「漢委奴国王から天皇へ」 冨谷至 臨川書店 2018年
「日本」や「天皇」という名称がいつ、どのように成立したのか。日本史の研究者は様々に論じてきたが、教科書はそれをはっきりと解説していない。これらの名称が対外的に使用された以上、中国との関係を無視して論じられない。著者は東洋史家の立場から、この謎の解明に挑む。
(「金印」はどう読むか)
天明4年(1784)に福岡県志賀島で農夫が偶然に「金印」を発掘した。印には「漢委奴国王」の文字があった。これは「後漢書」の中の「中元二年(AD57)春。東夷の倭国王、使いを遣わして奉献す」(光武帝紀)、「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝貢す」(東夷伝)という記述に対応するものとみなされた。金印の読みは、三宅米吉が「史学雑誌」に発表(1892年)した「漢の委(わ)の奴(な)の国王(こくおう)」が通説となり、教科書などもそれに従っている。異説としては「委奴」を「伊都」とする見方がある。然し邪馬台国の時代より200年も前のAD57年頃に「奴国」や「伊都国」があったか疑問である。なにより「倭奴」の「奴」は異民族の国名に付けた卑下の接尾辞なのである。例えば「匈奴」のように。また中国皇帝が異民族の首長に与えるのは「王」であって「国王」ではない。従って金印は「漢の倭奴国(わどこく)・王」と読むと著者は明快に裁定する。
(「七支刀」の読み方)
その後倭王は、卑弥呼の「親魏倭王」を皮切りに、「倭の五王」時代には中国南朝に対して「官職」を求め続けた。例えば一品官に相当する「開府儀同三司」を、まるで中国の足下を見透かすように執拗に求めるなど。このような中国の複雑な官制の仕組みを熟知しえたのは、すでに漢字が日本列島に導入されていたからである。その例証としては、天理市石上神宮所蔵「七支刀」の銘文がある。その「泰□四年五□十六日、丙午正陽」は、従来冒頭4文字は「大和四年」(AD369)と解釈されていた。然しこれは憶測を重ねた推論で、著者は「泰始四年」(AD468)と判読する。「都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事」である倭王が朝鮮半島に侵出した時代である。七支刀はかかる時代に、高句麗の南下に苦しむ百済王が、同盟の証として倭王に贈ったものである。
中国から与えられた称号「王」は5世紀まで引き継がれていた。6世紀における、百年間の中国との外交的空白期間は、中国の朝貢国という立場を白紙にした。608年の遣隋使の国書には、「日本書紀」によれば「東天皇敬白西皇帝」と記されている。「書記」が編纂された720年頃には「王」は忌むべき称号になっていた。天皇号に先立つ名称は「オオキミ」である。「王」も「大王」もそう呼ばれていた。国内的には問題ないが、対外的には中国の朝貢国としての「王」と言う漢字は忌避したい。倭王の正式名称は「治天下大王」であるが、「皇」に「天」を接頭した「天皇」という新たな造語が登場したのである。その和訓も「オオキミ」から「スメラミコト」になった。「治天下」の和訓も「アメノシタシラス」に一新された。かくして「治天下大王」は「御宇天皇」、すなわち「アメノシタシラス スメラミコト」になった。「旧唐書」東夷伝によれば、倭は名称がよくないということで、則天武后期(684~704年)に、日本側からの要望で国名変更がなされたという。「倭」から「日本」に変更されても、和音名称「ヤマト」は変わらない。「白村江戦役」から20年後、702年の遣唐使が国名としての「日本」を宣言したのが日本の初出である。「日本」という国名の成立は「壬申の乱」以降の天武朝あたりと推測される。「天皇」号成立の時期とほぼ見合う。それは東アジアにおける新しい独立国家の成立であった。「倭王」の登場から「日本」の成立までの間に日本列島で何があったのか。「日本」誕生の謎を解き明かす著者の筆はスリリングである。また各章の扉に引用されている「歴史教科書」との対比は興味深い。
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