2017年5月30日火曜日

パミール越えの道③

   「カラコルムからパミールへ」 H.W.ティルマン 白水社 1975年

 古来シルクロド中の難路と言われたパミール越えの道には北道と南道がある。パミール北道には、①カシュガルからテレク・ダワンを越えてアライ山脈の東北端を経てフェルガーナ盆地に達する道、②カシュガルからキジル・スーに沿ってドウシャンベに出てバクトリアに至る道がある。後者は比較的容易な道である。またパミール南道には次の三路がある。すなわち①ネザ・タッシュ峠(4548米)を越え、ビクトリア湖岸を経由してパミール川沿いにイシュシカムに至る道(大パミール路)、②ネザ・タッシュ峠峠を越えてチャクマンティン湖岸を迂回してワハンダリア沿いに下り、大パミール路に合流する道(小パミール路)、③ワフジール峠(4854米)を越えてワハーンを横断する道(ワフジール路)である。歴史的には北道が最もよく使われた。大谷光瑞やヘディンもテレク・ダワン越えでカシュガルに入っている。大パミール・小パミール路はマルコポーロや玄奘が通ったと推測されている。ワフジール路の峠以西のワハーン横断部分は2001年平位剛が踏査した道である。それは「ワハーン回廊を行く」で既に紹介した。ワフジール峠からタッシュクルガンへの道程については、現在では入域がむつかしいこともあって不明の部分が多い。この部分についてティルマンが本書でわずかにふれている。
(タッシュクルガン)
 タッシュクルガンはパミール高原のダグドウンバシュ地区の入口にある小さな城塞である。海抜3千米を越えるので農耕には厳しく、わずかな人口しか支えられない。近代の探検家が訪れた20世紀初頭は人口3百人ほどの寒村にすぎなかった。然し古来よりインドやアフガニスタン方面に抜けるシルクロードの要衝であった。漢では「蒲犁国」、唐では「朅盤陀国」と呼ばれた。唐代には安西都護府所属の辺防単位として葱嶺守捉が設けられらた。現在はタッシュクルガンタジク自治県の県庁所在地である。町の傍には唐の石頭城の遺跡がそびえている。タッシュクルガンの近傍を合わせて県の人口は2万人強である。カシュガルとイスラマバードを結ぶカラコルム・ハイウェイの中継拠点である。
(タシュクルガンよりワフジール峠へ)
 タッシュクルガンから2日行程(64キロ)でワヒ人の村ダフタールに至る。タッシュクルガン川に沿う平原の道である。「ダフタールからタッシュクルガンの間は、石や礫の平原を横断するいやな二行程であったが、ほとんど不毛の平原にも、ダグラズ・グンバズだけは香りのよい短い小さな草地があった。」(本書P150)村は川の傍の平坦地で、細長く家が散在している。2キロ離れたところに、当時は中国人部隊30人ほどが駐屯している砦があった。ダフタールから南行すると、北流するオフラジ川の合流点に小さな集落がある。高度3600米なのに大麦が生育していた。11キロ上がるとベイクに到着する。ベイクの警察は、そこから1日行程でソ連(現タジキスタン)領に通ずるベイク峠(4595米)を監視している。ベイクの中国軍は引揚、次の拠点ミンタカ・カウラルに分遣隊を置いている。ここはキリク峠、ミンタカ峠(ともにパキスタンに通ずる)、ワフジール峠(アフガニスタンに通ずる)、ティグルマンスー峠(タジキスタンに通ずる)を控える戦略上の重要拠点である。それらから流れ出る川もここで合流している。ここには砦が築かれている。ワフジール谷は広々とした草地は多いが、人は住んでいない。ワフジール峠の標高は4800米ほどだがひどく寒い。「峠の向こうの南側には、ヒンドゥー・クシュの最東端の、5700米級の立派な雪山が見える。ワハーン側に下降して行くと、雲が消え、太陽が現れてきた。はるか下には、まだ小さなオクサス川の源流が青く細い紐のように見える。(中略)ここでオクサス川はアブ・イ・ワハンと呼ばれる。」(本書P199)ここから川の右岸を30キロほど行くとボザイン・グンバスに至る。この道は2001年に平位が逆に通った行程である。
 本書の原題は「二つの山と一つの川」である。二つの山とはラカポシ(7788米)とムズターク・アータ(7546米)である。川はオクサスである。ティルマンはスイス人の仲間とラカポシを試登し、シンプトンとムズターク・アタの頂上近くまで登った。その間往路と帰路パミールを歩いた。第二次大戦後の1947年、中国革命直前の混乱期である。実際の行程はミスガル→ミンタカ峠→タッシュクルガンの往路とタッシュクルガン→ワフジール峠の帰路である。

2017年5月14日日曜日

「シナ」とは何か

   「逆転の大中国史」 楊海英 文藝春秋社 2016年

 英語の「チャイナ(China)」に対応する日本語の名称は「シナ(支那)」だが、この語は現在日本では使用が忌避難される。それはかつてのGHQの命令や過剰な自主規制による。それではこの名称は何に由来するのか。始皇帝の「秦」の古音「ヅィン」がインドで「チーナ」となり、ペルシア語では「チーン」となり、アラビア語で「スィーン」となった。インドを訪れたポルトガル人が、この「チーナ」を持ち帰ったと推測される。「チーナ」が英語で「チャイナ」、フランス語で「シーヌ」となった。「シナ」は他称であり、漢人は自国をその時代の王朝名で呼んでいた。例えば「漢」や「唐」などと。新井白石が日本に潜入したイタリア人宣教師シドッチから「チーナ」の名を聞き、それを「支那」と表記した。それ以来日本では「中国」を「シナ」と呼んだ。
 一方ヨーロッパでは「シナ」は最初「カセイ(Cathay)」という名称で知られていた。それはシナ北方地域のみに適用されるはずのものであったが、やがてシナ全域を指すようになった。この名称の起源は契丹(キタイ)民族に由来する。彼らは数世紀にわたってシナの東北方に割拠し、やがて北シナを占領し遼帝国を建国した。これによって、内陸から見てシナのことを「カタイ」と呼ぶようになった。そしてこの名称をヨーロッパに紹介したのはマルコポーロである。その後ヨーロッパでは、南廻りで宣教師が赴いた北京のある「シナ」と「カタイ」は別のものと考えられていた。これを同一のものと確証したのはベネディクト・ゴエスである。
(「シナ人」とは)
 岡田英弘によれば「シナ」とはBC221年秦の始皇帝による統一以降の名称で、それは1895年日清戦争敗北まで続いた。それ以前は「シナ以前の時代」であった。雑多な種族が接触して商業都市文明をつくりだした時代である。伝説上の最初の王朝「夏」は水路伝いに都市文明を黄河流域にもたらした。タイ系の「夷」の王朝で、その都市は秦嶺山脈南麓の、水路の船着き場にある。次の「殷」は黄河の北方から南下してきた東北の狩猟民「狄」の王朝である。「殷」を滅ぼした「周」は山西高原南部の汾河渓谷にいた「西戎」の一種たる羌族の王朝である。南方にいた「楚」は「南蛮」の王国である。この時代、これらの「東夷」「南蛮」「西戎」「北狄」の諸王朝が洛陽盆地をめぐり覇権を競っていたのである。「シナ人」=「漢人」とは、これら諸族が混交して形成された都市の住民のことである。人種的には「夷」「蛮」「戎」「狄」の子孫である。都市に住み着き(戸籍に登録し、納税・徴兵の義務を負う)、「漢語」を話し、規定された服装をすれば、それは「漢人」である。都市と都市の中間地帯は夷狄の住地であった。
(「漢語」とは)
 「漢語」の起源とはどのようなものであろうか。漢字が発生したのは長江流域である。この地方で話されていたのはタイ系の言語であった。漢字は表意文字の宿命で、同じ字形に幾通りかの意味をあてて、それをタイ系の言語で読んだ。後に整理して、一つの漢字には一通り、一音節の語をあてて読むようになった。然し、いかにタイ系の語であっても、すべての語が一音節からなるということはありえない。このため、漢字の音は、意味を表すというより、その字の名前という性格になった。漢字の実際の使用法は、人々が話す言葉の構造と関係なく、ある簡単な原則に従って排列するようになる。表意文字であるから、言語を異にする人々の間の通信手段として使えるようになる。このまったく新しい人工的な符号が「雅言」である。かくして漢字は、それを作り出した種族の日常言語と遊離することによって、他の種族にとっても有効な通信手段となった。漢字の組み合わせを順次読み下す「雅言」には性、数、格も時称もない。これは漢語が、夏人の言語をベースにして、アルタイ系、チベット系、ビルマ系の言語を取り入れて成立した都市国家の共通語=マーケットランゲージであり、ピジン風言語であることを意味している。
  以上が岡田英弘による「シナ」成立の経緯である。ここまでは大方の賛同を得ているといえる。然しそこから導きだされる①急激な人口減(前漢時代6千万人が三国時代には5百万に減少)による漢人の実質的消滅と②空白になった華北平原にアルタイ系胡族が移動し、その結果漢語のアルタイ語化(二重子音が消滅し、頭子音「r」が「L]に変化)が起こったなどは学界では少数説にしか過ぎない。この岡田説をふまえた本書の内容には特段目新しいものはない。だが著者がモンゴル人(内モンゴルのオルドス高原生まれ モンゴル名オーノス・チョクト)ということを考えればリアリティーがある。モンゴル高原から南を眺めれば、右に中央アジアなどユーラシアが、左手かなたには「シナ」が望める。「中原」と呼ばれる洛陽盆地のなんと小さいことか。そして遊牧文明の視点から見れば「中国文明」と言われるものはローカル文明の一つにしか過ぎない。中国4千年の歴史というが、「漢族」の歴史は漢王朝(400年)、北宋(160年)、明(300年)の計900年にもみたない。著者は、「漢族」であるといわれる漢、宋、明などの創始者の出自も実は怪しいという。然し疑問もある。例えばモンゴルでも「中国」を「シナ」と呼んでいたという件である。既述したようにモンゴルでは歴史的に「中国」は「カタイ」と呼ばれていた。「シナ」と呼ばれていたとすれば、それは日本軍進出(蒙疆政権時)の影響にほかならない。