前秦が優勢になると休密駄は入朝(AD381年)し、「使持節散騎常侍・都督西域諸軍事・寧西将軍」の官職に侍せられた。AD400年インドに求法途上の東晋僧法顕がLAに1か月ほど滞在し、楼蘭最末期の姿を伝えている。河西に北涼が建国すると、AD421年鄯善王比竜は北涼に入朝。北涼は河西全域を支配して、シルクロードを巡る東西貿易の実権を掌握していた。然し華北に北魏朝が成立すると、北涼による中間搾取の存在は好ましいものではなかった。はたせるかなAD439年北魏による北涼遠征が行われた。敗れた北涼王の弟たち(沮渠無諱と安周)は敦煌に逃れ、AD442年安周は鄯善(LA)を攻撃した。比竜は北魏の使者とともにかろうじて北涼軍を撃退、安周は東城に退いた。かつての伊循城である。比竜は安心できず、クロライナの4千余家(人口の半分)を率いて且末城(チェルチン)に逃れた。翌年無諱はクロライナに進駐、安周をローラン王とした。北魏に知られることを恐れ、安周は再び東西交通を遮断した。然しこの計画は北魏の知るところとなり、AD445年大武帝は万度帰を派遣してローラン遠征を敢行した。万度帰はローラン王真達(比竜の子)を捕らえて魏都に連行した。そしてAD448年交趾公の韓牧を鄯善王に任命、クロライナに駐屯させ(北魏の鄯善鎮)、北魏の郡県なみに税を徴収した。これによってひとまず鄯善王国は断絶した。かくして旧鄯善領は北部の鄯善鎮と南部の且末を中心とした地区(まだ比竜が命脈を保っている)に二分された。その後、南部はAD452年吐谷渾に制圧された。また北部は柔然、丁零など遊牧民の徹底的な略奪を受け、住民は四散した。然しLAにはまだ名目的ではあるが、北魏の鄯善鎮は存続していた。AD504,505,517年には白兎などを奉献している。AD542年頃且末王の兄鄴米が衆を率いて内附した。すでにAD542年頃旦末を通過した宋雲はその人口を百余家として、ほぼ散滅寸前の状況であった。そしてAD644年末に玄奘がこの地方を通過した時には人煙は全く途絶していた。




2023年4月5日水曜日

再び楼蘭王国の王都について

「クシャン王朝と漢代西域」小谷仲男 富山大学人文学部紀要17号 1991年

 楼蘭の王都については既に述べたように三説ある。①終始楼蘭古城(LA遺跡)にあったとする北方説。②初めLAにあったが、BC77年の改名時(楼蘭→ 鄯善)にミーラン、チャルクリック方面に移動したとする南遷説。③ミーラン、チャルクリック方面にあったとする南方説。スタインや日本の東洋史学者(藤田豊八、大谷勝鎮、松田寿男)、中国人学者は②で(旧説)、それ対して榎一雄、長澤和俊が新説として①を提唱した。現在はこれがほぼ定説と考えられていた。然しこの北方説には問題点がある。それはLAが晋時代の軍事拠点ではありえても、漢代に遡れる遺物が全く発見されていないということであった。

(クシャン貨幣の発見)1980年、新疆楼蘭考古隊によってLAからクシャン貨幣が発見された。1988年、発掘調査の概要とともに写真一葉を添えて正式報告された。大きさは、直径2.7センチ、厚さ3ミリ、重さ16.3グラム。その表面図柄は「ラクダに騎乗した人物」とし、裏面は図柄なし。クシャン貨幣だとするが、どの王の発行貨幣とは述べられていない。著者は同様の貨幣をガンダーラ(パキスタン製北部のランガート仏教寺院址)で発掘しており、ヴィマ・カドフィセス銅貨であるとしている。図柄はインドのコブウシによりかかるシヴァ神である。そしてクジュラ・カドフィセス(丘就卻)とヴィマ・カドフィセス(閻膏珍)の活動期はAD25~125年のあいだである。この1枚のクシャン貨幣は発行時期(漢代)にLAにもたらされたか、それとも後代(晋時代)かは不明である。

 ヴィマ・カドフィセス貨幣が発見されたのは、LAの三間房の西南住居址付近である。スタインの遺跡地図によれば、三間房(LAⅡ ⅱ~ⅳ)と住居址(LAⅢ)とのあいだ、南斜面に臨んだ台地上である。三間房から出土した漢文書(600点以上)のうち紀年文書は約50点。年代は三国魏の嘉平4年(AD252)から西晋の永嘉6年(AD312)に及ぶ。あきらかにLAは魏晋時代の西域経営の拠点であり、三間房は西域長史の駐在署であった。スタインは、貨幣が発見された「建物LAⅢ、ⅲの南斜面には、床下90㎝のところから日乾しレンガの壁あるいは基壇(幅1.8m)の一部が顔をのぞかせており、同じ配置でより古い建物が下層に埋まっている可能性がある」(スタイン「セリンディア」)と観察している。

 そして近年LA発掘のクシャン貨幣が漢代にもたらされた可能性を示唆する発掘例が報告されている。①1914年にスタインはLAの東北数キロの墓地でヘレニスティクな「ヘルメスの杖と人頭部」の有名な毛織物を見つけた。1980年に楼蘭考古隊が同じ墓(孤台墓地 MA2と改名)を再調査し、まだ多くの絹・毛織物が堀残されているのを発見、その中に隷書文字を織り込んだ錦断片など、漢代に遡る遺物の存在を指摘している。②1984年新疆ウイグル博物館は、ホータン近辺の洛浦県山晋拉墓地を発掘調査し、スタインが孤台墓地で発掘したものに、遜色ないヘレニスティクなな男性頭部や反人反馬ケンタウルスの姿を意匠とするつづれ織り断片を発見している。報告書は漢代の墓葬としている。

 LAは、そこで発見された漢文書からその当時(魏晋時代)「楼蘭」と呼ばれた場所であることは間違いない。そこが漢代に遡れるか疑問視されていたが、上記の発掘物は疑問を解く重要な証拠である。楼蘭の王都は、そのオアシス隊商都市の性格上、シルクロードのの孔道に沿うことが必須の条件であった。LAこそがその条件に最も適合していたのである。「より古い建物が下層に埋まっている」というスタインの予想が現実になるかもしれないのである。



2022年11月23日水曜日

ティリヤ・テペの黄金遺宝「シルクロードの黄金遺宝~シバルガン王墓発掘記」V,サリアニディ 岩波書店1988年

  本書は1978~9年アフガニスタン北部、古代のシルクロードの要衝であるシバルガンの北東5キロにあるティリヤ・テペの発掘の記録である。ティリヤ・テペは綿畑の中にある直径100メートル、高さ3メートルの平凡な小丘である。発掘は著者サリアニディを隊長とするソ連・アフガニスタン調査隊によって実施された。1971年予備調査、77年から本格調査が再開された。然し79年2月アフガニスタンの政治状況悪化により中断した。6基の古代の墓を発掘したが、その成果は実に驚くべきものであった。
(ティリヤ・テペの遺宝)第1号墓の墓主は25~35歳の女性。出土した黄金細工の大部分は服飾品で他と比べて少ない。第2号墓は30~40歳の女性。あごには細長い黄金薄板のあごあてがつけられている。これは3,4,5,6号墓の墓主も同様である。この女性の黄金服飾品は豪華である。こめかみを飾る一対の黄金垂飾、次いで一対の襟止金具。デザインはイルカに乗った少年。胸元のペンダントは女神アフロディテをかたどる。そして黄金の腕輪一対(重さ507.5グラム)、足輪一対(重さ623,9グラム)。指輪は左手の2個、右手に1個。副葬品として、足元に銀製の鉢と前漢時代の中国製銅鏡。第3号墓は18~25歳の女性。マウンドの頂上付近にあったので、この墓だけ野ネズミに食い荒らされている。黄金の鉢(重さ305グラム)を枕にし、黄金の首輪(重さ765グラム)、腕には一対の腕輪(各290グラム)、指輪3個、靴止留金具と黄金尽くしである。副葬品として中国製銅鏡、銀製鉢がある。さらに貨幣が2枚。パルティア銀貨(ミトリダテス二世、在位BC123~88年)、ローマ・アウレウス金貨(ティペリウス皇帝、AD16~21年に打刻)である。第4号墓の墓主は30歳くらいの男性で身長は2メートルに近い。馬を殉葬させている。圧巻は黄金腰帯(重さ840グラム)である。死者の左側には長い鉄剣と黄金製の短剣鞘、右側には黄金製の短剣鞘があり鉄製の短剣が納られている。インド金貨が1枚見つかっている。第5号墓は15~20歳の女性。6つの墓の中では最も遺物が少ない。黄金製のあごあてや首飾り、足輪(306.7グラム)、副葬品として銀製の鉢がある。第6号墓の墓主は25~30歳の女性。銀製の鉢を枕にして装身具は他の女性より一段と豪華である。頭には高い歩揺金冠(214グラム)、こめかみには一対の黄金垂飾をつけ、襟留金具(一対97.2グラム)、首飾りと胸飾りが3本、手首には黄金腕輪(一対150グラム)、足には足輪(一対243.3グラム)がある。左手には宝石をはめた指輪、右手に儀杖を持つ。副葬品として中国の鏡2面がある。そして貨幣が2枚発見されている。パルティア金貨(フラーティス三世、在位BC70~57年)とパルティア銀貨(フラーティス四世、在位BC38~32年)で、後者は死者の口の中から見つかった。6基の墓から発掘された黄金製品は2万点にのぼる豪勢さである。
(墓葬の王)第3号墓出土ティペリウス皇帝の金貨から墓葬の時期はAD20~30年代と推定される。4号墓の男性は族長クラス(翕候)で他は殉死した婦人たちである。とくに6号墓の女性をサリアニディは「スキタイの女王」と名付けている。彼らの王宮はどこにあったのか。それはティリヤ・テペのすぐ近くにあるエムシ・テペである。墓はすべてエムシ・テペが望める北西部分に集中している。エムシ・テペは北アフガニスタンで十指にはいる首都的中心であった。高い城壁、日干しレンガの上に築かれた内城。支配者は常にここからティリャ・テペの丘にある一族の墓を眺めていたのかもしれない。これが盗掘を免れた根拠でもある。
(五翕候の位置)大月氏が滅ぼしたのは大夏ではなくバクトリアである。大夏(グレコバクトリア王国)はサカ系遊牧民(サラウカエ)によって既に簒奪されていた(BC140年)。
サカラウエを打ち滅ぼしたたのがアシアナイ族のトハラの諸王(大月氏)である(BC139年)。大月氏は征服したバクトリアに五翕候を置いた。すなわち中国に近い東から西に休密翕候(ワハン東部)、雙靡翕候(マストウジ)、貴霜翕候(ワハン西部)、肸頓翕候(バダフシャン)、都密翕候(テルメズ)である。アフガニスタン北東部に偏って位置している。この中から貴霜翕候のカドフィセスが他の四翕候を併呑しクシャン王朝を創建した(AD60年頃)。中国の史書「後漢書」はこれを旧名に因んで大月氏と呼ぶ。ティリャ・テペは、五翕候の中で最も西に位置する翕候より更に西にある。
 著者によれば、五翕候のうち少なくとも二つが、アム河を境界として、西バクトリアに位置していた。そしてここに来住した遊牧民は、二つの異なった人種タイプで示されている。その第一はアム河の北に見られるタイプである。ハルチャンで発見された壁画や塑像の顔は「鼻は大きくなくて、真っ直ぐであり、目はいわゆるモンゴルひだのない中程度の大きさ」で、ユーロオペロイドの勝ったタイプである。すなわちヘラウス貨幣に見えるクシャン王の顔である。第二は南に見られるタイプである。ティリャ・テペの人物像は「モンゴル風にあごひげがない」モンゴロイドが勝ったユーロオペロイドである。第二タイプの遊牧民の名称は分からないが、この地は後世トハリスタンと呼ばれるようになる。サリアニディは「墓葬の王」が、クシャン国家最初の王か、五翕候の一人か特定することは困難だとしている。大月氏という名称が、単一の部族ではなく、互いに親近ではあるが同一でない複数の部族グループを意味しているからである。いずれにしてもそれは、クシャンが勃興し、クシャン朝が成立する直前のことである。




2022年5月16日月曜日

大月氏の五翕候とは 「敦煌懸泉漢簡に記録された大月氏の使者」小谷仲男 史窓72号 2015年

漢代の史料に見える大月氏の五翕候について現地(大夏)の土着勢力か、あるいは大月氏が分封した有力諸侯かという論争がある。これは東洋史上の有名な論である。前者には白鳥庫吉、桑原隲蔵、羽田亨、松田寿男、榎一雄などがいる。後者には江上波男、内田吟風がいる。日本の東洋史学会の主流は前者だが、著者は後者である。「翕候」は諸侯、小君長の意である。大月氏はアムダリアの北側に王庭を置き、征服した大夏の地に5人の翕候を置き統治した。すなわち休密、雙靡、貴霜、肸頓、高附の五翕候である。この翕候の実態を解明するに資する重要な発見が近年あった。 
(「懸泉漢簡」の発見)敦煌の東64キロの「懸泉置」と呼ばれる駅伝遺跡から大量の前漢時代の木簡が発掘された1990~92年)。出土木簡の総数35000本、うち文字の残るもの23000本。紀年木簡は1900本である。その中で大月氏の使者に関する木簡17本の存在が明らかになった。ただし第1簡は 烏孫簡で、実際は16簡である。そのうち最古の第2簡は甘露2年(BC52年)の紀年をもつ。それらの木簡は大月氏の使者が、漢朝への朝貢および帰国の途上、懸泉置において宿舎や食事、交通手段の便宜を供与されたことが記録されている。さらに驚くべきは、大月氏のみならず五翕候から派遣された使者の記載も見えるのである。すなわち第3簡(BC43年)は、大月氏への使者として派遣された柏聖忠が帰国に際し連れてきた雙靡翕候の使者萬若山と副使蘇に対して敦煌太守が発給した公用旅券である。第4簡(BC37年)は、自発的に朝貢目的で敦煌まで来た休密翕候ほか西域諸国の使者に対して、敦煌郡の太守が役人を派遣し、長安まで送迎させるために発給した公用旅券である。かくして大月氏の使者には、大月氏王から派遣された使者と五翕候がそれぞれ独自に派遣した使者の両様があることが分かった。これは「懸泉漢簡」によって初めて知ることが出来る歴史情報である。  翕候の実態はつかみにくいが、遊牧社会における支配体制に関する名称であり、小王に相当するもの(部族集団の長)と考えられる。五翕候を大夏の土着の支配者とする考え方は「漢書」西域伝の読み誤りによる。例えば小竹武夫「漢書」(ちくま文庫)である。 「大月氏本行国也。・・・・皆臣畜之。」でいったん区切らねばならない。ところが小竹訳では、次の文書を「皆臣畜之、共稟漢使者」と続けて読み、「大夏は・・・・いずれもみな臣従して月氏を養い、ともに漢の使者に糧食を供給した」と解釈するのである。然し「共稟漢使者・・・・」から始まる文書こそ、五翕候に関する「漢書」の独自情報なのである。その直前までは「史記」(大宛列伝)の引用である。著者が提案する読み方は「共稟漢使者、有五翕候。一曰休密翕 候・・・・」と続ける。以下五翕候の情報(治所、西域都護・陽関からの里数)が詳細に記される。漢王朝にとって、五翕候への関心は、漢の使者が大月氏に赴くとき、沿道で食料、宿舎、交通手段が確保できるかが問題であり、懸泉置で大月氏の使者たちが接待を受けたように、漢の使者たちが、大月氏王の領内や各翕候の領内で同様の接待が確保される必要があった。このような関係が成立したのは、西域都護の設置(BC59年)、烏孫の帰順(BC52年)以降であり、「漢書」の五翕候情報は以外に遅い時期のものである。  「懸泉漢簡」の解読により五翕候が大月氏に所属することが明らかになっが、それだけで大月氏の五翕候が人種的に大月氏と同一民族とは言い切れない。このことを解決しない限り、大月氏=クシャン人とすることはできない。