2023年4月5日水曜日

再び楼蘭王国の王都について

「クシャン王朝と漢代西域」小谷仲男 富山大学人文学部紀要17号 1991年

 楼蘭の王都については既に述べたように三説ある。①終始楼蘭古城(LA遺跡)にあったとする北方説。②初めLAにあったが、BC77年の改名時(楼蘭→ 鄯善)にミーラン、チャルクリック方面に移動したとする南遷説。③ミーラン、チャルクリック方面にあったとする南方説。スタインや日本の東洋史学者(藤田豊八、大谷勝鎮、松田寿男)、中国人学者は②で(旧説)、それ対して榎一雄、長澤和俊が新説として①を提唱した。現在はこれがほぼ定説と考えられていた。然しこの北方説には問題点がある。それはLAが晋時代の軍事拠点ではありえても、漢代に遡れる遺物が全く発見されていないということであった。

(クシャン貨幣の発見)1980年、新疆楼蘭考古隊によってLAからクシャン貨幣が発見された。1988年、発掘調査の概要とともに写真一葉を添えて正式報告された。大きさは、直径2.7センチ、厚さ3ミリ、重さ16.3グラム。その表面図柄は「ラクダに騎乗した人物」とし、裏面は図柄なし。クシャン貨幣だとするが、どの王の発行貨幣とは述べられていない。著者は同様の貨幣をガンダーラ(パキスタン製北部のランガート仏教寺院址)で発掘しており、ヴィマ・カドフィセス銅貨であるとしている。図柄はインドのコブウシによりかかるシヴァ神である。そしてクジュラ・カドフィセス(丘就卻)とヴィマ・カドフィセス(閻膏珍)の活動期はAD25~125年のあいだである。この1枚のクシャン貨幣は発行時期(漢代)にLAにもたらされたか、それとも後代(晋時代)かは不明である。

 ヴィマ・カドフィセス貨幣が発見されたのは、LAの三間房の西南住居址付近である。スタインの遺跡地図によれば、三間房(LAⅡ ⅱ~ⅳ)と住居址(LAⅢ)とのあいだ、南斜面に臨んだ台地上である。三間房から出土した漢文書(600点以上)のうち紀年文書は約50点。年代は三国魏の嘉平4年(AD252)から西晋の永嘉6年(AD312)に及ぶ。あきらかにLAは魏晋時代の西域経営の拠点であり、三間房は西域長史の駐在署であった。スタインは、貨幣が発見された「建物LAⅢ、ⅲの南斜面には、床下90㎝のところから日乾しレンガの壁あるいは基壇(幅1.8m)の一部が顔をのぞかせており、同じ配置でより古い建物が下層に埋まっている可能性がある」(スタイン「セリンディア」)と観察している。

 そして近年LA発掘のクシャン貨幣が漢代にもたらされた可能性を示唆する発掘例が報告されている。①1914年にスタインはLAの東北数キロの墓地でヘレニスティクな「ヘルメスの杖と人頭部」の有名な毛織物を見つけた。1980年に楼蘭考古隊が同じ墓(孤台墓地 MA2と改名)を再調査し、まだ多くの絹・毛織物が堀残されているのを発見、その中に隷書文字を織り込んだ錦断片など、漢代に遡る遺物の存在を指摘している。②1984年新疆ウイグル博物館は、ホータン近辺の洛浦県山晋拉墓地を発掘調査し、スタインが孤台墓地で発掘したものに、遜色ないヘレニスティクなな男性頭部や反人反馬ケンタウルスの姿を意匠とするつづれ織り断片を発見している。報告書は漢代の墓葬としている。

 LAは、そこで発見された漢文書からその当時(魏晋時代)「楼蘭」と呼ばれた場所であることは間違いない。そこが漢代に遡れるか疑問視されていたが、上記の発掘物は疑問を解く重要な証拠である。楼蘭の王都は、そのオアシス隊商都市の性格上、シルクロードのの孔道に沿うことが必須の条件であった。LAこそがその条件に最も適合していたのである。「より古い建物が下層に埋まっている」というスタインの予想が現実になるかもしれないのである。