2012年10月13日土曜日

  「ソグド人の美術と言語」 曽布川寛/吉田豊 臨川書店 2011年

 1970年代の「シルクロード論争」は中央アジア史研究=シルクロード研究という図式の不備を明らかにした。「シルクロード」という用語のあいまいさと、「シルクロード」という言葉がそこを通る隊商路のイメージと結びついて、現地史料を分析しながら当該地域の歴史を再構成しようとする地道な研究にとって妨げにしかならないことを指摘した。然し一方では前近代の内陸路としての「シルクロード」という概念を学問的に利用する手立てを考案することが出来るとフランスのド・ラ・ヴェルシュールは言う。仏教が伝来した頃から活躍をはじめ、、イスラム化とともに歴史から姿を消したソグド人の歴史や地域に注目する。
 ソグド人は高校世界史の教科書では、唐代にシルクロードの交易民として活躍したサマルカンド地方を本拠とするイラン系の民族であると説明される。その様子は7世紀はじめ、この地方を訪れた中国人によって「康国(サマルカンド)人はいずれも賈(商売)をよくし、男は五歳になると文字を学び、すこしわかるようになると、各地につかわして商売を学ばせる。利益をたくさん得たほうがよいという」(通典辺防典)と報告されている。また旧唐書の次の条は有名である。「子が生まれると必ず石蜜(粗糖)を口の中に入れ、手によい膠をにぎらせる。それはその子が成長したら、口はつねに甘言をいい、手に銭を持ったら膠のようにねばりつくことを願うからである。人々は胡語を習い、商売上手で、わずかの利を争う。男子が二十歳になると、近隣の国へ旅立たせ、中国にもやってくる。利益さえあれば彼らの行かぬとこらはない。」
 然しその始原と終わりは謎に満ちている。編者ら以下のように述べている。ソグド語の「キャラバン」を指す語のsartは梵語のSartnaの借用語である。ソグド人が交易をインド文化圏=クシャン朝から学んだことを指摘している。またサマルカンド地方のイスラム化によって四散したソグド人は河西地方のみならず中国本土の河北などに移住した。漢語の「胡」は以前はイラン系のペルシャ人とみなされていたが、少なくとも唐代の人々が「胡」と呼んだ主要な対象はソグド人であった。「長安の春」に描かれた胡人はソグド人であったのだ。そして近年中国本土の発掘によって予想以上にソグド人が中国社会の中に入り込み、大きな勢力を持っていたことが序々に明らかになった。
 本書は「ソグド人の歴史」(吉田豊)、「中国出土ソグド石刻画像の図像学」(曽布川寛)など5編の論考が収められている。一般向けの本をまるまる一冊ソグドにあてたのは国内では初めてである。