2017年12月18日月曜日

謀略「大山事件」~昭和史の謎を追う⑱

   「日中戦争全史」 笠原十九司 高文研 2017年

 日中戦争には「前史」と「前夜」がある。両者の間には引き返すことが不可能な地点がある。日本はいつから満州事変・日中戦争への道を歩み始めたのか。その「前史」の起点は1915年の対華21ヵ条要求である。その「前史」の転換点は1928年である。張作霖爆殺(同年6月4日)と治安維持法改正(最高死刑)、3・15弾圧である。国際的にはパリ不戦条約が締結され、「戦争違法化」に向けた世界史の転換点でもあったと著者は指摘している。「15年戦争」論者は満州事変と日中戦争を一体のものとするが、両者は全く別の戦争である。満州事変は塘沽停戦協定(1933年5月31日)で一旦ピリオドを打ったのである。日本が「前夜」に突入したのは2・26事件(36年2月26日)によってである。軍部主導体制を確立した陸軍統制派は華北分離工作に邁進した。然しそれは西安事件(36年12月12日)によって挫折した。西安事件による民族統一戦線の結成は中国にとっも「前夜」への突入を意味した。この時期日中両国には戦争を避けようとする真剣な外交交渉もあった。然し英国提案の対中国共同借款(2千万ポンド 英日半分)への参加を要請する川越大使の意見電が外務省に届いたのは、まさに盧溝橋事件勃発(1937念7月7日)の前日6日であった。
 盧溝橋事件はほんの偶発的な衝突に過ぎなかった。現地では停戦交渉も進んでいた。北京・天津地区を制圧し内地3個師団が到着した8月初旬段階でも、陸軍中央は戦闘は華北(保定の線まで)に止め、全面戦争は考えていなかった。然し海軍と蒋介石は違った。海軍は盧溝橋事件を好機として、大村基地から南京を渡洋爆撃する作戦準備を命令し、8月8日すでに出撃体制を整えていた。上海で「何かおこる」のを待っていた。井本熊雄の「支那事変作戦日誌」によれば「石原(参謀本部第一部長)は、盧溝橋事件以降の軍令部と第三艦隊司令部の動向を察知し、『海軍はきっと上海で事を起こす。その場合陸軍は派兵しない方針である。やむを得ない状況が起きても、居留民保護のため、せいぜい1,2個師団の派遣に止める』と明言していた」という。また蒋介石も、中国単独では日本に勝利できないので、日本軍を上海・南京など欧米列強の権益が錯綜する華中におびき寄せ、米英の武力干渉を引き出すことを狙っていた。まさに帝国海軍と蒋介石は同床異夢といえる。そして「大山事件」は起こった。
(大山事件)
 1937年8月9日夕刻、上海海軍特別陸戦隊の大山勇夫中尉は斉藤与蔵一等水兵の運転する車で中国軍用の虹橋飛行場に強行突入しようとして射殺された。軍装で軍刀のみ佩刀し拳銃は所持していなかった。7日陸戦隊司令官大川内伝七少将に密かに呼ばれ口頭秘密命令として、飛行場に突入して一方的かつ不法に殺害されるよう告げられたのである。
上官は家族の面倒を見るからと約束していた。その約束は果された。まず海軍省より素早く、10日午前3時20分発電で戦死の至急電が届けられた。同日午後7時50分発電で「9日付大尉ニ進級及正七位ニ叙セラル」、更に同日午後9時55分発電で米内海軍大臣より弔電。そして①海軍省より職務勉励に付徳に金245円、天皇・皇后より祭祀料金20円、海軍省より死亡賜金706円、埋葬料67円50銭(8日9日)。②厚生省より扶助料第1419号年額1950円(12月1日)。③論功行賞国債第一号1000円、第二号200円(40年5月10日 ただしこれは終戦により45年8月15日で無効となる)。上官が約束した家族とは老母と長兄とその家族である。小学校教員の初任給が45~55円の当時、これは十分な内容である。佐世保水交社での海軍特別葬の前日万松寺で行われた遺族の葬儀には米内海軍大臣、塩沢佐世保鎮守府長官が弔問した。また戦時中は、靖国神社遊就館に「海軍7勇士」の一人として胸像が陳列される厚遇ぶりであった。
(釜賀証言)
 大山事件の謀略性は「釜賀証言」によって明らかである。「大山中尉は、上官からお国のために死んでくれ、家族のことは面倒を見るからと言われて出かけた。こちらからは攻撃するなと言われ、武装せずに出かけた。中国側の防衛線は三線あって、第一線と第二線は無事突破し、第三戦目で射殺されたのだった」釜賀一夫少佐(参謀本部第18班長)は、陸軍はこの情報を海軍の暗号を傍受解読して得たとしている。当時陸海軍は敵国のみならず互いの暗号を解読しあっていた。この「証言」は「九条の会」の武藤通(当時東大数学科在学)が45年6月頃釜賀より聞いたものである。
 海軍は「大山事件」という謀略を用いて、8月13日第二次上海事件を発動し、折から始まっていた和平工作(船津工作)を阻止した。そして15日近衛内閣に「南京政府断固膺懲」を声明させ、南京渡洋爆撃を決行した。かくして日中全面戦争への道は切り拓かれた。しぶる陸軍をおさえて、海軍が日中戦争をしかけたのは、自分の担当区域(華中・華南)で戦争を起こし、軍備拡大、就中航空兵力の拡充をはかるためであった。海軍首脳の思惑では、それは来るべき日米戦争の予行演習のはずであった。