2016年10月22日土曜日

瀬島龍三の秘密~昭和史の謎を追う⑭

       「私を通り過ぎたスパイたち」 佐々淳行 文芸春秋 2016年



 本書には驚愕すべき事実がさりげなく書かれている。あの瀬島龍三が「ソ連のスパイ」というのである。瀬島は大本営参謀・陸軍中佐、11年間のシベリア抑留にもかかわらず不屈の非転向を貫いた「不毛地帯」の主人公にも擬せられた。その後伊藤忠会長、第二次臨調委員として国鉄民営化などに辣腕をふるい、中曾根内閣のブレーンのみならず歴代内閣の「参謀総長」として君臨し続けた。そして昭和59年勲一等瑞宝章の栄誉に輝いている。その瀬島がスリーパーとしてソ連に協力することを約束した「誓約引揚者」だというのである。
(瀬島龍三とは)
 瀬島は11年間のシベリア抑留を終えて昭和31年8月19日ソ連から帰還した。32年には伊藤忠に入社する。就職の斡旋をしたのは元内閣書記官長の迫水久常である。戦前元首相岡田啓介を中心に、岡田家、迫水家、松尾家、瀬島家の間で官僚・軍人の閨閥ができていたのである。
この頃は迫水が四家の家長的存在であった。伊藤忠は防衛庁商戦に参入するための戦力として瀬島に期待していた。
 瀬島の最初の成功はバッジシステム導入商戦の逆転勝利である。優勢だった米GE-三井物産をおさえて米ヒューズと組んだ伊藤忠が受注したのである。それを皮切りに戦後賠償(インドネシア、韓国)商戦に介入して成果を上げた。36年に業務部長、翌37年取締役業務本部長。38年常務取締役となり、53年には会長にまで昇進している。同年東商特別顧問となり財界活動を開始する。そして56年第二次臨調委員となり、中曽根内閣成立後は総理府臨時行政改革推進議会委員として、総理の「参謀総長」としt辣腕をふるう。なお「行革」に専念するため伊藤忠相談役に就任している(56年6月)。中曽根に瀬島を紹介したのは東急グループの総帥五島昇である。
(東芝機械事件)
 昭和62年東芝機械のココム違反事件が発覚した。東芝機械がココム規制に違反して大型工作機械を第三国のノルェーを迂回してソ連に不正輸出していた。不正輸出した五軸大型スクリュー工作機械によってソ連原潜のスクリューの形状が変わり、米海軍はスクリュー音の感知ができなくなった。米国防長官の強硬な抗議によって、警視庁は時効すれすれの2件を立件した。「外国為替及び外国貿易管理令違反」により、東芝機械は企業として罰金200万円、同社材料事業部長懲役10か月執行猶予3年、工作機械事業部工作技術部専任部長に懲役1年執行猶予3年の有罪判決がでた。然し親会社東芝と斡旋した伊藤忠には刑事責任は届かなかった。東芝の佐波会長と渡里社長が道義上の責任をとり辞任。伊藤忠は瀬島を相談役から特別顧問に形式的に降格したのみであった。この不正輸出を強力に主導したのは瀬島であった。事件が発覚しなかったら「スターリン勲章」ものの大仕事であったと著者はいう。
(瀬島龍三の秘密)
 この事件で瀬島はからくも逃げ延びた。「黒幕は瀬島龍三氏であり、何らかの政治的社会的制裁を加えてしかるべし」という著者(当時は内閣安全保障室長)の意見具申は通らなかった。然し捜査の結果から瀬島の過去の秘密が改めて浮上してきた。かつて著者がラストボロフ事件の残党狩りをしていた時、KGBと不審接触した日本人の中に、伊藤忠ヒラ社員の瀬島がいた。当時瀬島はあまりにも「小物」と判断され、深く追及しての捜査対象にはならなかったのである。以下著者と後藤田長官との対話。
 (後藤田) 「瀬島龍三氏のことになると佐々君はバカに厳しい。中曽根さんの経済問題の相談  役なのに、なんで悪口ばかり言うのか」
 (著者)  私は警察庁の元外事課長ですよ。KGB捜査の現場の係長もやったんです。瀬島がシベリア抑留中、最後までKGBに屈しなかった大本営参謀というのは事実ではありません。彼はスリーパーとしてソ連に協力することを約束した『誓約引揚者』です」
 (後藤田) そうか。瀬島龍三は誓約引揚者か」 (本書P178)
瀬島はブレーンとして中曽根の周りにつきまとい、それをツイタテにして「ソ連のスリーパー」としての追及をかわそうとしていた。著者によれば、会議で同席することが多かったが、なぜか目をそらしたという。そしてお世事めいた手紙をよこしたこともあったと。
 その瀬島に対して昭和天皇は田中清玄に次のように語っている。「許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全てに渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし、戦争責任の回避をおこなっているものである。瀬島のようなものがそれだ。」(「田中清玄自伝」(ちくま文庫P309)そして田中は中曽根に瀬島のような男を重用することを注意したという。彼によれば瀬島とゾルゲ事件の尾崎秀美は感じが同じだという。また保坂正康「瀬島龍三 参謀の昭和史」には、中曽根が58年に訪米した時に米国の高官が「あなたの傍から、ミスター・セジマを離しなさい」と伝えたともいう。
 瀬島はかつて大本営参謀として、ジュネーヴ条約の存在を隠して下級将校や下士官・兵に「戦陣訓」をタテに投降・捕虜になることを禁じ、死を強制した。自らは虜囚となったことを恥じず、喜々として勲一等瑞宝章を受章したのである。
 

2016年10月13日木曜日

「図説シルクロード文化史」を読む

      「図説シルクロード文化史」 ヴァレリー・ハンセン 原書房 2016年

 東洋と西洋を結ぶ中央アジアの砂漠の道を「シルクロード」と名付けたのはドイツの地理学者リヒトフォーヘンである。本書の著者はこのスーパーハイウェイに実にユニークな指摘をしている。本書が扱うのは「中国と西洋の交易のはっきりした証拠が現れはじめる」2~3世紀から「敦煌とホータン出土文書の最後の年代」である11世紀のはじめまでである。
(「シルクロード」について) 
 「シルクロード」は古来から人々が往来する一本の連続する道と思われてきたが全く違う。機上から眺めたとしても見えない。それは実際の道ではなく、「広大な砂漠と山岳地帯をつらぬく、標識もない、つねに変化する道筋のつらなり」であったと著者は言う。つねに道筋が変わるので、旅人は行程の区切りごとにガイドを雇わねばならなかった。そして、ほとんどの旅人は「自分の住むオアシスから次のオアシスへの500キロほどを旅するだけで、それより遠くへはいかなかった」のである。したがって、その商品取引も地区ごとの微々たる量の取引であった。「シルクロード」を象徴する絹も数多い商品の中の一つに過ぎなかった。それ故この土地に住む当時の人々はこの道を「シルクロード」とは呼ばなかった。
 然し紀元前後に漢王朝が西域に軍隊を派遣・駐屯させてから事情が変わった。兵士達の報酬として絹織物を使ったので、これらの地域に大量の絹が流入した。それは唐王朝の時ピークに達する。730~40年代にこの地域の四つの駐屯地に送り込まれた絹織物は毎年90万疋に達した。この絹は現地で様々な商品(生活必需品)と交換された。この期間が「シルクロード」が最も輝いた時代であった。そして唐王朝が西域から召喚した755年以降この地域は自給自足経済に戻っていった。
(ガンダーラからの移民)
 紀元200年頃「シルクロード」を通って最初の移民がガンダーラからやってきた。現地ではクロライナと呼ばれたローランやニヤに定住した。中国名で「鄯善」と呼ばれた地方である。その規模は一回では最大でも100人程度であった。移民の波は何度かあった。高度な技術を持った移民が、ニヤなどの支配者を倒して新国家を建設した可能性を著者は否定する。この指摘は重要である。かくして長澤和俊のクシャン朝遺民団による「鄯善第2王朝説」は明確に否定される。その根拠の第一はラバータク碑文の解読によってクシャン朝の王統の継続性が確認されたことである。第二はニヤ出土文書解読による王の名前と書記の名前の分析である。王の名前がすべて現地人であるのに対し、書記の名前はすべてガンダーラ人であった。移民がもたらしたのは文字体系(カロシュティー文字)と木簡を作る技術であった。クロライナの住民はそれまで自らの言語を表現する文字を持たなかったのである。
(トカラ語について)
 1908年ドイツの言語学者ジークとジークリングは、現在「トカラ語」として知られる未知の言語の解読に成功した。この言語はトカラ語A (アグニ)、トカラ語B(クチャ)、トカラ語C(ローラン)としてかつてタリム盆地北東辺で使われていた。トカラ語は遊牧民族月氏(クシャン)が話した言語であると言われている。「月氏は甘粛を離れるときにはトカラ語を話していたが、その後アフガニスタンにやってきたときにバクトリア地方で使われていたイラン語に切り替えたのだと主張する研究者もいた。しかし月氏の子孫がニヤにたどりついたときには、彼らはまた別のガンダーラ語を話していた」と著者は指摘している。このトカラ語はインド・ヨーロッパ語族群の一つであるが、近隣のインド語やイラン語とは遠く、最も西のケルト語と近いことが分かってきた。何故タリム盆地の一角でこの言葉が使われていたかは不明である。遠い昔の民族移動によって生じたと推定されるに過ぎない。
 本書は中央アジアのニヤ、クチャ、トルファン、ホータン、ソグディアナのオアシスと中国の敦煌、長安など7つの都市の遺跡と出土資料を紹介・解説している。その結論とは次のようだ。「シルクロード」の交易は小規模であっが、その陸路を人が移動することによって東西の文化交流がおこった。最大の影響力を持ったのが難民、移民であった。そして彼らは最初の仏教徒でもあった。たしかに本書に描かれた時代が、「シルクロード」という言葉が使用されるに最もふさわしい時代であった。