2016年2月24日水曜日

ワハーン回廊を行く~パミール越えの道②

    「禁断のアフガニスタン・パミール紀行」 平位剛 ナカニシヤ出版 2003年

 ワハーン回廊はアフガニスターンの北東端から東に盲腸のように伸びる高原地帯である。東西はイシュシカムから中国国境のワフジール峠まで300キロ。南北はヒンドゥ・クッシュ山脈(パキスタン)とセルセーラ・ワハーン(ワハーン山脈)に挟まれて、狭い部分で10キロ、最も広い所で60キロほどしかない。高度は4千米に近く、回廊の中央をオクサス河(アム・ダリア)が流れている。現在はアフガニスタンのバダフシャン州に属し、三方をタジキスタン、中国、パキスタンに接している。グレート・ゲーム華やかりし19世紀末それらの国はロシア、清、イギリスの諸帝国であった。1895年英露のパミール国境協定により、両勢力衝突の緩衝地帯としてワハーンはアフガン領となり、ワハーン回廊が成立した。
 この地は往時からシルクロードが通る東西交通の要路であった。すでにギリシャのプトレマイオスは「地理誌」の中でマケドニア商人のマエスが手代を遣わして、この道を通りセレス(中国)から絹を買い入れたと述べている。また玄奘やマルコ・ポーロがこの道を通っている。高峻な山岳などの地理的障害や、厳しい気候的悪条件も交通路としての利用を妨げた(そのため特定の路線が選択されることになった)。そしてそれに加えて現在では複雑な政治状況が、この地域への立ち入りを困難なものにしている。この現代の秘境を1999年、2000年、2001年と三回にわたって踏査した日本人がいる。本書の著者平位剛である。この禁断の地に入域できたのは、すべてアフガニスタン北部同盟の指導者マスード総司令官の庇護のおかげであった。
 (ワフジール路)著者の2001年のワハーン踏査ルートを紹介しよう。サルハドから東はワフジール路という人跡稀なルートである。まずパキスタン領チトラルを出発してドーラ峠(4412米)を馬で越えてアフガンに入域する。カジキ・スターンというバザールで四駆トラックを契約し、ゼバック経由でイシュシカムに向かう。ゼバックーイシュシカム間は三車線幅の道路だが未舗装。イシュシカムには40軒ほどのバザールがあり、フランスNGOの診療所がる。対岸(タジキスタン)には同名の町がある。そちらはアフガン側より岸畔は低い。ソ連時代に建てられた発電所がある。イシュシカムは「大唐西域記」の「商弥」でマスード派の司令部もある。イシュシカムからワハーンの行政管轄地ハンドゥドゥを経由してかつてのワハーン藩王の主邑カラ・イ・パンジャに至る。車で9時間の行程。車中右手にはヒンドゥ・クシュの7千米級の高峰、はるか前方にはタジキスタン領のマルクス、エンゲルス連峰の白い塊が望める。カラ・イ・パンジャにもマスード派の指令所がある。ここでマスード派の護衛兵1名を帯同して(1日150ルピー×30日)、小型四駆でサルハドに向かう。80キロの行程である。道路はオクサス河右岸に沿い、まもなく2車線幅から1車線幅になる。サルハドはオクサス河右岸の高度3200米の地にある。東西2キロ、南北1キロの間に畠や牧草地がひろがっている。ワヒ(ワハーン人)が定住して農・牧を営むことができるワハーンの東限地である。マスード派の地区役人がいる。電話があり、カラ・イ・パンジャと通じる。車が利用できるのはここまで。
キャラバンでボザイ・グンバーズに向かう。旧ソ連軍の基地跡がある。小パミール河を渡り、オクサス源流の右岸をワフジール峠に向かう。このあたりは高度4千米に近く、ビワーズ(分葱もどき)やダナ(小さなネギ)といった野生ネギの群落がある。中国史書がパミールを「葱嶺」と呼ぶ所以である。キシイやラゼコムというワヒ(イスマイリ派)やキルギス(スンニ派)の冬営地がある。
「(ワフジール)峠への路は、数百メートルに開けた河床の本流が左(東)方へ曲がる谷間から始まる。(中略)50メートルほどの高さの、崖地といった方がよさそうな80度くらいの草付き急斜面の上の台地から、本流が30メートルほどの幅のなかで三条ほどの細い滝になって落ち、そのまま二百メートルばかり西下して広い河床の支流に合流している。その少し北手前で傾斜45度ぐらいに緩くなった斜面を登る(中略)出発後三時間たらずで幅1キロあまりの峠に立った。高度は4854メートルであった。」(本書P156~7)
峠は東西200米、南北1.5キロぐらいの広地帯で、最高部に国境標塔が建てられている。1964年中国・アフガニスタン国境が画定した。
 以上の後半がワハーン路のうちワクジール路と呼ばれる行程である。中国領に入りタシュクルガン経由でヤルカンドに至る。またサルハドから北行してシャウル峠を越えてビクトリア湖沿いにタジキスタン領に入る道もある(大パミール路)。そのほかにボザイ・グンバーズ付近からチャクマク・ティン湖岸を通ってタジキスタン領のグンジ・バイに至る道もある。そこからウルタベル峠を越えてキジル・スー沿いに中国領に入る(小パミール路)。著者はこの道こそ玄奘のたどったルートでないかと想像している。「大唐西域記」の「大龍池」はビクトリア湖(ゾル・クル湖)ではなくチャクマク・ティン湖ではないかとしている。長澤和俊によれば「大龍池」の記述は伝聞であって、玄奘は実際には立ち寄らず、ワクジール路を通ったとしている。またスタインは小パミール路・大パミル路いずれを通るとしても、中国領に入るにはバイク峠(4596米)を越えてタシュクルガンに至ったとしている。