2012年8月29日水曜日

  「東アジア史の謎」  李家 正文 泰流社 1988年

 本書は東アジア史に関する7編の論考を所収しているが、その中で『まぼろしの西南シルクロード』について。
 前126年「アジアのコロンブス」たる前漢の張騫は前後13年間に及ぶ苦難に満ちた大月氏国への遣使を終えて帰国した。武帝に奏上した西域諸国の情勢は「史記」の大宛列伝に詳しい。大夏
国(アフガニスタンのバクトリア地方)の見聞として看過できない興味深い記述がある。
 バザールで邛(キョウ 四川省)の竹の杖と蜀の布(錦繍)を見た。身毒(インド)で入手したという。身毒は大夏の東南数千里で、そこは大河に臨んでおり蜀から近いという。武帝はそこへ到る道を探るべく蜀の犍為郡から使者を出発させたが、蛮族に阻まれて前進することが出来なかった。
 古来この幻の張騫のルートが探索された。それらはやや南に偏しておりおおむね雲南・ビルマを経由するルートであった。あたかもマルコポーロの「東方見聞録」の道や第二次大戦中の援蒋ルートのように。然し著者はこれらは非現実的だという。中国ーインドを結ぶランドブリッジとしては距離的に遠過ぎるからだ。
 著者が想定するルートは以下だ。
成都から西の雅安ー庚定ー雅江ー巴塘から怒江を渡って芒康へ出て、横断山脈を越えて八宿に出る。八宿から南下して康察ー察隅(ザユール)-沙馬へ着く。プラマプトラ川は墨脱で曲折するが、察隅川は薩地亜でプラマプトラ川に流入する。この川に沿うって行けばアッサムに着くことが出来る。成都から西行して、南に下るだけで最短距離でインドに行くことが出来る。この道は張騫も知らなかった道である。成都から八宿間はチベットの公道(現在の川蔵公路南路)として知られ、また康察ー沙馬の間も民間で利用された通路である。