2020年7月31日金曜日

楼蘭王国史の展望

     「楼蘭王国史の研究」 長澤和俊 雄山閣出版 1996年

 「楼蘭博士」の異名をとる東西交渉史・内陸アジア史家の長澤和俊早大名誉教授が昨年(2019年)死去した。長澤には多くの一般向け著作があるが、代表作は「シルクロード」と「楼蘭王国」である。前者は「シルクロード~東西文化のかけはし」として1962年に校倉書房より刊行。64年東京オリンピックの聖火がこの地を走るとして人気を呼んだ。この種のものとしては戦後初めてである。1979年大幅に書きまして増補版として同社より刊行。さらに早大での講義ノートをもとに面目一新して「シルクロード」として1993年に講談社学術文庫より刊行。後者は1963年に角川新書で刊行。流麗な記述は評判になった。その後一部加筆してレグルス文庫より刊行(76年)。大幅に改稿加筆して徳間文庫より刊行(86年)。ニヤ遺跡、楼蘭遺跡を踏査したのは史学者として長澤のみであり、決定稿が期待されたがかなわなかった。後者の基礎となったのが本書に収められた論文(26編と雑稿4編、「シルクロード史研究」所収のものを除く)である。
 長澤の楼蘭研究の功績は次の4点である。まず第一に楼蘭王都の位置を終始LAに比定したこと。第二にカロシュティー文書の絶対年代を確定したこと。第三は楼蘭王国の始原を明らかにしたこと。そして第四は「さまよえる湖」ロプノールの実態を解明したことである。
(扞泥城と伊循城)漢書西域伝に「鄯善国、本名楼蘭、王治玗泥城」とある。この扞泥城について、日本の東洋史学者(藤田豊八、大谷勝鎮、松田寿男)は扞泥城をミーラン、伊循城をチャルフリクと考えてきた(湖南説)。また中国でも伝統的に扞泥城がLA、伊循城がミーランで、鄯善改名時に王都もLAからミーランに南遷したと考えられていた(南遷説)。長澤はカロシュティー文書の検討から楼蘭王都は一貫して扜泥城であり、それはLAであるとした。また伊循城はLA東北方のロプノール北岸の土垠という漢代の砦跡とした。
(カロシュティー文書の絶対年代)文書の相対年代は86年~88年。絶対年代についてブラフ教授は、アムゴーカ王の17年をAD263年にあてる説を提唱した。王の称号の新しいタイトル「ジツーガ」が「侍中」(晋守侍中大都尉奉晋大侯)の音訳に他ならないと考えた。したがって絶対年代はAD236年~321年になる。然し長澤は晋の西域経営は強力なものでなく、魏のそれを受け継いだものに過ぎないとし、鄯善に中国軍が駐屯し強力な統制を加えたのは魏の太和太2年(AD228年)以降とし、この年をアムゴーカ王17年に想定した。絶対年代はAD203年~288(ないし290)年とブラフ説より33年ほど早くなる。
(楼蘭王国の始原)長澤は、BC1500年頃孔雀河最下流部に建設されたホータン玉の交易市場が楼蘭王国の始原と考えた。中国本土では、ホータン玉は殷虚の婦好墓(BC1200年頃)から出土している。また武丁期の卜辞に「征玉」「取玉」という記載がある。玉市場は中国本土に向かう隊商が水を得られる最後の地点に設けられた。それが楼蘭(LA)である。最初は市場と隊商宿だけのささやかオアシスであったが、やがて城郭都市に成長した。長澤は楼蘭王国の始原を東西交渉史の最初の舞台に求めたのである。
(ロプノールーの謎)ロプノールは南北を1500年周期で移動する「さまよえる湖」と考えられ、ヘディンは自らの探検でそれを実証した。然し長澤は古記録の検討などから、北の現ロプ湖(1934年ヘディンが発見したもの、現在は水はない)と南のカラブランは二つに分かれたロプノールの末路だとした。バルハシ湖やガッシュン・ノール・(居延海)など、かつて一つが二つに分かれた例である。
 楼蘭王国は、その起源も滅亡も厚いヴェールに覆われて定かではない。本書に収められた各論考はこれらの謎の解明に挑んでいる。それは「一つの文明の誕生、繁栄、発展、衰退、滅亡を描く」ことで、「楼蘭王国を舞台に、文明衰亡論を試みる」ことであると長澤は述べている。