2014年6月15日日曜日

華北分離工作~昭和史の謎を追う④

   「解禁 昭和裏面史」 森正蔵 ちくま学芸文庫 2009年

 満州事変勃発から太平洋戦争終了までの一連の侵略戦争について「15年戦争」という呼称が1960年代以降、所謂「進歩的歴史家」によって唱えられ一般にもかなり定着している。それに対して満州事変は1933年(昭和8年)5月の「塘沽停戦協定」で一応終結し、「盧溝橋事件」に端を発する日中全面戦争は中国の反日運動の激化が原因で起きた新たな事変であるという見解がある。(古くは片倉哀「北支問題弁論根幹案」1946年、最近では臼井勝美「新版 日中戦争」中公新書2000年など)然し「塘沽停戦協定」は軍事衝突が一段落しただけで、双方の間に横たわる溝はむしろ深まった。日本の軍事侵略にどう対応するかで国民党政府内部の対立は激化していた。抗日運動を盛り上げることで正面から対応しようとする宋子分がいた。交渉の責任者黄郛の立場は困難なものであった。一方関東軍も蒋介石否定に傾き「華北緩衝地帯」の実現に向けてひた走ろうとしていた。この硬直した態度の背景には対ソ戦準備をめぐる新局面(防共の強化、緩衝地帯拡大の不断の志向)がある。
 この「塘沽停戦協定体制」の4年間に関東軍は華北侵略の伏線を河北・チャヤハル省のいたるところにはりめぐらした。「協定」の内容は河北省の冀東地区の延慶、通州、蘆台を結ぶ線以東の中国軍は一斉撤退し、その後日本軍も長城線まで撤退、北部河北省に非武装地帯を設けるというものであった。関東軍はこれを空洞化しようとした。著者によればその「侵略」の内膜は以下のようである。1934年(昭和9年)から35年前半にかけて日中関係は比較的順調に推移していた。それは汪精衛外交部長と有吉大使の間で通車協定、通郵協定が成立し、関税引き下げ、日華航空連絡、日華無線問題についても協議が進められていた。
 然し関東軍・支那駐屯軍は非武装地帯を拠点として新たな華北攻勢を企図していた。1935年(昭和10年)5月の天津租界における親日新聞社社主暗殺などの「華北事件」を口実として日本軍は「重大申し入れ」という恫喝を行った。すなわち①中央軍及び国民党支部の河北省撤退②于学忠(河北省主席)の罷免③排日満秘密結社首脳人物の逮捕・抹殺。かくして日本軍の要求に屈し、6月10日梅津・何王欽協定が成立した。中央軍(25指、2師)、旧東北軍、北京憲兵第3団は河北省外へ退去した。更に宋哲元靡下部隊の不法攻撃を口実に、平綏鉄道以北のチャヤハル省内に非武装地帯を設置するという土肥原。秦徳純協定を結んだ。梅津・何応欽協定は宋哲元抱き込みによる華北5省独立運動という大謀略の基底をなし、土肥原・秦徳純協定は関東軍の内蒙工作の基盤を形成した。
 華北5省分離工作  35年10月リース・ロスの幣制改革に反対する農民運動が河北省香河県で起こった。南京の銀国有化反対・防共自治を掲げて県城を包囲し県長を追い払った。この非武装地帯に潜入してくる中国人は日本軍の庇護の下に密輸で甘い汁を吸おうという程度の低い無頼の徒である。工作したのは土肥原の手先である。そしてこれを基礎に11月24日非武装地帯に
東防共自治委員会を成立させた。冀東23県が支配地域になった。主席は半日本人的存在である殷汝耕。この傀儡政権は莫大な麻薬などの商品の密輸基地として機能を果たした。著者はその様子を次のように述べている。「ここから、日本は数百万円の無関税商品、数百万円の阿片を陸揚げして、日本軍特務機関の指揮と保護のもとに動く日本人、朝鮮人の密輸業者の手によって、これらの低廉な密輸品は平津地区に流れ、さらに津浦線によって揚子江流域に下った。これは中国の漸く勃興しかけた軽工業を脆くも破壊せしめるもので、国家財政の主要部分を占める中国の関税収入を著しく低下させた。これは領土を侵略すること以上に、中国民族にとって怨恨深き手傷を負わせ、抗日風潮を経済的背景において決定づける最大の要因となった。」(本書P260)かくして「停戦協定」の空洞化は完成したのである。
 日本陸軍は、その侵略のために華北に一種の真空地帯を必要としたが、南京政府も日本軍の重圧に対処するための緩衝地帯を必要とした。12月1日南京は河北・チャヤハル両省を日中間の緩衝地域として、宋哲元を委員長とする冀東政務委員会を設置した。土肥原は宋哲元の抱き込みによる「北支5省連合自治」を目論んだが、宋の二重性格性に幻惑されて失敗した。「北支5省連合自治」(河北、チャヤハル、綏遠、山西、山東省)なる日本陸軍の華北分離工作は一頓挫したが、これは新たな日中全面戦争化の原因となった。東北4省はいわば隙を見て掠め盗ったのだが、一連の華北分離工作は白昼堂々の強奪に等しい。「満州」には条約上の権益が存在したが、華北にはそのようなものは全く存在しなかった。ただ「義和団事件」後の議定書によって列国と同様に天津に支那駐屯軍の駐留(日本に割り当てられたのは1570名)が認められていたにすぎない。「15年戦争」説、「新たな事変」説いずれをとるにしろ一連の「華北分離工作」は日中全面戦争への「用水路」となった。
 本書は終戦後直後の1945年12月に刊行、47・48年にはベストセラーになった。執筆時著者は大阪毎日新聞社会部長。かつて「言論の自由」を持たなかった時代の新聞記者による報告の書であり、自戒と自省の書でもあるとは本文庫版解説者保坂正康の弁である。