2026年7月6日月曜日

ラオス縦断鉄道

「変貌するアジアの鉄道」 柿崎一郎 成山堂書店 2025年3月 


 2021年12月にラオスのビエンチャンから中国との国境ボーテンを経由して中国のモーハンへの路線が開通した。タイのノンカイから対岸のターナーレンへの鉄道はすでに開通(2009年)していた。そして2024年にはビェンチャン郊外のカムサワートまで延伸された。乗り継げばシンガポールからポルトガルまで鉄路で移動する可能性が見えてきたのである。かつてのシベリア鉄道に比肩する雄大なスケールである。知られることの少ないラオスの鉄道に関する情報を本書から紹介しよう。

 (ラオス鉄道)ラオスは鉄道のない国であった。然し、オーストラリアの支援でノンカイと対岸を結ぶメコン川橋梁(タイ・ラオス友好橋)が1994年開通すると、タイの鉄道をラオスに伸ばす計画が浮上し、ノンカイ~ターナレーン間3.5キロが建設され、2009年に開通した。ラオス初めての鉄道となった。運航のためにラオス国鉄が設立された。列車の運行は、当初タイ側からのみで、車両は保有していなかった。その後、ターナーレンからビェンチャン郊外のカムサワート(ビェンチャン中心部より6.5キロ東)までの7.5キロが開通した(2024年)。これまでノンカイ~ターナレーン間で運行されていた国際列車に代えてバンコク~ビェンチャン間の直行列車の運行が開始された。タイの出国はノンカイ駅のホームのはずれにあるゲートで行われる。バンコクからの乗客も、荷物をすべて持って下車し出国審査へ。その間に列車はホーム北端、ゲートの向こう側に移動している。ラオス入国はカムサワートの改札で行われる。改札が入国審査のゲートになっている。入国カードはここで書く。列車内には用意されていない。なおこの鉄道のビェンチャン駅(ビェンチャン中央駅)はラオス中国鉄道のビェンチャン駅とは別で相当離れており、両駅間はバスで結ばれている。

 (ラオス中国鉄道)2021年12月4日ビェンチャンと中国との国境ボーテンを結ぶラオス中国鉄道が開通した。総延長422キロ。当初は高速鉄道として計画されたが、実際は最高速度160キロの標準軌、単線、電化の中速鉄道である。同時に中北国内の玉渓(ユーシー)~磨憨の玉磨線も開通し、ラオスと中国を結ぶ国際線としてデビューした。運営は中国とラオスが設立した合弁会社ラオス中国鉄道が行っているが、実態は完全に中国の鉄道である。電化方式も中国と同じ交流2.5万ボルト、レールも中国同様標準軌である。この列車の駅(ビェンチャン駅)は市街中心部から北東に15.2キロ離れた郊外サイ村に位置している。車で40分もかかる。駅舎は中国式の壮大な建物だが、大半は待合室である。急行列車(瀾滄号)は中国の高速列車復興号型(CR200型)で、ビェンチャン~ボーテン間を3時間半で結び、2023年にはビェンチャン~昆明を9時間半で結ぶ国際列車の運行を開始した。この鉄道によってビェンチャンと沿線の町との所用時間が大幅に短縮された。例えば古都ルアンパバーンは従来バスで10時間ほどかかったが、僅か2時間で到達できる。現在この間は区間列車が1日3本運行されている。なおビエンチャン~ボーテン間は2往復、ビエンチャン~昆明間は2往復している。

 ラオス中国鉄道の旅客運送は順調に推移しているが、本来の役割は貨物輸送である。タイから延伸されたメートル軌のラオス鉄道のターナレーンには内陸港(ドライポート)が建設された。一方ラオス中国鉄道は終点ビェンチャン南駅(貨物駅)から引き込み線をドライポートまで整備し、2022年7月から運用を始めた。タイから来るメートル軌の列車と中国から来る標準軌の列車を並べて、相互にコンテナの積み替えができるようになった。すなわち、事実上シンガポールと昆明が鉄道で結ばれたのである。2023年2月には昆明からバンコクに向けて初の「直通」列車が運行された。タイではこの鉄道が、中国への新たな輸出ルートとして注目されている。


2026年5月28日木曜日

清張ルネサンス

 「松本清張の昭和」酒井信 講談社現代新書 2025年12月


 昨年(2025年)には本書を含めて松本清張に関する書籍が5冊も刊行された。「砂の器映画の魔性」(樋口尚文 筑摩書房)、「松本清張の女たち」(酒井順子 新潮社)、「松本清張と水上勉」(藤井淑禎 筑摩書房」、松本清張の深層心理」(藤脇邦夫 幻燈舎)などである。死後30年以上経過しても清張への関心は高い。あたかも清張ルネサンスの感さえある。現在は、各社の日本文学全集刊行が覇を競った昭和の時代とは違う。文庫本においても、夏目漱石などを例外として、他の作家は死後急速に忘れられる。清張と同年生まれの太宰治、大岡昇平にしても文庫にラインナップされるのは代表作など数点にすぎない。

 独り清張への関心はまぜ高いのか。著者はその秘密を清張の驚異的な執筆量に求める。全集完結時点(1996年 全66巻)で著書750点、作品数約1000点、原稿用紙12万枚に及んだ。各文庫の収録も現役作家並みに多く圧倒的である。例えば新潮文庫の清張作品は45冊で総発行部数は4607万1600部に達する。ちなみに同文庫の清張ベスト5は以下のようである。①「砂の器」466万6500部、②「点と線」323万900部、③「ゼロの焦点」249万5000部、④「わるいやつら」229万4900部、⑤「黒皮の手帳」159万2000部(2025年8月現在)「清張山脈」の裾野の広さを表している。清張の「国民作家」たる所以である。

 また本書では従来から疑問があった清張の生年と出生地の謎をほぼ解明している。清張は1909(明治42)年12月21日に福岡県企救(きく)郡板櫃(いたびつ)村(現在の北九州市小倉北区)大字篠崎で生まれたとされる。然し現存する生後2か月頃の写真の台紙の裏には「明治42年2月12日生、同年4月15日写」「広島京橋」と書かれ、撮影者として「小早川圭風」という名前が記されている。広島郷土資料館の調べによると、「小早川写真館」は広島京橋にかつて実在していた。その場所は広島駅の南口のすぐそばであった。また2枚目の乳児期の写真の台紙には「広島土手町 俵写真館」とあり、台紙裏には「明治42年2月12日、同年6月27日写」と記されている。土手町(現松川町、比治山町、稲荷町)は京橋に近い、清張は「父系の指」で出生地を「広島のK町」としている。K町がどこかというと、大胡な紡績工場があった広島駅東南側に位置する蟹屋町である。この場所には大阪合同紡績会社があり、1908年には蟹屋町だけでも704人の従業員が働いていた。そこは相対的に家賃も安く、収入の少ない清張の父母にとって住みやすい場所であった。なにより旧蟹屋町は京橋の小早川写真館にも土手町の俵写真館にも近い。現在広島東洋カーカープのマツダスタジアムが建てられている当たりである。以上から著者は清張は1909年2月12日に蟹屋町で生まれたとしている。

 清張は「父系の指」で「私はK町で生まれたと聞かされた。その町がどういう所か知らない。行って見る気もしない。おそらくきたない、ごみごみした所であったろう。」と書いている。だが「広島は因縁の深い土地だ。父と母はここで一緒になった。しかし、私は一度も広島に行ったことがなかった。」(「半生の記」)とも。清張にとっての故郷は前半生を過ごした小倉である。然し作品の舞台には多くはないが、府中(「古本」)、三次(「神々の乱心」)、尾道(「内海の輪」)が選ばれている。そして広島と近郊は「汽車は一時間かかった。可部は古い、狭い町だった。町の真ん中を川が流れている。太田川という名前で、この下流は広島に注いでいる。そこはかとない頽廃が古い家並みに沈んでいた。」(「駅路」)と描かれている。清張は剛腕にまかせて社会派ミステリーを濫作する作家で文章は荒いと思われていた。それが文化勲章を逸した一因(過半は権力者からの嫌忌)でもある。然し上記の風景描写には特別な情緒があり、情感が滲みでている。生後6か月しか過ごさなかった広島へのノスタルジーだろうか。