2013年9月29日日曜日

昭和30年代を遠くはなれて

   「昭和30年代演習」  関川夏央  岩波書店  2013年

 昭和38年、その頃は文学全集刊行のブームであったが、中央公論社は新たなる文学全集「日本の文学」を企画した。編集委員は三島由紀夫、川端康成、大岡昇平、高見順、ドナルド・キーン、
谷崎潤一郎、伊藤整の7人。7月17日に開かれた第3回の会合は紛糾した。三島は、この全集に松本清張の作品を入れることに強硬に反対した。清張を入れるなら自分は編集委員を降り、自作を収録することも固辞するとも。そして7月30日の第4回編集委員会でも自説を曲げず、大岡と高見が同調した。谷崎は清張を入れてもいいといった。かくして全集には松本清張に代わって柳田国男が入った。この時三島は38歳、清張は53歳であった。
 この三島の頑固な清張嫌いの理由はどこにあったのか。清張が「社会派」として活躍した昭和30年代、実は三島も「社会派」を自認していたと著者はいう。例えば「金閣寺」(昭和31年)は大谷大学学僧による金閣寺放火事件を取材した事件小説であり、戯曲「鹿鳴館」は「鹿鳴館外交」を肯定的に評価した舞台劇だとする。「愛の渇き」や「青の時代」は実際の殺人事件や東大生の高利貸会社の破綻を描いている。そしてきわめつけは昭和34年都知事選に取材した「宴のあと」(昭和35年)であり、後「プライバシー裁判」となり三島は敗訴した。また近江絹糸の労働争議に題材をとった「絹と明察」(昭和39年)は新しい社会派小説の試みのはずであった。然し評論家や読者は全くそのようには評価しなかった。このようなフラストレーションが、高級官僚の堕落と保身を指摘するだけで「社会派」と呼ばれる清張作品を笑止とした。
 清張作品を周到に読み込んで、「日本の黒い霧」の「陰謀史観」に「左翼的」心情と民族主義の奇妙な同調を見て不快に感じたのが、「日本の文学」編集委員会での強硬な反対だったと著者は解説する。「どこかに悪いやつがいるはずだ」という清張の信念、もしくは「陰謀史観」は昭和30年代の雰囲気にマッチしていた。謎の権力を付与された個人としての「黒幕」がいる。清張の「黒幕」のモデルはおそらく安岡正篤である。現代の「黒幕」は実は選挙民なのだが、個人としての「黒幕」の存在は、自分にも責任があるという事実をわずかでも忘れさせる。
 昭和38年の「事件」以降、「社会派」作家たることを断念した三島は、なにものかに憑かれたかのように映画「憂国」(昭和40年)を完成させ、「英霊の聲」(昭和41年)を書く。そして昭和45年11月25日市ヶ谷で自刃する。玩具の軍隊「楯の会」の決起もないままに。45歳であった。それはもう一つの玩具の軍隊たる「ブント赤軍派」の大菩薩峠での壊滅(昭和44年11月5日)と相似形であった。三島は死後、毀誉褒貶はあるもの様々に論じられ評価された。それにくらべて清張は次第に読まれなくなった。それは現代を語ろうとして、一歩遅れる清張の癖が大きく原因している。旧左翼的な体質が古いと思われたのだ。

2013年9月16日月曜日

神戸新聞が記録した関学全共闘の闘い~その4

  「神戸新聞  昭和44年6月 ~マイクロフィルムから」

 関学6項目要求闘争は2/26~27大衆団交の時点で実質的には終焉していた。やっと勝ち取った「3/5団交確約書」だが、その成果を「小宮辞任」という形で反故にされた全共闘には明確な闘争の展望は描けない。それに全共闘の物理的戦力は破断界に達していた。全学封鎖によって守備する建物は多い。学院側のロックアウト措置により(後期試験はレポートに代わり)、登校する学生の数もめっきり減った。人民の海を奪われたゲリラのように全共闘は閑散としたキャンパスの中で孤独をかこつことになる。そしてこの闘争の敗北過程は「民主的教授会」の自己解体と並行して進んだ。そしてそれは神津陽によれば、全共闘世代を含むその後の大学教員の思想的壁となっている。その後、どの時代の教員も、いかなる大学改革を語ろうと、高邁な学問を教えようと、また政治的・社会的批判を述べても、この「壁」を克服せねば思想的説得力を持たない。
 学院当局の新執行部もなかなか決まらない。これは一面無能ということもあるがきわめて狡猾な時間稼ぎでもある。それでも3/19には小寺学長代行、3/22に城崎学長代行代理の新執行部が決まる。全共闘にとって3月は各学部教授会追及で終わる。4・5月は学年末試験阻止と新入生オリエン阻止闘争で終わる。9月の全国全共闘結成と11月首相訪米阻止闘争にわずかな期待をかけながら。学院当局の「廃校か否か」という恫喝的なアンケート郵送や、「改革結集集会」の呼びかけに全共闘指導部は有効な反撃方針を提起できず、ダラダラと全学封鎖が続く。然しそれでも6/9王子集会粉砕闘争に決起した全共闘の最後の雄姿に触れねばならない。
「前夜から関学の封鎖学舎に泊まり込んだ全共闘派学生及び神大などの応援学生約400人は午前10時から学生会館で集会を開き『結集集会を討論集会にしよう』と気勢をあげ、正午まえ学院から道いっぱいに広がってデモをしながら阪急甲東園から会場へ向かい、神大からの応援学生約70人と合流した。(中略)会場に乱入したのは外人部隊を含め全共闘系学生約400人(中略)グラウンドに座り込んだ。これに対しスタンドを埋めた一般学生約2000人は『全共闘帰れ』をシュプレヒコール。(中略)この中で小寺学長代行は全共闘学生らに『退去命令』をだし、同1時50分、機動隊約100人がグラウンド内に突入、ヘルメット学生の排除にかかった。」(6/9夕刊)
「集会は教職員、学生、同窓生を含め約9000人(大学側発表)が参加、(中略)機動隊導入による実力排除で全共闘系学生を締め出したまま、予定より10分間遅れて始まった。(中略)競技場を取り巻く機動隊、全共闘学生のシュプレヒコールが続く異常なふんいきの中で、まず城崎学長代行代理が『研究、教育と本来の大学人の業務と新生関学を創造するための討論会を組織的、継続的に行うため上ヶ原キャンパスを一日も早く取り戻そう』と集会の目的、意義を訴えた。一部から『ナンセンス』のヤジが飛んだが、大勢は拍手で支持、討論なしの提案、協力呼びかけの形で進んだ。(中略)さらに城崎学長代行代理は『封鎖学生に最後の自主退去勧告、聞きいれない場合は数日中にわれわれの手でバリケードを撤去しよう。方法はわれわれ二人に任せ起立で決意を示してほしい』と訴え、ほぼ全員起立、拍手でこたえ集会は予定より早く午後3時すぎ校歌を合唱するなかで閉会した。(中略)開会前から会場周辺を約1600人の兵庫県警機動隊が警戒、(中略)競技場に逃れた一部のヘルメット学生と小競り合いし学生24人(うち女子10人)が威力業務妨害、不退去、公務執行妨害、道交法違反の疑いで逮捕され警官、学生ら10数人がケガを負った。」(6/10朝刊)
「全学共闘会議派と応援の他大学の学生ら約200人は、神戸市灘区水道筋で二度にわたって”解放区”まがいの封鎖行為をし、一時は道路上に古木材でピケを張って交通をストップさせた。舗装路面をくだき、市電軌道撤去の工事現場を荒らすなど、一時的な”無法地帯”を生む騒ぎ(中略)水道筋いっぱいに広がるデモ。ワーッと追う機動隊。学生たちは東へ逃げながら投石を繰り返す。
(中略)約15分間の道路封鎖のあと、機動隊のハサミ打ちを察知してかヘルメット学生たちは約1000人のヤジ馬たちと、バリケードを残したままサッと引き揚げ、阪神大石駅前の児童公園で流れ解散した。」(6/10朝刊)
 追い詰められて突出するしかなかった6項目要求闘争はかくして敗北した。その要因は運動経験
の蓄積の少なさとそれ故の主体的力量の貧弱さにある。何故そうであったのか。そのためには6項目闘争に先行する薬学部設置反対闘争、43学費闘争について述べねばならない。また6/30授業再開以降の「小寺近代化路線」粉砕闘争は44年度新入生など新たな主体によって担われることになる。これについても触れねばならない。この前史と後史については他日稿を改めて述べたい。
 

2013年9月1日日曜日

ミャンマー紀行~「カチン族の首かご」の地を行く

 「ミャンマー いま、いちばん知りたい国」  中村羊一郎  東京新聞  2013年

 ミャンマー最北部に位置するスンプランボンは、以前は英文の綴り(Sumprabum)をもとにサンプランバムと呼ばれた。第二次大戦中ミッチーナから日本陸軍の1個中隊(55師団112連隊第3大隊所属)が進出していた。あの「カチン族の首かご」(妹尾隆彦)の舞台である。ミッチーナとプータオの中間にあるスンプラボンは戦後長い間外国人の立ち入りが厳禁されてきた。ミッチーナからプータオに至る街道は全長218マイル(350キロ)の自動車道路である。著者は2000年12月、軍政下で日本人として初めてプータオから南下してスンプランボンに入ることができた。86マイル、車で1日の行程である。
 ミッチーナからスンプランボン街道を北上してプータオに至る許可がおりたのはなんと2011年2月である。そのルートを紹介しよう。
ミッチーナからからミソンを経由してティヤズン村(泊)。さらにタドウ村(泊)。ジャパン・ビャンを経て4日目にスンプランボンに着く。そしてロンシャーイエン村(泊)を経由してプータオに至る。
 プータオは現在リゾート開発の波の中にあるという。南国ミャンマーの中で唯一雪山が望めるのはここだけである。然しプータオからカカラポジは見えない。ただし郊外からは、その前衛にあたるらしい雪山が望める。深田久弥は「途中の一番高い地点から、プタオ高地の北の山々が見渡せる。冬、空の澄み切っている季節にはビルマとチベットの国境の雪嶺がハッキリと現れる。その中の最高峰はカ・カルポラジ(5873メートル)で、もちろん誰も登ったものはいない。」(「続シルクロード」)と書いているが、カカラポジは見えない。
 著者は茶樹の研究家である。ジャーナリストには許されない取材も一研究者として申請し入域許可さえとれば、護衛がつき道中の安全は確保されたとうい。もちろん現地では許可された以外の地域に足をのばすことはできないが。本書はそのように軍政下の「鎖国」状態のミャンマー辺境を踏査した報告である。スンプランボンはじめ、インパール作戦の地フーコン渓谷とチンドーウイン川。そしてインド洋を望むシトウェイ(アッキャブ)やミャウなど。
民政移管後の興味深い報告もある。2012年9月中旬ヤンゴンを訪れると市内の雰囲気が格段に明るくなっていた。ほとんど停電がなくなった。それは言論の自由のおかげだという。政府関係部署の、電力の絶対量は不足しておらず、無駄な使い方(首都ネビドの夜間道路照明など)にあるとする投書により、政府は早急に是正した。国民の精神的解放感と、実際の明るさが一体となってミャンマーに活力が戻ったという。