「新疆ウイグル自治区」熊倉潤 中公新書 2022年
旧ソ連領の中央アジア(ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、カザフスタン各共和国)が「西トルキスタン」と呼ばれるのに対し、新疆ウイグル自治区はかつて「東トルキスタン」」と呼ばれらた。然し、この名称は現在中国では禁句になっている。中国内でこの語を使用することは、中国からから分離・独立を求める国家反逆罪とみなされ極めて危険である。なぜ「東トルキスタン」という名称が禁句となったのか。
中国で「西域」と呼ばれたこの地方にはBC3千年頃からから印欧語族の一派であるトハラ語族の人々が移住してオアシスに住み着いていた。「楼蘭の美女」として知られる白色人種の人々である。そして9世紀モンゴル高原に覇を唱えた東ウイグル可汗国の人々が、キルギスに圧迫されて天山北麓に移り、ウイグル王国を成立させた。ほぼ「西域」を掌握した。このテュルク系の人々がオアシスを支配下に置き、元からの白色人種と混交し、「西域」のテュルク化が進行した。そして10世紀以降イスラム化も進行した。そ結果、以降この地は「東トルキスタン」と呼称されるようになった。
中国がタリム盆地を直接支配下に置くようになったのは、ようやく清朝の乾隆帝時代の1759年である。然し、圧倒的に多数のウイグルに少数の漢人。中国の新疆統治は容易ではなかった。清は間接統治であったが、後継の中華民国は新疆省を設け統治を強化した。多数派のウイグルは三度の「独立」を試みた。①ヤクブ・ベく政権(1870~77年)、②東トルキスタン・イスラム共和国(1933~34年)、③東トルキスタン共和国(1944~49年)である。然し、大国の思惑に翻弄され、いずれも短命に終わり、挫折した。とくに、東トルキスタン共和国は、第二次世界大戦終了にともなう、ソ連と民国の裏取引(外モンゴル独立の承認と東北部権益の引き換え)により見殺しにされた。そして1949年の中華人民共和国の成立にともない、民国を中共に乗り換えたソ連により「共和国」幹部はソ連領内に連行されたともいう。かくて三度の独立の失敗によって、ウイグルははその独立を半永久的に失うにいたった。とくに「共和国」のイリ蜂起などは否定され「三区革命」と言いかえられた。「共和国」幹部を物理的に抹殺(ソ連の手を借りて)して、唯一のこったサイフジンと結託した「後ろ暗さ」故に「東トルキスタン」の名称やその独立を云々することはタブーとなったのである。
(新疆ウイグル自治区の成立)
1949年11月人民解放軍第一野戦兵団がウルムチに進軍し、12月新疆人民政府が成立した。中共の統治は当初微温的なものであったが、土地改革の進行とともに強制的なものになった。その第一歩となったのが新疆建設兵団の誕生(1954年10月)と新疆ウイグル自治区の成立(1955年10月)であった。「兵団」の誕生は、大量の漢人の移住となり、新疆の総人口2585万人のうち、漢人は実に1092万人(ウイグルは1162万人)とほぼ拮抗するにいたった(2020年現在)。また「自治区」成立により「民族区域自治」が提唱され、「独立」は明確に否定された。
(中国共産党の異民族統治政策)
中国の異民族政策は、異民族を排除する「排外」と包み込む「融和」が伝統的に交互に続いてきた。中共は当初コミンテルンの指導を受け民族の独立を容認していたが、政権をとると、ソ連の連邦制を含めて「独立」は否定された。それに代わって「民族区域自治」が打ち出されたのである。新疆統治もその例にもれない。文革後の一時期「融和」の時代(胡耀邦)もあったが、習近平体制の現在は「排外」に大きく舵がきられた。とくにチベットで悪名を轟かせた陳全国が「自治区」の書記に就任(2016~21)すると沸点に達した。監視カメラや顔認証などのAI技術の駆使と「親戚制度}という家庭内の監視の徹底はジョージ・オーエルの世界のようにグロテスクである。更に2017年3月の「自治区脱過激化条例」の制定を契機に「職業技能教育訓練センター」が設けられた。その実態は洗脳と強制労働であり、「現代のラーゲリ」「民族ジェノサイド」であると欧米メディアは非難する。その規模はあまりにも大きいという。一方中国は「事実無根」「内政干渉」とにべもないが、「脱過激化」一定の成果をあげたとして、陳全国を離任(解任ではない)させる。
著者は中国の新疆政策は、一部には「ジェノサイド」ないし「文化的ジェノサイド」に重なるものもあるが、欧米の非難するような「ジェノサイド」ではないという。「新疆政策」の内容は、①産児制限の厳格化、②「訓練センター」への収容、③綿花畑での綿つみ労働への動員・内地への集団就職、④AI/親戚制度による徹底管理、⑤中国語教育の普及・「中華民族共同体」意識の鋳造である。これはウイグル人を完全に排除するものではなく、「民族」の破壊というより、「民族」の改造を目的にしたものであるという。然し、「中華民族」ないし「共同体」というのは歴史的にもフィクションにしか過ぎないのではないか。
著者は、欧米メディアの告発、中国側の反論・プロパガンダに与せず、第三者的立場から、本書を書いたという。その冷静な記述には好感がもてる。また巻末の詳細な関連年表、参考文献は「新疆問題」を考える上で非常に有益で、座右に置きたい一冊である。