2013年11月17日日曜日

井上靖「敦煌」に描かれた宋都開封の雑踏

    「敦 煌」  井上靖 新潮文庫 1965年

 井上靖は小説「敦煌」の執筆にあたって、この都邑のたたずまいを得るため、藤枝晃「帰義軍節度使始末」や塚本義隆「敦煌仏教史概説」、鈴木俊「敦煌発見唐代戸籍と均田制」などを丹念に読み込んだ。就中「宋史」や「宋史記事本末」などは繰り返し読んだため、中国の歴史で宋時代だけが特に詳しくなったという。そして宋時代の風俗や都邑の賑わいなどについては「東京夢華録」や「水滸伝」を参考にしたとしている。(「私の敦煌資料」)
 開封はかつての北宋の都(東京開封府)である。前時代まではさらに内陸の陝西省の長安や河南省の洛陽が王朝の都であった。江南地方の発展が、都を大運河の終点たる開封に移したのである。もちろん現在の開封は北宋の開封ではない。かつての街は、度重なる黄河の氾濫によって厚い黄土の下に埋もれている。
 開封のバザールの雑踏は、小説では主人公趙行徳が新興民族西夏のエネルギーに満ちたいぶきに魅せられ、不可思議な運命に導かれて敦煌にたどりつくことになる重要な舞台である。「敦煌」では冒頭の繁華街の場面は以下のように描かれている。
「趙行徳は出口の方へ歩いていった。尚書省の建物を出て、人通りの少ない官衙街を抜けた。(中略)そしていつか彼は城外の市場に足を踏み入れていた。夕闇が訪れようとしている狭い路地の中を、汚い服装をした男女が群がり動いている。鶏やあひるの肉を鍋で煮たり焼いたりしている店が立ち並んでいる。油のこげつく臭いと汗と埃とが入り混じって、むせ返るような異臭があたりに立ち込めている。羊や豚の炙肉をを軒先に吊り下げている店もある。行徳はさすがに空腹を覚えた。朝からなにも食べていなかった。
幾つ目かの路地を曲がった時、行徳は行手に人々が黒山のようにたかっているのを見た。細い路地はそれでなくてさえ混雑をきわめていたが、そこは全く通行禁止の状態になっていた。」(「敦煌」
新潮文庫版P11~12)
 おそらく井上は、この場面は「水滸伝」の「楊志が刀を売る」話から着想を得て「東京夢華録」を参考にして上記部分を創作したのである。ちなみに「水滸伝」の該当部分は次のようである。
「と、さっそく名刀を持って売り物の藁しべの札をさしはさみ、市場へ売りに行きました。馬行街の中までやって来て、四時間ほど立っていましたが、だれも声を掛けません。お昼ごろまで立ったあげく、今度は天漢州橋のにぎやかなところへ場所を変えて売りました。楊志、しばらくそこに立っていましたが、ふと見ればあたりの人人、みな川ぶちの路地の中へかけこみ、身を隠します。」(岩波文庫版「水滸伝」②P18~19)
また「東京夢華録」の該当部分は以下のようである。
「朱雀門を出ると、まっすぐ竜津橋まで来る。まず州橋から南行すると、町並みには水飯、蒸し焼き肉、乾し肉が並んでいる。(中略)盤兎、照り焼きの豚の皮つき肉、野鴨の肉、バターをつけた水晶膾、煎夾子の豚の臓物といった類である。こういったものが続いて竜津橋の須脳子肉でおしまいになるが、これらは雑嚼と呼ばれ、三更(午前零時ごろ)まで商っている。」(「東洋文庫版P73~74)
オーエン・ラティモアによれば庶民的な文化と社会的不安がまじりあった北宋末の時代の空気は「水滸伝」に最もよく書き残されているという。「北方の蛮族との戦乱はただ遠いこだまのようにしか描かれていないにもかかわらず、宋代の中国がその遠方の振動によって内部からゆりくずされていった様子が写し出されている。」
 なお現在の開封では州橋の雑踏は御街の一本横のノスタルジックな繁華街として再現され、燓
楼は「水滸伝」名場面を模した蝋人形館とレストランが併設されている。

2013年11月4日月曜日

大谷コレクション(大谷探検隊採来品)について~「李柏文書」の謎

  「図録 仏教の来た道~シルクロード探検の旅」 龍谷ミュージアム 2012年

 大谷探検隊が採来した所謂大谷コレクションが日本・中国・韓国の3か国およそ7カ所に分散している状況については既に述べた。(みたび大谷探検隊について)その中でも龍谷大学に所蔵されている「李柏文書」(正式には「李柏尺牘」)は1953年重要文化財に指定されており、超弩級の貴重な文物である。普段は大学内に厳重に保管されており、実物を見ることができるのはこういう機会(特別展「仏教の来た道」 龍谷ミュージアム 2012年4月28日~7月16日)しかない。1600年間流砂に埋もれていた文書の文字はなかなか鮮明である。然し大谷コレクションが数奇な運命をたどったように、「李柏文書」も、その内容・出土地は謎に充ちている。
 1909年3月橘瑞超は新疆省のコンチェダリヤ下流部の故城で二葉の文書を発見した。当初この文書の発見地は明確ではなかった。日本では内藤湖南(「西本願寺の発掘物」 大阪朝日新聞
1910年8月3~6日)や羽田亨(「大谷伯爵所蔵新疆資料解説」 東方学報1910年7~9月)によってコンチェダリヤ下流部とされたが、ヨーロッパ ではヘディンが発見した楼蘭遺趾説が支配的であった。そして中国では羅振玉や王国謂維が非楼蘭説を唱えた。
 この文書は書いた人の名をとって「李柏文書」と呼ばれている。4世紀初め前涼の西域長史李柏が焉耆(えんき)王の竜熙に送った手紙の草稿と認められている。然しこの文書の成立年代や出てくる地名が一朝一夕のうちに明らかになったのではない。文書の年代についてはまず羽田亨が「太平御覧」の中に西域長史李柏の名を見出し、328~330年(咸和3~5年)と推定した。つぎに松田寿男は前後の情勢などを勘案し、文書の年代を328年(咸和3年)5月7日と断定した。(「古代天山の歴史地理学的研究」 早大出版部1956年)さらに藤枝晃はこの二葉の文書は同一人に送ったものではなく、別々の国王に宛てたものという説を主張している。(「楼蘭文書礼記」 東方学報41冊1970年3月)
 文書の出土地点は当初日本ではコンチェダリヤ下流の一廃城と伝えられたが、橘はスタインとの会見の結果、楼蘭遺趾(LA)と認めた。然し王国維は、この文書は手紙の草稿であり、文中に此(ここ)の一文字を消して海頭と書き直したところがあるところから、文書の出土地は楼蘭ではなく海頭だとした。これを解決したのが森鹿三である。文書発見から50年ぶりの1959年5月2日森は橘から出土地の写真を見せてもらい、それがスタインのLK遺趾であることを明らかにした。(「李柏文書の出土地」 龍谷史壇45号1959年7月)この比定は橘の50年前の記憶に誤りがなければ、確かなものと思われた。以後LA西南50キロのLKが海頭であり、「李柏文書」の出土地として半ば定説になっていった。然し近年片山章雄が文書発見前後の記録などを丹念に精査し、出土地はLKではなくLAであることを立証した。(「李柏文書の出土地」 『中国古代の法と社会』所収 汲古書院1988年)「橘師が森氏に提示した写真は確かにスタイン氏のLKと一致するが、師がその遺趾をヘディン・スタイン両氏に先立って訪問・撮影したことの証拠にはなっても、師の様々な記述とは一致しないのであって、何らかの誤りによって写真を取り違えて提示した可能性が強いと思われる。」(前掲書P174)ちなみに片山が探し出した記録は国民新聞の「沙漠行」(1921年9月20~29日  全8回)と大阪毎日新聞の「新疆探検日誌」(1921年9月26日~10月2日 全5回)である。橘の日記は公表されず、大正末年の火災で焼失したが、以上のような形で一部が残存していたのである。その資料によれば文書発見当時の橘の楼蘭探検ルートは以下のようであった。アトミッシュブラークから一旦ミーラン方面まで下り、そこからアブダルを経て北行する途中、コンチェダリヤの旧河床を南から北へ過ぎた地点で文書を発見したのである。
かくして「李柏文書」は発見から実に80年ぶりに片山によってその出土地がLAと確定したのである。従って海頭はLKではなくLAであったのだ。楼蘭は4世紀初頭そう呼ばれていたのである。海頭は蒲昌海(ロプノール)のほとり蒲昌海頭の意である。