2015年10月26日月曜日

「統帥権の独立」について~昭和史の謎を追う⑩

   「張作霖爆殺」 大江志乃夫 中公新書 1989年

 晩年の司馬遼太郎が異常なほど情熱を注いだテーマは「土地問題」と「統帥権」である。とくに後者については執拗を極めた。「統帥権が日本を滅ぼした」、「統帥権が次第に独立しはじめ、ついには三権の上に立ち、一種の万能性を帯びはじめた」、「統帥権の番人は参謀本部で、事実上かれらの参謀たち(天皇の幕僚)はそれを自分たちが所有していると信じていた」としばしば述べている。「統帥権」と「統帥権の独立」の区別は必ずしも明確ではない。然し今や死語となった感のある「統帥権」を再発掘した意義は評価されてよいと現代史家の秦郁彦は指摘している。
 (「統帥権」とは)「統帥権」とは軍隊に対しての作戦用兵に属する指揮命令権を意味する。それは国務各大臣の輔弼責任に属しないただ一つの大権とされた。ちなみに明治憲法では天皇大権は第6条から16条まで以下のように範囲されている。①立法権(第6~9条)②官制および任命大権(10条)③統帥権(11条)④編成権(12条)⑤外交権(13条)⑥戒厳権(14条)⑦栄典権(15条)⑧恩赦権(16条)である。「統帥権」はA軍隊の処理権または指導権B軍隊の指揮命令権を意味すると考えられていた。この二つは別個のものであるが、AはつねにBに服し、その規制を受けると考えられていた(藤田嗣雄)。これが「統帥権」の二重性である。明治憲法ではAは編成権であり、Bは統帥権である。美濃部達吉は統帥権にAの軍隊の処理権を含まない考え方である。明治憲法は「統帥権」が輔弼責任外であることを保障していなかった。「統帥権」の憲法からの独立は、「内閣官制」および、その下位法令である「陸軍省官制」「参謀本部条例」、さらには陸軍部内の「内規」などによって担保されていたに過ぎないのである。
 (「統帥権独立」を支えた小道具)憲法11条に依拠する「統帥権」の独立は不安定なものであった。それを強力にサポートする小道具が必要であった。それが「帷幄上奏権」「軍部大臣現役武官制」、「軍令」の三本柱であった。いずれも法律、勅令レベルの保障だが、憲法に根ざす統帥権を支える強力な補助線となった。
「帷幄上奏権」とは大元帥の幕僚長(参謀総長)が、内閣総理大臣と独立して、統帥事項については大元帥に直接会って献策し直言することが認められていることを云う。ラインではなくスタッフに過ぎないので、決定権も執行権もない。参謀本部条例および陸軍官制によって定められているに過ぎない。
「軍部大臣現役武官制」1899年(明治32年)軍機保護条例が制定された。「軍機」とは「軍事上の秘密の事項又は図書物件で」ある。陸海軍大臣が他の国務大臣と違う点は「軍機軍令」に直接関与する職務であり、この職務につく資格があるのは現役武官でなければならないとされた。
「軍令」一般の行政に係る勅令は内閣総理大臣と主任大臣の副署を必要とする。軍は内閣官制第7条をたてにとって、軍令に属する勅令には主任大臣(軍部大臣)の副署だけでよいとする例外規定を定めることに成功する。(明治40年9月12日)これが軍令第1号「軍令に関する件」の制定である。
 (「統帥権」の独立)著者によれば「統帥権の独立は、明治憲法からの逸脱に逸脱をかさねてつくりあげられた絶対君主制的な時代逆行の制度」(P147)であった。その制度的完成は明治末期の山県有朋による強引な「軍令」の制定を画期とする。そしてこの「時代おくれの制度が息を吹きかえしたのは、軍部がみずから政治的主導権の掌握へと乗りだすため『古い河袋』としであった」(P147)と述べている。更に軍部にこれらの制度を十分に利用する機会を与えたのは、即位まもない昭和天皇の張作霖爆殺事件をめぐる処理にあったと指摘する。
 (「統帥権」独立はいかになされたか)張作霖爆殺事件(以下「事件」)は国務としてでなく、統帥権の問題として処理されねばならない案件であった。陸軍官制第1条によれば、陸軍軍人の人事・賞罰などの権限は陸軍大臣にあって内閣総理大臣にはない。「事件」をめぐる法制上の権限はどこにあったのか。「省部規定」によれば、関東軍に関する事項は参謀総長の主管業務に属し、陸軍大臣の権限外であった。田中首相が上奏した時、天皇が制度上とるべき手続きは、鈴木参謀総長に職権による「事件」の真相調査と結果報告を命ずることであった。参謀総長がこの命令を関東軍指令官に伝宣するとともに、陸軍大臣に通牒することによって、はじめて公式のものになる。陸相は参謀総長からの通牒があれば、陸軍軍法会議法にもとづき、陸軍省法務局長に命じて司法捜査権を発動しなければならない。それは職権にもとづく権限行使となり、捜査の指揮監督権は陸相だけに属し、参謀本部による「事件」のもみ消しは許されないことになる。陸相は捜査の経過・結果について、「重要な国際条件」に係るものであるから、逐一首相に報告し、その処分の決定は閣議を経ねばならない。然るに白川陸相が田中首相の意を受けて峯憲兵司令官行わせた調査は、いわば行政上の調査にしか過ぎない。これでは司法処分は出来ない。
 「統帥権」や「統帥権の独立」は帝国陸海軍の解体とともに死語となった。晩年の司馬はこの用語を歴史の墓場から発掘した。司馬にはこの用語にある種の危惧があったのかもしれない。司馬の「危惧」が杞憂に過ぎないことを願うばかりである。

2015年10月9日金曜日

長澤和俊の「変節」~古書の宝庫を訪ねてみれば⑧

     「チベット~極奥アジアの歴史と文化」 長澤和俊 校倉書房 1964年

 「シルクロード博士」としてマスコミで華やかな脚光を浴びた長澤和俊に本書「チベット」の著書があることを知る人は少ない。1928年(昭和3年)生まれの長澤は理工系の学校を卒業した後史学
を志した。1948年早稲田大学第二文学部に入学し、1957年同大学院博士課程を修了した。理系出身らしく明晰でかつ流麗な文章で書かれた「シルクロード」(1962年)、「楼蘭王国」(1963年)などの著作は多くのファンを持った。その長澤が「チベット」を書いたのは何故か。「あとがき」によれば、津田左右吉より中央アジア研究にとってチベットの重要さを指摘されたからだという。そして直接的には大村謙太郎より「西蔵大蔵経」刊行の付録としてチベット史の概説を依頼されたことが動機になった。1957年に西蔵大蔵経研究会より刊行された「ティベット史概説」は大村の著者名になっているが、長澤の草稿を大村が校訂したものである。この「概説」が本人名義で本書を執筆する基礎となった。
 本書の構成はプロローグとAチベットの社会と文化、Bチベット史概説、Cチベット現代史の3部からなっている。Bは「ティベット史概説」(以下「概説」)をそのまま踏襲している。章立ても同様である。すなわち①チベットの開国伝説、②チベットの古代、③吐蕃王国、④分裂時代、⑤ダライラマ王国の成立と発展、⑥チベットの近代、は「概説」の3章から8章までにそのまま相当する。内容は旧稿に負っているが、その後の研究を取り入れてやや詳しくなっている。ダライラマとパンチェラマの関係や、中国の宗主権問題、中印国境問題などは詳述されている。Aは著者の西部ネパール学術調査(1963年)における、西ネパール北部に住むチベット人の民俗学的考察に裏付けられて、「概説」よりはるかに豊富な内容になっている。
  Cは「概説」にはなく新たに書き加えられた部分で、本書のハイライトである。「概説」刊行後、1959年ラサでチベット動乱が勃発し、ダライラマがインドに蒙塵したことによる。著者は「チベットの動乱や中印国境問題は、いずれも歴史的に深い根源を持つものであって、その解明には多くの努力を払った」(P291)としている。そして動乱の原因は①1912年のダライラマ13世のチベット独立宣言と②1914年あいまいに終わったシムラ会談(中国側は「チベット問題草案」調印を拒否、然し「草案」には中国の宗主権は明記されている)にあるという。「動乱」に対し全自由主義国は「第二のハンガリー事件」として「中共のチベット侵略」を非難したが、著者は中共のとった政策は国際法上、不当でも非合法でもないとする。そして「今回のチベット動乱によって、ダライラマ以下の封建勢力がインドに亡命した結果、土地や農奴の解放がおこなわれたことは、チベット史全体からみても一つの進歩が認められる」(P277)ともいう。然しながら疑問点もあるとする。すなわち①宗主権の確認がすべて軍事力によって裏付けられていること、②動乱は必ずしも特権階級が特権擁護のため武装蜂起したものではなく、チベット民族独立運動の意欲が見えるとする。
 長澤は初期の著作「シルクロード」(校倉書房1962年、同増補版1975年、講談社学術文庫1998年)、「楼蘭王国」(角川新書1963年、レグルス文庫1976年、徳間文庫1988年)、「敦煌」(筑摩グリーンベルト1965年、レグルス文庫1974年、徳間文庫1987年)などは度々改訂版を刊行している。自説の変化した部分や研究水準の進んだ部分を取り入れるなどしている。講談社版の「シルクロード」などはほとんど面目を一新している。その長澤が何故本書を絶版同様にしているのか。専門でもないチベット現代史を書くことに限界を感じたということもある。更に重要なのは状況の変化である。日中国交回復(1972年)以前なら、何を書こうと、少々筆がすべろうと問題はなかった。シルクロード(タリーム盆地)調査など夢にしかすぎなかったが、以降は全く違う。楼蘭遺趾探訪(1988年)やニヤ遺跡踏査(1980年)をひかえていた早稲田大学教授長澤和俊にとって、本書は極めて「危険」な書であったに違いない。チベットは中国の核心的利益そのものである。「シルクロード史観」論争で述べた東西交渉史や中国西域経営史の立場に立つ論者の「危うさ」とはいみじくもこれである。つくづく本書の改訂版がでなかったことが惜しまれる。