2016年11月25日金曜日

「大谷探検隊」の跡を訪ねて

   「シルクロードに仏跡を訪ねて」 本多隆成 吉川弘文館 2016年

20世紀初頭三次にわたって中央アジアを踏査した大谷探検隊。その業績は欧米の探検隊に比肩する。然し研究者やシルクロードに関心を持つ一部の人を除いて、その偉業はほとんど知られていない。大谷探検隊が高校世界史の教科書(第一学習社)に載ったのは、つい最近である。その報告書「新西域記」があまりに大部(上下2巻で13キロ)で、稀覯書であり一般には利用しづらかったためである。近年大谷探検隊に関する研究は急速に進んでいる。その成果をふまえつつ、その全貌を平易に伝えようとするのが本書である。
 「研究面での新たな貢献は少ない」(著者)が、大谷探検隊に関する最新情報を盛り込んだ入門書である。その特色の第一は白須浄眞、片山章雄などの最新の研究成果を取り入れ、研究の現段階を解説している点である。第二は分散して収蔵されている大谷コレクションの現況を明らかにしていることである。第三は探検隊に関係ある土地や将来資料が収蔵されている博物館を四半世紀かけて全て訪れている点である。これが最大の特色で、著者撮影のこれらの写真が本書に色をそえている。サブタイトルを「大谷探検隊紀行」とした所以である。
 (研究の現段階)
 従来第2次隊の帰路はミンタカパス越えか、K2西方のムスタクパス越えと考えられるような地図
 が使われ、そう信じられていた(藤枝晃「大谷コレクションの現状」1991年、著者「大谷探検隊と本多恵隆」1994年)。然しそれは誤りで、実際はカラコルムパスを越えてレーに出、そこからスリナガルに至った。(「西域考古図譜」所収の大谷光瑞「大谷探検隊の概要と業績」ではカラコルムパス越えとある)これが第3次隊に予定されていた野村栄三郎のカラコルムパス通過拒否につながるのである。すなわち短期間に二度連続して国境付近を通過することが、大谷探検隊の「スパイ疑惑」を生んだのである。これは日本外務省文書の発掘と解読によって白須が明らかにした)白須「大谷探検隊研究の新たな地平」2012年)。第2次隊橘の楼蘭故城発掘についても、光瑞がヘディンから得た正確な経度・緯度を暗号電報で指示したことを明らかにしている(白須編「大谷光瑞とヘディン」2014年)また片山は探検隊編成の策源地であったロンドンにおける光瑞の動静・企図などをつまびらかにしている。
(大谷コレクション)
 大谷コレクションは二楽荘の閉鎖以降複雑な分散・移転をたどったが、現在大きく次の4か所に収蔵されている。中国旅順博物館、韓国国立中央博物館、東京国立博物館、龍谷大学大宮図書館である。旅順、韓国については2014年に本書執筆のため再訪しており最新の状況がわかる。韓国国立中央博物館は2005年10月28日にソウル特別市龍山区の米軍基地跡地に移転し開館している。9万2千坪の敷地に地下1階・地上6階で世界6位の規模である。大谷コレクションは3階のアジア館の中央アジア室に展示されている。379件1700点あまりである。ベゼクリク千仏洞壁画、キジル千仏洞壁画、アスターナ古墳群出土の伏羲・女媧図などがある。旅順博物館の大谷コレクションは、その一部が日本で4回公開されている。①1988年神奈川県立歴史博物館「中国遼寧省文物展」、②1992~93年京都文化博物館「旅順博物館所蔵品展」、③2002年佐川美術館「絲綢の至宝」、④2007年青森県立美術館「旅順博物館展」である。現在は一般のツアーにも開放されている。また龍谷大学に関しては龍谷ミュージアム開設(2011年)に続き、2015年「龍谷大学世界仏教文化センター」が創設され、「西域総合研究班」で大谷探検隊に関する研究がなされている。
 本書のハイライトはいうまでもなく著者による四半世紀にも及ぶ「大谷探検隊」探求紀行である。一気呵成に読むのは惜しい。暮夜、左党の向きには洋酒をチビリとやりながら少しずつ読むのがふさわしい。ちなみに著者は「大谷探検隊」研究の専門家ではないが、第1次隊員本多恵隆の孫にあたる。書かれるべくして書かれた本である。

2016年11月15日火曜日

続・西北研究所~昭和史の謎を追う⑮

        「近代日本の人類学史」 中生勝美 風響社 2016年


戦後の京大学派の総帥と目される今西錦司についての一つのエピソードがある。1943年10月東北帝大文学部助教授に転任する桑原武夫の送別会の帰り道、加茂川の葵橋たもとのことである。「クワ、俺はやるぜ」と言った今西の言葉を桑原は回想している。その意味は、好きな探検や山登りのためなら「軍とでも手を結びまっせ」ということだと、桑原は解釈している。桑原は人も知る反軍思想の持主である。その桑原に今西はこう言ってのけた(「今西錦司伝」斉藤清明)。そして44年4月張家口に設立された西北研究所の所長に今西は迎えられた。
 西北研究所でなぜ自由な研究が保証されたのか。それは当時の戦争遂行計画が関わる。ソ連との国境近辺に居住していたオロチョン、ダフール、そしてムスリム宣撫工作がなによりも重視されていた。モンゴル民族に対しては食糧と家畜の増産が政策目標とされるに過ぎなかった。こうした事情により軍事的空白地帯として自由な研究が許されていた。
 然し西北研究所が直接的に戦争と関係していた事実を著者は本書で指摘している。それは京都帝大同窓生による軍部との関係であった。その中心人物が篠田統(1899~1978)である。
(篠田統とは)
 篠田は京都帝大理学部化学科卒、動物大学院に進学後、オランダ(ユトレヒト大学)、ドイツ(ミューヘン大学)、イタリア(ナポリ水族館)に留学。1938年から陸軍技師として関東軍に所属し昆虫防疫を担当した。1940年から北支軍軍医部所属、1945年北京衛生試験所技師、同年12月内地に引揚(逃亡)、戦後は大阪学芸大教授を務めた。軍属時代の痕跡を隠すため専門を食物学
にかえた。動物科出身の篠田は、同じ研究室の先輩今西と親交があった。篠田がいた北京衛生試験所とは、中国の微生物研究所を接収したもので北京市内の北海公園にあった。それは1938~45年の間、表向きは「北京防疫給水部」と名乗っていたが、実は1855部隊と称する細菌戦部隊の一つであった。第三課あるいは篠田部隊と呼ばれた。篠田はその責任者で大佐級の軍属であった。篠田部隊の任務はペスト菌を持ったノミと破傷風をもったハエの培養で、人体実験も行っていた。
(タイプス左翼旗調査旅行)
 1945年6月、篠田が隊長として一個分隊を率いてタイプス左翼旗までの調査旅行を実施した。名目は内モンゴル草原の「生物相」の調査。この調査に西北研究所の今西と梅棹忠夫(篠田の後輩)が同行した。この時の調査で捕獲した動物は少量で、「この奇妙な作戦」を梅棹は「軍隊を使って自分の好きな研究をしている」と能天気に回想している。然しこの場所は、ソ連軍がモンゴルから満州へ進撃すると想定された通過ルートで、実際ソ連軍はそのルートで張家口に侵攻した。この地域での生物相や、ペストノミを植え付けた齧歯類の調査は細菌戦にとって不可欠の研究であった。中国側の記録では、1945年8月21日王爺廟(ウランホト)でソ連軍兵士がペストに感染して死亡したとある。また1947年から49年に旧満州西部から内モンゴルにかけてペストが大流行したという。
 西北研究所にいた藤枝晃は篠田が中国で従事した仕事(細菌戦関係)について「おぼろげながらわかっていた」と認めている。藤枝と梅棹は回想録でタイプス左翼旗への篠田隊との同行について言及している。然し今西は沈黙している。「健筆家の今西が、自分の論文で1945年6月の篠田隊に同行したことを全く触れていない点には疑問が残る」と著者はしている。そして戦時中の研究を戦争協力という単純図式で全面否定はできないと留保しながら、西北研究所について「学問と戦争の関係を考える上で大きな問題を提起している」と言う。なぜなら戦時中の西北研究所での活動こそが、フィールドから理論構築する戦後の京都学派の出発点だったからである。