2012年11月16日金曜日

      「アウンサー・スーチー」  根本敬・田辺寿夫 角川書店 2012年

 2011年3月ビルマはながく続いた軍事政権が幕を閉じ、ティンセイン大統領による新政権の下
で、民主化や経済改革に向けた「変化」が始まった。米国の経済制裁も部分に的解除されつつある。然しこの「改革」は限られた範囲の「変化」である。
 
 本書では根本敬による鋭い二つの指摘がある。第一は軍政のトップであるタンシュエ元議長(上
級大将)が本当に引退したのかについて。2011年6月9日東京新聞は、タンシュエが憲法に規定のない「軍事評議会」なるものを組織し、新政権の政治決定に影響力を行使していると報じた。この記事の情報源はタイ・ビルマ国境で闘争している民主化勢力が入手した国軍内部の連絡記録である。これについては米国上院のリチャード・ルガー議員(共和党、元上院外交委員会議長)も
確認している。同評議会はタンシュエを筆頭にティンセインらごく少数で構成されている。政策や国情について報告を受けたタンシュエがティンセインに支持を出すことになっている。ティンセインは
旧軍政のナンバー4に過ぎず、タンシュエの「介入」からビルマ政治を解放する力があるか疑問であるというのだ。
 第二はアウンサン・スーチーの自力救済思考がもつ限界について。自力救済は上座仏教において理想的な生き方とされる。多くノビルマ国民が彼女を支持する所以である。然し自力救済は意志の強い人にしか出来ない生き方である。インドのガンディーがそうであったように、アウンサン・スーチーの場合も、その思想の普遍的価値とは別に、ビルマにおいて実際にその思想の実践の後に続くものは少数にとどまるかもしれないと指摘する。
 ビルマは「東南アジア最後ノフロンティア」として今経済界の熱い注目を集めている。全日空の成田ーヤンゴン線も既に就航している。然し根本の危惧が当たれば、かつての関空ーヤンゴン線撤退の轍を踏むことになりかねない。またビルマ国民は現況ではアウンサン・スーチーを必要とするが、「改革」が進めば、彼女を弊履のように捨て去るかもしれない。いずれにしてもここ当分はビルマ情勢から目がはなせない。
 
 

 

2012年11月3日土曜日

   「神秘の大地、アルナチャル ~アッサムヒマラヤとチベット人の世界~」
                                 水野 一晴  昭和堂  2012年

 アルナチャル・ブランデ州は「太陽が昇る辺境の地」の意味である。インド北西部アッサム州の北
に位置し、チベットと国境を接している。1990年代まで外国人の入域が禁止されていた。現在でもこの地域に入るには「特別区域入域許可証」が必要とされ、許可証を受けたガイドをつけることが義務付けられている。ディラン地方(標高1700米 西カメン県)とその北のタワン地方(標高
3025米 タワン県)の間には峻険な山脈(アルチャナルヒマラヤましくはアッサムヒマラヤという)
が横たわり、交通を阻害している。そのため同じモンパ族でも言語・文化・社会に相違がある。わずかにセラ峠のみ交通可能である。インドにとって中国にたいする重要な軍事的拠点である。
 この地方はマクマホンラインの南ではあるが、伝統的にチベットの支配区域であった。ディラン地方とカラクタン地方では1947年インド独立時にゾンペンによる税の徴収が終わり、ゾンペンはチベットに帰還した。然しタワン地方ではその後もゾンペンによる税の徴収と支配が続いた。1951年2月インド政府の行政補佐官マジョー・カティングがチベットの役人と領土に関する協議をし、ゾンペンたちは最終的にインドの統治を認めて、序々にこの地区を去っていった。これ以降タワン地域の住民の税負担はタワン仏教寺院への税のみとなった。
 本書のハイライトは1947年以前のモンパ民族地域からチベット法王政府のあるラサまでの税の運搬ルートの聞き取り調査である。あきらかになったチベットへの行程は以下である。
タワン地域のギャンカルゾン→プラム峠(1泊目)→ショー(2泊目)→ツォナゾン ここからチベット領である。
ツォナゾン→テングショット(1泊目)→ニュイ・シャトラ(2泊目)→ニュイ・リファン(3泊目)→ギェロプ(4泊目)→カルヤン・ダルティン(5泊目)→タムトウリ・ドレマ・ラガシ(6泊目)→ツェタン(7泊目)
→サムヤ(8泊目)→ディチュン(9泊目)→ラサ   ツォナゾンから10日目にラサにつく。
 このルートは伝統的なインドとチベットの通商路でもある。張騫の「幻の西南シルクロード」の最終行程路よりはだいぶ西に偏している。そして中印紛争時の1962年11月、中国はプラム峠を越えてこの道を通ってアルチャナルの土地を蹂躙しアッサムのテズプール近郊まで侵攻した。