2012年9月30日日曜日

  「日記メモ」 松本清張全集65所収 文藝春秋社 1996年


 松本清張は1968年北ベトナム政府の招待状を得て北爆下のハノイ視察の旅に出た。「年譜」によれば、2月25日羽田出発プノンペン着。CIC(インドシナ休戦監視委員会)機でハノイ入りを目指すが、ビエンチャンで24日間の足止めに会い、ようやく3月19日ハノイに到着する。4月4日ファン・バン・ドン首相との単独会見を果たし、4月7日帰国とある。
 「日記メモ」はこのハノイ入りまでの経過がやや詳しい。3月1日プノンペンを出発するが、CIC機はハノイ天候不良のためビエンチャンから先には飛ばない。2日プノンペンに戻るが、再度ビエンチャンに入り、ハノイ入りを目指す。清張は「CIC機が三度もつづけてハノイに入れないのは、天候の理由以外になにかあるにちがいないと考える」。このビエンチャン滞在時の強い印象が「象の白い脚」執筆の動機になった。
 「日記メモ」ではようやく3月22日ハノイ到着とあるが、「ハノイ日記」の19日到着とは異なる。「ハノイ日記」は1968年執筆であり、「年譜」はこちらを採用している。どうしてこのような異同があるのだろうか。
 「日記メモ」の初出は「名札のない荷物」の連載5回、6回(「新潮45」1991年9,10月号)で翌年新潮社より刊行されている。(1994年新潮文庫に入る)「名札のない荷物」は1992年死去した清張最後の作品集である。その題名は旅先で死去したトルストイの遺体に送り状がついていたエピソードによるという。「日記メモ」についても「単なる日記のメモではなく、内容のある整った文章で、文学的達成感がある」(石黒吉次郎)と評価されている。清張はあるいは永井荷風の「断腸亭日乗」のようなものを意識していたのかもしれない。とすればハノイ到着の日付の異同も単なる錯誤とは言い切れない。この件に関しては同行した朝日新聞社の森本哲郎記者の証言がほしい。
 いずれにしてもこの北ベトナム視察に関しては「取材メモ」のようなものが存在したはずである。それから「ハノイ日記」、「象の白い脚」、「日記メモ」が生まれた。執筆時期は1968年旅行直後、1969-70年、1991年である。形式もルポルタージュ、小説、日記と違う。形式の違いはあるが、それぞれ創作であり文学作品には違いない。とくに「日記メモ」は日記のメモと見過ごされてはならない。ハノイ視察の副産物たるビエンチャン滞在の文学表現の最高の達成である。