2012年5月23日水曜日

「全国学園闘争の記録1 ~関西学院大学・学費値上げ反対闘争」 日本評論社 1969

 本書を再読して1969年関学の6項目要求闘争の帰趨を決めた「1・24全学集会」のことを思い出した。そ時私は高等部の3年生。経済学部への進学も内定していた。43年前のことである。学院当局のあまりの不誠実と右翼(関大・近大の応援団を含む)の卑劣なテロ行為に多くの学生は憤激した。当局のもくろみに反して、収拾するはずの集会は当局追求の場となり、上ヶ原を揺るがす2000名の大抗議デモとなった。
 本書で二つの記憶が甦った。第一は高等部の志賀先生の至極まっとうな質問に当局者(小宮院長ら)はまったく答えることができず醜態をさらしたこと。これは永く忘れていた。第二は「ヘルメットを脱げ、脱がない」論争。当局の「ヘルメット着用学生とは話ができない」、全共闘側は「ヘルメットは戦う意思が物質化したもの」と応酬。議論の堂々巡りに業を煮やしたH商学部闘争委員長(反
帝学評系 病欠のW全共闘議長の代理)はヘルメットを脱いだ。この時右翼の全共闘幹部に対する白色テロが発生。20数名の重軽傷者がでた。
 6項目闘争は1・7の社闘委などによる5号別館封鎖で幕を開けた。然し内実は学生大会決議を踏まえての行動を主張する形式民主主義者たる主流派(反帝学評・学生解放戦線)と直接行動を志向する少数派(社闘委、フロント・社学同・人民先鋒隊)の対立を克服できず後者のみで行われた。
 いずれにしても「1・24」はこのような対立を解消して両派が合流する契機となる。然し全学執行委員会・法学部・商学部の自治会執行部を掌握する主流派たる反帝学評にとっては、それはしぶしぶながらの合流だったのかもしれない。70年闘争にむけて全国拠点としての関学組織の維持は不可欠である。戦えば組織は必ず磨耗する。だがここで戦わねば大量に登場したノンセクト大衆に乗り越えられてしまう。なによりも関学学生運動の主流派としての意地がある。ヘルメットを脱いだH委員長の行為はその一瞬の躊躇の現れだったかもしれない。その後再編強化された関学全共闘は全国私立大学で初めての入試実力粉砕の方針を打ち出し、法学部本館・5号別館死守闘争を経て6ヶ月間のバリケード封鎖闘争を貫徹することになる..............。
 「1・24」はその後の関学闘争の運命を決めた重大な契機となった。然し43年たった今でも、あの学院当局の不誠実で卑怯な対応を思い出すと、腹の底から怒りがこみ上げてくる。