2018年11月17日土曜日

「東大闘争」の発掘

   「東大闘争の語り」 小杉亮子 新曜社 2018年

 今年(2018年)は東大闘争より50年である。東大闘争はその発端である医学部闘争が1967年より始まっており、クライマックスである安田講堂攻防戦は69年1月18~9日であり、文学部のストライキは69年12月まで続いていた。然し、実際に闘争が全学的な問題になり、拡大・高揚し、ヤマ場を越えたのは、ほぼ1968年であった。この50年の節目に若い世代の著者(1982年生まれ)による「東大闘争」に関する研究書として刊行されたのが本書である。
 「1968年」就中東大闘争の総括が不十分なのは著者によれば三つの要因がある。すなわち①メディアなどによる否定的な集合意識の形成、②「史観」による対立、③当事者の沈黙である。①は言うまでもなく「連赤事件」や「内ゲバ」を口実にして60年代の
学生運動を暴力的テロに帰結させるメディアの洪水のような報道である。②は「革新史観」と「市民運動史観」の相克、「民青系」と「新左翼系」の非和解的対立である。そしてなにより深刻なのが③である。一部の当事者が「沈黙」を選んできたのは、他者から求められた場合と本人の選択による場合がある。前者として船曳建夫の例がある。東大闘争に参加経験のある船越が、1983年に東大教員に採用された際、先輩教員から「東大闘争」にはふれるな、もしふれる場合は「東大紛争」といえと諭されたという。後者は山本義隆などである。山本は「東大闘争を評論家のように語るな」という廣松渉の忠告を守り続けたといえる。東大闘争については一切語ることなく(「私の1960年代」で少しふれている)、「東大闘争資料集」(国立国会図書館に納入されている)を編纂することに終始した。そして「東大闘争の総括は許されない」という神話が生まれた。
 このような「総括」の不十分さが、闘争を知らない世代である小熊英二の「1968」という誤った解釈を生むことになった。つまり東大闘争を「高度成長に対する集団摩擦反応」で「アイデンティティ・クライシスに陥った<若者たちの自分探し>運動」と位置付けた。然し小熊の分析は二次資料(参加者の手記やジャーナリストの記事)にのみよるものであり、その分析視角も狭く歪んだものであった(これについては高口英茂「東大全共闘運動の総括と社会主義への展望」の厳しい批判がある)。また「オーラル・ヒストリー」を唱道する小熊に似つかわしくなく聞き取り調査をしていないのも不可解である。ともあれ、このような「沈黙」と「総括の不十分さ」が、その後の1968年世代と後継世代の断絶を生むことになった。
(「戦略的政治」と「予示的政治」)
 小熊と異なって著者は闘争参加者44人の聞き取りと一次資料から、多元的な学生たちの問題意識をくみ上げ、等身大の60年代学生運動参加者像を描き出した。ちなみに44人の内訳は東大学生・院生35人、教員5人、他大学生4人である。東大生の内党派は12人(中核派1人、小野田派1人、革マル派2人、フロント派1人、ML派1人、反帝学評1人、協会派1人、民青4人)、他はノンセクトである。この聞き取りから、固定的な史観からは見えてこなかった、東大闘争参加者の「人間の顔」が浮かび上がってきた。長期間にわたる授業や研究活動のボイコット、バリケード封鎖は決して当局者が言うような「許されざる破壊行為」ではなかった。その中での議論や抗議活動の準備は、ある種の非日常性を紡いでゆく行為であり、既存の権力関係や文化に対する新しい運動原理を作り出してゆく。このような中で左翼諸党派(民青や新左翼諸党派)の「戦略的政治」に対するノンセクトラジカルの「予示的政治」が生み出される。東大闘争、全共闘運動を「近代合理主義」を批判する「予示的政治」の具体化として描き出したことに本書の意義はある。
 本研究の動機として著者は、東大闘争に民青活動家として参加した父のエピソードを語る。父の全共闘批判の語気の強さ(90年代前半だから闘争から四半世紀)に疑問を持ったからだという。このような若い世代が、それが原因で東大闘争、60年代学生運動の研究に進んだのは、確かに驚きではある。全共闘運動がその時代を体験したものにしか理解できないというのは一種の蒙昧である。それでは歴史の研究や歴史学というものは成り立たない。

2018年10月23日火曜日

ミイラ何処から来たか

   「馬・車輪・言語(上、下) D・W・アンソニー 筑摩書房 2018年

 言語学者は印欧言語の間に、共通する明確な「対応の一致」が見られることから、一つの祖先言語「印欧祖語」があると考えた。この仮定上の言語は、「再構」という方法によって構築された。文献的証拠はないにもかかわらず、「進化過程の模擬操作」をする「再構」という手法によって、印欧祖語は一つの系統樹にまとめられた。この言語学者の「再構」という作業を、考古学的証拠によって補強したのが本書の著者アンソニーである。アンソニーは「クルガン仮説」で印欧語派の原郷とその拡散の謎を解き明かす。本書はなかなか難解な書物である。歴史言語学の説明や、舌を噛みそうな文化名・遺跡名の羅列などとくにそうである。然し興味深い指摘などもいくつかある。
(印欧祖語の原郷と拡散)
 印欧祖語を話す人々の原郷は、カフカスとウラル両山脈の間、黒海とカスピ海北部のステップ地域(ポントス・カスピ海ステップ)である。彼等は家畜化した馬、牛、羊を生贄にし、穀類もときおりは栽培していた。制度化された身分格差が葬送儀礼には見られた。この牛や羊は、おそらくドナウ川流域から持ち込まれた。それをもたらしたのは、アナトリア西部を発祥とする非印欧語を話す開拓者である。BC5800年頃移住してきた農耕民と先住の採集民との間に文化の境界地帯が生まれた。この固定化は2000年以上続いた。BC5200年頃、牛と羊の牧畜経済がポントス・カスピ海ステップに広がった。牧畜は食糧生産のための新しい手段であっただけではなかった。武力外交と儀礼に基礎をおく印欧文化の特徴を築くものであった。
  最初に移動を開始したのはグループAの特徴を持つ人々であった。まずBC4200~3900年頃前アナトリア語派が西に分離した。ステップにワゴンが導入されたのはBC3900年頃であるから、彼等は車を持たずに移動した。BC3700~3300年頃前トカラ語派が東へ移動した。次にグループBの西への移動が続いて起きた。前ゲルマン語派(BC3300年頃)、前ギリシア語派(BC2500年頃)、前インド・イラン語派(BC2500~2200年頃)である。その後インド語派とイラン語派は分離した。最後にグループCの前ケルト、バルト、スラブ、アルバニア語派が北・北西に移動した。そしてイラン語派は再び移動した。
(トカラ語の成立)
 注目すべきは前トカラ語派の移動である。彼等はカザフスタンを越えて2000キロ以上東のアルタイ山脈にまで移動した。アルタイ西部の草原松林地帯にアファナシェヴォ文化を開いた。ステップに由来する家畜と、金属器の形式、土器の形式と葬送習慣を持ち込んだ。後期アファナシェヴォの牧畜民はアルタイ山脈から天山山脈まで家畜をつれて移動した。そしてBC2000年以降、彼等は天山を越えてタリム盆地北部のオアシスに達した。タクラマカン砂漠北部で発見されたユーロポイドのミイラ(古墓溝、鉄板河古墓)はそのことを証明している。これらのミイラの最古のものはBC1800~1200年と測定されている。ミイラは葬送儀礼(周囲に岩棚状の段があり、蓋をした墓杭に、仰臥屈葬)に加え、象徴(ミイラの頬に描かれた頭飾りの絵)がステップのそれに類似している。BC12~9世紀にかけて、ユーラシアでは気温が低下して、旧来の生業パターン(農牧複合経済)がすたれ、北寄りの人々は遊牧を選び、南寄りの人々は定住農耕に活路を見出した。前者は騎乗を習得し、騎馬遊牧民となった。後に「月氏」と呼ばれた。後者はトカラA語(トルファン、カラーシャル)、トカラB語(クチャ)、トカラC語(楼蘭)の話者となった。トカラ語はクチャではAD8世紀頃まで使われていた。
(チャリオット)
 チャリオット(二輪戦車)は、二輪のスポーク型車輪を、ハミを付けた馬に引かせ、立ったまま操縦する乗り物で、ギャロップで走らせる。御者が座って操縦するカート(二輪馬車)とは違う。最古のチャリオットは、ステップでBC2000年以前に発明された。そこで戦争に使われた。二輪戦車は、ステップの馬と鋲つきのチークピースとともに中央アジア経由で近東に導入された。ミンタニオ人の戦車戦術は、戦車5~6台で部隊を組織し、それが6部隊(30~36台)と歩兵が合わさって旅団を形成する。中国(周)でも1部隊(戦車5台)×5で旅団を形成する。戦車1台に10~25人の歩兵が随伴する。戦車は戦場で轟音をたてて、高速で走り威圧感があった。中国に戦車をもたらしたのはアンドロノブォ文化の人々(イラン系)である。彼等は先発のアフォナシェヴオ文化(トカラ系)の人々を追うように、殷王朝時代の黄河渓谷地帯に到達した。戦車の傭兵として入ったという説もある。
 クルガン文化の拡散と原印欧語派の移動を結びつけるクルガン仮説は、印欧語派の原郷とその移動を説明しうる最も有力な推論である。以上を敷衍すれば、原印欧語派の分離と拡散から明らかなように、人種的・民族的同一性というようなものは存在しない。印欧語派やその一部を「アーリア人」や「アーリア民族」というのは明らかに誤りである。それは「言語」と「民族」や「人種」を同一視する近代の妄想でしかありえない。

2018年9月25日火曜日

「1969年」をふりかえる

  「『新左翼』運動の位相」 廣松渉 中央公論1969年9月号

 総合雑誌「中央公論」の特集「現代世界の思想状況」は、その好評にもかかわらず3回(最終は1969年1月)で中断した。その最大の理由は東大安田講堂攻防戦と69年4・28闘争における新左翼運動の敗北である。日本の新左翼運動は68年の東大・日大闘争と10・21新宿闘争をピークに躍進した。然し「安田ショック」は全共闘運動のうねりを一瞬凍りつかせた。その後全共闘運動は関西に飛び火したが、4・28闘争の不発は新左翼運動の行く末に不吉な影を落とした。かかる状況下で、中央公論編集者が次に着目したのが廣松渉である。
 廣松渉(1933~94)は当時名古屋大学の哲学担当助教授(学生の闘争を支持し70年3月辞任)。「ドイツ・イデオロギー」のテキスト・クリティークで高い評価を受けていた。とくにアドラツキー版は改竄に近い編集がされており、ほとんど偽書に近いことを暴露した。これは学者として不朽の文献学的業績であるのみならず、政治的闘争でもあった。革命マル派や社青同解放派の「疎外革命論」に対する批判でもあった。廣松は16歳で日本共産党に入党するなどの早熟のコミュニストであった。旧「国際派」に所属し、「九州独立運動」構想(九州「反米独立臨時政府」)を画策した。ブントには加盟しなかったが、周辺で支援していた。その後第2次ブントの再建には協力し、イデオローグの一人と目されていた。社学同の機関誌「理論戦線」8号(1969年3月)には批判的に摂取すべき文献として「共同幻想論」(吉本隆明)とともに廣松の「マルクス主義の成立過程」や「エンゲルス論」が挙げられている。また雑誌「情況」の創刊(1968年)には100万円を寄付した。この「政治好き」が後に「大ブント構想」の騒動を引き起こすことになる。
 中央公論編集者が廣松に依頼したのが本論考(政治論文は筆名門松暁鐘だが、廣松名)である。廣松は1969年を、マルクス主義における第2回目の危機と考えた。第1回目は正統派(ドイツ社民党、カウッキー)と修正主義(ベルンシュタイン)の相克。それはレーニンによって克服された。今回は「平和共存主義」(構改ソ連派)と「プロレタリア国際主義」(中共派)の相克。その中から分派した新左翼諸党派が乱立。新左翼の流動化はかつてのチンメルブァルト派を思わせる。現在をマルクス主義の第2段階から第3段階への跳躍場面ととらえた。そしてその課題を「武装大衆反乱型革命論」の模索とし、全共闘のノンセクトラジカルに期待を寄せた。全共闘運動に対しては「全世界的規模での構造的位相転換の歪み」がもたらしたものととらえた。全共闘が問い返したのは、大学制度の問題や戦後の価値規範(民主主義や現体制)ではなく、近代合理主義の地平そのものだとした。本論考は「マルクス主義の地平」とともにいくつかの大学のサークルで読まれた。関学の「近代合理主義研究会」でも学習会のテキストとして使用された。70年闘争、就中11月闘争を戦う道標として。
 然しその廣松理論も70年に入るとリアリティーを失ってゆく。「ブントと構改派の理論的対立が止揚されつつある」という楽天的な認識は「大ブント構想」として革マル派に揶揄される。それはフロントが機関紙「平和と社会主義」を「戦旗」をもじった「先駆」に改題したり、プロ学同が緑ヘルを赤に塗り替えたに過ぎない。それどころかこの構想が独り歩きすると、第2次ブントとめどない分裂過程に入ることになる。

2018年8月13日月曜日

「日本」誕生の謎

  「漢委奴国王から天皇へ」 冨谷至 臨川書店 2018年

 「日本」や「天皇」という名称がいつ、どのように成立したのか。日本史の研究者は様々に論じてきたが、教科書はそれをはっきりと解説していない。これらの名称が対外的に使用された以上、中国との関係を無視して論じられない。著者は東洋史家の立場から、この謎の解明に挑む。
(「金印」はどう読むか)
 天明4年(1784)に福岡県志賀島で農夫が偶然に「金印」を発掘した。印には「漢委奴国王」の文字があった。これは「後漢書」の中の「中元二年(AD57)春。東夷の倭国王、使いを遣わして奉献す」(光武帝紀)、「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝貢す」(東夷伝)という記述に対応するものとみなされた。金印の読みは、三宅米吉が「史学雑誌」に発表(1892年)した「漢の委(わ)の奴(な)の国王(こくおう)」が通説となり、教科書などもそれに従っている。異説としては「委奴」を「伊都」とする見方がある。然し邪馬台国の時代より200年も前のAD57年頃に「奴国」や「伊都国」があったか疑問である。なにより「倭奴」の「奴」は異民族の国名に付けた卑下の接尾辞なのである。例えば「匈奴」のように。また中国皇帝が異民族の首長に与えるのは「王」であって「国王」ではない。従って金印は「漢の倭奴国(わどこく)・王」と読むと著者は明快に裁定する。
(「七支刀」の読み方)
 その後倭王は、卑弥呼の「親魏倭王」を皮切りに、「倭の五王」時代には中国南朝に対して「官職」を求め続けた。例えば一品官に相当する「開府儀同三司」を、まるで中国の足下を見透かすように執拗に求めるなど。このような中国の複雑な官制の仕組みを熟知しえたのは、すでに漢字が日本列島に導入されていたからである。その例証としては、天理市石上神宮所蔵「七支刀」の銘文がある。その「泰□四年五□十六日、丙午正陽」は、従来冒頭4文字は「大和四年」(AD369)と解釈されていた。然しこれは憶測を重ねた推論で、著者は「泰始四年」(AD468)と判読する。「都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事」である倭王が朝鮮半島に侵出した時代である。七支刀はかかる時代に、高句麗の南下に苦しむ百済王が、同盟の証として倭王に贈ったものである。
 中国から与えられた称号「王」は5世紀まで引き継がれていた。6世紀における、百年間の中国との外交的空白期間は、中国の朝貢国という立場を白紙にした。608年の遣隋使の国書には、「日本書紀」によれば「東天皇敬白西皇帝」と記されている。「書記」が編纂された720年頃には「王」は忌むべき称号になっていた。天皇号に先立つ名称は「オオキミ」である。「王」も「大王」もそう呼ばれていた。国内的には問題ないが、対外的には中国の朝貢国としての「王」と言う漢字は忌避したい。倭王の正式名称は「治天下大王」であるが、「皇」に「天」を接頭した「天皇」という新たな造語が登場したのである。その和訓も「オオキミ」から「スメラミコト」になった。「治天下」の和訓も「アメノシタシラス」に一新された。かくして「治天下大王」は「御宇天皇」、すなわち「アメノシタシラス スメラミコト」になった。「旧唐書」東夷伝によれば、倭は名称がよくないということで、則天武后期(684~704年)に、日本側からの要望で国名変更がなされたという。「倭」から「日本」に変更されても、和音名称「ヤマト」は変わらない。「白村江戦役」から20年後、702年の遣唐使が国名としての「日本」を宣言したのが日本の初出である。「日本」という国名の成立は「壬申の乱」以降の天武朝あたりと推測される。「天皇」号成立の時期とほぼ見合う。それは東アジアにおける新しい独立国家の成立であった。「倭王」の登場から「日本」の成立までの間に日本列島で何があったのか。「日本」誕生の謎を解き明かす著者の筆はスリリングである。また各章の扉に引用されている「歴史教科書」との対比は興味深い。

2018年7月2日月曜日

西域の山 ムスターグ・アタ

  「ダッタンの山」(ヒマラヤ人と辺境7)E.シンプトン 白水社 1975年

 ムスターグ・アタは新疆ウイグル自治区の西端、パミール高原の東壁をなすカシュガル山脈中ひときわ高く聳えたっている。ムスターグは氷の山、アタは父の意味で,「氷の山の父」である。この山は新疆僻遠の町タッシュクルガンの北北西にある。唐の時代、安西四鎮の一つカシュガル都督府の出先として葱嶺守捉がタシュクルガンに置かれていた。クンジュラブ峠を越えればギルギッドを経てインド方面には最短路で行ける。またワフジール峠をを越せばワハンを抜けてイランに達する。葱嶺守捉はその両道ににらみをきかせていた。
 ムスターグ・アタを最初に試登したのはヘディンである。1894年4月ヘディンは6人の従者とともにスバシから南南東に向かって北の山稜から登り始めた。然し本格的な登山装備もなく、5334米の地点で登頂を断念した。次に1907年7月スタインがこの山に挑戦した。ヘディン同様北の山稜から登頂を開始した。5030米まではヤクに乗っての登山であった。然し荒天のため6100米地点で断念した。従者のフンザ人は偵察のため更に上まで登っていたが、氷河に阻まれ引き返している。
 この山に初めて近代登山の鍬を入れたのはシンプトンとティルマンである。二人は1930年代にいくどもヒマラヤ登山をしたヴェテランである。二度目のカシュガル領事についていたシンプトンは、ラカポシ試登後帰途中のティルマンとタッシュクルガンで合流した。1947年8月6日である。ティルマンとシンプトン夫妻、シェルパのギャルゲン、トルコ人の従者とヤク使いという小パーティーを編成した。8月11日朝8時山麓のヤムブラクという牧草地を出発。ムスターグ・アタは二つの峰からなっており、北稜と主峰の間がコルに
なっている。ヘディンやスタインは北稜から登ったが、シンプトンらは直接主峰に連なる南稜からのルートをとった。1時間ほど進むとヤムブラク氷河に出た。更に1時間登と南山稜4500米に達した。山稜は非常に幅が広く、最初の750米はさして急斜面ではなかった。推測航法で450米/1時間の割合で高度を稼いだ。15時15分頃岩の最先端に達し、第1キャンプを設営した。シンプトン夫人とその従者、ヤク使いはここから引き返した。12日7時15分出発。アイスフォールの中のルートを通過。それから2時間、ルートを見つけるのは困難だったが、11時半頃下からよく見えるくぼみに着いた。そこから先は柔らかい雪になり前進は苦しくなった。15時半6250米で第2キャンプを設営。十分高度を稼いでいるので、明日ここから山頂を直接アタックすることにした。あと1200米である。13日6時15分出発。ティルマンの調子が悪くもう一日休養すべきであったが、あえて出発した。最初の1時間は雪も良好で順調であった。それから雪の状態が急変し、表面はうすいクラストになった。上の柔らかい雪に30センチ以上ももぐってしまう。天候はよかったが、山稜を越えてくる風は冷たい。肌を突き刺すようで、身体が震えはじめた。太陽は射してきたが、正午になっても暖かみはなかった。「午後、小さい早く移動する雲が、頂上200米くらいの山稜ににとりついた。これで、すっかり、自分たちが頂上のすぐ近くを登っているのだと思い込んだ。いまや登頂に疑いをまったくいだかなかった」(本書P141)14時半頃、傾斜がゆるやかになって、明らかに頂上のドームと思われる地点に達した。「頂上のプラートの広さについてはつかんでいなかった。いまや高度より距離が問題であった。そして、この広い雪の拡がりのなかで、最高点をみつけるのは数時間もとぼとぼ歩きまわらねばならないという思いに気が滅入ってしまった」(同P141)安堵と無念の混じった気持ちでシンプトン達は下山した。この登山をムスターグ・アタの初登頂とするかは意見が分かれている。
 深田久弥によれば、文句なしの初登頂は1956年7月31日のソ連・中国合同登山隊(隊長エフゲニー・ベレツキー ソ連19名、中国12名)である。登頂路はシンプトンのルートをとり、第1~5のキャンプを設営した。第5キャンプから350米をアタックし、31名の大人数で頂上に立った。続いて1959年7月7日に中国隊(隊長史占春 47名)が33名(男25名、女8名)の大量登頂を果たした。新華社電は「中国の年若い男女登山家たちは、難関を突破して海抜7546メートル、白雪におおわれたムスターグ・アタ山頂に五星紅旗をかかげ、女子登山高度の世界記録および海抜7500メートル以上の安全登山の人数の世界記録を樹立した」と誇らかに報じている。ムスターグ・アタの標高について本書や深田はスタイン計測の7433米としているが、合同隊によって7546米と訂正された。ムスターグ・アタ登山はカシュガルから200キロ、カラコルムハイウェイに近いスバシ(3600米)が基地になる。そのためアプローチしやすく、近年多くの登山家を集めている。

2018年6月1日金曜日

「1968年」をふり返る

   「現代世界の思想状況1~3回」中央公論68年3月、9月、69年1月

 総合雑誌「中央公論」は1968年に「現代世界の思想状況」を企画し連載した。企画では4回の予定であったが、実際に掲載されたのは「構造主義とは何か」(68年月)、「ロンドン・ルネサンス」(68年9月)、「革命思想の新しい展開」(69年1月)の三回であった。「中央公論」はなぜこの時期にこのような特集を企画したのか。そして第四回目の「政策に参加する知識人」は打ち切られたのか。それは「1968年」という時代状況と大きく関わっている。
 「1968年」とはどんな時代であったのか。国内では三派全学連による街頭闘争が激化していた。10・8羽田闘争から佐世保エンタープライズ入港阻止闘争(68年1月)、三里塚空港建設反対闘争(2月)、王子野戦病院反対闘争(3月)まで。所謂「激動の7か月」である。また大学内では、日大の使途不明金問題、東大医学部の誤処分に端を発した反対運動が全共闘の結成によって全学化(無期限スト、封鎖)していた。「全共闘」の闘いは全国に波及しつつあった。一方海外に眼を転ずれば。フランスでは「パリの5月革命」がソルボンヌの学生を先頭に労働者を巻き込んで政治危機化していた。ドイツでもSDSによる学生革命が白熱していた。アメリカでも公民権運動とベトナム反戦運動が大きなうねりを作っていた。社会主義圏においても、チェコでは「人間の顔をした社会主義」を標ぼうするドプチェクの「プラハの春」が開花していた。また中国でも文化大革命が最高潮に達していた。このような時代を背景に、中央公論の「特集」は企画された。それはあたかも太平洋戦争中の1943年に同誌上で企画された座談会「世界史における日本の立場」のごとく、状況を切り拓く意図があったのかもしれない。編集部は「この企画はしたがって、現代思想の状況に一つの座標軸を設定しようとする野心的試みであり、現代文化の地理学であるとともに、新しい角度からなされる知識人論であります」と記している。ジャーナリズム的嗅覚にすぐれた「特集」ではあった。
(構造主義とは何か)
 「歴史に裏切られ、歴史に失望したフランスの左翼は、未開人の方に向かった」として、まず人類学者のレヴィ=ストロースが構造主義の元祖として紹介される。さらにその代表的論客であるジャック・ラカン(精神分析)、ミシェール・フーコ(哲学)、アルチュセールが紹介される。これらは70年代にもてはやされたが、やがてポストモダンに収斂される。その反歴史性は、「マルクスに反対するためのブルジョワジーの最後の防壁」(サルトル)、「現状維持のイデオロギー」(ルフェーブル)であることを歴史によって証明された。
(ロンドン・ルネサンス)
 「スエズの東」を失い、ポンドが基軸通貨の位置を降り、グリニッジ標準時が廃止され、英国は凋落のどん底に陥った。然し労働者の下層階級から新しい波が起こった。演劇(オズボーン)、大衆音楽(ビートルズ、ローリングストーンズ)、マヌカンのトゥイギーなど下克上のエネルギーは風俗の全般に渡ってほとぼしり出た。68年のロンドンは、当時最も躍動する都市であった。20世紀初頭のウィーン、20年代のパリ、30年代のニューヨーク、50年代のローマのように。然しこの「革命」はたかだか風俗と文化のそれであった。それ故やがてサチャー政権の「新自由主義」の下に沈殿していった。
(革命思想の新しい展開)
 「5月革命」から新宿10・21に至る一連の急進主義の噴出を、「われわれの文明とその未来に対する、根本的な問い」として受け止めると編集部はいう。その担い手としてマルクーゼやベンヤミン、アドルノらのフランクフルト学派とゲバラ、ファノン、ブラックパンサーら第三世界の革命家に期待を寄せる。
 何故この「特集」第四回は没になったのか。それは中央公論社の労働争議と68年政治状況の暗転による。新左翼の街頭闘争は新宿10・21でピークを迎え、諸党派は「軍事力学主義」の泥沼に堕ち込みつつあった。また学園闘争も,東大全共闘は大衆的基盤を失いつつあった。それは安田講堂攻防戦(1・18~19)で決定的になった。その後全共闘運動は関西に波及したが。このような企画を続ける社会的基盤はなくなった。
 「第三世界」への憧憬はやがて「辺境最深部に向かって退却せよ!」(太田竜)という窮民革命論に解消されて無残なものになった。それ故この企画が積み残した課題はもっぱらフランクフルト学派をめぐるものになる。この学派は68年には第一世代マルクーゼやアドルノらが紹介され、その中身は「近代合理主義批判」である。その後第二世代(ハーバマス)や第三世代が紹介された。然しより重要なのはこの学派の初期である。例えば①ルカーチとの関係、②ウィットフォーゲルとの関係、③福本和夫との関連などの考究は不可欠である。「学派」に対する「ヘーゲル左派」(コミンテルン系)、「68~9年の元凶」(右派)という非難・レッテル貼りが横行するのは、上記3点が充分に究明されていないことの証左でもある。

2018年5月12日土曜日

深田久弥 人生の好日

  「シルクロードの旅」深田久弥 朝日新聞社 1974年
                ( 深田久弥・山の文学全集巻10所収)

 1966年1月23日、著者を隊長とする「シルクロード踏査隊」が横浜港からバイカル号でナホトカに向けて出発した。メンバーは長澤和俊(副隊長 東洋史家)、藤原一晃(白水社)、鈴木重彦(登山家)と後援を得た朝日新聞の高木正幸(記者)、関沢保治(カメラマン)、吉川尚郎(朝日テレビニュース)の総勢7名である。
 当時シルクロードの旅が可能であったのは西アジア(トルコ、イラン、イラク、アフガニスタン)とソ連領トルキスタンであった。中国領トルキスタンは夢のまた夢であった。然し日中平和友好条約締結以降の1980年頃を境に、中国領トルキスタンは旅行可能になる一方、西アジアは次第に立ち入り困難になってきた。ホメイニ革命(1979年)後のイラン(現在は旅行可)や、ソ連侵攻(1979年)以降のアフガンがその始めで、レバノンやイラクそしてシリアが続いた。隔世の感があるが、今となっては貴重な旅の記録である。2台の車(フォルクスワーゲンのマイクロバスとトヨタのランドクルーザー)で各地(ソ連以外)を廻り、遺跡を調査するというのは当時としてはユニークな試みであった。
(ヨーロッパを縦断してイスタンブールへ)
 一行はナホトカからシベリア鉄道でハバロフスクへ、そこから飛行機でモスクワを経由してヨーロッパへ向かった。このような経路をとったのは、もっぱら経済的な理由とハノーヴァーでマイクロバスを受け取るためである。当時航空運賃はとてつもなく高かった。マイクロバスでオーストリア、ユーゴ、ギリシャを経てイスタンブールに入った。深田達はヨーロッパ旅行のおまけが付いたと喜んだ。
 イスタンブールが旅の出発点になったのは、そこがアジアとヨーロッパの境だからである。深田にとってイスタンブールはコンスタンティノープルである。「世界中で真に古都の名に値する都市が三つある。パリと北京とコンスタンティノープルである」そして「今私はコンスタンティノープルのいちばん高い塔の上に立って,ボスポラス海峡の向こうのアジアの地を眺めている。これからの多彩な長い前途を思って、私は身震いする」(「シルクロード」角川選書1972年)その後、日本から送ったランドクルーザーを受け取りにベイルートに入る。「中東のパリ」と呼ばれたベイルートも今では内戦の影響で入り難い。
(ソ連領トルキスタン)
 ソ連の旅程はインツーリストによって決まっていた。車での移動は認められない。列車で国境を越え、トビリシからすべて空路になる。アンカラを発つ前の晩。「ホテルの近くのキャバレーへオリエンタル・ダンスを見に行った。身振りの激しいその情熱的な踊りを私に見せようという、友人たちの親切な誘いであったが、女たちの勧める酒に私は酔った」(本書P51)という仕儀になる。空路でタシケントに入り、そこからフルンゼ、ブハラ、サマルカンドをめぐる。近代化が進むソ連領トルキスタンの旅は深田には期待はずれであったようだ。然しブハラの見捨てられたような裏町には昔の中央アジアのの空気があった。「迷路のように狭い道が入り組んで続いている。両側は低い土の壁で、ところどころにある入り口がそこが民家であることを示している。入口は観音開きの頑丈な板扉がついていて、その扉にも大きな錠がさがっている」(本書P87~88)
(アララット山~イラン~アフガニスタン)
 一行は再びトルコに戻る。かねてから計画の「ノアの箱舟の山」アララット山登頂のためである。然し積雪期ゆえ、頂上まであと二百米で引き返す。ここら当たりはクルド族の住地で、イランとの国境地帯である。ダブリズを経てテヘランに入る。テヘランはイラン北辺を東西に走るエルブルーズ山脈南麓の扇状傾斜地にある。つねにその主峯デマヴェンド(5601米)の雪山が見える。イランの安藤大使は深田の旧友である。「彼はすぐ奥さんと坊ちゃんを連れてでてきて、私たちを中華料理店に招いてくれた。安藤君と私はしまいに手を拍って『ああ玉杯』をうたいだすほどいい気持ちに酔っていた」(本書P138)さらにテヘラン滞在中の食事はすべて引き受けるという厚遇ぶりである。古都ハマダンやペルセポリスをめぐり、メシェッドからアフガンのヘラートに抜ける。ヘラートはかつての中央アジアの中心である。アフガン最大の見ものであるバーミヤンの大仏を見るが、今はない。この踏査の目的地の一つである古都バルク(バルフ)に長澤は到達しているが、深田は行っていない。カブールからカイバル峠を越えれば印パ国境は近い。デリーに到着したのは5月20日。4か月に及ぶ「シルクロードの旅」は終わった。
 朝日新聞社の後援を得ての「シルクロード踏査隊」は深田の長年の研究を踏まえての現地調査であった。2台の車に分乗して、1日に千キロにも及ぶ強行軍も辞さず14カ国を廻った。その成果は長澤によれば次のようであった。第一はパミール以西のシルクロードの全般踏査をし、遺跡を調査したこと。第二はマルコポーロのルートをたどり、その細部について明らかしたこと。そして第三は各地博物館や収集した遺品などにより東西交渉史研究の基礎をつくったことなど。後年長澤は東洋史学者として大成する。
 本書を読めば、深田の「隊長」としての悠揚せまらざる姿がほうふつとして浮かびあがってくる。それはまた「百名山の作家」深田久弥の起伏の多い人生に訪れた、つかの間の人生の好日でもあった。旅行後深田が長澤に贈った色紙には「シルクロードの春 わが人生最良の旅」と書かれていた。
 本書のオリジナルは著者の没後朝日新聞社から刊行された「シルクロードの旅」(1971年6月)である。1章「ヨーロッパ縦断」2章「ソ連領トルキスタン」3章「ノアの箱舟の山」と4章「砂漠と歴史の国々」の一部(21枚)の計370枚が本書のための書き下ろし。4章は100枚の予定であったが絶筆になった。そのため「シルクロード 過去と現在」(長澤との共著白水社)の原稿を再録。5章「僻遠の地、西域の都市」は1969、70年の二度のソ連トルキスタン旅行をもとに書かれた原稿を援用。また角川選書「シルクロード」は異本。その2部は「世界の屋根」に連載された「西シルクロード」(1966年1~12月)、「ソ連領トルキスタン」(1967年1~12月)24回のうち本書や「中央アジア探検史」と重複しない部分を13章を編集したものである。これらの編集には副隊長であった長澤が当たった。


2018年4月9日月曜日

新疆に入った日本人

  「新疆ウイグル自治区と日本人①~⑦」中田吉信 アジア・アフリカ資料通報
              1983年8月~1985年7月 国立国会図書館

 金子民雄は「中央アジアに入った日本人」文庫版(1992年)のあとがきで、元版(1973年)を書いた頃は、新疆ウイグル自治区には全く立ち入ることは出来ず、現地の情報もなかったと述べている。当時は日中平和友好条約締結前で、新疆はおろか中国本土に入るのも容易ではなかった。金子は比較的情報の多い明治の三名について記述している。西徳ニ郎、福島安正、日野強である。この中で新疆入りしたのは日野のみである。それ以降については全くお手上げであったという。第一次大戦後から第二次大戦前までの戦間期である大正・昭和前期はどのような状況であったのか。その空白を埋める貴重な記録が、「アジア・アフリカ資料通報」に連載された中田吉信の論考「新疆ウイグル自治区に入った日本人」である。本論考では①を明治期の浦敬一、波多野養作、桜井好孝、林出賢次郎、日野強にあてている。②公文直太朗、佐多繁治③成田哲夫、継屯④~⑤副島次郎は大正期を扱っている。昭和前期は⑥小泉浩太⑦大西忠である。情報の多い明治期や近年著書が復刊された副島次郎(「アジアを跨ぐ」白水社1987年)を除いて、知れざる大正・昭和前期の人々について以下内容を要約して紹介する。
 大正期は中華民国初期にあたり、本土と異なり新疆省の政情は比較的安定していた。また「日支陸軍共同防滴軍事協定」(1918年5月16日)が締結され、日本陸軍は蒙古・新疆地区に諜報機関を設置することが認められていた。
公文直太朗1891~1929)は1913年(大正2)11月北京を出発し、5か月かけて蘭州経由嘉峪関に至った。ゴビを横断しハミに至り、ウルムチ、トルァン、トクスン、クチャを経てカシュガル至った。インド国境では英軍に捕らえられたが、数年インド滞在の後渡米した。1924年(大正13)帰国。公文に関しては不明なことが多い。その旅程を報じたのは「痛快なる旅行家ー何人の助けも借らず単身植物採集をしつつ中央亜細亜を横断せんとす」(大正2年9月26日)という満州日日新聞の記事である。
(佐多繁治)は元陸軍下士官で、宗教研究を名目にして軍の依頼によりウルムチで諜報活動に従事した。ウルムチに来たのは1916年(民国5年)。三井物産の調査をしていたとも言われている。この当時佐多以外にも数人の日本人が新疆にいた。それもロシアとの国境の街タルバガタイに。3人の芸妓とその家族である。彼女達は「情報」を佐多に送っていた。
成田少佐一行)日本陸軍は1918年「日支陸軍共同防滴軍事協定」により新疆省に諜報機関を正式に設置した。その配置は成田少佐以下次のようである。
ウルムチ: 成田哲夫(駐在員 少佐)、大滝剛一(嘱託)、金子信貴(雇用人)
イリ:   長嶺亀助(駐在員 大尉)、佐藤甫(嘱託)
カシュガル:相場重雄(駐在員 大尉)、富永三省(嘱託)
またタルバガタイには田島大尉が派遣されていた可能性もある。1921年1月「協定」は終了し、諜報機関員は帰国した。然し彼等は9人の間諜(カシュガリア人4人、英国籍者3人、中国人2人)を残していった。
(継屯 つぐたむろ)1919年新疆省主席楊増新顧問の名目で新疆入りした。成田少佐一行支援のためである。洛陽近くまで汽車で行き、そこから馬車で西安、蘭州を経て、涼州、粛州、安西、ハミ経由でウルムチに入った。当時継は陸軍少佐であった。
 昭和に入ると、中国の排日気運は年ごとに強まった。新疆に入るのは命がけでまさしく「潜入」であった。この時期新疆入りに失敗した小泉浩太となんとか潜入を果たした大西忠を著者はあげている。
小泉浩太1903~1932?)小泉は日本に亡命したトルコ・タタールの志士クルバン・ガリの弟子になり、語学を学びイスラム教に改宗し、メッカ巡礼を計画した。その計画は帰化城からオルドス経由で新疆に入り、アフガン、イラン、イラク、シリア、エジプトからメッカ入りを目指すという綿密かつ気宇壮大なものであった。実際の旅程はそのようにはならなかった。1931年(昭和6)5月10日北京出発。包頭到着後31日出立しオルドス経由で6月16日寧夏に入った。馬公子の隊商に加わって行った。小泉手記(「回教の首都を目指して」)によれば、その後蘭州に達したことが分かる。ここまでは旅は順調であった。然し蘭州で「挙動不審の廉」で中国官憲に逮捕される。なんとか釈放され8月新疆に向けて出立するが行方不明となる。小泉の消息に関しては二つ情報がある。①8月中旬安西付近で「米人1名、スウェーデン人1名、日本人1名」が遭難という米国漢口領事の報告,②安西で捕らえられ陝西まで送られ、楊虎城の部下に殺害されたというものである。1931年9月には満州事変が勃発しており、日本人が中国奥地まで入るのは極めて危険であった。
(于華亭もしくは大西忠?~1942)1930~34年新疆はイスラム教徒の反乱によりおおいに乱れた。ハミのイスラム教徒支援のため新疆入りした馬仲英軍に「于華亭」と名乗る日本人がいた。大西忠である。盛世才は回想録で「馬仲英の背後には日本帝国主義がいる」、「于華亭は実は日本の"agent"ー特務機関であった」と記している。大西はその後奇台の戦闘で盛世才軍に捕らえられ、ウルムチに監禁されていた。密電解読の特殊技能があり優遇されていたが、1942年ウルムチ第五監獄で獄死した。大西は1930年8月参謀本部今田少将によって密かに天津に派遣された。天津駐屯軍松本健児参謀長は甘粛の馬仲英工作のため大西を派遣した。馬仲英とともに新疆進攻を計画するためである。著者は、大西は陸軍将校であるが、何らかの事情で軍から逃亡し、北京で川村狂堂の援助で西北地区に入り、馬仲英軍に投じたとも推測している。
 その頃新疆に潜入した日本人は他にもいた。例えば1935年5月に漢人に変装した二人の日本人がハミのヨルバス・ハンに会い飛行場建設計画を協議している。またホータンの馬虎山配下の「スギシャン」副官は杉山あるいは椙山という日本人である。「青海帰り」と自称していた大陸浪人大迫武夫はホータンまで潜入していた可能性がある。いずれも関東軍の防共回廊工作を担当する特務機関員である。彼等は小泉や大西と同じようにみな帰らなかった。日本人が合法的に新疆を旅行することが可能になるのは「平和友好条約」締結後の1980年代以降である。

2018年2月27日火曜日

「清張鉄道1万3500キロ」を読む

   「清張鉄道1万3500キロ」 赤塚隆二 文藝春秋 2017年

 本書はユニークな松本清張研究書である。著者はJR全線を完乗した「乗り鉄」である。筋金入りの乗り鉄にふさわしく、乗り鉄場面のある清張作品320点を精査して、初乗り場面がある134作品をリストアップした。それはデビュー作「西郷札」(1951年)から没後発表された「犯罪の回送」(1992年)まで及ぶ。例えば「西郷札」の初乗り区間は東海道線新橋から横浜まで26.9キロ。「犯罪の回送」では、東北新幹線の上野ー新花巻(496.1キロ)、新花巻ー盛岡(35.3キロ)が、それぞれ市議団、警視庁刑事によって初乗りされるという具合に。かくして清張作品の初乗り路線は1万3500キロにも達する。
 初乗り路線を経年的に考察する意義として著者は二点を挙げている。作品舞台の広がりが一目瞭然であること。そして車窓風景の変化が描写されていることである。作品の舞台は最初は出身地の九州が多かったが、その後全国に広がった。登場人物が足しげく向かうのは信州や山梨、父母の出身地の中国地方である。多忙であった清張には遠方に取材する余裕がなく、東京近郊や甲信地方が自ずと小説の舞台になった。1955年を境に、清張作品ではストーリー中の鉄道旅の比重が大きくなった。それは国鉄の、進駐軍優先から日本人向けのサービス改善を目指したダイヤ改正の影響でもある。長距離急行には2等車、3等車、寝台車、食堂車がフル装備されるようになり、「阿蘇」「きりしま」など旅情を誘う愛称がつけられた。経済白書が「最早戦後ではない」と総括したのは1956年であった。そして続く高度成長の時代は車窓の風景を急激に変えた。かつてはどこの地方都市にもあった駅前旅館。それも昭和とともに姿を消した。「旅する」ことの意味の変化は適格にとらえられていた。
 清張はステレオタイプの社会派ミステリーを濫造する大衆作家と思われているが、風景描写には詩情がある。それは絵葉書的景色ではない。清張が好んで描くのは次のような風景である。「汽車は一時間くらいかかった。可部は、古い、狭い町だった。町の真ん中を川が流れている。大田川という名前で、この下流は広島湾に注いでいる。山と水の町だが、そこはかとない頽廃が旧い家並みに沈んでいた」(「駅路」)その描写を支えているのが乗り鉄場面の「旅情」である。その旅情は長距離列車の旅が持つタイムトンネル効果に起因している。一旦列車に乗ると心理的には、過去をたどったり、いち早く未来に到達したりする。例えば「張り込み」の乗り鉄場面では、逃げる犯人は過去の追憶にふけり、追う刑事達は犯人逮捕の未来に向かっているというように。
 清張は乗り鉄場面を描くことによってマンネリに陥ることはなかった。「乗り鉄」というアイデアの引き出しに多くのネタを持っていたのである。芥川龍之介や三島由紀夫のようにネタ枯渇に悩むことはなかった。著者の分析によれば乗り鉄場面の多いベスト5はそれぞれ以下のようである。(初乗り路線)①「蒼い描点」②「火の記憶」③「犯罪の回送」④「点と線」⑤「白い闇」(既乗り路線)①「点と線」②「時間の習俗」③「砂の器」④「神々の乱心」⑤「不安の演奏」代表作はほとんど入っている。乗り鉄場面の多寡と作品の評価は相関関係にあるといえる。本書はユニークな清張論であるとともに、清張作品のアンソロジーとしても読める。

2018年2月6日火曜日

「第三の眼」の秘密~偽書・盗作の海をゆく①

 「第三の眼~秘境チベットに生まれて 」ロブサン・ランバ 光文社 1957年

 今から60年ほど前の1956年、本書のオリジナル「THE THIRD EYE」がロンドンのセッカー&ワーパーク社から出版され話題を呼んだ。その後10ヵ国以上で翻訳され世界的ベストセラーになった。日本でも翌年邦訳され10万部を記録した。著者はチベット貴族出身の亡命ラマ僧と称するロブサン・ランバ。その数奇な経歴と、知らざれるチベットの奇習の数々が読書界の話題をさらった。一例をあげれば麻酔なしの第三の眼開眼手術やミイラ作り、大ダコに乗っての空中歩行、テレパシーなどのラマ教の秘術等々。然し当初からチベット滞在経験があった多田等観らは、奇抜な内容に疑義を呈していた。果せるかな、その後外電は、ロブサンは詐欺師で生粋の英国人で、チベットはおろか外国へも行ったことがないと伝えた。
 ロブサンの正体はシリル・ヘンリー・ホプキンズという英国人である。当時47才。ブリキ職人の息子に生まれ、ロンドンで職業訓練学校の簿記係を務めていたが、1947年「啓示」を受けて別の人格になったと称していた。名前をクアン・スミス博士と変え、ロンドンの骨董街ケンジントンで、チベット出土と称する骨董品を売買する店舗を構えていた。その顧客に怪しげな予言や奇跡医療を施すまでになっていた。そして次のように宣っていた。「私は心ならずも自分の名を変えた。英国人としての私の生涯の記憶は消え失せた・・・・軽い事故があって、脳震盪を起こしていたのである。(中略)記憶はことごとく消え失せていた。その代わりに私は、チベット人としての自分の生活を幼年時代からはっきりと記憶にとどめているのだった・・・・私の肉体はある真物のラマ僧の霊に憑かれたのだ」
 本書は正真正銘の偽書である。偽書とは記述内容に誤りがあるものをいうのではなく、作者名を偽っているものをさす。それは偽作の意図とは関係がない。記述内容に信憑性があれば偽書でないというのは錯覚に過ぎない。本書が読者を、そのような錯覚に誘うのは、チベットの奇習に関する記述の故である。ホプキンスはこのようなチベットの奇習をどこから仕入れたのか。本書中にそのヒントがある。第13章「第三の眼を用いて」の中に「チャールス・ベル」という項目がある。ベルは言わずと知れたチベット学者で、ダライ・ラマ13世の信頼厚い英国外交官である。その3部作「西蔵 過去と現在」(1924年)、「チベットの人々」(1928年)、「チベットの宗教」(1931年)が最大の情報源である。「西蔵」のみ邦訳(生活社1940年)があり、近年復刻版(慧文社2009年)が出ている。他は未邦訳である。河口慧海の「西蔵旅行記」の英訳(1909年)も利用している。またマルコ・パリス(当時の英国駐ギリシャ大使)の著書「高僧とラマ僧たち」(1930年)からの剽窃箇所が甚だしいとして、厳重に抗議されている。あまつさえパリスは私立探偵クリフォードに調査を依頼した。ロブサンの正体露見はこの探偵の手柄である。
  本書のような偽書が大手ふって流通するのは、チベットが当時も半鎖国状態であったからである。その後状況はやや緩和され、その「需要」は減った。本書も忘れ去られた。1974年講談社から新訳(白井正夫訳)が「偽書」と注記して刊行されたのみである。然し、現在のように「チベット自治区」の政治的秘境化がさらに進めば、本書が亡霊のように甦るかもしれない。

2018年1月8日月曜日

ノーベル賞の舞台裏を覗いてみれば

  「ノーベル賞の舞台裏」共同通信ロンドン支局取材班編 ちくま新書 2017年

 毎年12月になると、スウェーデンとノルウェーの両首都は厳冬にもかかわらず華やぐ。12月10日は発明王アルフレッド・ノーベルの命日である。この日ノーベル賞の授賞式が行われ、俄然世界の目がこの両首都に集まる。文学賞など4賞の授賞式はストックホルムだが、平和賞授賞式のみはオスロで行われる。両国は兄弟国だが、ノーベル自身は、スウェーデンよりノルウェーの方がより平和志向が強いと考えていたからだという。ノーベル賞選考過程は厚い秘密のヴェールに閉ざされている。然し50年を過ぎると扉がわずかに開き、その一端を覗うことが出来る。
 文学賞は最も客観性が担保しにくい分野の賞である。そのような背景の下で村上春樹をめぐる「ノーベル賞狂騒曲」が繰り返される。「ハルキ狂騒曲」が始まったのは2006年。この年世界最大のブックメーカーが受賞者予想のオッズで村上を6位に位置付けた。以降村上はオッズ上位を維持、2012年には1位となった。然しスウェーデンの事情通によれば「常に候補者リストには入っていると思うが、専門家の多くは受賞が現実的とは見なしていない」と言う。「文学好きの玄人」より、「幅広い一般読者」に支持されているという通俗性をアカデミーは危惧している。そもそも最終候補(5~6人)に入っているか疑問符がつくとしている。
  平和賞も問題の多い分野である。百年を越すノーベル賞の歴史の中で最も問題視されているのが佐藤栄作への平和賞授与(1974年)である。授賞理由の「非核三原則」のインチキ性(有名無実なこと)がその後明らかになった。沖縄返還交渉中の69年に有事の際の沖縄への核持ち込みをニクソンと密約した文書の存在が判明したのである。最もこれは69年当時先進的学生が徹底的に暴露・批判したことではあるが。
 経済学賞だけはノーベルの遺言には記されていない。1968年にスウェーデンリスクバンクの300周年記念事業として創設されたものである。正式名称は「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデンリスクバンク経済賞」である。賞金も同行が負担している。ノーベル賞の公式サイトにも「経済学賞はノーベル賞ではない」と明記されている。賞の選考も偏向的で問題が多いとされている。新古典派や新自由主義の受賞者が多く、とくにハイエクやフリードマンなど「シカゴ学派」が78名中26名と突出している。
 最近ノーベル賞で問題になっているのは、オリンピックのように国別でメダルの数を競う傾向である。これは比較的客観性が担保されている理系の物理・化学・医学生理学賞の分野で顕著である。例えば山中伸弥が医学生理学賞授賞の報を受けた時の談話ににノーベル賞委員会は激怒した。「日本、日の丸の支援がなければ、こんな素晴らしい賞を受賞できなかった。まさに日本人が受賞した賞」(於京大 2012年10月8日)は日本では当たり前だが、委員会の考え方は違う。国家と個人を切り離すのがノーベルの遺志なのである。それ故ノーベル財団は、受賞祝賀会を各国外交団の大使館や大使公邸で行うことに不快感を示し、禁止した時期もあった。以上共同通信の記者が僅かに覗いたノーベル賞の舞台裏の一端である。その伝で言えば、それまでのメダルラッシュに比して受賞者の無かった2017年は極東の大国日本の最初の「ゆらぎの年」であるかもしれない。