2012年12月17日月曜日

「関西学院百年史」に描かれた関学全共闘の戦い

   「関西学院百年史 通史編2」 1998年 関西学院

 
 「関西学院百年史」(以下「百年史」)は全10章のうち9章「大学紛争と大学改革」を1969年の全共闘の「6項目要求闘争」にあてている。これは一時廃校寸前まで追い込まれた学院当局の衝撃の深刻さを物語っている。「百年史」では関学全共闘の6カ月にわたる全学バリケード封鎖闘争はどのように記述されているのだろうか。全共闘側の資料、「関学闘争の記録」(以下「記録」)「全国学園闘争の記録・関西学院学費値上げ反対闘争」が闘争途中(それぞれ4月、2月)で記述が終わっているのに対し、「百年史」のそれは闘争終了時まで及んでいる。
 69年入学の私には興味深い記述もある。「経済学部は、4月18日、奈良県北葛城郡の信貴山で新入生約600名のオリエンテーションを行った。この日の集合地である大阪城公園には全共闘約30名が履修指導粉砕を叫んで押しかけたが、混乱なく、バスで目的地に到着した」。他の学部については。社会学部が4月17日、18日の両日神戸海員会館。商学部は4月30日関西汽船による「瀬戸内海会場大学」。文学部は5月8日大阪厚生年金会館。神学部は5月9日大阪福島教会。理学部は5月16,17日和歌山県高野山。法学部については記述がない。 
 経済学部のオリエン阻止の全共闘30名という数字は正確だが、闘争の重要な局面における全共闘の動員数については「百年史」の記述には問題がある。以下「百年史」と全共闘側の記録を対比してみよう。
 
 まず1・24全学集会について。「百年史」では「全共闘学生500名一般学生500名が参加した」とある。然し「記録」では「全共闘ヘルメット部隊150人が介入し、大衆団交に切り替える。院長・学長は一切釈明しないばかりか、その場から逃走を図り、一般学生6000名の怒りを買った。その後2000名の学内大デモを貫徹」わずか150人くらいに学生集会を乗っ取られて逃亡したのでは格好がつかない。それで全共闘の数を水増しする。そして抗議デモの2000名を500名に割引する。
 2・6入試阻止について。「百年史」では「武装した全共闘学生250名が体育会館を襲撃し、(中略)800名の学生が学生会館前に座り込み」とある。然し「記録」によれば「全共闘武装部隊80人、右翼学生が看守する体育会館を攻撃し、完全粉砕。学館前で2000人の学友機動隊の導入
に抗議し、徹夜で座り込む」となっている。
 2・26-27全学集会について。「百年史」では「午後1時から6時まで第二グラウンドにおいて5000名が参加し、6時から翌朝1時まで中央講堂に場所を替えて約1500名が残った。(中略)
27日も正午から午後9時半まで中央講堂で行われ、学生約2000名が参加した」とある。「記録」は極めて簡潔。「全学集会粉砕総決起集会」に500人。当日は早朝から武装デモ。(中略)追及集会に切り替える。その後、場所を中央講堂に移し、再び追及するが堂々めぐり。(中略)前日に引き続き追及集会、院長、教授と学生を動員して居直る。5日に対理事会大衆団交を開催することを確約し、解散」。さすが「百年史」には「全共闘〇〇名」の記述はない。
 6・9王子集会について。「百年史」では「全共闘300名が会場に乱入し、(中略)スタンドの一万名に近い学生・教職員によって包囲されるかたちになり、グラウンドから場外に退出せざるを得なくなった」とある。「記録」は4月出版なので記述はない。それで「関西学院新聞(556号)によれば。
「8日から学内に泊まり込んだ全共闘学生約350名は11時より学館ホールで意志統一したのち、、途中で神大の学友100名を加えて王子に向かった。(中略)会場に入った全共闘は、会場内の学友100名を加えて共にジグザグデモなどをくりかえし、(中略)その後西灘付近でバリケードを
きづき、機動隊と衝突した」。スタンドを全関西から動員した応援団などの右翼学生で戒厳令的に制圧して、グラウンドの全共闘から隔離した。グラウンドの全共闘をできるだけ少なく見積もりたかった。然し全共闘は600名の隊列で介入し、市街地でのバリケード戦を1000名の規模で戦ったのだ。
 関学全共闘は活動家150人くらい、動員力も最盛期で2000名を超えない。「百年史」ではどうして全共闘の動員数についてブレがあるのだろうか。前期は多めに、後期は少な目にしたい意図はある。然し根本的な要因は、全共闘の組織原則に全く無知なことにある。そしてなにより学生が学院の何に対して怒り、大量に決起したかまるで理解出来てないことにある。「百年史」は「大学争紛争」の背景として「大学の古い制度や考え方、大学の管理・運営の仕方、マスプロ教育に対する批判、革命を目指す一部学生の煽動」などをあげている。たしかに5G別館のマスプロ授業は不満ではあった。然し学生が本当に怒ったのは、あの1・24集会で露呈した「ヘルメットを脱げ脱がない」論争しかできない大学の「知性の荒廃」に対してなのだ。学費値上げ反対など6項目要求は闘争のスローガンではあった。然したとえ学院当局が6項目要求を丸呑みしたとしても(ありえないが)、学生の怒りは収まらないのだ。



 

2012年12月2日日曜日

再び大谷探検隊について 

   「大谷探検隊研究の新たな地平」 白須浄眞 勉誠出版  2012年


 
 2001年著者は大谷探検隊に関する外交記録を外交資料館で見出した。その内容は実に驚くべきものだった。従来の大谷探検隊研究の成果を更に前進させる宝庫でもあった。著者は前著「大谷探検隊とその時代」で大谷隊の成果を「内陸探検の時代」と「日本近代史」の歴史的重層の所産であったと総括し、何故「忘れられた大谷探検隊」になったのかと疑問を呈した。この謎を解く鍵が外交記録の中にあった。
 外務省は何故大谷探検隊に関する外交記録を作成したのか。その理念は別としても大谷探検隊のアジア広域調査活動は、自己の勢力を扶植し守ろうとする英・露・清を中心とした各国の利害対立の舞台に飛び込むことになり、疑惑を招くのは当然であった。それは国際問題化した大谷探検隊の外交処理のためであった。
 大谷探検隊に対する露国外務省の抗議は既に第一次隊(1902~4年)から始まっている。これは日露開戦前という時代背景を考えれば当然である。そして1905年の日露戦争の終結は永年の英露対決に終止符をうち、英露協調(1907年英露協商)に転換した。チベットを情勢にも大いにに影響し、英露両国のチベットへの不干渉と清国のチベットに対する宗主権は国際政治社会で容認された。おりしも大谷光瑞は1908年山西省五台山に留まっていたダライラマ13世とのコンタクトに成功した。それは光瑞の思惑とは別に、彼が明確に国際政治舞台に登場したことを意味した。主催する大谷探検隊も同様に思われた。英露協商によって空白となったチベットに日本が介入するとみなされたのだ。外務省はそう想定されることを警戒した。英国は日本がチベットに接近しようとする試みをことごとく妨害した。第三次隊野村栄三郎のカラコルムパス通過拒否(1910年1月)はその最もたるもである。そのため第三次隊はインドからではなく遠くロンドンから内陸アジア入りを目指し出発した。その隊員橘瑞超も新疆省で清国外務部の執拗な抗議を受けている。
 それでは何故このような情報記録がこれまで知られていなかったのか。外交上の最重要機密として厳重に秘匿されていたからである。そしてそれは国際政治状況が変化しても変わることはなかった。大谷探検隊の研究者といえどこのような外交記録があることなど想像すらできなかった。これが「忘れられた大谷探検隊」の最深の根拠でもあったのだ。本書では従来知られることのなかった大谷探検隊の調査活動の実態と、当時の国際政治社会の中に映った調査活動の様相があますところなく詳述されている。それが自ずから前著の疑問の解明ともなっている。

2012年11月16日金曜日

      「アウンサー・スーチー」  根本敬・田辺寿夫 角川書店 2012年

 2011年3月ビルマはながく続いた軍事政権が幕を閉じ、ティンセイン大統領による新政権の下
で、民主化や経済改革に向けた「変化」が始まった。米国の経済制裁も部分に的解除されつつある。然しこの「改革」は限られた範囲の「変化」である。
 
 本書では根本敬による鋭い二つの指摘がある。第一は軍政のトップであるタンシュエ元議長(上
級大将)が本当に引退したのかについて。2011年6月9日東京新聞は、タンシュエが憲法に規定のない「軍事評議会」なるものを組織し、新政権の政治決定に影響力を行使していると報じた。この記事の情報源はタイ・ビルマ国境で闘争している民主化勢力が入手した国軍内部の連絡記録である。これについては米国上院のリチャード・ルガー議員(共和党、元上院外交委員会議長)も
確認している。同評議会はタンシュエを筆頭にティンセインらごく少数で構成されている。政策や国情について報告を受けたタンシュエがティンセインに支持を出すことになっている。ティンセインは
旧軍政のナンバー4に過ぎず、タンシュエの「介入」からビルマ政治を解放する力があるか疑問であるというのだ。
 第二はアウンサン・スーチーの自力救済思考がもつ限界について。自力救済は上座仏教において理想的な生き方とされる。多くノビルマ国民が彼女を支持する所以である。然し自力救済は意志の強い人にしか出来ない生き方である。インドのガンディーがそうであったように、アウンサン・スーチーの場合も、その思想の普遍的価値とは別に、ビルマにおいて実際にその思想の実践の後に続くものは少数にとどまるかもしれないと指摘する。
 ビルマは「東南アジア最後ノフロンティア」として今経済界の熱い注目を集めている。全日空の成田ーヤンゴン線も既に就航している。然し根本の危惧が当たれば、かつての関空ーヤンゴン線撤退の轍を踏むことになりかねない。またビルマ国民は現況ではアウンサン・スーチーを必要とするが、「改革」が進めば、彼女を弊履のように捨て去るかもしれない。いずれにしてもここ当分はビルマ情勢から目がはなせない。
 
 

 

2012年11月3日土曜日

   「神秘の大地、アルナチャル ~アッサムヒマラヤとチベット人の世界~」
                                 水野 一晴  昭和堂  2012年

 アルナチャル・ブランデ州は「太陽が昇る辺境の地」の意味である。インド北西部アッサム州の北
に位置し、チベットと国境を接している。1990年代まで外国人の入域が禁止されていた。現在でもこの地域に入るには「特別区域入域許可証」が必要とされ、許可証を受けたガイドをつけることが義務付けられている。ディラン地方(標高1700米 西カメン県)とその北のタワン地方(標高
3025米 タワン県)の間には峻険な山脈(アルチャナルヒマラヤましくはアッサムヒマラヤという)
が横たわり、交通を阻害している。そのため同じモンパ族でも言語・文化・社会に相違がある。わずかにセラ峠のみ交通可能である。インドにとって中国にたいする重要な軍事的拠点である。
 この地方はマクマホンラインの南ではあるが、伝統的にチベットの支配区域であった。ディラン地方とカラクタン地方では1947年インド独立時にゾンペンによる税の徴収が終わり、ゾンペンはチベットに帰還した。然しタワン地方ではその後もゾンペンによる税の徴収と支配が続いた。1951年2月インド政府の行政補佐官マジョー・カティングがチベットの役人と領土に関する協議をし、ゾンペンたちは最終的にインドの統治を認めて、序々にこの地区を去っていった。これ以降タワン地域の住民の税負担はタワン仏教寺院への税のみとなった。
 本書のハイライトは1947年以前のモンパ民族地域からチベット法王政府のあるラサまでの税の運搬ルートの聞き取り調査である。あきらかになったチベットへの行程は以下である。
タワン地域のギャンカルゾン→プラム峠(1泊目)→ショー(2泊目)→ツォナゾン ここからチベット領である。
ツォナゾン→テングショット(1泊目)→ニュイ・シャトラ(2泊目)→ニュイ・リファン(3泊目)→ギェロプ(4泊目)→カルヤン・ダルティン(5泊目)→タムトウリ・ドレマ・ラガシ(6泊目)→ツェタン(7泊目)
→サムヤ(8泊目)→ディチュン(9泊目)→ラサ   ツォナゾンから10日目にラサにつく。
 このルートは伝統的なインドとチベットの通商路でもある。張騫の「幻の西南シルクロード」の最終行程路よりはだいぶ西に偏している。そして中印紛争時の1962年11月、中国はプラム峠を越えてこの道を通ってアルチャナルの土地を蹂躙しアッサムのテズプール近郊まで侵攻した。

2012年10月13日土曜日

  「ソグド人の美術と言語」 曽布川寛/吉田豊 臨川書店 2011年

 1970年代の「シルクロード論争」は中央アジア史研究=シルクロード研究という図式の不備を明らかにした。「シルクロード」という用語のあいまいさと、「シルクロード」という言葉がそこを通る隊商路のイメージと結びついて、現地史料を分析しながら当該地域の歴史を再構成しようとする地道な研究にとって妨げにしかならないことを指摘した。然し一方では前近代の内陸路としての「シルクロード」という概念を学問的に利用する手立てを考案することが出来るとフランスのド・ラ・ヴェルシュールは言う。仏教が伝来した頃から活躍をはじめ、、イスラム化とともに歴史から姿を消したソグド人の歴史や地域に注目する。
 ソグド人は高校世界史の教科書では、唐代にシルクロードの交易民として活躍したサマルカンド地方を本拠とするイラン系の民族であると説明される。その様子は7世紀はじめ、この地方を訪れた中国人によって「康国(サマルカンド)人はいずれも賈(商売)をよくし、男は五歳になると文字を学び、すこしわかるようになると、各地につかわして商売を学ばせる。利益をたくさん得たほうがよいという」(通典辺防典)と報告されている。また旧唐書の次の条は有名である。「子が生まれると必ず石蜜(粗糖)を口の中に入れ、手によい膠をにぎらせる。それはその子が成長したら、口はつねに甘言をいい、手に銭を持ったら膠のようにねばりつくことを願うからである。人々は胡語を習い、商売上手で、わずかの利を争う。男子が二十歳になると、近隣の国へ旅立たせ、中国にもやってくる。利益さえあれば彼らの行かぬとこらはない。」
 然しその始原と終わりは謎に満ちている。編者ら以下のように述べている。ソグド語の「キャラバン」を指す語のsartは梵語のSartnaの借用語である。ソグド人が交易をインド文化圏=クシャン朝から学んだことを指摘している。またサマルカンド地方のイスラム化によって四散したソグド人は河西地方のみならず中国本土の河北などに移住した。漢語の「胡」は以前はイラン系のペルシャ人とみなされていたが、少なくとも唐代の人々が「胡」と呼んだ主要な対象はソグド人であった。「長安の春」に描かれた胡人はソグド人であったのだ。そして近年中国本土の発掘によって予想以上にソグド人が中国社会の中に入り込み、大きな勢力を持っていたことが序々に明らかになった。
 本書は「ソグド人の歴史」(吉田豊)、「中国出土ソグド石刻画像の図像学」(曽布川寛)など5編の論考が収められている。一般向けの本をまるまる一冊ソグドにあてたのは国内では初めてである。



2012年9月30日日曜日

  「日記メモ」 松本清張全集65所収 文藝春秋社 1996年


 松本清張は1968年北ベトナム政府の招待状を得て北爆下のハノイ視察の旅に出た。「年譜」によれば、2月25日羽田出発プノンペン着。CIC(インドシナ休戦監視委員会)機でハノイ入りを目指すが、ビエンチャンで24日間の足止めに会い、ようやく3月19日ハノイに到着する。4月4日ファン・バン・ドン首相との単独会見を果たし、4月7日帰国とある。
 「日記メモ」はこのハノイ入りまでの経過がやや詳しい。3月1日プノンペンを出発するが、CIC機はハノイ天候不良のためビエンチャンから先には飛ばない。2日プノンペンに戻るが、再度ビエンチャンに入り、ハノイ入りを目指す。清張は「CIC機が三度もつづけてハノイに入れないのは、天候の理由以外になにかあるにちがいないと考える」。このビエンチャン滞在時の強い印象が「象の白い脚」執筆の動機になった。
 「日記メモ」ではようやく3月22日ハノイ到着とあるが、「ハノイ日記」の19日到着とは異なる。「ハノイ日記」は1968年執筆であり、「年譜」はこちらを採用している。どうしてこのような異同があるのだろうか。
 「日記メモ」の初出は「名札のない荷物」の連載5回、6回(「新潮45」1991年9,10月号)で翌年新潮社より刊行されている。(1994年新潮文庫に入る)「名札のない荷物」は1992年死去した清張最後の作品集である。その題名は旅先で死去したトルストイの遺体に送り状がついていたエピソードによるという。「日記メモ」についても「単なる日記のメモではなく、内容のある整った文章で、文学的達成感がある」(石黒吉次郎)と評価されている。清張はあるいは永井荷風の「断腸亭日乗」のようなものを意識していたのかもしれない。とすればハノイ到着の日付の異同も単なる錯誤とは言い切れない。この件に関しては同行した朝日新聞社の森本哲郎記者の証言がほしい。
 いずれにしてもこの北ベトナム視察に関しては「取材メモ」のようなものが存在したはずである。それから「ハノイ日記」、「象の白い脚」、「日記メモ」が生まれた。執筆時期は1968年旅行直後、1969-70年、1991年である。形式もルポルタージュ、小説、日記と違う。形式の違いはあるが、それぞれ創作であり文学作品には違いない。とくに「日記メモ」は日記のメモと見過ごされてはならない。ハノイ視察の副産物たるビエンチャン滞在の文学表現の最高の達成である。

2012年8月29日水曜日

  「東アジア史の謎」  李家 正文 泰流社 1988年

 本書は東アジア史に関する7編の論考を所収しているが、その中で『まぼろしの西南シルクロード』について。
 前126年「アジアのコロンブス」たる前漢の張騫は前後13年間に及ぶ苦難に満ちた大月氏国への遣使を終えて帰国した。武帝に奏上した西域諸国の情勢は「史記」の大宛列伝に詳しい。大夏
国(アフガニスタンのバクトリア地方)の見聞として看過できない興味深い記述がある。
 バザールで邛(キョウ 四川省)の竹の杖と蜀の布(錦繍)を見た。身毒(インド)で入手したという。身毒は大夏の東南数千里で、そこは大河に臨んでおり蜀から近いという。武帝はそこへ到る道を探るべく蜀の犍為郡から使者を出発させたが、蛮族に阻まれて前進することが出来なかった。
 古来この幻の張騫のルートが探索された。それらはやや南に偏しておりおおむね雲南・ビルマを経由するルートであった。あたかもマルコポーロの「東方見聞録」の道や第二次大戦中の援蒋ルートのように。然し著者はこれらは非現実的だという。中国ーインドを結ぶランドブリッジとしては距離的に遠過ぎるからだ。
 著者が想定するルートは以下だ。
成都から西の雅安ー庚定ー雅江ー巴塘から怒江を渡って芒康へ出て、横断山脈を越えて八宿に出る。八宿から南下して康察ー察隅(ザユール)-沙馬へ着く。プラマプトラ川は墨脱で曲折するが、察隅川は薩地亜でプラマプトラ川に流入する。この川に沿うって行けばアッサムに着くことが出来る。成都から西行して、南に下るだけで最短距離でインドに行くことが出来る。この道は張騫も知らなかった道である。成都から八宿間はチベットの公道(現在の川蔵公路南路)として知られ、また康察ー沙馬の間も民間で利用された通路である。

2012年7月28日土曜日

「最後の辺境 チベットのアルプス」 中村 保 東京新聞 2012年

 21世紀の現在でも、最も近づきがたい場所・秘境は存在するのだろうか。20世紀初頭ならいざしらず、ランドサットが地球を周回し地理的空白などは最早存在しないといわれている。
 然しそれでも地理的・地政学的要因故に最も到達しがたい場所は確かに存在する。ビルマの最北部、中国雲南省に近接する東チベットの南東部だ。わずか150キロの間を世界の四大河、揚子江(金沙江)・メコン河(瀾滄江)、サルlウイン河(怒江)、イラワジ河(独龍江)が北から南に流れる。険しい幾筋かの横断山脈の存在故に中国本土、あるいはチベット中央部とも隔絶されている。また歴史的には怒江が中国とチベット勢力との境界とされ、怒江以東には多くの少数民族の土候国が存在していた。また現在もカム地方のツァワロン地区は「チベット叛乱」の主役カンパ族の住地ゆえに立ち入りが厳重に制限されている。その中でも極めつけの秘境が「門空」だ。
 著者は2003年10月、雲南経由で東南チベットにアプローチする。経路は航空機で昆明から香格拉(シャングリラ)。パジェロで徳欽から雲南チベット公路ー四川チベット公路を5日間かけて走り、ロヒト川分水嶺を越えて禁断の地「察隅」(ザユール)に入る。察隅の県庁所在地「吉公」で道は
二つに分かれる。南に行く道はインド国境が近いため軍の駐屯地が展開されており、一般の中国人は入れない。北へ行く道は新しくできた村「桑久」が交易キャラバンの起点になっている。陸の孤島への交通は馬と騾馬のキャラバンが唯一の手段で、10日間かけてイラワジ源流を下って「日東」、さらにツァワロン地方の門空に至る。門空は怒江の右岸の200メートルほど上、標高2200~2350メートルの段丘にある要衝である。古くから中国とチベットの攻防の橋頭堡であった。ツァワロン地方の中心で、かつては奴隷貿易のセンターでもあった。
 ベイリーによれば奴隷は背丈の低い種族で南のビルマ国境地帯から連れてこられ、その身長は「男は4フィート8インチ、女は4フィート4インチ」だった。カムの人々が苛酷な風土にかかわらず、洗練された文明と生活環境を持ったのはこの奴隷制度の故であった。
 著者は一橋大山岳部出身で1961年アンデス遠征をプロモートし、ペルーのブカヒルカ北峰、ボリビアのブブヤ山群などを初登頂した。会社生活の間は登山活動は中断していたが、香港駐在時の1990年まだ未開放地域だった雲南省の玉龍雪山踏査で山行を再開した。「キセル登山家」と自称する所以である。その後東チベット、四川、雲南に広がる「ヒマラヤの東」を踏査すること現在まで実に32回に及んでいる。そ成果は「ヒマラヤの東」「深い侵食の国」「チベットのアルプス」(山と渓谷社 1996~2995年)の3部作として刊行されている。本書は3部作以降の踏査や著者の新たなテーマ「雲南・東チベットキリスト教伝道」に関する論考などが収められている。

2012年6月24日日曜日

「閉ざされた国ビルマ」 宇田有三 高文研 2010

 プータオは標高402メートル、人口1万人に満たない山間地にあるが、民間航空機が離発着できるビルマ最北端の町である。著者は2007年1月末プータオからさらに北へキャラバンで18日
行程かけて全員チベット人が暮らすタフダン村に到着した。
 タフダンのチベット人のことをビルマではダルン族と呼ぶ。この周囲には別に三つのチベット人の村がある。1950年代チベット動乱のあおりで越鏡して住み着いた人達である。
 ヤンゴンから実に2200キロのタフダン村では電灯が灯っている。電源は小型水力発電で、発電機は中国から入っている。テレビの映像は、ヤンゴンからの電波が届くはずもなく、すべてビデオである。
 ここからカカラポジ(標高5881メートル、東南アジアの最高峰)は見えない。さらに北へ2日行程のところから見える。カカラポジに初登頂したのは1996年尾崎隆とナンマージャンセン(ラワン名
、チベット名はアンセン)である。カカラポジの名称はタロン語「カカポ(鶏の雌が雛を抱える形)」+
ラワン語「ラジ(山)」の合成語である。

2012年5月23日水曜日

「全国学園闘争の記録1 ~関西学院大学・学費値上げ反対闘争」 日本評論社 1969

 本書を再読して1969年関学の6項目要求闘争の帰趨を決めた「1・24全学集会」のことを思い出した。そ時私は高等部の3年生。経済学部への進学も内定していた。43年前のことである。学院当局のあまりの不誠実と右翼(関大・近大の応援団を含む)の卑劣なテロ行為に多くの学生は憤激した。当局のもくろみに反して、収拾するはずの集会は当局追求の場となり、上ヶ原を揺るがす2000名の大抗議デモとなった。
 本書で二つの記憶が甦った。第一は高等部の志賀先生の至極まっとうな質問に当局者(小宮院長ら)はまったく答えることができず醜態をさらしたこと。これは永く忘れていた。第二は「ヘルメットを脱げ、脱がない」論争。当局の「ヘルメット着用学生とは話ができない」、全共闘側は「ヘルメットは戦う意思が物質化したもの」と応酬。議論の堂々巡りに業を煮やしたH商学部闘争委員長(反
帝学評系 病欠のW全共闘議長の代理)はヘルメットを脱いだ。この時右翼の全共闘幹部に対する白色テロが発生。20数名の重軽傷者がでた。
 6項目闘争は1・7の社闘委などによる5号別館封鎖で幕を開けた。然し内実は学生大会決議を踏まえての行動を主張する形式民主主義者たる主流派(反帝学評・学生解放戦線)と直接行動を志向する少数派(社闘委、フロント・社学同・人民先鋒隊)の対立を克服できず後者のみで行われた。
 いずれにしても「1・24」はこのような対立を解消して両派が合流する契機となる。然し全学執行委員会・法学部・商学部の自治会執行部を掌握する主流派たる反帝学評にとっては、それはしぶしぶながらの合流だったのかもしれない。70年闘争にむけて全国拠点としての関学組織の維持は不可欠である。戦えば組織は必ず磨耗する。だがここで戦わねば大量に登場したノンセクト大衆に乗り越えられてしまう。なによりも関学学生運動の主流派としての意地がある。ヘルメットを脱いだH委員長の行為はその一瞬の躊躇の現れだったかもしれない。その後再編強化された関学全共闘は全国私立大学で初めての入試実力粉砕の方針を打ち出し、法学部本館・5号別館死守闘争を経て6ヶ月間のバリケード封鎖闘争を貫徹することになる..............。
 「1・24」はその後の関学闘争の運命を決めた重大な契機となった。然し43年たった今でも、あの学院当局の不誠実で卑怯な対応を思い出すと、腹の底から怒りがこみ上げてくる。


2012年4月1日日曜日

「震災と原発 国家の過ち 文学で読み解く『3・11』」 外岡秀俊 朝日新聞出版 2012年

著者が「北帰行」により1976年度(第13回)文藝賞を受賞したのは東大在学中の23歳である。
その将来を嘱望されたが、朝日新聞社に入社し企業内ジャーナリストとしての道を歩んだ。58歳
で早期退職するその直前に「東日本大震災」が発生した。
著者は退職後自前で被災地を広く取材したが、その不条理の光景はすべて文学作品に描かれて
いたものであった。たとえば2章の南相馬の現実。カフカの「城」の「ダブルバインド」そのものである。著者は「城」を思わず再読したというが、私も読み返したくなった。
本書はフリーになった著者ならの作品であり、著者の今後に大いに期待したい。

2012年3月14日水曜日

「回想の全共闘運動」 『置文21』編集同人編著 彩流社 2011

東教大・慶大・中大・日大など4大学と共学同・社学同・ML派など3党派に属した5人による回想記
である。著者中最年長の神津(中大)によれば「凡百の全共闘本は面白くない」のだが、本書では二つのユニークな提起がされている。
第一に団塊の世代=全共闘世代ではないということ。日大全共闘に例をとれば活動家数2000名
(2%全学生比率)、最大動員数シンパ層含めて3万人(30%)。当時の進学率(13-15%)をかければ5%弱、行動隊比率なら0.2%にすぎない。
第二に「層としての学生運動」の問題である。前田(東教大)によれば「1967年が重要であり、各大学でなにがやられていたかの検証が重要」で、それを保証したのが{層としての学生運動」の存在だとする。「準備した者の眼」から書かれたのが本書である。

いずれにしても大学闘争を伝えることの困難さは、大学闘争の主体は案外少ないということに
つきる。大学生の構成比に加え、本源的な大学闘争の発火点となった大学の少なさ。「層としての学生運動」の経験のない大学闘争の最中に入学した世代(69年入学)以降の世代に伝えることの困難さなど。


2012年3月4日日曜日

「ラティモア中国と私」 オーウェン・ラティモア みすず書房 1992

ラティモアは中国生まれの米国人でモンゴル・中国北西辺境を広く歩いた。ルーズベルト大統領
の推薦で蒋介石の顧問に就任し、第二次対戦中米国の対中国政策にも影響を与えた。この経
暦が災いし、戦後「赤狩り」にあい、英国に渡り、リーズ大学で教鞭をとった。
戦争中ウォーレス使節団に参加して中国を往復した経路が本書で初めて明らかにされているが、
興味深い。

往路  ワシントン→アラスカ→ベーリング海に近いシベリア東北部→ヤクーツク→
     マガタン(オホーツク沿岸)→コムソモルスク(アムール河)→イルクーツク→
     ウラン・ウデ→ミヌシンスク→セミパラチンスク→タシケント→アルアマタ→
     ウルムチ→成都→重慶

復路  重慶→蘭州→寧夏→エジン・ゴル→ウランバートル→ヤクーツク→カナダ北部
     →シアトル→ワシントン

2012年2月23日木曜日

「大谷探検隊とその時代」 白須浄眞 勉誠出版 2002年

白須は本書で「忘れられた大谷探検隊」という言葉を使っている。なぜ忘れられたのか。探検の時期は日露戦争の時期と重なっている。また探検隊派遣などで本願寺の財政が逼迫し当事者には忘れたい事情もあった。
然し純粋な探検活動も、当人たちの意思とは別にグレートゲームの罠にからめとられていたのかもしれない。
ちなみに著者は当時の日本外務省外交記録などから、むしろ積極的な
関与などを発掘しつうある。(→「大谷探検隊と国際政治社会」)
なお高校世界史の教科書に大谷探検隊の項目を加えたのは著者である。

2012年1月20日金曜日

かずりんさんの読書メモ

備忘録がわりに新規に読書メモを作成することにしました。
個人的なメモですが、他の人にも参考になることがあるか
もしれません。掲載は不定期です。