2013年7月16日火曜日

神戸新聞が記録した関学全共闘の闘い~その2

  神戸新聞  昭和44年2月~マイクロフィルムより

 2月3日全共闘と学院当局の2・6大衆団交に向けての予備折衝が決裂した。学院側は全学執行委員会(W委員長はすなわち全共闘議長なのだが)を通じての話し合いを求め、どうしても全学共闘会議を交渉の相手と認めようとしない。弱いとみれば全く相手にせず、強いとみれば逃げまわって時間稼ぎする。この学院の姿勢は最初から最後まで終始一貫している。この段階では学院当局にとって全共闘はまだ「一部の学生」にしかすぎなかった。
 然し全共闘側の陣営は強化されつつあった。他大学部隊のみならず西宮反戦、兵庫地区反戦連絡会議の労働者も支援に結集していた。団交を拒否された全共闘は私立大学では初めての入試阻止を打ち出す。
2/6入試前日・入試会場占拠。「共闘派学生の乱入は午前5時きっかり。(中略)体育会学生のほとんどは学内パトロールに出、角材、木刀を用意して体育館周辺にいた20人の学生は火炎ビンの前にはひとたまりもなかった。『きた!』その叫び声に、館内の教職員50人のピケ、玄関の内側に築かれたバリケードをアッという間に破られ、(中略)火炎ビンがつぎつぎと投げ込まれフロアーは一面火の海。(中略)教職員6人と学生1人が全共闘の本拠第五別館にら致された。(中略)乱入に加わった学生は女子学生を含め予想外に多かった。前夜神戸大など外人部隊が続々集結しており、半数以上が関学生ではなかったという。」(2/6夕刊)
「警官隊は徐々の数を増し、午後7時ごろには公安捜査隊も出動、千人の大部隊となった。一般学生の数も時間を追ってふくれあがり、体育館東の野球場は『入試実現』『暴力反対』を叫ぶ千五百人の学生が集会やデモで気勢をあげた。これに対し野球場周辺をL字型に埋めた千五百人の一般学生は『機動隊かえれ』『学院側は大衆団交に応じよ』とシュプレヒコールで応酬。機動隊警備下の入試強行をめぐり学生間での対立が浮き彫りになった。一方完全武装の共闘派学生5百人
は午後5時ころ、突然封鎖中の校舎を飛び出し、学生会館前で機動隊と衝突。(中略)同6時ごろには約百人が生協食堂前の関学銀座通りと中央講堂横の通路など二か所に机、長イスでバリケードをつくるなどの動きをみせた」(2/7朝刊)
入試前日の長い一日、神戸新聞はさらに15面に次のような解説記事を載せる。「卒業を前にしたある学生(経済4年生)は『われわれは不満をつのらせている。共闘会議の大衆団交に応じられなくても教室でわれわれが話し合おうとしたとき、一度も顔を出さなかった学院側には不信感でいっぱいだ』とやり場のない憤りをぶちまける。(中略)共闘派の学生の一人は『火炎ビンの使用には内部でも批判があったが、入試前日の価値を本当に学院側、教授会が理解していたらこんなことにはならなかったはず。機動隊の力でしか入試が行えない当局の無責任さをはっきりさせる』という」
(2/7朝刊)
2/7経済学部入試阻止闘争」。「試験会場の体育館北側の学生会館前道路には前日とほぼ同数の千人近い学生が徹夜で目を赤くして座り込んでいた。『機動隊帰れ』を繰り返して機動隊のタテと
”対決”した格好。そのすぐ後ろに完全武装の共闘派学生約百人が机・イスで築いたバリケード越しに構え、すぐ下のグラウンドの『入試実』派学生五百人とじっとにらみあい。午前8時15分(中略)
『ピーピー』と耳をつんざく笛がなり、鉄パイプ、角材、ヘルメット姿の共闘派学生50人が機動隊に突入をはかった」(2/7夕刊)
機動隊に守られての入試は昭和41年3月の早大についで二度目だが、このような異常事態(その後常態化する)について神戸新聞は関学大OB識者の意見を当日夕刊に掲載する。昭和初年に文学部講師を勤めた元兵庫県知事坂本勝のコメントは学院側に厳しい。「関学はなににもましてミッションなんだ。平和と相互理解が建学の精神のはずだが大学側は”ロ^マの兵”を構内に入れた。関学スピリットは滅びたね。悪いのはなんといっても学院側だ。(中略)聖書をもう一度読めといいたい。小宮君は左のほおをなぐられたら、右のほおを出せといいたい。(中略)入試中止でもいいじゃないか。中小企業のようなことをいうなというんだ。金の問題じゃない。4年も5年もたって解決しなければ廃校にすればよい」そして解説記事は「非常事態の背景には、学院当局の紛争解決への努力のなさがこのようなドロ沼状態を招いた」と一刀両断する。
 兵庫県警は、2月9日早朝、大阪府警500人の応援をえて2500人を投入して、封鎖解除に踏み切った。全共闘側は法学部本館(反帝学評など13人)、第五別館(フロント、社学同、革自同など35人)で死守闘争を展開。第五別館は翌日までもちこした。
2/9法本館・五号別館死守闘争。「第五別館と法学部本館のバリケードは堅く、第五別館では立てこもった社学同、フロント派学生40人が放水、投石、火炎ビン投下など激しく抵抗、機動隊がガス弾で応戦した(中略)この間学生たちは同館の屋上へ逃げ、真紅の社学同旗をかざしてろう城、テントまではって持久戦法に出た。(中略)同県警は午後3時から大阪府警のヘリコプター2機を出動要請、空からの退去にあたったが、夕暮れと同時に排除を中止、10日朝から再開する」(2/10朝刊)
2月10日午前11時50分、30時間にわたる第五別館死守闘争が終わった。逮捕された全員が火傷・打撲傷の重傷。12日の「全関西関学奪還総決起集会」には全共闘の旗の下3000人が結集した。

2013年7月2日火曜日

神戸新聞が記録した関学全共闘の闘い~その1

    神戸新聞 昭和44年1月 ~マイクロフィルムより

 関学6項目要求闘争について、全共闘側の資料、学院側の資料に関してはすでに検証した。今回は地元のメディア神戸新聞がその紙面でこの6ヵ月に及ぶ「紛争」をいかに報道したのかを見てみよう。取材する記者をはじめ多くの学院OBがいる神戸新聞にとっては他人事ではなかったのだ。神戸新聞昭和44年のマイクロフィルムから当時の記事を再現してみよう。
 記事によれば1/7第五別館封鎖は突如おきた。「7日夜全学共闘会議の社会学部闘争委員会を中心とした学生約30人が同大学第五別館を封鎖した。(中略)8日から新学期が始まるため全共闘は封鎖にはいったもの」(1/8朝刊)
1/17学院本部封鎖。「17日午前零時半ごろ、全学共闘会議の学生約30人が大学本館に乱入、内側から板切れなどを打ち付けて封鎖した。(中略)16日の中執で本館を封鎖し、同大学の機能をマヒさせることを決定、一方で17日本館を封鎖するとの情報を流しながら、大学当局や反対派のスキをみて突然実力行使にはいったもの。」(1/18朝刊)まだこの段階ではベタ記事扱いだ。
12/23の全学共闘会議で本部封鎖提起されたが、意志一致出来ず流れた。また1/6会議では5号別館封鎖は反対する主流派(反帝学評、学生解放戦線)と賛成の少数派(フロント、社学同、先鋒隊)に分かれた。反帝学評は5号別館封鎖は小ブル急進主義のショック戦術だと批判し、クラス・サークル末端からの組織化をめざし無期限ストを提起した。
1/18法学部無期限スト突入。「18日午後、法学部がスト権を確立、同日夕方から法学部本館と同別館にバリケードを築き無期限ストに入った。(中略)同学部のスト権投票はさる11日から行われていたが、18日午後の開票で同学部学生総数2612人のうち、賛成1079票、反対821票で可決した。同学部闘争委は同日夜、学生約30人が泊まり込んだが、同学部スト突入を足場に、文・社会にも学部ストを波及させてゆく方針で学費値上げ反対など6項目の要求を掲げて学院当局との大衆団交を目指して闘争を進めるという。」(1/19朝刊)次第に闘争のうねりが大きくなってくる。
そして1/24全学集会。「24日午後1時から同校中央芝ふで、紛争後初の全学集会を開いた。(中略)1万3千人の教職員・学生のうち小宮院長、古武学長はじめ約5千人が参加。(中略)『全学集会を大衆団交の場にしよう』とデモをしていた全学共闘会議の学生約300人が集会に割り込んだため、これを阻止しようとした運動部の学生を含む一般学生と衝突、一部でなぐりあい、学生数人が軽いケガをした。(中略)同3時司会の武藤誠総務部長が閉会を宣言したため、学生らが『実りある答弁をしろ』と騒いだ。学生側は大衆団交に切り替えるよう要求。(中略)それまで別集会をしていた全共闘の学生にも集会に加わるよう呼びかけたが、ヘルメットを脱げ、脱がぬで対立、集会は約1時間空転した。集会が再開されようとした矢先、小宮院長、古武学長らが『全学集会は終わった』としてひきあげてしまった。(中略)残った全共闘派学生を含めた約千人は『学院当局の全学集会の意図を粉砕した』、『29日午後1時から中央講堂で大衆団交を開くことを要求する』ことを確認、同7時過ぎ解散した。」(1/25朝刊)
神戸新聞の学院当局に対する視線は厳しい。当日の記事には「学長ら去り ”閉会” 関学大初の全学集会 ヘルメット論争で空転」と見出しが大きく打たれている。さらに学院OBの記者は署名入り解説で「集会半ばで逃げるように退席した小宮院長ら首脳陣の態度は集まった学生らに『無責任なやり方だ』という印象を与え、封鎖解除どころか、かえって不信感を植え付けた」と批判している。
その後情勢は加速した。26日社会学部封鎖に続き28日神学部も無期限ストに入った。「28日午前5時、神学部学生会が学部校舎を机、イスなどでバリケード封鎖、無期限ストにはいった。同学部は27日夜学生大会を開き、26対8でスト権を確立、封鎖にはいった。(中略)なおスト権投票中だった経済学部も27日深夜学生集会を開いたが、スト強行派の突き上げで学生自治会が解散したため、28日開票予定のスト権投票は無効になった。」(1/28夕刊)「商学部のスト権投票の開票が28日午後5時から商学部校舎で学生千人が見守る中で行われ、投票総数2364票中賛成1293票、反対1038票(その他無効)で、可決された。」(1/29朝刊)
そして28日文学部29日経済学部が封鎖され、理学部を除く全校舎が封鎖された。法・商・神学部は学生大会決議を経ての封鎖だが、社・文学部はそうした手続きを省いての強行。経済学部もスト権確立が危ういとみての自治会解散・封鎖であった。神戸新聞解説記事(1/29)は執行部のあせりが封鎖・占拠という過激な戦術になり、学生大会決議をへず強行・封鎖するやり方は「東大方式」の影響だと指摘する。また社・文のフロント、社学同と法・商の社青同解放派(反帝学評)が戦術面で対立・足並みが乱れた。全共闘執行部を握っていた反帝学評は前年12月初めの革マル派との党派闘争に力をそがれ、全共闘の主導権を取れないまま闘争にはいったため、各派間の意思統一ができなかった。1月半ばには全共闘(約100人)は一般学生から浮き上がり、完全に孤立していた。然し全学集会の失敗で全共闘の支持が増え(サークル闘争委、一連協などの組織化が進み)、封鎖学生も300人程度になった。いままで闘争に参加しなかった神・理学部の学生も6項目要求支持を打ち出し、全共闘のウイングはひろがった。(この項続く)