「『シルクロード史観』再考」(「史林」91-2所載) 間野英二 2008年
前稿(「シルクロード史観」論争」)で一方の当事者間野英二が護雅夫の批判を黙殺したため、この論争は継続せず「すれ違い」で終わったと述べた。然し近年間野が護の弟子筋にあたる森安孝夫「シルクロードと唐帝国」に対する再批判を発表している。一般にはなじみの薄い学術誌掲載論文なので簡単に論点を紹介する。
間野は森安のこの批判(①シルクロードの抹殺反対②イスラム化強調への疑問)について、これは一方的な曲解であって当たらないとする。すなわち①については「シルクロード」が、地域を指す言葉としてはあまりにもあいまいな言葉であるため、研究者が地域を指す言葉として、研究論文などで使うことには賛成できない。然しマスコミや出版社・旅行社が使うのは自由であるとする。②については東トルキスタンのイスラム化の時期を15世紀とする森安に対し、カラ・ハン朝の成立期(9-10世紀)を以て対置する。森安が東トルキスタン東部のトルファン(ここのイスラム化は15世紀までずれ込む)に視点を置いて批判するのは客観性に欠けるとする。ここに視座を置いて30年前の研究視角をとるのは、畢竟イスラム史料を十分に利用することができないからだとも。そして「シルクロードと唐帝国」のような一般読者を対象とした書物で、曲解に基づく一方的な批判は慎むべきだという。然しこれはやや疑問である。間野が「シルクロード史観」を批判したのは、同様の一般読者を対象にした「シルクロードの歴史」においてである。
そして「シルクロード史観」についての現在の考えを述べている。まず松田寿夫の「シルクロード史観」について「隊商路としてのシルクロードの存在が、中央アジアのオアシス都市の死命を制するものであり、シルクロードの存在なくしてオアシス都市の繁栄をありえない。シルクロードの存在が中央アジアそのものの死命を制する」と定義する。同時に「オアシス都市の商人たちの活動の意義をあまりに過大視するのは問題」とする。すなわちオアシス都市の基本的性格の認識として、松田(森安も)は隊商貿易依存説であり、間野は農業依存説である。然し二者択一ではなく、どちらがより基本的で、より重要であったかという比較の問題であるとする。この問題については、この30年間研究はほとんど進んでいないともいう。
また「ソグド地方を中心とするオアシス都市を、もっぱら商業都市、隊商都市と規定することは行き過ぎであろう」が、ソグド商人の国際的活動は紛れもない事実であるともする。その商業活動については、①何故乗り出したのか②蓄積した富の行方③商人の地位④隊商の規模と頻度などすべて不明だという。松田の「人口余剰説」を踏襲した森安の「地元経済活性化説」は、ソグド人の隊商貿易が大規模で頻雑に行われたという架空の前提にたって築かれたとする。なお間野はこの中で「ウイグル文書に登場するのはほとんど農民で、隊商貿易に従事する商人の姿をそこに見出すことはできない」という森安が指摘した事実誤認をひっそりと認めている。然しこのやり方はフェアーではない。
間野は「中央アジアの歴史」で中央アジアを「シルクロードの世界」ではなく「草原とオアシスの世界」としたが、そうであったのは前近代までであるという。中央アジア史には、前近代と近現代の間に大きな断絶がある。イスラム化した中央アジアが近現代に異教徒の国である清やロシアの支配下に入り、独立を失ったという政治的意味においてである。中央アジアの通史を、何を軸に描くべきかという根本的問題について、「解答を見いだせない」という展望喪失状況を吐露している。これはとりもなおさず現在の中央アジア史研究者の立場の困難さを示している。「シルクロード史観」派、「脱シルクロード史観」派ともに「ウイグル独立問題」などで踏絵を拒めないという状況がある。
2014年8月4日月曜日
2014年7月20日日曜日
メト(墨脱)を目指して~チベットの大屈曲部
「辺境へ」 大谷映芳 山と渓谷社 2003年
チベットのヤルツァンポ川とインドのプラマプトラ河はかって全く別の川と考えられていた。ツァンポ川はチベット高原を西から東へ流れて、ヒマラヤ山脈の東側で大きく向きを南に変える。北に位置するギャランペリ(7249米)と南のナムチャバルワ(7782米)の二つの山にはさまれて大屈曲部を形成する。ナムチャバルワの山頂から河原まで高度差5千米、眼の眩むような断崖が落ちている。それ故この二つの川が同一であることを実証するのに百年以上の歳月を要した。
「空白の五マイル」の著者角幡唯介がこの空白部を踏査したのは2009年だが、その旅の終わり部分に興味深い結末が語られている。ツァンポ峡谷から脱出した角幡はポミ(波蜜)-メト(墨脱)間の道路沿いにあるガンデン村で公安の取り調べを受けた。ガンデン村は行政地区としては「メト県ガンデン郷」で、メト県の主邑であるメトで警察に出頭しなければならない。「めったに行けない中印国境の村メトに、やや変則的ではあるが、合法的に入域できるのは幸運かもしれないと思った」
(「空白の五マイル」282頁)然し結果的には、メトではなくポミを経由して「八一」の警察に出頭することになる。
角幡が訪れることが出来なかった「めったに行けないメト」に入った日本人がいる。テレビ朝日のディレクター大谷映芳、本書の著者である。番組の取材で1996年メトに入る。ルートはラサからポミ経由である。ポミから地図に載っていない軍用道路を1日ほど車で走る。5千米級の峠を越えて、ヤルツァンポの支流を下るように道がつけられている。かつてはインド国境のメトまで道を造ったが、土砂崩れで、今では車道や鉄橋の名残があるだけである。車が使用できたのはここまで。後は徒歩でのキャラバンとなる。このあたりの標高は8百米しかなく、バナナの木まである亜熱帯である。道は大崩壊の跡に消えている。落石を避けながらの危険な行程である。大谷の見たメトは「平地が多く、田んぼや畑の緑が鮮やかで、立派な寺院や聖地があったりし、ヤルッアンポの中では最も豊かな土地に思えた。しかしインドはすぐそこ、大きな軍事基地が南を睨んでいる」(本書214頁)とある。三日間滞在し、めったに入れる土地でないメトをじっくり取材する予定であったが、当局との折衝でそれもかなわなかった。取材班は角幡とは違い正式の許可をとっていたのだが、このありさまである。
ヤルツァンポはインドに入るとシアン川そしてプラマプトラと名前をかえる。チベット側からつながる山地の部分がシアン川で、平原に出たあたりからプラマプトラ河となる。現在は前者がアルナチャル・ブランデッツ州で、後者がアッサム州に入っている。シアン川流域の景色はチベット側とかわらない。ここに住むアディ族は、遠い昔アボール族と呼ばれた。裸に近い格好をしており、凶暴で好戦的な部族としてヨーロッパの探検隊に恐れられた。
本書はこの「幻の大峡谷」の他、西ネパール、ブータン、グレート・リフト・バレー、ギアナ高地、パタゴニア、グリーンランドなど7つの辺境の紀行が収められている。すべて「ニュースステーション」の企画などの取材記録をもとにしている。「登山家ディレクター」大谷映芳のえりすぐりのれポートである。
チベットのヤルツァンポ川とインドのプラマプトラ河はかって全く別の川と考えられていた。ツァンポ川はチベット高原を西から東へ流れて、ヒマラヤ山脈の東側で大きく向きを南に変える。北に位置するギャランペリ(7249米)と南のナムチャバルワ(7782米)の二つの山にはさまれて大屈曲部を形成する。ナムチャバルワの山頂から河原まで高度差5千米、眼の眩むような断崖が落ちている。それ故この二つの川が同一であることを実証するのに百年以上の歳月を要した。
「空白の五マイル」の著者角幡唯介がこの空白部を踏査したのは2009年だが、その旅の終わり部分に興味深い結末が語られている。ツァンポ峡谷から脱出した角幡はポミ(波蜜)-メト(墨脱)間の道路沿いにあるガンデン村で公安の取り調べを受けた。ガンデン村は行政地区としては「メト県ガンデン郷」で、メト県の主邑であるメトで警察に出頭しなければならない。「めったに行けない中印国境の村メトに、やや変則的ではあるが、合法的に入域できるのは幸運かもしれないと思った」
(「空白の五マイル」282頁)然し結果的には、メトではなくポミを経由して「八一」の警察に出頭することになる。
角幡が訪れることが出来なかった「めったに行けないメト」に入った日本人がいる。テレビ朝日のディレクター大谷映芳、本書の著者である。番組の取材で1996年メトに入る。ルートはラサからポミ経由である。ポミから地図に載っていない軍用道路を1日ほど車で走る。5千米級の峠を越えて、ヤルツァンポの支流を下るように道がつけられている。かつてはインド国境のメトまで道を造ったが、土砂崩れで、今では車道や鉄橋の名残があるだけである。車が使用できたのはここまで。後は徒歩でのキャラバンとなる。このあたりの標高は8百米しかなく、バナナの木まである亜熱帯である。道は大崩壊の跡に消えている。落石を避けながらの危険な行程である。大谷の見たメトは「平地が多く、田んぼや畑の緑が鮮やかで、立派な寺院や聖地があったりし、ヤルッアンポの中では最も豊かな土地に思えた。しかしインドはすぐそこ、大きな軍事基地が南を睨んでいる」(本書214頁)とある。三日間滞在し、めったに入れる土地でないメトをじっくり取材する予定であったが、当局との折衝でそれもかなわなかった。取材班は角幡とは違い正式の許可をとっていたのだが、このありさまである。
ヤルツァンポはインドに入るとシアン川そしてプラマプトラと名前をかえる。チベット側からつながる山地の部分がシアン川で、平原に出たあたりからプラマプトラ河となる。現在は前者がアルナチャル・ブランデッツ州で、後者がアッサム州に入っている。シアン川流域の景色はチベット側とかわらない。ここに住むアディ族は、遠い昔アボール族と呼ばれた。裸に近い格好をしており、凶暴で好戦的な部族としてヨーロッパの探検隊に恐れられた。
本書はこの「幻の大峡谷」の他、西ネパール、ブータン、グレート・リフト・バレー、ギアナ高地、パタゴニア、グリーンランドなど7つの辺境の紀行が収められている。すべて「ニュースステーション」の企画などの取材記録をもとにしている。「登山家ディレクター」大谷映芳のえりすぐりのれポートである。
2014年6月15日日曜日
華北分離工作~昭和史の謎を追う④
「解禁 昭和裏面史」 森正蔵 ちくま学芸文庫 2009年
満州事変勃発から太平洋戦争終了までの一連の侵略戦争について「15年戦争」という呼称が1960年代以降、所謂「進歩的歴史家」によって唱えられ一般にもかなり定着している。それに対して満州事変は1933年(昭和8年)5月の「塘沽停戦協定」で一応終結し、「盧溝橋事件」に端を発する日中全面戦争は中国の反日運動の激化が原因で起きた新たな事変であるという見解がある。(古くは片倉哀「北支問題弁論根幹案」1946年、最近では臼井勝美「新版 日中戦争」中公新書2000年など)然し「塘沽停戦協定」は軍事衝突が一段落しただけで、双方の間に横たわる溝はむしろ深まった。日本の軍事侵略にどう対応するかで国民党政府内部の対立は激化していた。抗日運動を盛り上げることで正面から対応しようとする宋子分がいた。交渉の責任者黄郛の立場は困難なものであった。一方関東軍も蒋介石否定に傾き「華北緩衝地帯」の実現に向けてひた走ろうとしていた。この硬直した態度の背景には対ソ戦準備をめぐる新局面(防共の強化、緩衝地帯拡大の不断の志向)がある。
この「塘沽停戦協定体制」の4年間に関東軍は華北侵略の伏線を河北・チャヤハル省のいたるところにはりめぐらした。「協定」の内容は河北省の冀東地区の延慶、通州、蘆台を結ぶ線以東の中国軍は一斉撤退し、その後日本軍も長城線まで撤退、北部河北省に非武装地帯を設けるというものであった。関東軍はこれを空洞化しようとした。著者によればその「侵略」の内膜は以下のようである。1934年(昭和9年)から35年前半にかけて日中関係は比較的順調に推移していた。それは汪精衛外交部長と有吉大使の間で通車協定、通郵協定が成立し、関税引き下げ、日華航空連絡、日華無線問題についても協議が進められていた。
然し関東軍・支那駐屯軍は非武装地帯を拠点として新たな華北攻勢を企図していた。1935年(昭和10年)5月の天津租界における親日新聞社社主暗殺などの「華北事件」を口実として日本軍は「重大申し入れ」という恫喝を行った。すなわち①中央軍及び国民党支部の河北省撤退②于学忠(河北省主席)の罷免③排日満秘密結社首脳人物の逮捕・抹殺。かくして日本軍の要求に屈し、6月10日梅津・何王欽協定が成立した。中央軍(25指、2師)、旧東北軍、北京憲兵第3団は河北省外へ退去した。更に宋哲元靡下部隊の不法攻撃を口実に、平綏鉄道以北のチャヤハル省内に非武装地帯を設置するという土肥原。秦徳純協定を結んだ。梅津・何応欽協定は宋哲元抱き込みによる華北5省独立運動という大謀略の基底をなし、土肥原・秦徳純協定は関東軍の内蒙工作の基盤を形成した。
華北5省分離工作 35年10月リース・ロスの幣制改革に反対する農民運動が河北省香河県で起こった。南京の銀国有化反対・防共自治を掲げて県城を包囲し県長を追い払った。この非武装地帯に潜入してくる中国人は日本軍の庇護の下に密輸で甘い汁を吸おうという程度の低い無頼の徒である。工作したのは土肥原の手先である。そしてこれを基礎に11月24日非武装地帯に翼
東防共自治委員会を成立させた。冀東23県が支配地域になった。主席は半日本人的存在である殷汝耕。この傀儡政権は莫大な麻薬などの商品の密輸基地として機能を果たした。著者はその様子を次のように述べている。「ここから、日本は数百万円の無関税商品、数百万円の阿片を陸揚げして、日本軍特務機関の指揮と保護のもとに動く日本人、朝鮮人の密輸業者の手によって、これらの低廉な密輸品は平津地区に流れ、さらに津浦線によって揚子江流域に下った。これは中国の漸く勃興しかけた軽工業を脆くも破壊せしめるもので、国家財政の主要部分を占める中国の関税収入を著しく低下させた。これは領土を侵略すること以上に、中国民族にとって怨恨深き手傷を負わせ、抗日風潮を経済的背景において決定づける最大の要因となった。」(本書P260)かくして「停戦協定」の空洞化は完成したのである。
日本陸軍は、その侵略のために華北に一種の真空地帯を必要としたが、南京政府も日本軍の重圧に対処するための緩衝地帯を必要とした。12月1日南京は河北・チャヤハル両省を日中間の緩衝地域として、宋哲元を委員長とする冀東政務委員会を設置した。土肥原は宋哲元の抱き込みによる「北支5省連合自治」を目論んだが、宋の二重性格性に幻惑されて失敗した。「北支5省連合自治」(河北、チャヤハル、綏遠、山西、山東省)なる日本陸軍の華北分離工作は一頓挫したが、これは新たな日中全面戦争化の原因となった。東北4省はいわば隙を見て掠め盗ったのだが、一連の華北分離工作は白昼堂々の強奪に等しい。「満州」には条約上の権益が存在したが、華北にはそのようなものは全く存在しなかった。ただ「義和団事件」後の議定書によって列国と同様に天津に支那駐屯軍の駐留(日本に割り当てられたのは1570名)が認められていたにすぎない。「15年戦争」説、「新たな事変」説いずれをとるにしろ一連の「華北分離工作」は日中全面戦争への「用水路」となった。
本書は終戦後直後の1945年12月に刊行、47・48年にはベストセラーになった。執筆時著者は大阪毎日新聞社会部長。かつて「言論の自由」を持たなかった時代の新聞記者による報告の書であり、自戒と自省の書でもあるとは本文庫版解説者保坂正康の弁である。
満州事変勃発から太平洋戦争終了までの一連の侵略戦争について「15年戦争」という呼称が1960年代以降、所謂「進歩的歴史家」によって唱えられ一般にもかなり定着している。それに対して満州事変は1933年(昭和8年)5月の「塘沽停戦協定」で一応終結し、「盧溝橋事件」に端を発する日中全面戦争は中国の反日運動の激化が原因で起きた新たな事変であるという見解がある。(古くは片倉哀「北支問題弁論根幹案」1946年、最近では臼井勝美「新版 日中戦争」中公新書2000年など)然し「塘沽停戦協定」は軍事衝突が一段落しただけで、双方の間に横たわる溝はむしろ深まった。日本の軍事侵略にどう対応するかで国民党政府内部の対立は激化していた。抗日運動を盛り上げることで正面から対応しようとする宋子分がいた。交渉の責任者黄郛の立場は困難なものであった。一方関東軍も蒋介石否定に傾き「華北緩衝地帯」の実現に向けてひた走ろうとしていた。この硬直した態度の背景には対ソ戦準備をめぐる新局面(防共の強化、緩衝地帯拡大の不断の志向)がある。
この「塘沽停戦協定体制」の4年間に関東軍は華北侵略の伏線を河北・チャヤハル省のいたるところにはりめぐらした。「協定」の内容は河北省の冀東地区の延慶、通州、蘆台を結ぶ線以東の中国軍は一斉撤退し、その後日本軍も長城線まで撤退、北部河北省に非武装地帯を設けるというものであった。関東軍はこれを空洞化しようとした。著者によればその「侵略」の内膜は以下のようである。1934年(昭和9年)から35年前半にかけて日中関係は比較的順調に推移していた。それは汪精衛外交部長と有吉大使の間で通車協定、通郵協定が成立し、関税引き下げ、日華航空連絡、日華無線問題についても協議が進められていた。
然し関東軍・支那駐屯軍は非武装地帯を拠点として新たな華北攻勢を企図していた。1935年(昭和10年)5月の天津租界における親日新聞社社主暗殺などの「華北事件」を口実として日本軍は「重大申し入れ」という恫喝を行った。すなわち①中央軍及び国民党支部の河北省撤退②于学忠(河北省主席)の罷免③排日満秘密結社首脳人物の逮捕・抹殺。かくして日本軍の要求に屈し、6月10日梅津・何王欽協定が成立した。中央軍(25指、2師)、旧東北軍、北京憲兵第3団は河北省外へ退去した。更に宋哲元靡下部隊の不法攻撃を口実に、平綏鉄道以北のチャヤハル省内に非武装地帯を設置するという土肥原。秦徳純協定を結んだ。梅津・何応欽協定は宋哲元抱き込みによる華北5省独立運動という大謀略の基底をなし、土肥原・秦徳純協定は関東軍の内蒙工作の基盤を形成した。
華北5省分離工作 35年10月リース・ロスの幣制改革に反対する農民運動が河北省香河県で起こった。南京の銀国有化反対・防共自治を掲げて県城を包囲し県長を追い払った。この非武装地帯に潜入してくる中国人は日本軍の庇護の下に密輸で甘い汁を吸おうという程度の低い無頼の徒である。工作したのは土肥原の手先である。そしてこれを基礎に11月24日非武装地帯に翼
東防共自治委員会を成立させた。冀東23県が支配地域になった。主席は半日本人的存在である殷汝耕。この傀儡政権は莫大な麻薬などの商品の密輸基地として機能を果たした。著者はその様子を次のように述べている。「ここから、日本は数百万円の無関税商品、数百万円の阿片を陸揚げして、日本軍特務機関の指揮と保護のもとに動く日本人、朝鮮人の密輸業者の手によって、これらの低廉な密輸品は平津地区に流れ、さらに津浦線によって揚子江流域に下った。これは中国の漸く勃興しかけた軽工業を脆くも破壊せしめるもので、国家財政の主要部分を占める中国の関税収入を著しく低下させた。これは領土を侵略すること以上に、中国民族にとって怨恨深き手傷を負わせ、抗日風潮を経済的背景において決定づける最大の要因となった。」(本書P260)かくして「停戦協定」の空洞化は完成したのである。
日本陸軍は、その侵略のために華北に一種の真空地帯を必要としたが、南京政府も日本軍の重圧に対処するための緩衝地帯を必要とした。12月1日南京は河北・チャヤハル両省を日中間の緩衝地域として、宋哲元を委員長とする冀東政務委員会を設置した。土肥原は宋哲元の抱き込みによる「北支5省連合自治」を目論んだが、宋の二重性格性に幻惑されて失敗した。「北支5省連合自治」(河北、チャヤハル、綏遠、山西、山東省)なる日本陸軍の華北分離工作は一頓挫したが、これは新たな日中全面戦争化の原因となった。東北4省はいわば隙を見て掠め盗ったのだが、一連の華北分離工作は白昼堂々の強奪に等しい。「満州」には条約上の権益が存在したが、華北にはそのようなものは全く存在しなかった。ただ「義和団事件」後の議定書によって列国と同様に天津に支那駐屯軍の駐留(日本に割り当てられたのは1570名)が認められていたにすぎない。「15年戦争」説、「新たな事変」説いずれをとるにしろ一連の「華北分離工作」は日中全面戦争への「用水路」となった。
本書は終戦後直後の1945年12月に刊行、47・48年にはベストセラーになった。執筆時著者は大阪毎日新聞社会部長。かつて「言論の自由」を持たなかった時代の新聞記者による報告の書であり、自戒と自省の書でもあるとは本文庫版解説者保坂正康の弁である。
2014年5月18日日曜日
もう一つの大谷探検隊~大谷探検隊外伝
図録 「チベットの仏教世界~もう一つの大谷探検隊」 龍谷ミュージアム 2014年
大谷探検隊は三次にわたる中央アジア(中国新疆省)踏査にのみ限定されて語られる。然しその実態はインド、セイロン、チベット、ネパール、ビルマ、タイ、中国本土などアジア全域の仏教調査を目的とした大事業であった。とくにチベットに関しては、中央アジア探検に劣らぬ「もう一つの大谷探検隊」というべき意義を有していた。
何故チベットなのか。そのためには明治中期に日本仏教会を脅かした「大乗非仏説」の話をせねばならない。当時ヨーロッパにおいて、インドなどから得られたバーリ語法典の解読により、上座仏教の研究が進展した。それにより大乗仏教は不純物が多分に混じり込んだ仏教という見方が支配的になった。その結果インドの原典からの忠実かつ正確な翻訳であるチベット大蔵経を求めてチベットを目指そうという所謂「入蔵熱」が高まった。その中心になったのが西本願寺の普通教校の学生団体「反省会」に集う若い仏僧たちである。然し最初にチベット入りをめざしたのは「反省会」とは関係のない河口慧海や東本願寺の寺本婉雅、能海寛である。それは鎖国状態のチベットへの潜入であった。
大谷光瑞がチベット問題に係る端緒となったのは、1908年(明治41年)弟の尊由を名代として五台山に派遣し、中国に亡命中のダライ・ラマ13世(以下ダライ)と会見させたことである。これ以降光瑞はチベットでの調査について計画を具体化していった。すなわち日本・チベット間での留学生交換が決定する。チベットからはツァラ・ティトゥル僧正、日本からは青木文教、多田等観である。1910年3月インドのダージリンで青木は再亡命中のダライに会見し、ツァラ・ティトゥルにつきしたがい帰国する。ツァラは神戸の二楽荘で日本仏教の研究を進める。この際彼に日本語を教えたのが多田等観である。その後辛亥革命の勃発によりチベット情勢が急変し、ダライはツァラを召喚した。1912年1月青木と多田はツァラと共に神戸を出港、カリンポンでダライに謁見した。その後青木は1912年9月に入蔵(1916年1月まで滞在)した。多田は1913年8月チベットに旅立つ。1923年1月まで10年に近い滞在となる。河口や寺本などの日本人であることを偽っての潜入ではなく、ダライ政府から入蔵認定証と旅券を下付されての正規の入蔵であった。然し英国官憲の監視網を注意深くさけてのチベット行であった。1907年8月の英露協商によって、両国は外国人(とくに日本人)がチベットに入ることを厳禁していたのである。
青木は1913年1月ラサに到着し、「ヤプシプンカン」と呼ばれる高位貴族の邸宅に滞在し、主にチベット語や歴史を学んだ。とくに写真技術に優れていたため、ラサの上流社会では青木に肖像写真撮影を依頼することが流行した。一方多田は1913年9月ラサに到着。セラ寺に入り、修学は10年に及んだ。博士課程を修了し「チュンゼ」(最高学位「ゲシェー」に次ぐ)の学位を得ている。経典を入手して結果解釈するのではなく、チベットの僧院で実際の修行階梯を経ての学位修得である。かくして多田は「チベット仏教を血肉化した」最初の日本人になったのである。
青木・多田のチベットでの活動は大谷探検隊の一部というより、事業として更に大きく取り組まれる段階が想定されていたと高木康子は指摘している。(高木康子『大谷光瑞トチベット』「大谷光瑞トアジア」勉誠出版 2010年所収)いわば「もう一つの大谷探検隊」である。然しこれは光瑞の失脚により挫折する。だが青木と多田2人をチベットに派遣したことは画期的な意義を持つ。従来の河口などの入蔵はチベット経典の調査と入手であった。光瑞の関心は、教義・歴史への深い理解とチベット社会の状況についての幅広い調査であった。前者を多田が、後者を青木が担当したのである。青木が何を調査したかは「西蔵遊記」から推測できる。また多田の下からは戦後佐藤長、中根千枝、山口瑞鳳など多くのチベット学者が出た。
(付記)本書は2014年4月19日~6月8日に龍谷ミュージアムで開催された特別展「チベットの仏教世界~もう一つの大谷探検隊」の図録である。「チベット仏教の歴史と仏教美術」(森雅秀)、「釈尊絵伝と多田等観」(能仁正明顕)、「青木文教と多田等観の将来資料」(三谷真澄)、「ラッサからの道」(高木康子)の4論文をを収録している。青木・多田の詳細な年譜とともに非常に有益である。
2014年5月6日火曜日
「物語 ビルマの歴史」を読む
「物語 ビルマの歴史」 根本 敬 中公新書 2014年
1989年6月、前年民主化運動を封じ込めて成立したビルマの軍事政権は突如国名を「ビルマ」から「ミャンマー」に変更した。「ビルマ」は口語、「ミャンマー」は文語で、意味するものはまったく同一でビルマ民族が住む空間である。「ミャンマー」はビルマ民族のみならず周辺のカレンやシャンなどの少数民族を含むと軍事政権は強弁するが、これは事実に反するまやかしである。
そして2011年3月の軍事政権自らの解散による「民政移管」を契機にビルマの情況は大きく変わった。ティセイン政権によるアウンサンスウチーの自宅軟禁解除により、欧米・日本などの経済制裁措置が緩和された。外資のビルマ市場への参入が本格化した。新聞の経済欄にミャンマーの文字を見ない日はないほどだ。
このような「変化」は民主化運動の圧力の結果ではなく軍人が自ら姿勢を変えたからである。何故変えたのか。第一の理由は、自国の対外イメージを改善したいという欲求である。2014年に引き受けたASEAN議長国としての風格と品位をつくりあげることができるとティセイン大統領が判断したからだという。第二は長期にわたる安定した経済発展の重要さにようやく気がついたからである。とくに中国一辺倒にたよる経済援助はビルマ国軍のナショナリズムには要注意であり桎梏であった。然しこのような「変化」は軍人たちに囲まれた「小さな土俵」の中で展開されるだけで、民主化の「本格的な一歩」を踏み出したものではないと著者はいう。今後の判断基準として、軍の特権をなくす方向で憲法改正が進めば、その段階で「変化」のカギ括弧がとれるとも。
突如の国名変更や軍事政権の一方的解散による「民政移管」などの不可解さを解明するためにはビルマの苦難に満ちた近・現代史の知識が不可欠である。本書は全10章のうち9章分を英領植民地時代から「民政移管」までの近・現代史に当てている。分かりずらい「軍事政権」存立の不可解さ、その自らの解散、括弧つきの「変化」の謎を解明するための、本書は唯一ではないが最良の参考書である。
1989年6月、前年民主化運動を封じ込めて成立したビルマの軍事政権は突如国名を「ビルマ」から「ミャンマー」に変更した。「ビルマ」は口語、「ミャンマー」は文語で、意味するものはまったく同一でビルマ民族が住む空間である。「ミャンマー」はビルマ民族のみならず周辺のカレンやシャンなどの少数民族を含むと軍事政権は強弁するが、これは事実に反するまやかしである。
そして2011年3月の軍事政権自らの解散による「民政移管」を契機にビルマの情況は大きく変わった。ティセイン政権によるアウンサンスウチーの自宅軟禁解除により、欧米・日本などの経済制裁措置が緩和された。外資のビルマ市場への参入が本格化した。新聞の経済欄にミャンマーの文字を見ない日はないほどだ。
このような「変化」は民主化運動の圧力の結果ではなく軍人が自ら姿勢を変えたからである。何故変えたのか。第一の理由は、自国の対外イメージを改善したいという欲求である。2014年に引き受けたASEAN議長国としての風格と品位をつくりあげることができるとティセイン大統領が判断したからだという。第二は長期にわたる安定した経済発展の重要さにようやく気がついたからである。とくに中国一辺倒にたよる経済援助はビルマ国軍のナショナリズムには要注意であり桎梏であった。然しこのような「変化」は軍人たちに囲まれた「小さな土俵」の中で展開されるだけで、民主化の「本格的な一歩」を踏み出したものではないと著者はいう。今後の判断基準として、軍の特権をなくす方向で憲法改正が進めば、その段階で「変化」のカギ括弧がとれるとも。
突如の国名変更や軍事政権の一方的解散による「民政移管」などの不可解さを解明するためにはビルマの苦難に満ちた近・現代史の知識が不可欠である。本書は全10章のうち9章分を英領植民地時代から「民政移管」までの近・現代史に当てている。分かりずらい「軍事政権」存立の不可解さ、その自らの解散、括弧つきの「変化」の謎を解明するための、本書は唯一ではないが最良の参考書である。
2014年4月16日水曜日
謎の山アムネ・マチン~古書の宝庫を訪ねてみれば⑤
「謎の山 アムナ・マチン」 レナード・クラーク 恒文社 1974年
アムネ・マチン(6282m)はかつてエベレストより高い謎の山と思われていた。西洋人で初めてアムネ・マチンを見たのは探検家ジョージ・ペレイラ将軍である。1992年西寧からラサへの途上、ウグツ山脈の南面チュリ・ラから見た。ジョセフ・E・ロックは中国滞在中、黄河のほとり(アムネ・マチンから東方50マイルの地点)から、遠くにチベットの山を望見して28000フィート以上の高さがある山を見たという。(「謎の山々を求めて」 ナショナル・ジオグラフィック・マガジン1930年2月号所載)そして極め付けは、第二次世界大戦中の米軍飛行士の話である。インドから中国に軍事物資を運ぶ途中、29000フィートで航行中、眼前に巨大な雪の壁が突如現れた。その山は飛行機より更に高度が高かったという。
アムネ・マチンは北部チベットの奥深く、中国青海省の黄河源流部近くに位置している。カイラス山(6658m チベット自治区)、梅里雪山(6740m 雲南省)とならんで古来チベット仏教三大聖山の一つである。周囲を一週間で巡るコルラ(巡礼の道)もある。それにもかかわらず謎の山とされたのは、その地理的隔絶性と厳しい気候条件、それに「アムネ・マチンの番人」と呼ばれる凶暴なゴロク族の存在が部外者(とくに外国人)の接近を峻拒してきたからである。多くの西洋人が殺害された。例えば1894年この地方を歩いたフランスの探検家どドゥトルイユ・ド・ランはゴロク族に捕えられて、皮袋に縫い込められて黄河に投げ込まれて殺害された。
米国陸軍大佐レナード・クラークはこの謎の山に初めて科学的な調査を企てた。中国国共内戦末期の1949年、国府側の青海省主席馬歩芳の全面援助も得た。敗色濃い国府西北軍の一部を、山を越えてチベットに撤退させて反共戦争を続けるためのルートを探査することを条件にして。
西寧から苦難のキャラバンを続けること2ヵ月、クラークは東方はるかに白い山のかたまりを見た。
謎の山アムネ・マチンである。
「ダンヌール峠の上で、わたしたちはオボの後ろに風を避けた。(中略)わたしは双眼鏡を取り出して、一点から一点へと、中部チベットへと延びている凍った地平線を調べた。(中略)焦点を合わすにつれて、はるかかなたに山々のぼんやりした像がはっきりとしてきて、細かい線が見えるようになった、(中略)突然、蒼白い空の一角に低く離れてたなびく雲がみつかった。たちまちその雲の下に斜めにかかった大きな氷の鏡のように、光を反射しているアムネ・マチンが、横たわっているのをわたしは知ったのである。}(本書P87~88)
山に近づいてクラークは三角測量を実施した。クラークはアムネ・マチンの絶対高度を次のようだとしている。測量地点の高度3860m+三角測量値4616m+測器修正分565m=9041m(29,661フィート)。これはエベレスト(29,144フィート)の高度より517フィート高いことになる。
アムネ・マチンは1960年中国の調査隊によってその高度が7160mであることが確かめられた。これは後に6282mに訂正された。中国は登頂したとしているが、それは主峰ではなくⅡ峰であるようだ。アムネ・マチン主峰の初登頂は1981年日本の上越山岳会によってなされた。現在はこの秘境地帯にも比較的容易に行ける。空路北京(もしくは上海)経由で西寧にはその日のうちに到着する。西寧で車をチャーターしマチュン(瑪沁 大武)経由で雪山郷に向かう。そこからはアムネ・マチンが見える。西寧から約2日かかる。また日本発9日間のパックツアーもある。
アムネ・マチン(6282m)はかつてエベレストより高い謎の山と思われていた。西洋人で初めてアムネ・マチンを見たのは探検家ジョージ・ペレイラ将軍である。1992年西寧からラサへの途上、ウグツ山脈の南面チュリ・ラから見た。ジョセフ・E・ロックは中国滞在中、黄河のほとり(アムネ・マチンから東方50マイルの地点)から、遠くにチベットの山を望見して28000フィート以上の高さがある山を見たという。(「謎の山々を求めて」 ナショナル・ジオグラフィック・マガジン1930年2月号所載)そして極め付けは、第二次世界大戦中の米軍飛行士の話である。インドから中国に軍事物資を運ぶ途中、29000フィートで航行中、眼前に巨大な雪の壁が突如現れた。その山は飛行機より更に高度が高かったという。
アムネ・マチンは北部チベットの奥深く、中国青海省の黄河源流部近くに位置している。カイラス山(6658m チベット自治区)、梅里雪山(6740m 雲南省)とならんで古来チベット仏教三大聖山の一つである。周囲を一週間で巡るコルラ(巡礼の道)もある。それにもかかわらず謎の山とされたのは、その地理的隔絶性と厳しい気候条件、それに「アムネ・マチンの番人」と呼ばれる凶暴なゴロク族の存在が部外者(とくに外国人)の接近を峻拒してきたからである。多くの西洋人が殺害された。例えば1894年この地方を歩いたフランスの探検家どドゥトルイユ・ド・ランはゴロク族に捕えられて、皮袋に縫い込められて黄河に投げ込まれて殺害された。
米国陸軍大佐レナード・クラークはこの謎の山に初めて科学的な調査を企てた。中国国共内戦末期の1949年、国府側の青海省主席馬歩芳の全面援助も得た。敗色濃い国府西北軍の一部を、山を越えてチベットに撤退させて反共戦争を続けるためのルートを探査することを条件にして。
西寧から苦難のキャラバンを続けること2ヵ月、クラークは東方はるかに白い山のかたまりを見た。
謎の山アムネ・マチンである。
「ダンヌール峠の上で、わたしたちはオボの後ろに風を避けた。(中略)わたしは双眼鏡を取り出して、一点から一点へと、中部チベットへと延びている凍った地平線を調べた。(中略)焦点を合わすにつれて、はるかかなたに山々のぼんやりした像がはっきりとしてきて、細かい線が見えるようになった、(中略)突然、蒼白い空の一角に低く離れてたなびく雲がみつかった。たちまちその雲の下に斜めにかかった大きな氷の鏡のように、光を反射しているアムネ・マチンが、横たわっているのをわたしは知ったのである。}(本書P87~88)
山に近づいてクラークは三角測量を実施した。クラークはアムネ・マチンの絶対高度を次のようだとしている。測量地点の高度3860m+三角測量値4616m+測器修正分565m=9041m(29,661フィート)。これはエベレスト(29,144フィート)の高度より517フィート高いことになる。
アムネ・マチンは1960年中国の調査隊によってその高度が7160mであることが確かめられた。これは後に6282mに訂正された。中国は登頂したとしているが、それは主峰ではなくⅡ峰であるようだ。アムネ・マチン主峰の初登頂は1981年日本の上越山岳会によってなされた。現在はこの秘境地帯にも比較的容易に行ける。空路北京(もしくは上海)経由で西寧にはその日のうちに到着する。西寧で車をチャーターしマチュン(瑪沁 大武)経由で雪山郷に向かう。そこからはアムネ・マチンが見える。西寧から約2日かかる。また日本発9日間のパックツアーもある。
2014年3月16日日曜日
「張作霖爆殺事件」の深層~昭和史の謎を追う③
「謎解き『張作霖爆殺事件』」 加藤康夫 PHP新書 2011年
1928年(昭和3年)6月4日早朝奉天郊外、満鉄本線と京奉線が交差するクロス架橋下で張作霖が乗った特別列車が爆破された。張作霖は瀕死の重傷を負い2時間後に死亡した。所謂「張作霖爆殺事件」である。当時は「満州某重大事件」として報道され、終戦まで内容は明らかにされなかった。近現代の研究書や教科書では、実行犯は関東軍の高級参謀河本大作大佐とその一味であり、関東軍謀略説がほぼ定着している。そしてこの事件の処理をめぐり、」食言問題」により田中義一内閣は倒壊する。大江志乃夫は張作霖爆殺事件と満州事変は一連の連続した過程であったという。「最大の原因は、天皇が張作霖事件の責任を田中首相に問うただけで、陸軍を免責したことにある。何をやっても、政府の責任が問われるだけで、陸軍の責任は問われることはない、という確信が陸軍をあげて次なる謀略に走らせた。」(「張作霖爆殺」中公新書1989年)としている。
然し近年真の実行犯は河本ではなく、コミンテルン(正確にはGRU ソ連軍参謀本部情報総局)
の工作員によって日本側がやったように巧妙に仕掛けられたという謀略説が登場した。世界的にベストセラーになったユン・チュアンの「マオ」上巻にほんの数行紹介されている。「張作霖爆殺は一般的に日本軍が実行したとされているがソ連情報機関の史料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという。」(「マオ」上巻 講談社2005年)本書は「マオ」より先行してソ連謀略機関実行説を唱えたロシア人のドミトリー・プロホフの説を紹介している。「マオ」も基本的にはプロホフに依拠している。プロホフの「GRU帝国」によれば実行犯はフリストフォル・サルヌイニとナウム・エイティゴンの「グリーシカ」機関である。なんと12年後にトロッキーを暗殺を指揮することになるエイティゴンだ。エージェントはあらゆる手段をもって周辺の人物に信用を得、張作霖爆殺がいかに日本にとって軍事的・政治的に有利になるかを納得させた。河本大佐が心を許していた石炭商伊藤謙次郎、満州浪人安達隆成、奉天の遊郭経営者劉載明、料亭「みどり」に集う芸妓たちのだれかが「グリーシカ」機関の巧妙な工作を受けていた。また村岡関東軍司令官も周辺人物を洗われ、エージェントに接近されていた。
「河本首謀説」の弱点は①動機の薄弱さと②事故現場状況の絶対矛盾だと著者は説明する。日本国内で張作霖殺害の動機が論争になったことはほとんどない。政府(田中内閣)・陸軍中央はどちらかといえば張作霖利用派である。張作霖排除を考えていたのは河本ら関東軍の一部である。然し外には国民党をはじめ多くいた。とくにソ連(スターリン)は、1927年の在北京ソ連大使館襲撃以来、張作霖をソ連の満州進出の最大の障害と考えていた。②については、事件現場を調査した関東軍参謀長斉藤恒や奉天領事林久次郎の報告書によれば、爆薬物の装置地点は明らかに橋脚上部か列車内だとしている。それは現場写真(本書P79)ともよく照合している。河本が主張するように、線路脇に200キロの爆薬を仕掛けたら、地面に大きな穴が空いて線路が破壊され、客車の脇腹が爆風で吹き飛び列車は転覆する。ところが現実はそうではなかった。これはとりもなおさずコミンテルン謀略説を補強する。
河本は事件後盲腸手術をするおり麻酔を使用せず手術をしたという。身辺に張り付いていた「グリーシカ」工作員の存在があったからこそ、麻酔をたってまで隠しとうさなければならない秘密があったと著者は推測する。このコミンテルン謀略説も、決定的な第一次史料が発見されていないという弱点はある。すべて状況証拠の積み重ね過ぎない。 事件の真相については「関東軍謀略説」「コミンテルン謀略説」いずれなのか、依然闇のままである。クレムリンからの新史料の出現はプーチン体制下では当分望むべくもない。然したとえ「コミンテルン謀略説」が立証されたとしても、さりとてその後の関東軍の行動が免責されるべくもない。
1928年(昭和3年)6月4日早朝奉天郊外、満鉄本線と京奉線が交差するクロス架橋下で張作霖が乗った特別列車が爆破された。張作霖は瀕死の重傷を負い2時間後に死亡した。所謂「張作霖爆殺事件」である。当時は「満州某重大事件」として報道され、終戦まで内容は明らかにされなかった。近現代の研究書や教科書では、実行犯は関東軍の高級参謀河本大作大佐とその一味であり、関東軍謀略説がほぼ定着している。そしてこの事件の処理をめぐり、」食言問題」により田中義一内閣は倒壊する。大江志乃夫は張作霖爆殺事件と満州事変は一連の連続した過程であったという。「最大の原因は、天皇が張作霖事件の責任を田中首相に問うただけで、陸軍を免責したことにある。何をやっても、政府の責任が問われるだけで、陸軍の責任は問われることはない、という確信が陸軍をあげて次なる謀略に走らせた。」(「張作霖爆殺」中公新書1989年)としている。
然し近年真の実行犯は河本ではなく、コミンテルン(正確にはGRU ソ連軍参謀本部情報総局)
の工作員によって日本側がやったように巧妙に仕掛けられたという謀略説が登場した。世界的にベストセラーになったユン・チュアンの「マオ」上巻にほんの数行紹介されている。「張作霖爆殺は一般的に日本軍が実行したとされているがソ連情報機関の史料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという。」(「マオ」上巻 講談社2005年)本書は「マオ」より先行してソ連謀略機関実行説を唱えたロシア人のドミトリー・プロホフの説を紹介している。「マオ」も基本的にはプロホフに依拠している。プロホフの「GRU帝国」によれば実行犯はフリストフォル・サルヌイニとナウム・エイティゴンの「グリーシカ」機関である。なんと12年後にトロッキーを暗殺を指揮することになるエイティゴンだ。エージェントはあらゆる手段をもって周辺の人物に信用を得、張作霖爆殺がいかに日本にとって軍事的・政治的に有利になるかを納得させた。河本大佐が心を許していた石炭商伊藤謙次郎、満州浪人安達隆成、奉天の遊郭経営者劉載明、料亭「みどり」に集う芸妓たちのだれかが「グリーシカ」機関の巧妙な工作を受けていた。また村岡関東軍司令官も周辺人物を洗われ、エージェントに接近されていた。
「河本首謀説」の弱点は①動機の薄弱さと②事故現場状況の絶対矛盾だと著者は説明する。日本国内で張作霖殺害の動機が論争になったことはほとんどない。政府(田中内閣)・陸軍中央はどちらかといえば張作霖利用派である。張作霖排除を考えていたのは河本ら関東軍の一部である。然し外には国民党をはじめ多くいた。とくにソ連(スターリン)は、1927年の在北京ソ連大使館襲撃以来、張作霖をソ連の満州進出の最大の障害と考えていた。②については、事件現場を調査した関東軍参謀長斉藤恒や奉天領事林久次郎の報告書によれば、爆薬物の装置地点は明らかに橋脚上部か列車内だとしている。それは現場写真(本書P79)ともよく照合している。河本が主張するように、線路脇に200キロの爆薬を仕掛けたら、地面に大きな穴が空いて線路が破壊され、客車の脇腹が爆風で吹き飛び列車は転覆する。ところが現実はそうではなかった。これはとりもなおさずコミンテルン謀略説を補強する。
河本は事件後盲腸手術をするおり麻酔を使用せず手術をしたという。身辺に張り付いていた「グリーシカ」工作員の存在があったからこそ、麻酔をたってまで隠しとうさなければならない秘密があったと著者は推測する。このコミンテルン謀略説も、決定的な第一次史料が発見されていないという弱点はある。すべて状況証拠の積み重ね過ぎない。 事件の真相については「関東軍謀略説」「コミンテルン謀略説」いずれなのか、依然闇のままである。クレムリンからの新史料の出現はプーチン体制下では当分望むべくもない。然したとえ「コミンテルン謀略説」が立証されたとしても、さりとてその後の関東軍の行動が免責されるべくもない。
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