「大月氏~中央アジアに謎の民族を尋ねて」 小谷仲男 東方書店 1999年
月氏は中央アジアの謎の遊牧民族である。その「月氏」の名称は「菅子」に見える「禺氏の玉」の「禺氏」と同音であり、その存在は春秋戦国時代にまでさかのぼれる。「禺氏の玉」の意はホータン付近で産出する軟玉を月氏が仲介貿易して中国に転売したことによる。さらにプトレマイオス「地理誌」に見える「カシ」((Casii)の国名はqasch(玉)に由来し、その「カシ」は「禺氏」(月氏)だと江上波夫は指摘している。月氏には二つの顔があると本書の著者は云う。一つは秦・漢の時代に中国辺境に出現し、モンゴル高原の匈奴と覇を争った中央アジアの遊牧民としての顔である。もう一つは、月氏がアム・ダリア流域に移動した後、その勢力の中から勃興したクシャン王朝大月氏である。一般的にはこの二つの月氏は同一民族と考えられているが、研究者の中には月氏とクシャン王朝を別個のものとする考え方もある。本書はこの月氏の謎を解き明かす。
(月氏の西遷)月氏の名前が中国記録に明確に登場するのはBC176年である。この年匈奴の冒頓単于は月氏を大破した。敗れた月氏はしばらく敦煌付近に留まっていたが、BC161年匈奴の老上単于によって、その王を殺害され西方への移動を開始した。史上西遷したものを大月氏、その付近(ツァイダム盆地)に留まったものを小月氏という。「史記」(大宛伝)によれば、中国辺境を追われた月氏はアム・ダリア流域に落ち着き、その北岸に王庭を置いた。その経路については大宛(フェルガーナ)を通過したとしか述べられていない。著者は月氏が遊牧民ならイリ河流域からナリン河流域に入り、大宛に至ると推定している。そしてパミールを越えアム・ダリア上流に移動したとしている。近年ウズベキスタンの女性考古学者ブガチェンコワはスルハンダリア流域に位置する都市遺跡ダルヴェルジン・テペを発掘調査し、大月氏の王庭に比定している。そして同時にクシャン部族の居城であるともしている。
(大月氏の五翕候)大月氏はその後(BC145年頃)アム・ダリアを渡り大夏(バクトリア)を攻撃・征服した。ストラボンの「地理誌」が伝える東方のスキタイ(サカ)によるギリシャ人バクトリア王国の滅亡とはこのことを意味している。Tochriと称される東方のスキタイ人こそが大月氏であると著者は推定している。1961年以降フランス隊などによって発掘されているアイ・ハヌム遺跡はこの時襲撃されたギリシャ人都市である。アイ・ハヌムはウズベク語で「月姫」の意で、その王妃の名前に由来する。アム・ダリア南岸、コクチャ河の分流点に二河に挟まれた三角形の台地上にある。大夏を征服した大月氏は、「漢書」(西域伝)によれば、その地に五翕候を置いた。翕候とは部族長もしくは小君長の意である。すなわち休密、双靡、貴霜(クシャン)、高附、肸頓である。翕候については大夏に分封された大月氏の支配層か、それとも大月氏から支配権を承認された現地の小君長かの両説がある。そしてこの貴霜翕候からクシャン王朝が出現した。すなわち貴霜翕候の丘就卻(クジュラ・カドフィセス)が他の四翕候を滅ぼし、自ら王を名のりクシャン王朝を建設した。
(ラバタク碑文の発見)1993年アフガニスタン北部のバグラーン州で発見されたラバタク碑文は大月氏=クシャン朝の謎を解明する重要な史料となった。この碑文はカニュシカ王が命じて建てられたもので、クジュドラ・カドフィセスからカニュシカ王まで、すべて父子継承の同一王朝であることが記されている。これによってクシャン第一王朝、第二王朝説が成り立たないことが明白になった。そしてこの碑文の3~4行目に、カニュシカ王がギリシャ語で書かれた詔勅をアーリア語に書き改めさせ、発布したことが記されている。アーリア語とは土着のバクトリア語である。バクトリア語は大夏定住民の言葉である。然し同種の言語を持つ遊牧民も存在し、それがクシャン人である。クシャン人の原郷がアム・ダリア流域とすれば、クシャン人は大月氏もしくはその一部と推定される。月氏もクシャン王朝もともにアム・ダリア流域を本拠とした同一遊牧民集団であった。E.C.バンカーによればアレクサンダー大王の東方遠征によってバクトリア周辺の遊牧民族が圧迫され、東に押し出されたのが月氏であった。彼らは強力な軍事力を持つ騎馬民族であった。そのうち中国辺境を征服したのが月氏であった。遊牧より商業活動に従事した。匈奴との抗争に敗れ、勢力の本拠をアム・ダリア流域に引き上げた。バクトリアのギリシャ人を追って西北インドとの関係を深めた。月氏・クシャン人こそシルクロード上に輝いた最初の騎馬民族であった。
本書の意義の第一は月氏の原住地を確定したことである。月氏の西遷とは本拠地への撤退に過ぎなかったのである。第二はクシャン王朝の出自を明らかにし、大月氏とクシャン朝の同定をしたことである。「後漢書」が新興大国「貴霜王国」を大月氏の名で記録したのは単なる尚古主義ではなかったのである。そして第三は所謂クシャン第一、第二王朝説を否定して、同一王朝の連続性を実証したことである。然しまだ解明されていない謎もある。例えばトカラ語についてである。すなわちタリーム盆地でかって話されたトカラ語A(カラーシャル)、B(クチャ)、C(楼蘭)と月氏の関係である。
2016年1月25日月曜日
2016年1月1日金曜日
関学大「43学費闘争」の敗北~関学闘争前史②
「関西学院新聞」1967,1968年
1966年12月新三派連合(マル学同中核派、社学同統一派、社青同解放派)による「反帝」を一致点にした第三の全学連が再建された(17~19日再建大会35大学71自治会1800名が加)。
再建早々の明大闘争では躓いたが、体制を立て直し、砂川闘争の取り組みを通じて影響力を拡大した。然し関学の学生運動の主流は構造改革派(フロント)の強い影響下にあった。67年度の改選期を迎えた自治会選挙では民青系が経済、文の執行部を掌握した。また全執、法、社でも全学闘に対する批判票が一部民青に流れた。全執と社がフロント、法が社青同解放派、商が青年インター。文、経済執行部は民青だがフロント、革マルと拮抗という状態であった。
一方学院当局は「薬学部新設」敗北の総括から中央集権的な「常務会」を設置した。「常務会の初会合は6月1日午後5時から宝塚ホテルで開かれ、(中略)今後の運営方法について話合われた。(中略)最終的な学院政策決定機関である常務会は、まだ多くの問題を含んでいるので部長会はさしあたり休会にしておき、武藤教務部長が職制の整備を固めていく」(関西学院新聞67年6月9日)そしてその常務会が11月22日に68・69年度学費改訂案(文系5万円、理系7万円を68年度は5割アップ。69年度はそれぞれ8万円、12万円に)を承認した。これに対し学生側は全学共闘会議(10月31日にそれまでの学費対策委員会を改組、全執と各学部2名の14名で構成)を組織して2次の公聴会(11月7日1700人、11月28日2000人)で大衆団交の開催を要求して当局を追及。当局側はこの要求を拒否した。
(対理事会団交要求)「12月5日理事会団交は1時から中央講堂で開かれる予定であったが、理事会は出席を拒否し決裂した。そのため全共闘は結集した2千人を前に抗議集会に切り替えた。(中略)各学部闘争委からクラス決議状況などが報告された。また立命館、全関西反帝学評から支援アピールがあった。その後千名の学友は構内デモを展開。各学部生に隊列に加わるように呼びかけた結果約千五百名にふくれあがっていった。」(同12月12日)学院当局は12月7日臨時理事会で学費値上げを決定した。この抜き打ち的暴挙に対して全共闘は闘争態勢構築を急いだ。
「7日、突然の値上げ決定に抗議して、全共闘は中央芝生で抗議集会を開いた後、千五百名にのぼる大デモンストレーションを行った。(中略)中田議長は早急にスト準備に入ることを各学部闘争委に要請した。(中略)なおデモ隊が高等部前で『高等部の生徒も戦おう』とのシュプレヒコールを続けると、高等部内の教室・廊下は騒然、学費値上げに鋭い関心を示した。」(同12月12日)この時点で学生の動員力は千名以上になっていた。全共闘は今後即時千名以上動員の体制をとり、スト準備の中から戦う中核部隊を形成しようとした。
(ストライキ突入)スト権確立投票は12月7日の法学部を皮切りに、社・文・商・経済の5学部で行われた。開票結果により社・文・商・法でスト権が確立した。学院新聞によれば内訳は文(総数1357賛成795反対542)、社(総数1153賛成615反対502)、法(総数1593賛成1151反対542)、商(総数1538賛成855反対639)、経済(総数1501賛成918反対566)である。全共闘では原則として「投票率1/2、支持率1/2でスト権を確立する」と確認していた。然し経済執行部(民青系)だけは「多数の支持者がいないかぎり、ストはできない」と「支持率2/3」に固執し、事実上闘争を放棄した。また文では民青系執行部の逃亡を乗り越えて文闘委がスト突入を主導した。「12月16日からストに入っている法に引き続き、社・文・商の3学部も学費値上げ全面白紙撤回をめざし19日無期限ストに突入した。これに先立ち第5別館を16日から全共闘が自主管理している。」(同68年1月10日)全共闘は封鎖した5Gで連続自主講講座を開催したが、冬休みに入ると登校する学生はめっきり減った。のみならず戦列から離脱してゆく状況が生み出された。当局側の切り崩しは一段と強まった。かつてはワッペン闘争や座り込みに加わっていた学生がスト破りに参加するケースも出てきた。1月17日商学部で学生大会が開かれスト解除が決議された。25日文学部、27日法学部でストが解除された。然し社会学部だけは踏ん張った。
(社会学部の孤立)「22日、文学部では午後1時からスト中止か継続かをめぐって学生大会を開き、出席1264人が採決したが、反対、継続とも過半数に達せず、25日再度学生大会を開くことで納得した。この直後午後5時ごろ、学舎前のバリケードを実力で撤去しようとするスト反対派と体育会学生50数人がバリケードを守る共闘会議学生と激しく衝突、なぐり合いとなった。(中略)中田共闘会議議長ら数人が3日~1週間のケガをした。一方、社会学部学生大会は、投票1268人中スト反対が725人でスト中止、バリケード撤去を決めたが、投票後の話し合いでスト反対を撤回、スト継続に賛成する学生がかなり出たため共闘会議は議決無効を主張、混乱している最中の午後8時半ごろ、同学部教授会は自治会に対し解散命令を出した。」(神戸新聞68年1月23日)「27日、法、社会両学部の学生大会が開かれ、法学部はスト中止、社会学部はスト継続、後期試験ボイコットを決議した。(中略)法学部は951対868でスト中止、社会学部は651対579で継続、試験ボイコットを決めた。」(神戸新聞1月28日)
然しこれも改良的要求を勝ち取る圧力以外の意義はもちえず、全学的な後退状況の中で社会学部の孤立を克服できず、2月26日の学生大会でスト解除が決議された。すなわち進級・卒業に影響があるという教授会の脅しに動揺した部分による「ストライキは解除する。学費値上げはやむえない」という動議は記名投票により賛成751反対284無効4で可決された。体育会学生を中心とした右翼の暴力に全共闘は明確に対応できなかった。全共闘指導部に対するテロのみならず、学生大会要求署名活動を物理的に封殺するという方針すら提起できなかったのである。
(3/28卒業式闘争)「43学費闘争」に対し大学当局は3月23日に26名(退学11名無期停学8名停学7名)の大量処分でもって答えた。これに対し全共闘は卒業式当日の28日80名の部隊で学長に処分撤回の大衆団交を要求すべく学院本部を占拠した。「「卒業式の始まる前、全学共闘会議は中央講堂の式場で一緒に闘ってきた卒業生に対し『学費闘争はまだ終わっていない。学院当局は大量処分をもってわれわれの闘争を弾圧してきた。卒業される学友も一緒に大量処分を弾劾し、抗議行動に参加するよう』呼びかけた。11時頃処分撤回を訴える学友150人はスクラムを組み、『不当処分撤回』、『学費値上げ粉砕』のシュプレヒコールでデモをし、それに加わる学生もあった。11時半、全学共闘会議は小宮院長と古武学長に対し、処分に関する会見を求めて、学友80名は右翼系学生の攻撃を予測し、ヘルメット、角材を用意して本部に突入しバリケードを築いて占拠した。」(関西学院新聞68年4月15日)学長解放を叫ぶ右翼系学生との乱闘を理由に当局は機動隊300人を導入し全共闘を排除した。
(構造改革派学生運動の破産)かくして「43学費闘争」は敗北した。神戸新聞解説記事(68年2月27日)はその敗因を次のように分析している。「学費値上げの白紙撤回に焦点がしぼれなかった原因は指導層の”文教政策批判”と一般学生の5割アップという大幅値上げに対する自然発生
的な反対との大きなみぞが埋まらなかったことに尽きる」と。薬学部闘争に続き学生大衆の自然発生性を組織できなかった全共闘指導部の主体的根拠は何であったのか。第一は「大学革新論」に端的な構造改革派の学園支配体制認識にある。そして第二は「暴力」=武装に対する無自覚さである。すでに街頭政治闘争は党派全学連(三派、革マル、民青)によって担われていた。1月の佐世保闘争ではセクト別に色分けされたへルメット部隊(中核派は白、社学同は赤、解放派は青というように)が登場していた。構造改革派の「層としての学生運動」の基盤は限りなく掘り崩されていたのである。まさしく「43学費闘争」の敗北は構改派(フロント)学生運動の弔鐘であった。そして「層としての学生運動」の呪縛と「三派全学連」的運動経験の蓄積の薄さが関学学生運動に深く刻印されていたのである。
1966年12月新三派連合(マル学同中核派、社学同統一派、社青同解放派)による「反帝」を一致点にした第三の全学連が再建された(17~19日再建大会35大学71自治会1800名が加)。
再建早々の明大闘争では躓いたが、体制を立て直し、砂川闘争の取り組みを通じて影響力を拡大した。然し関学の学生運動の主流は構造改革派(フロント)の強い影響下にあった。67年度の改選期を迎えた自治会選挙では民青系が経済、文の執行部を掌握した。また全執、法、社でも全学闘に対する批判票が一部民青に流れた。全執と社がフロント、法が社青同解放派、商が青年インター。文、経済執行部は民青だがフロント、革マルと拮抗という状態であった。
一方学院当局は「薬学部新設」敗北の総括から中央集権的な「常務会」を設置した。「常務会の初会合は6月1日午後5時から宝塚ホテルで開かれ、(中略)今後の運営方法について話合われた。(中略)最終的な学院政策決定機関である常務会は、まだ多くの問題を含んでいるので部長会はさしあたり休会にしておき、武藤教務部長が職制の整備を固めていく」(関西学院新聞67年6月9日)そしてその常務会が11月22日に68・69年度学費改訂案(文系5万円、理系7万円を68年度は5割アップ。69年度はそれぞれ8万円、12万円に)を承認した。これに対し学生側は全学共闘会議(10月31日にそれまでの学費対策委員会を改組、全執と各学部2名の14名で構成)を組織して2次の公聴会(11月7日1700人、11月28日2000人)で大衆団交の開催を要求して当局を追及。当局側はこの要求を拒否した。
(対理事会団交要求)「12月5日理事会団交は1時から中央講堂で開かれる予定であったが、理事会は出席を拒否し決裂した。そのため全共闘は結集した2千人を前に抗議集会に切り替えた。(中略)各学部闘争委からクラス決議状況などが報告された。また立命館、全関西反帝学評から支援アピールがあった。その後千名の学友は構内デモを展開。各学部生に隊列に加わるように呼びかけた結果約千五百名にふくれあがっていった。」(同12月12日)学院当局は12月7日臨時理事会で学費値上げを決定した。この抜き打ち的暴挙に対して全共闘は闘争態勢構築を急いだ。
「7日、突然の値上げ決定に抗議して、全共闘は中央芝生で抗議集会を開いた後、千五百名にのぼる大デモンストレーションを行った。(中略)中田議長は早急にスト準備に入ることを各学部闘争委に要請した。(中略)なおデモ隊が高等部前で『高等部の生徒も戦おう』とのシュプレヒコールを続けると、高等部内の教室・廊下は騒然、学費値上げに鋭い関心を示した。」(同12月12日)この時点で学生の動員力は千名以上になっていた。全共闘は今後即時千名以上動員の体制をとり、スト準備の中から戦う中核部隊を形成しようとした。
(ストライキ突入)スト権確立投票は12月7日の法学部を皮切りに、社・文・商・経済の5学部で行われた。開票結果により社・文・商・法でスト権が確立した。学院新聞によれば内訳は文(総数1357賛成795反対542)、社(総数1153賛成615反対502)、法(総数1593賛成1151反対542)、商(総数1538賛成855反対639)、経済(総数1501賛成918反対566)である。全共闘では原則として「投票率1/2、支持率1/2でスト権を確立する」と確認していた。然し経済執行部(民青系)だけは「多数の支持者がいないかぎり、ストはできない」と「支持率2/3」に固執し、事実上闘争を放棄した。また文では民青系執行部の逃亡を乗り越えて文闘委がスト突入を主導した。「12月16日からストに入っている法に引き続き、社・文・商の3学部も学費値上げ全面白紙撤回をめざし19日無期限ストに突入した。これに先立ち第5別館を16日から全共闘が自主管理している。」(同68年1月10日)全共闘は封鎖した5Gで連続自主講講座を開催したが、冬休みに入ると登校する学生はめっきり減った。のみならず戦列から離脱してゆく状況が生み出された。当局側の切り崩しは一段と強まった。かつてはワッペン闘争や座り込みに加わっていた学生がスト破りに参加するケースも出てきた。1月17日商学部で学生大会が開かれスト解除が決議された。25日文学部、27日法学部でストが解除された。然し社会学部だけは踏ん張った。
(社会学部の孤立)「22日、文学部では午後1時からスト中止か継続かをめぐって学生大会を開き、出席1264人が採決したが、反対、継続とも過半数に達せず、25日再度学生大会を開くことで納得した。この直後午後5時ごろ、学舎前のバリケードを実力で撤去しようとするスト反対派と体育会学生50数人がバリケードを守る共闘会議学生と激しく衝突、なぐり合いとなった。(中略)中田共闘会議議長ら数人が3日~1週間のケガをした。一方、社会学部学生大会は、投票1268人中スト反対が725人でスト中止、バリケード撤去を決めたが、投票後の話し合いでスト反対を撤回、スト継続に賛成する学生がかなり出たため共闘会議は議決無効を主張、混乱している最中の午後8時半ごろ、同学部教授会は自治会に対し解散命令を出した。」(神戸新聞68年1月23日)「27日、法、社会両学部の学生大会が開かれ、法学部はスト中止、社会学部はスト継続、後期試験ボイコットを決議した。(中略)法学部は951対868でスト中止、社会学部は651対579で継続、試験ボイコットを決めた。」(神戸新聞1月28日)
然しこれも改良的要求を勝ち取る圧力以外の意義はもちえず、全学的な後退状況の中で社会学部の孤立を克服できず、2月26日の学生大会でスト解除が決議された。すなわち進級・卒業に影響があるという教授会の脅しに動揺した部分による「ストライキは解除する。学費値上げはやむえない」という動議は記名投票により賛成751反対284無効4で可決された。体育会学生を中心とした右翼の暴力に全共闘は明確に対応できなかった。全共闘指導部に対するテロのみならず、学生大会要求署名活動を物理的に封殺するという方針すら提起できなかったのである。
(3/28卒業式闘争)「43学費闘争」に対し大学当局は3月23日に26名(退学11名無期停学8名停学7名)の大量処分でもって答えた。これに対し全共闘は卒業式当日の28日80名の部隊で学長に処分撤回の大衆団交を要求すべく学院本部を占拠した。「「卒業式の始まる前、全学共闘会議は中央講堂の式場で一緒に闘ってきた卒業生に対し『学費闘争はまだ終わっていない。学院当局は大量処分をもってわれわれの闘争を弾圧してきた。卒業される学友も一緒に大量処分を弾劾し、抗議行動に参加するよう』呼びかけた。11時頃処分撤回を訴える学友150人はスクラムを組み、『不当処分撤回』、『学費値上げ粉砕』のシュプレヒコールでデモをし、それに加わる学生もあった。11時半、全学共闘会議は小宮院長と古武学長に対し、処分に関する会見を求めて、学友80名は右翼系学生の攻撃を予測し、ヘルメット、角材を用意して本部に突入しバリケードを築いて占拠した。」(関西学院新聞68年4月15日)学長解放を叫ぶ右翼系学生との乱闘を理由に当局は機動隊300人を導入し全共闘を排除した。
(構造改革派学生運動の破産)かくして「43学費闘争」は敗北した。神戸新聞解説記事(68年2月27日)はその敗因を次のように分析している。「学費値上げの白紙撤回に焦点がしぼれなかった原因は指導層の”文教政策批判”と一般学生の5割アップという大幅値上げに対する自然発生
的な反対との大きなみぞが埋まらなかったことに尽きる」と。薬学部闘争に続き学生大衆の自然発生性を組織できなかった全共闘指導部の主体的根拠は何であったのか。第一は「大学革新論」に端的な構造改革派の学園支配体制認識にある。そして第二は「暴力」=武装に対する無自覚さである。すでに街頭政治闘争は党派全学連(三派、革マル、民青)によって担われていた。1月の佐世保闘争ではセクト別に色分けされたへルメット部隊(中核派は白、社学同は赤、解放派は青というように)が登場していた。構造改革派の「層としての学生運動」の基盤は限りなく掘り崩されていたのである。まさしく「43学費闘争」の敗北は構改派(フロント)学生運動の弔鐘であった。そして「層としての学生運動」の呪縛と「三派全学連」的運動経験の蓄積の薄さが関学学生運動に深く刻印されていたのである。
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