2014年8月14日木曜日

再び楼蘭について

 「楼蘭はなぜ滅んだか」 伊藤敏雄 ~「イエローベルトの環境史」 弘文堂 2013年~

 楼蘭の滅亡については、従来その原因として下記の五つの説が提示されている。①交易路(シルクロード主要ルート)の変化、②戦争や征服、③環境の変化(ロプ・ノールの涸渇)、④中国王朝駐屯軍の撤退、⑤僧侶の腐敗。然しいずれも実証が不十分で、楼蘭(鄯善)王国の滅亡と楼蘭地区(LAを中心とする遺跡分布地区)の荒廃を混同している。とくに長澤和俊の研究(楼蘭王都は終始LAにあった)の影響により同一視している説が多いと著者は指摘している。そして楼蘭王国の滅亡と楼蘭地区の荒廃は分けて考察すべきだとして、以下のような仮説を提示している。
A楼蘭王国は当初楼蘭地区に都を置いたが、前漢の西域都護設置(全60年)前後か後漢前期に 若羌地区に遷都した。若羌地区の鄯善王国は北魏の征服(448年)で滅亡し、その後住民は離散 した。
B楼蘭地区は遷都以降、中国王朝の駐屯軍が駐屯し、屯田を展開。その後前涼か北魏の時代に駐屯軍は撤退。隋・唐では楼蘭地区の戦略的重要性が失われたため、駐屯軍は派遣されなくな った。
Cその背景としては、シルクロードの主要ルートの変更やクム・ダリヤとその下流域の涸渇が想定 できる。後者は実証困難である。駐屯軍が撤退した結果、水利施設が再開発されることなく荒廃してゆき、時期は不明であるがクム・ダリヤとその下流域が涸渇するようになり、荒廃に変わっていった。
 楼蘭(鄯善)国都については北方説、南方説、南遷説があるが、著者は南遷説である。北方説批判の根拠は、①LAからは前漢時代の遺物は出土せず、炭素14測定値も前漢晩期から後漢時代の年代の数値を示している。故にLAは前漢末期・後漢時代に建設され、魏・晋時代の西域長吏府であるとする。②カロシュティー文書の語句クロライナ(楼蘭)、クヴァニ(扞泥)、マハームタ・ナガラ(大都市)が同一のものを指すということがLA国都説の根拠とされてきたが、クロライナ=マハームタ・ナガラは実証されているが、クロライナ=クヴァニは実証されていないとする。然し①については故城内三間房背後の地層に焼け跡が見られるので、故城建設以前に都市・集落があった可能性は捨てきれない。それは伊藤もLAは再建された可能性があるとかつて指摘している。(「楼蘭国都考」 西北出土文献研究6号)②についてはクロライナ=マハームタ・ナガラは論証されており、クヴァニ=マハームタ・ナガラであれば、クロライナ=クヴァニは成立する。
 仮説Aについては、遷都の時期を西域都護設置から後漢後期としているが、これは早すぎる。カロシュティー文書によれば5代の王の治世(榎説246-341年、長澤説203-288年)は国都はLAであったことがわかる。ただし榎も4世紀のある時期に国都がミーラン方面に移動したとしている。Bについてはシルクロード新道(玉門関から五船を経てトルファン)の開設によって中道(玉門関ー都護井ー三隴沙ー居蘆倉ー沙西井ー楼蘭)がすたれ、楼蘭の中継地としての重要性が低下したことが認められる。
 楼蘭地区の荒廃の原因は水利施設の維持管理もさることながら塩害であった。佐藤洋一郎によれば過灌漑によって塩が地面に吹いてしまったためという。(「よみがえる緑のシルクロード」岩波書店 2006年)漢書西域伝によれば楼蘭の人口は1万7千人。人ひとりが年間に食べる小麦を100キロ、1ヘクタール当たりの生産量を1トンと仮定すると、1万7千人分の畑は最少でも1700ヘクタールになる。つまり4.5キロ平方の畑がなければ、これだけの人口はささえられない。実際には楼蘭地区の可耕地は城の北側からクム・ダリヤ下流域に散在していた。クム・ダリヤからの取水は相当量に達した。塩害が楼蘭地区を荒廃させ、のみならずタリム盆地の沙漠化を進行させた。ただし、これは文献によっては検証不可能である。


2014年8月4日月曜日

「シルクロード史観」論争その後②

 「『シルクロード史観』再考」(「史林」91-2所載) 間野英二  2008年

 前稿(「シルクロード史観」論争」)で一方の当事者間野英二が護雅夫の批判を黙殺したため、この論争は継続せず「すれ違い」で終わったと述べた。然し近年間野が護の弟子筋にあたる森安孝夫「シルクロードと唐帝国」に対する再批判を発表している。一般にはなじみの薄い学術誌掲載論文なので簡単に論点を紹介する。
 間野は森安のこの批判(①シルクロードの抹殺反対②イスラム化強調への疑問)について、これは一方的な曲解であって当たらないとする。すなわち①については「シルクロード」が、地域を指す言葉としてはあまりにもあいまいな言葉であるため、研究者が地域を指す言葉として、研究論文などで使うことには賛成できない。然しマスコミや出版社・旅行社が使うのは自由であるとする。②については東トルキスタンのイスラム化の時期を15世紀とする森安に対し、カラ・ハン朝の成立期(9-10世紀)を以て対置する。森安が東トルキスタン東部のトルファン(ここのイスラム化は15世紀までずれ込む)に視点を置いて批判するのは客観性に欠けるとする。ここに視座を置いて30年前の研究視角をとるのは、畢竟イスラム史料を十分に利用することができないからだとも。そして「シルクロードと唐帝国」のような一般読者を対象とした書物で、曲解に基づく一方的な批判は慎むべきだという。然しこれはやや疑問である。間野が「シルクロード史観」を批判したのは、同様の一般読者を対象にした「シルクロードの歴史」においてである。
 そして「シルクロード史観」についての現在の考えを述べている。まず松田寿夫の「シルクロード史観」について「隊商路としてのシルクロードの存在が、中央アジアのオアシス都市の死命を制するものであり、シルクロードの存在なくしてオアシス都市の繁栄をありえない。シルクロードの存在が中央アジアそのものの死命を制する」と定義する。同時に「オアシス都市の商人たちの活動の意義をあまりに過大視するのは問題」とする。すなわちオアシス都市の基本的性格の認識として、松田(森安も)は隊商貿易依存説であり、間野は農業依存説である。然し二者択一ではなく、どちらがより基本的で、より重要であったかという比較の問題であるとする。この問題については、この30年間研究はほとんど進んでいないともいう。
 また「ソグド地方を中心とするオアシス都市を、もっぱら商業都市、隊商都市と規定することは行き過ぎであろう」が、ソグド商人の国際的活動は紛れもない事実であるともする。その商業活動については、①何故乗り出したのか②蓄積した富の行方③商人の地位④隊商の規模と頻度などすべて不明だという。松田の「人口余剰説」を踏襲した森安の「地元経済活性化説」は、ソグド人の隊商貿易が大規模で頻雑に行われたという架空の前提にたって築かれたとする。なお間野はこの中で「ウイグル文書に登場するのはほとんど農民で、隊商貿易に従事する商人の姿をそこに見出すことはできない」という森安が指摘した事実誤認をひっそりと認めている。然しこのやり方はフェアーではない。
 間野は「中央アジアの歴史」で中央アジアを「シルクロードの世界」ではなく「草原とオアシスの世界」としたが、そうであったのは前近代までであるという。中央アジア史には、前近代と近現代の間に大きな断絶がある。イスラム化した中央アジアが近現代に異教徒の国である清やロシアの支配下に入り、独立を失ったという政治的意味においてである。中央アジアの通史を、何を軸に描くべきかという根本的問題について、「解答を見いだせない」という展望喪失状況を吐露している。これはとりもなおさず現在の中央アジア史研究者の立場の困難さを示している。「シルクロード史観」派、「脱シルクロード史観」派ともに「ウイグル独立問題」などで踏絵を拒めないという状況がある。