2020年11月29日日曜日

関学闘争外伝④~経済学部学生運動小史Ⅲ

(6項目闘争の崩壊~小宮院長辞任から6・9王子集会まで)  3月5日の大衆団交を確約した確認書は3月2日の小宮委員長の学長代理辞任(院長辞任は3月3日)で一片の反故となった。それだけでなく大学評議会の全評議員も辞任した。全共闘は交渉すべき相手=「敵」を見失ってしまった。大衆運動のピークは普通は1週間から10日間しか続かない。然し6項目闘争の熱狂は1・24全学集会から1か月も続いている。その原因は2/9~10の5G別館の30時間を超える攻防戦の衝撃的な影響である。5G死守闘争の巨大な成果が闘争の質を転化した(教育闘争から政治闘争)と全共闘指導部は信じたが、そこには陥穽があった。なによりもこの時全共闘の組織力は破断界に直面していた。逮捕者は68人(入試阻止20、5G35、法本館13)にも上っていた。封鎖した建物は多く(守備要員がいる)、当局のロックアウト措置で登校する学生もめっきり減っていた。そして5G死守闘争は、今後全共闘指導部のとるべき闘争方針の幅を極めて狭く拘束していた。  3月全共闘は各学部教授会の追求と卒業試験阻止に忙殺される。法闘委(反帝学評)は法教授会との大衆団交で「昨年の処分を白紙撤回し、今後一切の処分権を放棄する」という自己批判書(25名署名)を勝ち取った。同日理闘委も団交を要求したが、教授会は拒否。10日に理学部校舎を封鎖。13日社会学部の卒業試験が神戸YMCAで実施され、社闘委が抗議デモ。経済学部では。公認自治会が存在する法・理学部とことなり、団交要求もできない。14日卒業試験が大阪予備校で実施される。受験生は中之島公会堂に集合し、教員の案内で内部を通り抜け、淀屋橋から三々五々に地下鉄で難波に向かうというもの。これには経闘委も対応できない。学院当局の新執行部もなかなか決まらない。当局の無能さということもあるが、全共闘に対する目くらましでもあった。それでも19日小寺学長代行がようやく決まる(22日城崎学長代行代理)。そして全学生に「廃校か否か」という半ば恫喝的なアンケートを配布する。これに呼応するよに右翼系の蠢動も活発化する。同日商学部の右翼学生が「学内正常化のため」の学部集会を大阪プール(扇町)で開催する(200名)。22日には革新評議会など右翼、OB,教職員など1200人が「正常化集会」を学内で開催しようとするが、全共闘行動隊(200人)が粉砕。新執行部の「廃校か否か」という恫喝アンケート全学性配布には全共闘指導部は明確に対応できない。いわば全共闘大衆や学生を無方針状態に曝しているのだ。この闘争の敗北過程は「民主的教授会」の自己解体とともに並行的に進んだ。叛旗派の神津陽が言うように、それは全共闘世代を含むその後の大学教員の思想的壁となった。その後教員はいかに大学改革を語ろうと、高邁な学問を教えても、政治的・社会的批判を述べても、この「壁」を乗り越えることなくして説得力を持てなくなった。 経済学部では4月18日新入生のオリエンテーションを実施した。参加した新入生は588名(入学手続きしたのは718名、参加には宣誓書提出が義務付けられた)である。当日9時に大阪城豊国神社(機動隊宿舎前)に集合。経闘委30人が抗議に来るが阻止できない。バス12台に分乗し、市内をカモフラージュのため走行し、この時点では行く先は明らかにされない。奈良県の信貴山千手院に到着したのは11時30分。13時よりオリエンテーションが開始され、当分上ヶ原キヤンパスでの授業再開のメドが立たないため、自宅学習の指示がなされた。終了したのは16時30分。ちなみに他の学部も法学部以外全て実施された。4月17日社会学部(神戸海員会館)、4月30日商学部(関西汽船で洋上)、5月8日文学部(大阪厚生年金会館)、5月9日神学部(大阪・福島教会)、5月16~7日理学部(高野山)。こうして新年度のスタートが既成事実化されていった。全共闘としての一致した方針は定まらない。政治闘争に活路を見出そうとする部分。4・28闘争には東京派遣20名。前段の26集会(神戸・京都)には100名。4月27日の社学外試験(三田市)阻止には50名。  6項目闘争は実質的には終わり、全共闘は6・9王子集会に向けて惰性的に敗北過程を歩んでいた。「廃校か否か」というアンケートと同様、この「改革結集集会」にも全共闘指導部は適格な対応方針を提起できなかった。王子競技場で集会を開催するという学院側の意図は次の二点である。まず第一に学院発祥の地「原田の森」に隣接していること。学院ナショナリズムを煽ってOBなども結集(右翼も含む)できる。第二にスタジアムは構造上の問題。集会参加者はグランドより高い(2米くらい)スダンドに厳重な検問(会場周辺には機動隊1600人)を経て入ることになる。従って集会を物理的に粉砕することは不可能である。この会場選定はOBの公安担当県議が入れ知恵した。全共闘は400人でグランドに突入し抗議の座りこみ。スタンドよりグランドに飛び降り呼応する学生は200人弱。1時50分に退去命令が出され、機動隊がグランドに突入排除にかかった。逃げ場のない学生24名が逮捕された。当日スダンドを埋めた学生、教職員、OB、右翼など9000人。集会は全共闘を締め出したまま、討論なしの提案、協力呼びかけで進行、大勢は拍手での支持という無内容で1時間で終わった。一部から「ナンセンス」のヤジはとんだが動員された右翼の威圧で大勢とはならなかった。会場外に逃れた全共闘は市電筋で群衆1000人とともにバリケードを築き市街戦を演じたが、流れ解散した。全共闘最後の雄姿ではあった。(この項続く)

2020年10月25日日曜日

関学闘争外伝③~経済学部学生運動小史Ⅱ

序曲(1968年)  関学キャンパスの1968年新学期は全共闘指導部9名の逮捕(内1名は誤認逮捕)で始まった。処分を受けた各学部自治会では処分撤回闘争が組まれた。 最も民主的」な法学部教授会は4月17日に7名の停学処分を取り消すと発表した。然し「反動的」な社会学部教授会は5月8日の団交で「被処分者は学生でない」からとメンバーの参加さえ拒否した。被処分者のいない経済学部では民青系執行部が逃亡し自治会は空白のまま改選期を迎えた。革マル系(安長学425票)が反帝学評系(大西敏文274票)を破り、3度目の挑戦で執行部を確立した(5月8日)。然し安長執行部は弱体(委員長・副委員長1名のみ自派で、もう1名の副委員長はフロント、対立候補も執行部入り、革マル・フロント・反帝・の連立執行部)で、6月22日の学生大会は定足数不足で流会。9月20日再度招集したが、未成立で学生集会に切り替え、仮決議をして1週間の掲示期間を経て、規約により執行部として承認された。街頭闘争至上主義の中核派ーブントに対抗する革マルーフロントー反帝学評ブロックという1968年前半の状況の反映である。民青が逃亡した文学部ではフロント系が、商学部では反帝学評系が前執行部の青年インター候補を破り、自治会執行部を掌握した。  7月全学連大会の季節を迎えたが66年末に再建された三派全学連は分裂した。すなわち中核派全学連と反中核派の反帝全学連(ブント、反帝学評、ML派)の誕生である。その反帝全学連もブント(委員長、副委員長など中執16名選出)と反帝・ML(書記長など中執10名選出)が別個に大会を行い分裂必至である。革マル系、民青系、中核系、反帝系と4つの「全学連」が並び立ち、学生運動は党派全学連の時代となった。  再び関学キャンパスに眼を向ければ、11月21日全学執行委員長選挙が行われ反帝学評系(1351票)がフロント系(1164票)、ブント系(620票)を押さえ、執行部を掌握した。フロントの退潮と反帝学評、革マルの伸張が目立った。全執は学院当局に学費値上げなど6項目の公開質問状を出した。(11月22日)これは全共闘の「6項目要求」(12月19日)の基礎になるものである。然しそのさなか法学部を中心とする社青同解放派(反帝学評)と経済学部の革マル派の間で党派闘争が勃発した(12月8~9日)。早稲田大学での文連執行部をめぐる両派の抗争が飛び火したものだが、全執選で主導権を握った解放派が、一挙に革マル派の学外放逐を狙った。8日未明解放派は安長委員長を拉致し自己批判を強要、これに対して全学連関西共闘会議(革マル派)が介入、両者が乱闘(解放派50人、革マル派30人)したが数にまさる解放派が革マル派を学外に放逐した。フロントは両派の抗争は学院当局と右翼に利すると批判したが、学生運動(関学も)は党派によって担われいるのが実態であった。渡辺照全共闘議長は全関西反帝学評議長でもあり、安長経自委員長は全学連関西共闘会議議長であった。14日の経済学部委員総会で安長委員長の罷免が決まった。20~21日に行われた委員長選挙でフロント派の新川俊郎副委員長が当選(190票、総投票数321票))。新執行部は支持率も低く、前執行部よりも更に弱体であった。この中19日には法、文、社の3学部で6項目要求(①43・44連続学費値上げ白紙撤回 ②不当処分白紙撤回 ③機動隊導入、捜査協力自己批判 ④文学部学科制改変白紙撤回 ⑤学生会館の管理運営を学生の手に ⑥以上を大衆団交の場で文書をもって確約し、責任者は引責辞職せよ)の1日ストが打たれた。当局は拒否。23日の全共闘会議(100人参加)で学院本部封鎖が提起されたが支持派(社闘、フロント、ブント、人民先鋒隊)と反対派(反帝学評、ML派)にわかれ結論がでなかった。反帝学評は多数派にかかわらず主導権をとれなかった。革マル派を放逐したが自らのダメージも小さくなかったのだ。このような状況で6項目闘争はスタートするのである。 (6項目闘争ー①ⅤG封鎖から全学封鎖へ)  1月7日未明第5別館が全共闘の一部(社闘、フロント、ブント、先鋒隊30人)によって封鎖された。前日の全共闘会議で反帝、ML派の反対を押し切って封鎖が決行された。経自治会は8日に学生大会(14日)開催、10日に教授会会見(13日)を教授会に要望した。13日に前委員長と引継ぎ事務手続きがとれないとし14日の学生大会延期を申し入れ。そして14日の教授会団交を申し入れるが、差出人が経闘争委員長名になっていることにより受け取りを拒否される。16日に代替えとして教授・学生懇談会(18日)が学部側から提案される。出席者は学生側全執行委員(新川、上坂、吉村、旦野、中村、吉竹、田原)と教授側(豊倉、縄田、橋本、楠瀬、柚木)は学部長、学生部長など。22日に委員総会決議と7つのクラス・ゼミ決議に基づき22日の大衆団交を要求するが、参加メンバーが経闘争委員のみということで拒否される。集会は教授会・自治会の共催、参加は学部生に限る、時間は1時から4時という妥協案で27日の学部集会の開催が決まる。  その間全学の闘争は急展開する。17日全共闘60人(社闘、フロント、ブント、先鋒隊)によって学院本部が封鎖される。18日法学部が無期限ストに入る。24日全学集会(6000人)が開かれるが、全共闘150人で介入、大衆団交に切り替える。当局の無内容さに一般学生も憤激し、2000名の大抗議デモにになる。25日商学部スト権投票に入り、28日無期限スト突入。26日未明社闘30人社会学部封鎖。27日神学部無期限スト突入。  そして27日の経済学部集会。集会は質問者の学部長に対する追求(大衆団交の拒否)で始まり、一旦休息の後議題が学生の処分問題に移ると、突如この場を大衆団交に切り替えようという緊急動議が出され、議場が混乱した。右翼学生に守られて教授達は逃亡。新川委員長は予備折衝で取り交わした確認事項を破棄せざるを得ないとして執行部の解散を声明した。「経済学部の敗北は、全共闘を阻害するものであり、自治会運動の原則を守ってきた我々の運動の限界性を痛感するものである。故に執行部と闘争委員会を解散し、新たな闘う部隊に全権を委任する。従って、今までの闘争委員会の提起した学部投票は委員会総会決議により中止する。昨日の集会を右翼学生に守られて逃亡した教授会を弾劾し、ⅤG(第五別館)封鎖、本部、社封鎖の意義を確認し、経済学部学生がこれを破壊しないよう要請する。全ての学部学生諸君は新たな闘争委員会に結集し、六項目要求の貫徹をめざして闘われんことを要望する。」(1月28日 経済学部自治会執行委員長/闘争委員長 新川俊郎)スト権投票が過半数に及ばなかったのが「解散」の理由とも言われるが、真相は不明。いずれにしろ新川委員長(フロント)が執行部を投げ出したことに変わりはない。「自治会の解散」のみならず「招集権の放棄」までした。28日深夜文学部は全共闘(社闘、フロント、ブント、先鋒隊など300人)が封鎖。そして29日未明経済学部校舎と第3別館が新たに結成された経闘委によって実力封鎖された。かくして理学部を除く6学部が封鎖され、全学封鎖体制が確立し、この日から始まる後期試験はすべて無期延期になった。                   (6項目闘争ー②入試粉砕から大衆団交へ)  1月31日から全共闘と大学当局の間で大衆団交開催をめぐる予備折衝が開始された。然し団交開催の条件に関して折り合えず(交渉は全執であって、全共闘とはしない)2月3日交渉は決裂し6日の団交は流れた。当局の思惑とは裏腹に全共闘はウイングを拡げつつあった。サークル闘争委が結成され、1連協や4連協も広範なノンセクト学生を糾合しつつあった。また他大学(神戸大など)の支援部隊のみならず、西宮反戦や全兵庫地区反戦も支援に駆け付けた。全共闘は、全国私大で初めての入試粉砕闘争を打ち出した。  当局は7日から始まる入試に向けて4日から教職員(一部右翼学生含む)150名体制による入試会場(体育館、高等部、中学部校舎)の泊まり込みを実施した。6日払暁全共闘武装行動隊80名はは右翼学生、教職員が看守する体育館を火炎瓶と投石で攻撃、完全制圧した。逃げ遅れた教職員(学生部長、経済学部事務長など)、右翼学生ら6名を捕虜にし自己批判を要求。院長は5時10分に機動隊導入要請。13時機動隊500人正門前に待機。松田政男講演会を開いていたサークル闘争委の学生ら300人が正門を挟んで機動隊と対峙。14時機動隊が校内に入り試験会場に配置される。全学1連協の学生2000人が徹夜で座り込み、機動隊導入に抗議する。7日経済学部入試が始まる8時30分、全共闘武装行動隊80人が機動隊に突入(7名逮捕)、試験終了直後再び機動隊に激突。8日商学部入試。機動隊の強制解除に備え、5号別館と法本館のバリケードを強化する。   試験会場警備のみという学院当局の要請に反し、兵庫県警機動隊3000人は9日6時30分封鎖解除のため学内に侵入した。全共闘はこれに対決、法本館(反帝学評13人)、5G別館(革自同、ブント、先鋒隊など35人)で死守闘争を展開した。法本館は軍事的には脆弱で9時30分陥落(全員逮捕)。然し5Gのバリケードは固く攻防は熾烈を極めた。翌日11時52分陥落した(全員逮捕)。死守闘争は安田講堂攻防戦より長く、闘いの質も凌駕した。「第二の安田砦」を全国に喧伝した。12日全共闘はこれに抗議し「全関西労学関学奪還総決起集会」を3000人で行い、正門近くの上ヶ原派出所を襲撃した(3名逮捕)。14日の試験終了とともに機動隊はキャンパスから撤収した。15日全共闘は全学再封鎖を敢行、当局は「ロックアウト」を宣告。  当局は第二次収集策動として26日の全学集会を提案した。全共闘は100名の武装行動隊で会場の新グランドを占拠。当日1100人の部隊で全学集会(5000人)を追求集会に変えた。18時30分会場を中央講堂に移し、追及集会を継続。小宮委員長は「闘争弾圧をした」と自己批判書に署名。翌27日も中央講堂で全共闘1000人を含む2000人の学生で「追求集会」を継続し、訳9時間をかけて大衆団交(3月5日 中央講堂)の確認書を勝ち取った。 (この項続く)

2020年9月28日月曜日

関学闘争外伝②~経済学部学生運動小史Ⅰ

 「関西学院経済学部50年史」 関西学院大学経済学部50年史編纂委員会 1984年    「50年史」はその1部6章「大学紛争と改革期」と4部資料「大学紛争関係」を1969年の6項目闘争闘争に割いている。このボリュウムは学部当局のこの闘争に対する衝撃の大きさを現している。然しあらゆる事件や出来事にはかならずその前史や後史がある。6か月に及ぶ全学バリケード封鎖闘争は突如起きたのではない。60年代から70年代初頭の関学経済学部の学生運動の状況を簡潔に素描してみよう。                           (前史①60~65年 安保闘争から日韓条約反対闘争まで)  関学の学生運動は60年安保闘争時、全学連主流派(ブンド)ではなく反主流派(日共系)の全自連の影響下にあった。東京の6・18集会にも14名の代表団を反主流派の集会に派遣している。全自連内の多数派(構造改革派)は8月頃から「平和と社会主義を守る大学戦線」(フロント)を各大学に組織し始めた。関学でも10月26日に25名で関学フロントが結成された。そして10月28日には神戸大住吉寮で100名が参加しフロント兵庫大会が開催されている。この当時のフロントはまだ日共内の「分派」であったが、61年8月の神戸大日共細胞の集団離党をかわきりに、新左翼への道を歩み始めた。61年末には400人(2000名中)の学生党員が離党した。全自連、全学連再建協議会はその幹部が去ったため崩壊状態に陥った。そのため日共は民青同盟員のみでの学生の組織化(62年8月平民学連結成、64年12月「全学連」結成)を与儀なくされた。関学でも文学部を中心にフロントが多数であったが、経済学部は民青の力が強く経済学会(自治会)を掌握していた。  62年10月の兵庫県学連大会では両派の対立は非和解的に激化した。関学でも11・16県学連統一行動に向けての集会が分裂して行われた。全学執行委員会、文自治会、社自治会、法学会、商学会共催の250人参加の集会に対し、経済学会(柏原委員長)は学館ホールでの映画会(30数人)という分裂集会を対置し、別個に県学連集会に参加した。そして遂に学外行動でも分裂は決定的になった。12・14統一行動では全執など多数派は大阪(府学連集会)へ、経済学会は神戸の兵庫安保共闘県民大会にそれぞれ参加した。関学新聞は「13日に行われた戦術会議で『労働者とともに闘おう』とする経済学会と他学会との意見が対立、16日と同様分裂したもの」(「関学新聞」62年12月15日)と論評している。そして翌63年の6・15原潜寄港阻止闘争(神戸)は関西3府県学連3500人が参加(関学250人)したが経済学会は闘争放棄した。「現在の学生運動は分裂主義者、修正主義者によてって指導されており誤ったものだ。6・15闘争は機動隊とのマサツを目的とし、原子力潜水艦寄港反対のデモではない」(「同63年7月15日)11月に成立した経済学会の岩田執行部(民青系)は、準備の立ち遅れを理由に学費値上げ反対闘争に水を差した。スト権投票が2/3に61票満たない(総数849、賛成505、反対331、白票6、無効7)として授業総辞退でお茶を濁した。文、社、法はスト権を確立した。これに対して学部生の不満が噴出し、民青系執行部不信任が決議され(64年6月12日)、解散した(64年9月19日)。経済学会の新執行部(阪野委員長、反民青系)は11・12原潜寄港阻止全関西学生総決起集会(神戸)に結集(3府県学連6000人、関学600人)、12月1日の学生大会で平民学連からの離脱を決議した。日共との対立で前年来崩壊状態であった兵庫県学連が65年9月19日フロント派を中心に再建された(13回大会 小寺山委員長)。然し経済学会の委員長選挙(クラス委員会での間接選挙)ではわずか3票差でフロント系を破り民青系執行部(前田委員長)が誕生した。前田委員長は県学連は認めておらず、統一行動には参加できず「全学連(民青系)」を支持するとした。(65年11月11日委員集会)                                 (前史②66年~68年 薬学部設置反対闘争から43学費闘争まで)  66年篠山の兵庫農業大学跡地をめぐる反対運動が学内で急速に浮上してきた。理事会は跡地払い下げを受けて薬学部設置を検討していた。そんなおり経済学会では9月21,2の両日初めての直接選挙制で委員長選挙の投票が行われた。「大学革新」のフロント系(久松昭一742票)が民青系(小山たけし411票)、革マル系(安長学77票)を抑えて大差で当選した。2次にわたる「父兄会費値上げ・薬学部設置に関する」公聴会(説明会)は物別れに終わった。11月末の全学投票では90.5%が反対していた。全執はただちに全学闘争委員会を組織しストライキ体制を構築した。12月6日社、法学部がストに突入し、文、商、経の3学部もスト権を確立した。当局は7日の理事会で「学生、教授の理解が得られない」として薬学部設置案を撤回した。この当時はまだ学内機構が中央主権化されておらず、各学部教授会も「既存学部充実」で薬学部設置に反対していた。反対闘争は一定の勝利を勝ち取ったが、全学闘の指導方針は問題を残した。「既存学部充実、経営第一主義的教学方針反対」という形でしか闘争をとりくめず、教育総点検運動の次元に矮小化された。闘争(ストライキなど)を圧力手段として、教授層の反対をうながし、当局に譲歩を迫るというものでしかなかった。  一方学外では新三派連合(マル学同中核派、社学同統一派、社青同解放派)に2派(社学同ML派、社青同国際主義派)を加えて、反帝を一致点にした第3の全学連が再建された。(12月17~19日 35大学71自治会代議員・オブザーバー1800人)関学からも法学会が参加した(遠野前委員長は中執に就任)。三派全学連は砂川闘争と取り組みを通じて影響力を全国的に拡大した。然し関学では依然として構改派の影響力が強かった。ただ前年の薬学部闘争の指導力不足から、67年度自治会選挙ではフロント派は苦戦した。とくに経、文では批判票が民青系に流れ敗北した。4月経済学会選では民青系(川尻修520票)が革マル系(安長学305票)を破り当選した。県学連との統一行動拒否し、学内・学外闘争の障害になった。この時点での関学自治会の党派地図は全執(フロント)、社(フロント)、法(社青同解放派)、商(青年インター)、文(民青)、経(民青)であった。  薬学部問題で一旦譲歩した学院当局は中央集権的な常務会を設置し、11月22日に68,69年連続学費値上げを発表した。これに対し学生側は全学共闘会議を結成し、2次の公聴会で大衆団交要求したが、当局は拒否。ただちに法、商、社、文、経の5学部でスト権確立投票を実施した。4学部(文学部では民青系執行部の逃亡を乗り越えて文闘委が主導)はストに突入したが経済学部は違った。投票率53.4%、スト支持率61.9%という法学部に続く多数の指示を得ながら、スト権は批准されなかった。全共闘では、原則として「投票率1/2、支持率1/2でスト権を確立する」として確認がとれていたにもかかわらず、経済学会執行部だけが「多数の支持者がいない限り、ストはできない」と「支持率2/3」に固執し事実上闘争をボイコットしたのである。反対闘争は2000名規模の学生を動員し高揚したが、年明けの試験期とともにストは解除された(商1/17、文1/25、法1/27)。社は教授会の自治会解散命令の恫喝をはねのけ踏ん張ったが、孤立し2/26に解除された。そして学院当局はこの闘争に対して26名の大量処分を発表した(3/26)。全共闘は3/28卒業式に介入し、学院本部を占拠し抗議闘争を展開した。然し右翼系学生との衝突を理由に機動隊が導入され排除された。全共闘は学内ではこの日初めてヘルメット着用で登場した。後日全共闘指導部7名(1名は誤認)が逮捕された。かくして43学費闘争は敗北した。構改派の「大学革新論」はすでに大衆の自然発生性に対応できない「時代遅れ」になっていた。 (この項続く)

2020年7月31日金曜日

楼蘭王国史の展望

     「楼蘭王国史の研究」 長澤和俊 雄山閣出版 1996年

 「楼蘭博士」の異名をとる東西交渉史・内陸アジア史家の長澤和俊早大名誉教授が昨年(2019年)死去した。長澤には多くの一般向け著作があるが、代表作は「シルクロード」と「楼蘭王国」である。前者は「シルクロード~東西文化のかけはし」として1962年に校倉書房より刊行。64年東京オリンピックの聖火がこの地を走るとして人気を呼んだ。この種のものとしては戦後初めてである。1979年大幅に書きまして増補版として同社より刊行。さらに早大での講義ノートをもとに面目一新して「シルクロード」として1993年に講談社学術文庫より刊行。後者は1963年に角川新書で刊行。流麗な記述は評判になった。その後一部加筆してレグルス文庫より刊行(76年)。大幅に改稿加筆して徳間文庫より刊行(86年)。ニヤ遺跡、楼蘭遺跡を踏査したのは史学者として長澤のみであり、決定稿が期待されたがかなわなかった。後者の基礎となったのが本書に収められた論文(26編と雑稿4編、「シルクロード史研究」所収のものを除く)である。
 長澤の楼蘭研究の功績は次の4点である。まず第一に楼蘭王都の位置を終始LAに比定したこと。第二にカロシュティー文書の絶対年代を確定したこと。第三は楼蘭王国の始原を明らかにしたこと。そして第四は「さまよえる湖」ロプノールの実態を解明したことである。
(扞泥城と伊循城)漢書西域伝に「鄯善国、本名楼蘭、王治玗泥城」とある。この扞泥城について、日本の東洋史学者(藤田豊八、大谷勝鎮、松田寿男)は扞泥城をミーラン、伊循城をチャルフリクと考えてきた(湖南説)。また中国でも伝統的に扞泥城がLA、伊循城がミーランで、鄯善改名時に王都もLAからミーランに南遷したと考えられていた(南遷説)。長澤はカロシュティー文書の検討から楼蘭王都は一貫して扜泥城であり、それはLAであるとした。また伊循城はLA東北方のロプノール北岸の土垠という漢代の砦跡とした。
(カロシュティー文書の絶対年代)文書の相対年代は86年~88年。絶対年代についてブラフ教授は、アムゴーカ王の17年をAD263年にあてる説を提唱した。王の称号の新しいタイトル「ジツーガ」が「侍中」(晋守侍中大都尉奉晋大侯)の音訳に他ならないと考えた。したがって絶対年代はAD236年~321年になる。然し長澤は晋の西域経営は強力なものでなく、魏のそれを受け継いだものに過ぎないとし、鄯善に中国軍が駐屯し強力な統制を加えたのは魏の太和太2年(AD228年)以降とし、この年をアムゴーカ王17年に想定した。絶対年代はAD203年~288(ないし290)年とブラフ説より33年ほど早くなる。
(楼蘭王国の始原)長澤は、BC1500年頃孔雀河最下流部に建設されたホータン玉の交易市場が楼蘭王国の始原と考えた。中国本土では、ホータン玉は殷虚の婦好墓(BC1200年頃)から出土している。また武丁期の卜辞に「征玉」「取玉」という記載がある。玉市場は中国本土に向かう隊商が水を得られる最後の地点に設けられた。それが楼蘭(LA)である。最初は市場と隊商宿だけのささやかオアシスであったが、やがて城郭都市に成長した。長澤は楼蘭王国の始原を東西交渉史の最初の舞台に求めたのである。
(ロプノールーの謎)ロプノールは南北を1500年周期で移動する「さまよえる湖」と考えられ、ヘディンは自らの探検でそれを実証した。然し長澤は古記録の検討などから、北の現ロプ湖(1934年ヘディンが発見したもの、現在は水はない)と南のカラブランは二つに分かれたロプノールの末路だとした。バルハシ湖やガッシュン・ノール・(居延海)など、かつて一つが二つに分かれた例である。
 楼蘭王国は、その起源も滅亡も厚いヴェールに覆われて定かではない。本書に収められた各論考はこれらの謎の解明に挑んでいる。それは「一つの文明の誕生、繁栄、発展、衰退、滅亡を描く」ことで、「楼蘭王国を舞台に、文明衰亡論を試みる」ことであると長澤は述べている。

2020年6月14日日曜日

全共闘世代の終焉

   「続・全共闘白書」 続・全共闘白書編集実行委員会編 情況出版 2019年

 東大安田講堂攻防戦から50年目の昨年末に本書が刊行された。前回の「白書」刊行から25年である。編集後記によれば、前回のアンケート回答者526名にアンケートを送付したところ、半数以上が「宛先人不明」で未着、残りも本人死去などの連絡が多かったという。それでも「友達の輪」で回答者を増やし、枠を広げる(中・高校全共闘)などしてのべ96大学(短大、付属専門学校含む)、22高校、1中学から467名の回答を得た。学校数は前回の86より増えたが回答者数は減った。
 アンケート項目(前回73、今回75)については「白書」と「続」では異動がある。
「白書」にあった「活動家の沈黙」や「子供が学生運動に参加したら」「会社の仕事で倫理に反することをしたか」などは「続」にはない。追加されたものとして「介護が必要になった場合や認知症になった時」、「就活の準備」など深刻のものがある。また「インターネット」、「民主党政権の評価」、「平成天皇の評価」などあり世相の推移を映している。また参加形態として「活動家」(60.1%)、「一般学生」(35.0%)という区分を設けている。なお回答者のプロフィールは以下である。男性89.7%、女性10.3%である。ちなみに当時の大学進学率は65年(男20.7%女4.6%)66年(男18.7%女4.5%)67年(男20.5%女4.9%)68年(男22.0%女5.2%)で、女性は進学率も運動参加率も低かった。
前回との比較 括弧内は前回)「参加理由」として「自らの信念で」57,2%(51.1%)、「社会正義から」18.4%(22.6%)。「参加したことをどう思うか」には「誇りに思う」69.5%(56.3%)、「懐かしい」12.8%(15.8%)。「あの時代に戻れたらまた参加するか」に「する」67.0%(55.3%)、「わからない」22.0%(21.5%)、「しない」2.2%(4.8%)。「革命・社会変革を信じたか?」に「信じていた」48.7%(35.7%)、「信じていなかった」33.2%(41.4%)。「運動は人生を変えたか」に「変えた」80.3%(69.8%)、「変えなかった」15.9%(16.2%)。「憲法はどうすべきか」には「堅持」66.8%(51.3%)。「日米安保をどうする」は「廃棄」62.6%(58・0%)。老いて確信はますます強まるということか。ただし「自衛隊」については「違憲」68.6%(81.9%)、「合憲」17.7%(4.9%)と微妙に揺れる。
 然しアンケートの送付には叛旗派の神津陽がいうように疑問もある。神津曰く。25年前の白書の時には案内はなかった。今回は来たが、呼びかけ人には山本義隆や秋田明大などの著名人はなく、全共闘時に何をしていたか分からない者もいる。それに党派関係者
が揃っていないとも。明らかに選別にバイアスがかかっている。安田講堂攻防戦と比肩される5号別館死守闘争を闘った関学全共闘関係者が皆無なのも不思議である。関学の項目で収録されている2名は6項目闘争もしらない71年入学生である。掲載のほとんどは横国大全共闘議長(中核派)、関東学院大全共闘議長(マル戦派→赤軍派)など例外はあるが、8派の下部活動家、ノンセクトである。それはかつての戦友会が下士官・兵が大半で少数の下級将校で構成されていたのに似ている。
 もう一つ気になるのが上記アンケート項目の第一回答がすべて増加していることである。老いてますます盛んというより、脳軟化症ならぬ「脳硬化症」に陥いっているのかと危惧される。これは総括作業をせずに日々の生活を送った挙句、かつての自己を美化しようとする欲求がますます強まるからである。全共闘世代はすでに後期高齢者を目前にしている。すでに層としては死滅に瀕しているというべきだろう。

2020年5月14日木曜日

禁書「ウイグル人」を読む

  「ウイグル人」 トルグン・アルマス(東綾子訳) 集広舎 2019年

 トルグン・アスマンの「ウイグル人」の邦訳が刊行された。1989年民主化運動高揚の中で書き続かれ、天安門事件4か月後の10月かろうじて出版された(ウルムチ 新疆青少年出版社)。然し年末には書店から姿を消した。「甘州ウイグル国」の章が駆け足で終わり、予定されていた「ヤルカンドハン国」は書かれなかった。本書はいわばウイグル人の未完の歴史書である。反動化した中国当局は何故本書を禁書にしたのか。それは「中国が古来から統一多民族国家であるという事実や中原の漢族とも経済・文化の相互影響を無視し、ウイグル族の歴史を独立史として描いている」からに他ならない。
 トルグン・アルスマンは1924年カシュガル地区で生まれた。1942年省立師範学校卒業後、カラシャールの小学校校長となるが、国民党政府により2回の逮捕を受ける。
その後自治区文学文芸連合会の編集者を務め創作活動に励むが、70年に共産党政府により逮捕7年間重労働に服す。釈放後「匈奴簡史」、「ウイグル人」、「天山ウイグル国」、「チュルク人」、「ウイグル古代文学」など書いたが、出版後禁止される。軟禁状態が続き2001年死去。
 本書は2010年世界ウイグル会議により再刊されたものの翻訳である。楊海英がいうように「民族自決を目指す歴史書」であるが、その分欠点も目につく。汎ツラン(トルコ)主義にもとづく仮説の部分である。その第一はタリム盆地の原住民に対する認識の誤謬である。トルコ族がタリム盆地に住み着いたのは9世紀半ばのウイグル族のモンゴル高原からの南下(天山ウイグル王国の成立)が嚆矢であり、カラハン朝により加速した。然るに著者は、840年に移住してきたのは20万人の東部ウイグル人で、それより遥かに多い西ウイグル人がタリム盆地に大古より住み着いており、印欧語族の存在を否定する。タリム盆地で発見された大量の古文書はインドの言葉で書かれた仏教経典のみで、印欧語を使用するアーリア人種がこの土地に住んでいたことを証明するものではないとする。然しクチャ(トハラ語B),カラシャール(トハラ語A)、クロライナ(トハラ語C)、ホータン(ホータンサカ語)、カシュガル(ソグド語)では仏典以外多くの世俗文書が出土している。これらオアシスの住民は明らかに印欧語派に属するコーカソイドであることを物語っている。小河墓、古墓溝、鉄板河古墓出土ミイラの風貌もそれを補強している。ただしトルファンの出土文書は仏典のみで、車師族はアルタイ系という説もある(嶋崎昌)。第二はタウガチの語源についてである。匈奴では「服従」「植民地」の意味で中国をタウガチと呼んだとする。匈奴は周の時代山西省北部を占領していたので、中国をタウガチと呼んだという。然し定説では北方民族が中国をタウガチ(タムガチ)と呼称したのは、中国北部に建国した鮮卑系の拓跋氏の北魏(白鳥庫吉)や唐(桑原隲蔵)に由来すると考えられている。
 本書の瑕瑾は上記にとどまらないが、それは著者の汎ツラン主義に起因する。汎ツラン主義19世紀後半に流布したイデオロギーでトルコ系のみならずウラル・アルタイ系民族に対して言語的、文化的、歴史的な共通性を求めようとした。ウラル・アルタイ語族仮説は20世紀には日本や朝鮮まで拡大された。現ウイグル人は840年以降タリム盆地に定住したウイグル族と圧倒的多数のソグド人など印欧語族の混血種である。然し著者はこの結果を原因に帰因させる。例えば古墓溝で発掘されたミイラ(楼蘭の美女)。6412年前(実は3800年前)とされるミイラは明らかにコーカソイドの特徴を示しているが、著者はこれを現在のウイグル人に投影して「8000年前からタリム盆地に住み続けた」祖先であるとする。この本書の瑕瑾の非科学性をあげつらうのは中国的歴史観への無意識の屈伏だと三浦小太郎は解説するが、果たしてそうだろうか。それこそ「中国は古来から統一多民族国家である」という大漢族主義と同列で、それに拝跪するものではないのか。このような瑕瑾について補注などで補足説明されていないのは残念である。また著者は経歴から見れば、「民族共産主義者」として弾圧された東トルキスタン独立運動の系譜に連なると推測されるが、近代・現代の新疆ウイグル人の歴史を書かなかったことが惜しまれる。

2020年3月10日火曜日

関学闘争外伝~「日常生活構造批判」

 「日常生活構造批判」雄叫び4号(別冊)木田拓雄 1968年
                  関西学院大学社会学部学生自治会

 「学費闘争総括への提言」の第2章「日常生活構造批判」(以下「批判」)は関学6項目闘争を牽引した記念碑的文書である。木田はこの「批判」を結集軸にして革命的自立者同盟というノンセクトグループを社会学部闘争委員会内に組織して6項目闘争を闘った。全学執行委員会や法学部、商学部自治会を掌握していた反帝学評(解放派)は、その戦術とは相いれなかった(社闘の5別館封鎖の小ブル急進主義反対)が、心ならずであるが追随するしかなかった。「批判」はまず43学費闘争の社闘委の総括として関学新聞(68年4月15日)に掲載されたのが初出である。従来の学生運動形態を支えている国際情勢分析主義を批判した。何のために闘うかという、闘いと自己の関わり方を明確にしない闘いは、学生のアンガージュえを勝ち取れない。そして情勢が外在的でしかないということを内在的に把握することによって客体を引き寄せる方法の形成こそ「日常生活構造批判」だとした。そして「学費闘争総括のための提言」としてその第1章(知識人論と疎外論)が「雄叫び3号」に、続いて第2章(日常生活構造批判)が「雄叫び4号(別冊)」に掲載された。
 それではこの「批判」はいつ執筆されたのか。論考中には執筆終了は12月16日とあり、4号刊行日は68年12月21日である。また文章中、新聞総部の批判(「シチュアシオン68」関学新聞68年10月31日)に対する再批判があることなどから11月から12月上旬くらいと推測できる。この時期はこと関学キャンパスにおいてもまことに緊迫した状況であった。最後の兵庫県学連大会が2号別館で開催(11月10日)、フロントと反帝学評の対立で運動方針だせず人事案のみで終了。全執選挙で反帝学評系候補が当選(11月21日)、全執による公開質問状提出(12月2日)、反帝学評と革マル派の党派闘争(12月8~9日)、全執大衆団交要求(12月16日)などである。一方全国的には10・21新宿闘争は新左翼ムードの頂点を極めた。東大闘争も11・22には全国から各党派1万人を動員したが、12月に入り民青系との対決で緊迫化していた。
 「批判」は「序説」、第1節「大学の構造的把握」、第2節「家族の構造的把握」の3節からなっている。当初の予定では第3節「国家の構造的把握」や第3章として運動母体の問題などが構想されていたが、それらは書かれなかった。
「序説」は新聞総部による「知識人論」批判への反論である。新総は木田を「吉本の表皮的信仰に陥り」、「マルクスの初期草稿読み」から脱却できないで疎外論をいじくりまわしていると批判している。それに対して木田は、吉本隆明は現在を「相対的安定が国独資として永続化されつうある深刻な過渡期」とし、この状況を「構造改革的に止揚するのではなく、政治的アパシーに存在をもつ大衆を逆に彼らの実在たる生活の領域においこみ、(中略)大衆を自立化させ国家止揚の集中化を企て」ているのであり、「真の大衆へのコミュニケーションの方法を見つけんと」苦しい作業を続けていると反論している。そして自身も「ありのままの学生大衆を追求し、「大衆が耳を傾けるコミュニケーションをこれから見つけてゆく」と。そしてこれが第3章の課題であると。
大学の構造的把握)本論考のハイライトである。まずフロント派の「大学を反戦、平和、有機的知識人の創出の砦にして、そこから社会の構造的手直しをやる」という「大学革新論」の欺瞞性が論断される。資本と大学の連関は定期的労働人口法則の構造としてある。大学とは商品化した教育サービスを、自己のもとに包摂した教育労働者を使って販売するサービス資本である。この教育サービスは自由な販売が許されものではない。一定の売買契約に基づき、学則(法)に規制される。それ故学生と大学の始原的対立は、教育サービスが商品として売買されざるをえない大学の構造に原因がある。大学は定期的労働人口法則に包摂されていることから、労働力育成をその本質とすべく自己疎外している。故にその教育内容(質)は労働者を育成するための教育となり、教育形態(量)は産業界の労働需要に応ずべく(マスプロ化)規定される。この関係を木田は「知的疎外」という。4年間の「猶予」の後に落ち込む未来的自己(労働過程に入る自己)に自己存在の全集約を行い、この未来的自己に絶対的秩序と尺度を与え、かかる労働過程を肯定的に対象する自己以外は、一切圧殺せんとする。それ故未来的自己を否定せんとする自己存在と、激しい葛藤が生じる。例えば学生運動に身を投じるのは、未来的自己の自己否定となるものとして、抑圧の対象となる。この未来的自己と現在的自己の矛盾と葛藤は個人的な選択や意思などではなく、大学の本質(大卒労働者育成)に起因する。学生は4年間の「猶予」の後、一切の相対的自由をも拒否して、労働過程に入り込むことを与儀なくされる。人は生きるためには資本の存在を肯定的に対象化しなければならない。たとえ幻想的に資本の否定を企てる者も例外ではない。
 「批判」は関学6項目闘争を入試粉砕から2・8~9の5号別館死守闘争の高みにまで導いた。43学費闘争の限界を突破する理論的根拠を全共闘に指し示したといえる。その意味では木田は本望であっただろう。然し、その後の闘争の道標は与えなかった。それは「全国学園闘争の展開の中で、個別関学闘争を突破する方針を提起しえても、全国政治闘争としての方針を提起しえないという限界性」(「関学闘争の記録」)と指摘された通りである。
 今から振り返って「批判」に対する感想を2点述べる。第一は闘争終了後に総括を妨げる否定的要因になったことである。それは東大闘争における「自己否定」が総括作業を妨げる躓きの石となったのに近似している。第二は「批判」には68年当時の関学キャンパスの党派の状況がリアルに描かれていることである。たとえばフロント派。43学費前はフロント、闘争中は無党派もしくは無活動、終了後はまたフロントとある。これは6項目でもくりかえされる。歴史ある関学フロントだが、自治会民主主義の限界を口実に経自会から逃亡したり、メンバーがブントに移たりで消滅寸前。最も党派自体が機関紙を「戦旗」をもじった「先駆」に変え、構造改革路線を投げ捨てたのであるから。かつて兵庫県学連や関学学生運動を牽引した構改派学生運動。その「層としての学生運動」は時代に取り残されていた。木田自身もその周辺から出てきたはずである。「批判」は構造改革派学生運動の廃墟に咲くあだ花である。「批判」3章が未筆で終わったのは著者にとっては幸いであったと言わねばならない。


2020年1月17日金曜日

玉の道

   「中国玉器発展史㊤」 常素霞 科学出版社東京 2019年

 従来新疆産のホータン玉が中国本土にもたらされたのは、殷の婦好墓(BC1200年頃)出土の玉器が最初と思われていた。然し本書には、それは新石器時代に遡れるという興味深い指摘がある。すなわち臨潼の姜塞仰韶文化遺跡(BC3000~2500年)からホータン玉に似た玉飾が発見されている。ただし玉材の分析が必要である。確実なのは斉家文化期(BC2400~1900年)における玉器の大量の出現である。この頃新疆から中原への輸送ルートが開かれたことを暗示している。
 19世紀末、フランスの鉱物学者ダモーラが中国の玉材は軟玉(透閃石)と硬玉(輝石)に分類できるとしたが、ホータン玉(軟玉)と翡翠(硬玉)だけが本当の中国の玉だと考える学者もいる。今から1万8千年前の旧石器時代後期の遺跡(北京周口店遺跡の山頂の洞窟)から、玉石器材(蛇紋岩、瑪瑙、水晶など)の道具が発見されている。そして新石器時代に入ると、透閃石の玉が出現する。透閃石はホータン玉と同じ鉱物に属するが、同じではない。その産出地は限られる。紅山文化(BC4000~3000年)の玉器は東北の岫岩細玉溝の「河磨玉」である。また艮渚文化(BC3500~3000年)の玉材の供給地は江蘇省の溧陽県小梅嶺村と句容市茅山の2か所である。地元の玉材がほとんどだが、前記のようにホータン玉の可能性のある玉材の出土も指摘されている。斉家文化期(BC2400~1900年)になるとホータン玉で制作した玉器が次第に多く出土するようになった。新疆から中原への玉石輸入ルートがこの時期初めて成立したことを示している。そして殷虚の婦好墓(BC1200年頃)である。755点の大量の玉器が出土しているが、その大半はホータン玉であり、その他河南省の南陽玉、東北の岫岩である。とくに玉羊頭、玉鳥、玉牛の3点は、ホータンの籽玉(しぎょく 河川の水で長年研磨された卵状の玉)である。
 「史記」の記載によれば、先秦時代からすでに「崑崙の玉」が中原にもたらされていたことが知られている。 誰が玉を中国本土に運んだのか。「禺氏の玉」と称されるが、禺氏すなわち月氏である。「漢書」西域伝は「(鄯善)国…は玉を出す」と記すが、楼蘭は玉を産出しない。楼蘭に行けば玉を買うことが出来るという意味である。彼らは直接ホータンから運んだのではなく後に楼蘭と言われた場所から持ち帰ったのである。長澤和俊によれば、BC1500年頃には楼蘭にすでに交易マーケットが建設されていたという。そこは中国本土に向けて砂漠を横断する際の、最後に水を得られるオアシスであった。建設の時期は、斉家文化期出土の例からもう少し遡れる可能性がある。楼蘭は当初は市場と隊商宿だけのささやかなオアシスであったかもしれない。やがて城壁などの防御施設が設けられ城郭都市に成長した。市場の管理者は王になった。この都市の住民は小河墓遺跡のミイラの子孫たちである。彼らはBC3300年頃黒海地方のステップからやってきた印欧語族の一派トカラ語派の人たちである。時間と空間の長い旅路の果てに、彼らが「クロライナ」と呼んだ楼蘭にたどり着いたのである。