2015年3月23日月曜日

「万里の長城」~古書の宝庫を訪ねてみれば⑥

   「万里の長城」 植村清二 中公文庫 1979年

 かつて旧制高等学校には「名物教授」という存在があった。「学問がよく出来て、一風変わった脱俗の趣のある、そして人格的に魅力に富む先生のことである」と丸谷才一は云う。その丸谷が入学した旧制新潟高等学校には植村清二がいた。「当時この学校で最も人気のある教授は、東洋史の植村清二先生であった。いや、単に新潟高校の名物であるだけでなく、新潟という街全体の名物であったと言うほうが正しいかもしれない。その広い学識、その巧妙な話術、その辛辣な毒舌、その特異な風貌は強烈な印象を与えたし、かてて加えて、作家、直木三十五の実弟であるという条件は、奇妙にロマンチックな翳をその身辺に添えたのである。」(本書P289 丸谷解説)
 植村の講義はどのようなもであったのか。旧制高校の講義は50分単位だが、植村の講義は各回が50分の枠にキッチリと収まっていた。例えば秦の時代を扱う回の終わりなら、「何よりもふさわしいことでなければならぬ」としめれば、その時正確に終了のベルが鳴ると丸谷は回想している。植村の講義はもう受講できないが、本書でその部分を再現してみよう。第6章「支那の名称とその起源」は次のように始まる。「支那民族が黄河の流域に占拠した時、その付近に異なったいくつかの民族が存在して、蛮、夷、戎、狄などの名で呼ばれていた。(中略)支那民族が多くの国邑に分かれながら、なお諸夏もしくは中夏というような共同の観念を持っていたのは、全くこうした異民族との対立を意識していたからに外ならない。」(本書P32)そして外国が中国を支那と呼ぶのは、秦に由来することを、諸説を批判しながら以下のように結ぶ。「著者は秦の滅びた後に番禺に拠って独立して、百年近くも嶺南に君臨した南越が、南方民族から引き続いて秦の名で呼ばれ、やがてそれが西方に伝えられたのであろうと想像する。著者の想像の当否は別として、支那の名称が秦から出たことは、疑いを容れない。秦の王朝の名称が、永く国家の名称として呼ばれるようになったことは、支那帝国の建設者たる始皇帝に取って、何よりふさわしいことでなければならぬ。」(本書P37)
 本書のオリジナルが刊行されたのは新潟高校教授時代の戦争末期1944年である。著者の後記によれば「一般教養を目的にしている」が、「学界に承認された範囲内で、支那史広く東亜史に関する新しい研究の結果を、適当に配列することに力めた」ともしている。タイトルを「万里の長城」としたのは、「おのずから支那民族と塞外民族との問題に、若干の力点を置いた」からだと述べている。また記述を清朝中期で終えているのは、それ以降のヨーロッパ勢力に対する支那民族の自覚(第2部)、新支那社会の成立(第3部)という続編を構想していたからである。植村は教壇で常々本書を「ベストブック」と胸を張っていたというから、快心の一作であったのだろう。本書のオリジナルは創元選書だが、この中公文庫版も現在では品切れになっている。なお「万里の長城 大世界史③」(文藝春秋社 1967年)は同名異本である。