2016年5月17日火曜日

アフガニスタンのラピス・ラズリ

   「シルクロードの歴史から」 榎一雄 研文出版 1979年

 ラピス・ラズリは紺青の地に金色の粉が混じって夜空の星のように見える貴石である。ヨーロッパでは12月の誕生石である。ラテン語のラピス(石)にペルシャ語のラズリ(青)を合わせて造語したという説もある。その成分はラズライト、ソーダライト、アウイン、ノーゼライトの4種類の鉱物に黄鉄鉱(バイライト)がわずかに混ざる。1828年仏人化学者ギメ(ギメ美術館創設者の父)が人造のウルトラマリンを発見し、天然石の価値は下落した。然しかつては産地が限定されていることもあり、人類最初の「最強の聖石(パワーストーン)」として珍重された。それを使った装身具・装飾品がエジプト・シリア・メソポタミアの遺跡から出土している。古代中国では七宝の瑠璃がラピス・ラズリとされた。ラピス・ラズリを加熱すると濃い青色になり、さらに強く熱すると透明なガラスになる。ガラスのことを瑠璃もしくは玻璃というのはこのためである。群青(ウルトラマリン)という色名は本来ラピス・ラズリを粉末にした顔料の名称である。
 (ラピス・ラズリの産地)ラピス・ラズリの産地はシベリア(バイカル湖南岸)、ブハリア(東西トルキスタン)、ビルチスタン(バルチスタン)、チリなどあるが、いずれも品質は劣悪である。古来最大・最良の産地はアフガニスタンのバダクシャンである。バダクシャンのコクチャ河流域には4か所のラピス・ラズリ鉱山がある。コクチャ河上流域のケラノ・ムンジャン渓谷のチルマック、シァガ・ダラ・イ・ロバット・バスカラン、ストロムビ、サル・イ・サングの4鉱山である。いずれも海抜1800米から5100米の険しい山中である。現在採掘されているのはサル・イ・サング(Sar-i-Sang)のみで、他は閉鉱している。そこはコクチャ河上流、ジュルム(Jurum)の南35哩にある。ここで採掘されたラピス・ラズリはコクチャ河に沿った通路で南北に運ばれる。北行すればジュルムでバルフに通ずるホラサン街道に出る。南行すればサル・イ・サングから一日行程のイシュカズル(Iskazr)村でワハーン・カブールに通ずる道に出る。王政時代の1964年オクスフォード大学の調査団(団長ヘルマン女史)がサル・イ・サングのすでに閉鎖された旧鉱を調査した記録がある。当時は鉱山・鉱業省が、内戦時代は北部同盟が採掘・販売を独占していた。
 (ラピス・ラズリの路)バダクシャンのラピス・ラズリは質量とも最大で、古代からパミール以西の諸地域に供給されていた。例えばエジプトのツタンカーメン王の黄金マスクや、メソポタミアのウル出土の黄金短剣柄や女官髪飾りにもラピス・ラズリは使われている。ちなみにウル王墓は前26世紀に比定されている。また前2千年紀のミュケナイの竪穴墓からもラピス・ラズリは発見されている。ラピス・ラズリは原石として直接これらの地域に輸出されたのではなかった。イラン東部シースタン地方のシャハルイソフタ遺跡(1967年より発掘)で多数のラピス・ラズリの削り屑とそれを加工するための道具が発見された。ラピス・ラズリはこの加工場で加工されメソポタミアへ再輸出されていたのである。前4千年紀はテペヒサールを経由するイラン北道でスサからウルへ。そして前3千年紀以降はテペヤヒサを通るイラン南道でスサからウルへ。時代が下れば海上ルートも登場してくる。やや後代になるが「エリュトラ海案内」によれば、インダス河口の貿易港バルバリクムからインド洋を渡って西方に輸出された。前述のヘルマン女史によれば、ラピス・ラズリの輸入をどこまで独占できるかによって、メソポタミア平原の諸国・諸民族の勢力関係が決まったという。
 川又正智(「漢代以前のシルクロード」雄山閣2006年)はアカイメネス(ペルシャ)朝やアレクサンドロス遠征の版図はラピス・ラズリの交易路と重なっていると指摘している。前人未踏の地を征服したのではなく、遠古以来の交易範囲であり、なんらかの情報があったので征服できたとも。それはパミール以東における玉(「禺氏の玉」、ホータン産の軟玉)も同様である。所謂「張騫の西征」は玉の交易路に沿ったものなのである。後代の「シルクロード」なるものは、ラピス・ラズリの交易路と玉の交易路をつないだものに他ならないともいう。