2026年5月28日木曜日

清張ルネサンス

 「松本清張の昭和」酒井信 講談社現代新書 2025年12月


 昨年(2025年)には本書を含めて松本清張に関する書籍が5冊も刊行された。「砂の器映画の魔性」(樋口尚文 筑摩書房)、「松本清張の女たち」(酒井順子 新潮社)、「松本清張と水上勉」(藤井淑禎 筑摩書房」、松本清張の深層心理」(藤脇邦夫 幻燈舎)などである。死後30年以上経過しても清張への関心は高い。あたかも清張ルネサンスの感さえある。現在は、各社の日本文学全集刊行が覇を競った昭和の時代とは違う。文庫本においても、夏目漱石などを例外として、他の作家は死後急速に忘れられる。清張と同年生まれの太宰治、大岡昇平にしても文庫にラインナップされるのは代表作など数点にすぎない。

 独り清張への関心はまぜ高いのか。著者はその秘密を清張の驚異的な執筆量に求める。全集完結時点(1996年 全66巻)で著書750点、作品数約1000点、原稿用紙12万枚に及んだ。各文庫の収録も現役作家並みに多く圧倒的である。例えば新潮文庫の清張作品は45冊で総発行部数は4607万1600部に達する。ちなみに同文庫の清張ベスト5は以下のようである。①「砂の器」466万6500部、②「点と線」323万900部、③「ゼロの焦点」249万5000部、④「わるいやつら」229万4900部、⑤「黒皮の手帳」159万2000部(2025年8月現在)「清張山脈」の裾野の広さを表している。清張の「国民作家」たる所以である。

 また本書では従来から疑問があった清張の生年と出生地の謎をほぼ解明している。清張は1909(明治42)年12月21日に福岡県企救(きく)郡板櫃(いたびつ)村(現在の北九州市小倉北区)大字篠崎で生まれたとされる。然し現存する生後2か月頃の写真の台紙の裏には「明治42年2月12日生、同年4月15日写」「広島京橋」と書かれ、撮影者として「小早川圭風」という名前が記されている。広島郷土資料館の調べによると、「小早川写真館」は広島京橋にかつて実在していた。その場所は広島駅の南口のすぐそばであった。また2枚目の乳児期の写真の台紙には「広島土手町 俵写真館」とあり、台紙裏には「明治42年2月12日、同年6月27日写」と記されている。土手町(現松川町、比治山町、稲荷町)は京橋に近い、清張は「父系の指」で出生地を「広島のK町」としている。K町がどこかというと、大胡な紡績工場があった広島駅東南側に位置する蟹屋町である。この場所には大阪合同紡績会社があり、1908年には蟹屋町だけでも704人の従業員が働いていた。そこは相対的に家賃も安く、収入の少ない清張の父母にとって住みやすい場所であった。なにより旧蟹屋町は京橋の小早川写真館にも土手町の俵写真館にも近い。現在広島東洋カーカープのマツダスタジアムが建てられている当たりである。以上から著者は清張は1909年2月12日に蟹屋町で生まれたとしている。

 清張は「父系の指」で「私はK町で生まれたと聞かされた。その町がどういう所か知らない。行って見る気もしない。おそらくきたない、ごみごみした所であったろう。」と書いている。だが「広島は因縁の深い土地だ。父と母はここで一緒になった。しかし、私は一度も広島に行ったことがなかった。」(「半生の記」)とも。清張にとっての故郷は前半生を過ごした小倉である。然し作品の舞台には多くはないが、府中(「古本」)、三次(「神々の乱心」)、尾道(「内海の輪」)が選ばれている。そして広島と近郊は「汽車は一時間かかった。可部は古い、狭い町だった。町の真ん中を川が流れている。太田川という名前で、この下流は広島に注いでいる。そこはかとない頽廃が古い家並みに沈んでいた。」(「駅路」)と描かれている。清張は剛腕にまかせて社会派ミステリーを濫作する作家で文章は荒いと思われていた。それが文化勲章を逸した一因(過半は権力者からの嫌忌)でもある。然し上記の風景描写には特別な情緒があり、情感が滲みでている。生後6か月しか過ごさなかった広島へのノスタルジーだろうか。