2016年8月27日土曜日

「南北朝正閏論」とは何か~昭和史の謎を追う⑬

     「後南朝再発掘」 山地悠一郎 叢文社 2003年

 後南朝の歴史は長禄の変(1457年の赤松与党による南朝一宮・二宮殺害、58年の神璽奪回)によって絶えるが、近現代史に深い影を落とした。すなわち「南北朝正閏論」と「熊沢天皇事件」である。
(「南北朝正閏論」とは何か)
 昭和9年(1934)1月発行の雑誌「現代」に掲載された「足利尊氏」が議会でやり玉にあがった。著者は斉藤内閣の商工大臣中島久万吉。2月7日貴族院で菊池武夫議員が追及。十数年前の文章の再掲載であり、執筆時の学界では常識であった史上の人物の再評価が、「乱臣賊子を礼賛するがごとき文章を発する」として攻撃された。中島は不用意な再掲載を陳謝したが、収まらず大臣を辞職した。この学問と思想の自由弾圧は、翌年美濃部達吉「天皇機関説」排撃へと続き、更に「国体明徴運動」に至った。
 然しこれは明治44年(1911)の「南北朝正閏」問題の再現、その帰結であった。明治44年1月
18日の大逆事件公判における幸徳秋水の言説に対して、読売新聞が翌19日の社説で批判したことから、「南北朝正閏論」が一挙に政治問題化した。代議士藤沢元造は議会で、文部省の国定教科書「尋常小学校日本歴史」が「容易に正閏を論ずべからず」南北朝を並立させているのは、国体にもとると非難した。「南北朝正閏問題」は実証史学の対象ではなくて、国体原理であった。この黒幕は山縣有朋である。桂内閣の小松原英太郎文相は当初教科書の修正には慎重であったが、最終的は屈した。明治天皇の勅裁によって、南朝を正統と定め教科書は書き改められた。「南北朝」は「吉野朝」と書き改められ、執筆者の喜田貞吉博士(編集官)は休職処分となった。
 「南北朝正閏論」は名分論であって歴史教育の問題であった。当時の権力者にあっても「学者の説は自在に任せ置く考えなり」(桂首相)、「学者の議論としては何れにても差し支えなき事」(原敬)であった。そして学問研究においても、東大史料編纂所が編纂した「大日本史料」(第6編)では南北朝並立の体裁をとっていても問題にはならなかった。また東大文学部での田中義成の「南北朝」講義でも、南朝正統論は名分論であって歴史の学説ではないと云うことができた。いわば実証史学の学者たちは「名」(歴史教育)を捨てて「実」(歴史学)をとったのである。然し「歴史教育」が国民統合のための思想統制の手段である以上、「歴史学」もそれとは無縁ではありえない。
(熊沢天皇事件)
 「南北朝正閏論」は山縣の明治国家の指導原理たる南朝正統論として結着された。そして北朝系の天皇(明治天皇)に南朝イデオロギーを体現させるという「無理」は、その後の天皇制に深刻なひずみを与えた。しかもこの南朝イデオロギーは意外と底が浅く、水戸光圀が鼓吹した楠木正成賛仰の変形に過ぎなかった。この「無理」な結着に政府や宮内省が心配したのは、「南朝顕彰」に名を借りた野心家の登場である。果せるかな出た。それが「熊沢天皇」である。「熊沢天皇事件」とは戦後の混乱期に愛知県の雑貨商熊沢寛道が、自分こそは南朝正統の皇裔(後亀山天皇の皇子小倉実仁親王15世の子孫)であるとし、皇位継承権を主張した事件である。寛道の養父熊沢大然(ひろしか)はすでに明治41年明治天皇に対し、自家の由来を述べ、自祖信雅王の陵墓を私するのは恐れ多いとし、国よる管理を上奏していた。大然は明治31年頃吉野川上村の儒者林柳斉(1838~1925)について南朝史を学んでいた。林柳斉は、大阪の藤沢南岳の門下で、南朝研究に打ち込み「南朝遺史」の著作がある。南岳の息子が、あの「南北朝正閏論」の口火を切った代議士藤沢元造である。大然は南岳の処にもしばしば出入りしていた。柳斉の著書には尊雅王までは出てくるが、「信雅王」はない。おそらく大然は、南岳の処で「尊雅王の子信雅王」というフィクションを得たのではないかと本書の著者は推測している。
  明治の「南北朝正閏論争」において、実証派の歴史家たちは「実」(歴史学)の弧塁を守ったと錯覚した。それは決定的な「躓きの石」でもあった。昭和の「中島商工大臣罷免事件」でそれは明らかになった。国体明徴運動の嵐の中で「歴史学」は窒息させられた。そしてこのような光景は近年の
「南京事件論争」でも見ることができる。

2016年8月5日金曜日

1970年のクロニクル~関学闘争後史③

    「関西学院新聞」 1970年

 1969年は年末総選挙における社会党の歴史的大敗で幕を閉じ、安保改定期の1970年を迎えた。然し新左翼諸党派は昨年11月の日米共同声明(70年安保堅持、72年沖縄返還)によって展望喪失に陥っていた。その中で赤軍派は大菩薩事件での大量逮捕にかかわらず、年明けの政治集会で関西(1500人)、東京(800人)、札幌(500人)と「赤軍人気」の健在ぶりを示していた。また革マル派もその独自の「沖縄闘争論」で存在感を深めていた。すなわち「全軍労大量解雇=基地合理化反対闘争ならびに沖縄返還準備委設置粉砕闘争」を70年安保闘争の突破口であるとした。
1/28社自治会デッチ上げ粉砕闘争
 関学キャンパスでは、原理件研(統一協会)などの右翼学生が社会学部自治会のデッチ上げを画策していた。「『明るく豊かな自治組織建設』をその旗印に、社会学部で最近、原理研、若い世代の会、日学同などのファシズム学生が中心となって、社・自治会の掌握にのりだしてきている。14日、彼らは『学生集会』なるものをデッチ上げ、その場において選管委選出などの仮決議として決定、その後、28日からの投票期間に突入した。」(関西学院新聞567号1970年1月25日)「社再建有志会」、「学生大会推進委員会」(代表 春藤仁孝 社2年)なる名前で主催された「学生集会」はノンセクト共闘会議によって摘発・粉砕されたが(逃亡を許した)、彼らは①旧執行部の信任選挙
②新執行部の信任選挙③選管委の選出などの3点が仮決議として決定したとした。「これに対し、一年生を中心とするノンセクト共闘会議などが、学部規約第7条、「異議申し立ての規定数」などを理由に、集会の無効を主張していたが、(中略)”9”名の右翼学生が立候補し、26日からのデッチ上げ選挙運動に入ったが、投票日の28日、午後からの『選挙粉砕集会』に結集した全共闘など約200名の学生が、彼らにその犯罪性、反革命性を追及したところ、その場でその日の選挙を取りやめざるを得なくなるという、無内容な彼らの対応が全学院生の前に露呈した。」(同567号)全共闘など200名の学友とは、ノンセクト共闘会議の黒ヘル部隊である。旧執行部・社闘争委は闘争を放棄した。「現在革マルやら、べ平連左派などを自称する諸党派の台頭を許すまでになっている」(元執行部のK委員長)と嘆くのみである。党派として先鋒隊と革マル派(社闘争会議)は参加した。ただし革マル派はノンヘルで実力闘争には参加しなかった。右翼学生は一部教職員と私服に守られて逃走した。そして姑息にも郵送投票で新執行部が信任されたとした。その内容は社会学部学生主任の資料によれば、「投票総数591、有効578、無効13、信任492、不信任86」(社会学部30年史)であるが、これは信頼する根拠に乏しい。なぜならこの学生主任こそ、このデッチ上げ劇のプロモーターであるからだ。
2/4全大阪反戦の分裂
 「沖縄ゼネスト1周年にあたる2月4日、大阪では『全軍労支援全関西集会』が三ケ所に分裂した形で開かれた。これまで『統一』集会をもっていたこの全大阪反戦の分裂は、昨年の秋におこった社青同と中核派の衝突、『11・12佐藤訪米阻止集会』、『11・26日米共同声明粉砕集会』における中核派と革マル派の内ゲバによって決定的となった。(中略)大手前公園で、全関西地区反戦連絡会、大阪地区反戦連絡会、全関西全共闘に属するブント、中核、ML,関西べ平連など反帝派2000名が集結(中略)、また社青同、労組青年部、職場反戦などを中心とする組合内左派グループ約600名は、中の島剣崎公園で、(中略)革マル派の学生、労働者約100名は、扇町公園でそれぞれ全軍労支援集会とデモを展開した。」(同568号2月28日)かろうじて統一行動を保っていた全大阪反戦は3分解した。すなわち8派共闘の反戦・学生2000人、社青同(主体と変革派)と民学同650人、革マル派150人。さらにいえば赤軍派は2/7政治集会に1500人を集めている。
新左翼の戦線は関西では4分断に固定化されたのである。
2/9関学闘争1周年全関西総決起集会
 4か月ぶりに中央芝生に各党派のヘルメット部隊が集結した。「『関学闘争1周年総決起集会』が、9日、午前10時すぎより学院中央芝生において行われた。この集会には各学部闘争委および、中核、反帝、フロント、ブント、MLM,さらに関学公判の『被告』団など、革マルを除く諸党派約200名が結集した。(中略)この後、12時より学内デモに移り、神戸地裁に向かった。」(同568号)神戸新聞によれば、この集会には、神戸大、神外大、桃山大などからも各党派が動員をかけたという。そしてこれが関学キャンパスに諸党派が集結する最後の集会となった。6項目闘争を戦った関学全共闘としての登場もこれが最後となった。薬学部設置反対闘争時の1年生はすでに4年生になっており、卒業を目前にしていた。
6/23反安保闘争
 3月31日赤軍派9名が日航機をハイジャックして北朝鮮に向かった。この「フェニックス作戦」は同派の「国際根拠地建設・70年前段階蜂起貫徹」を具現化したものである。よど号グループはその後「北朝鮮の傭兵」となって迷走するが、この事件が赤軍派分散の始まりであった。
 関学キャンパスでも唯一残っていたセクト連合ブントが戦旗派(反帝戦線)と情況派に分裂の兆しを見せ始めた。そして関学闘争と全く無縁であった中核派が神戸大など外人部隊のテコ入れで、関学反戦会議を名のって公然と常駐スタイルで登場する。然し授業中の革マル系学生2名を襲撃したのが唯一の「成果」とあって、戦う学生に嫌われ、学内の大衆運動には一切参加させてもらえない。また革マル派(全学闘)は、べ平連左派との統一行動を追及して、4・28や6・15闘争で若干の動員を「成功」させたが、学内でダイナミックな闘争を取り組むことが出来なかった。唯一大衆運動をけん引したのはノンセクト共闘会議であった。6/23に向けて理学部が19日学生総会で20~23日の反安保ストを決議した。法学部も22~23日のスト、経済学部は23日学生集会で当日の授業ボイコットと自治会再建を決議した。「この日、学院中央芝生において昼すぎから総決起集会が行われ(中略)経済主義、社会革命主義でしかない西宮地区共闘(西宮反戦)の諸君から決意表明がなされた。これに対し、会場前部に陣どっていた関学反帝戦線かこの”情況派”の『党の大衆運動への手段化、政治革命ぬきの社会経済主義者』(中略)が、真の{革命主体}{政治主体}とはなりえないなどといった諸点を明らかにしたが、これになんら答えることなく”なぐる”行為にのみ終始した。集会後、関学全共闘のF闘連、理・経闘委を中心にした約400の部隊は大阪うつぼ公園へ、そして社学同ー反帝戦線の部隊は神大へ、法闘委、”情況派”諸君は西宮市役所へとそれぞれ向かった。」(同573号6月15日)この日中央芝生には600名を超える部隊が結集した。その大半はノンセクト共闘会議、自主講座、旧経闘委などによって再編された経共闘の学友である。圧倒的な動員に驚愕した学部当局は、前委員長の「大会招集権放棄」を理由に自治会再建決議の無効を宣告した。
 「うつぼ公園において開催された『全関西統一集会』には、総評、全共闘、反戦、高校生、べ平連など約十万人という最大の部隊が結集して、圧倒的にかちとられた。(中略)デモに移ろうとしたとき、大経大を中心とした”情況派”の武装部隊が大工大・桃大などの反帝戦線部隊を襲撃したが、反帝戦線が”情況派”を放逐した。なお関学のデモ隊がナンバ高島屋裏にさしかかったとき、突如として機動隊が襲いかかったが、後続部隊とともに隊列を組みなおし、終始戦闘的にデモを貫徹した。」(同573号)この夜の関学の部隊は3梯団1000名に達していた。機動隊の報復的弾圧を、戦闘的デモ、投石などで阻止線を寸断して粉砕した。
10/20法学生大会、21法封鎖
 8月4日東教大生海老原俊夫君(革マル系)が中核派に殺害されたことにより革共同両派の緊張が極度に高まった。関学キャンパスでも革マル派(全学闘)は姿を消し、大阪市大に移動した。それとあいまって反帝学評は、昨秋闘争の逮捕者などが復帰し、久しぶりに青ヘル姿で登場した。そして9/25法学部学生大会で新執行部を確立した。中核派(反戦会議)は、「民青ばり」に自治会乗っ取りを策したが失敗した。学生大衆は6項目闘争を最も原則的に戦った反帝学評を支持し、中核派(反戦会議)は関学から召喚した。党派闘争が激化した革共同両派はその後関学キャンパスに登場することはなかった。
 「前日、学生集会を開いた法学会は、10月21日早朝、法学部本館・別館の封鎖を決行した。(中略)20日の学生集会は(定員不足のため「大会」から「集会」に変更)、9月25日の学生大会の仮決議をふまえて、10・21政治ストを打ち出した。法学会長によって、①10・21-ストを克ちとり、安保粉砕、政府打倒を戦い抜こう②獄中の同志を直ちに釈放せよ!6項目闘争の分割公判強行粉砕”③当局の弾圧を粉砕し、法学部『祭』・11月『祭』を克ちとろう”④帝国主義化路線の近代化路線の強制、自治会活動への介入弾圧を推進する大学当局と対決し、革命的再編、階級的政治化を克ちとろう”といった四つの議案文を含む議案書提起がなされた後、文総文化祭実行委員会代表、生協祭実行員会代表、6項目闘争全共闘議長からの連帯のアピールが行われた。」(同575号11月10日)神戸新聞によれば、21日の封鎖は「ヘルメット姿の反帝学評の学生ら7人」とある。「国際反戦デーの21日、大阪でも午後6時より東区の大手前公園において、約1万5千名の結集の下に集会がもたれた。(中略)各大学の全共闘、及び中核派、反帝学評、プロ学同などの各党派、地区反戦、市民、高校生などの部隊が結集(中略)この日の集会には、学院からも約250名の学友が結集した。」(同575号)
10/30商自治会デッチ上げ粉砕闘争
 反帝学評は法学部では自治会執行部の確立・維持に成功したが、商学は違った展開を見せた。
商では活動家の復帰が進まず、自治会の崩壊状態が続いていた。そのスキをついて社青同協会派が外人部隊を投入し、民青(民主化行動委)と結託して、自治会乗っ取りを画策した。「商学部選挙管理委員会は、10月30日の『学生大会』における仮決議を有効として、自治会執行委員長選挙に関する公示をした。30日の『学生大会』では主催者と全共闘学生が衝突して、数人の負傷者が出た模様である。この混乱の中で、『学生大会』は進められ、自治会再建と選管委選出の仮決議がデッチあげられた。」(同578号11月30日)会場外では協会派の武装部隊(白ヘル、木刀)、校舎内では民青が防衛していた。全共闘派(反帝学評、経共闘、理闘委)は協会派・民青防衛隊の粉砕行動を開始したが、混乱にまぎれて、仮決議がデッチあげられた。粉砕された協会派の外人ぶたい30名は教員住宅裏から仁川方面に遁走した。公示によるとこの仮決議は全会員1/20以上の連署による異議申し立てがなかったため、大会決議と同様の効力を有するとして、協会派と民青は自治会選挙を強行した。11月11~13日の立候補受け付けに2名の2年生(協会派と民青)が立候補した。然し投票は全共闘系の粉砕行動で断念、姑息にも原理権研にならって29日締め切りの郵送投票に切り替えた。12月4日、開票の結果は社青同協会派系のT君が298票を獲得し当選、民青系のK君は200票で次点となった。白票は16票、無効票は12票であった。社青同協会派は白ヘルに反独占、改憲阻止学生会議の文字を書き中核派と見まちがうスタイルで登場した。関学の協会派には、青年インターや反帝学評から流入した者もいる。T君は1年生時ノンセクト共闘会議に参加していた。いずれにしても、6項目闘争と一切無縁であった「戦わざる」協会派や民青が関学キャンパスに公然と登場してきたのである。
11月祭とオータム・フェスティバル
2年ぶりにキャンパスに「記念祭」の季節が訪れた。文総など11月祭実行委(文総、生協、法、経、商、理各実行委)に対抗して、右翼部分による「オータム・フェスティバル」(体育会、応援団総部、宗教総部、総部放送局、社「自治会」)が画策され、二つに分裂した。当局は11月祭の実行主体はいずれも適格性に欠けるとし、規模などから「A・F]を従来の「記念祭」に準ずるものとした。そして文総の援助金要請を拒否し、すでに「任期切れ」の活動実態のない社「自治会」に援助金(70~80万円)を交付した。法闘委(反帝学評)などは11月祭実施を全共闘再編と位置付けたが、実行委内で同意を得られなかった。右翼などによる妨害(タテカン破壊)に対処すべく防衛部隊を設置したが、「A・F」実力粉砕には大衆的合意は得られなかった。F闘連、理闘委の一部のみが粉砕闘争に参加した。「開会式での型どおりの式進行の後、吹奏楽部とバトンガールズが出演したが、F闘連・理闘委を中心とする学生約30名が、式に介入した。約30分分間の右翼・秩序派への釘集会の後、学内デモに移ったが、体育会系学生数十人に回りを囲まれるなど、一時険悪な空気になった。」(同576号)分散化した全共闘系活動家の再結集組織=全学活動者会議の結成は翌年に持ち越される。