2013年6月17日月曜日

ミャンマーの今を読み解く

 「激 変~ミャンマーを読み解く」  宮本雄二  東京書籍  2012年


 本書の著者は2002年から2004年まで2年間、駐ミャンマー特命全権大使を務めた。著者以外にも日本の駐ビルマ(ミャンマー)大使経験者にはビルマを紹介する著書が多い。「ビルマに暮らして」、「誰も知らなかったビルマ」、「ミャンマーの実像」等々。「謎の大国ビルマ」について全般を解説・紹介するという体になる。然し本書が意図するところはミャンマーの「民政」の展望の一点についてである。
 2011年3月、軍人が大きな勢力を持つが民主的なプロセスを経てティン・セインを大統領とする新政府が成立した。この「民政」はアウンサン・スーチーと和解し、それを契機に欧米(そして日本)の対ミャンマー政策(経済制裁など)は大きく修正された。そしてミャンマー政府の経済政策も対外開放に大きく踏み出した。宮本は2012年5月の再訪時の観察なども踏まえて、このプロセスは決して後戻りすることはないとする。軍内部の力関係を「開明派」と「守旧派」の対立、そして前者の増大ととらえ、タン・シュエはそれに乗っかているだけだとする。
 然し慎重な指摘もある。「やはりタン・シュエは老獪で老練な政治家とみておくべきだ。キン・ニャンを最後に排除したのも、キン・ニャンが実力をつけてきたからであり、トウラ・シュエ・マンが大統領になれなかったのも実力があり、野心家であったからだ。ティン・セインを抜擢したのも、実務能力があるが、派閥を作らず野心家でないと見たからだ。そのティン・セインが実力をつけて来た時にタン・シュエがどう出るかについては、もう少し結論を出すのを待った方がよさそうである」(本書P249)
ちなみに新政権発足時の構成はティン・セイン(大統領 士官学校9期)、ティン・アウン・ミン・ウー(副大統領 士官学校12期)、トウラ・シュエ・マン(国民代表院議長 士官学校11期)、ティン・アウン・フライン(国軍司令官 士官学校19期)である。
 「民政」の今後を占う鍵は中国との関係だが、これも大きく修正された。その象徴が2011年9月中国投資によるカチン州ミッソン水力発電所建設計画を凍結したことである。これには政権内でティン・アウン・ミン・ウーがただ独り反対した。然しウーは2012年5月「病気を理由」に辞任した。後任にはニャン・トゥン海軍司令官が就任した。

2013年6月2日日曜日

「新・日本文壇史」10巻ついに完結

  「新・日本文壇史 巻10」  川西政明 岩波書店 2013年

 膨大な川西政明の「新・日本文壇史」全10巻が本書の刊行をもって完結した。伊藤整・瀬沼茂樹の「日本文壇史」は二人の死により、大正期半ばで中絶した。「新・文壇史」は、それを引き継いで
昭和文壇史を記述した。
 著者によれば「文壇」とは「戦争」や「革命」、「私」や「家族」といった重く、暗いテーマをかかえた文士たちの共同体であった。その中で作家たちは、ありのままの姿をさらし、その方法論を同じくする党派が相拮抗していた。いわば書く自由を確保するための互助組織、一種のギルドであった。
「白樺派」、「プロレタリア文学派」、「戦後派」、「第三の新人」等々。そこに所属する文士は仲間のすべてを知っていた。作品、家族構成、経済状態、精神状況、愛人など。例えば戦後派は仲間の作品はすべて読む。然し他派の作品は親しい作家しか読まない。その場合の評価の基準は平野謙の毎日新聞文藝時評であったというように。また舟橋聖一は文壇内での自分の位置を「前頭何枚目くらい」と家庭内で常に話題にしていた。「家庭の中にも文壇の話は充ち満ちていた。そういう
家族までまきこんだ環境で文壇人は鍛えられていた」(本書P41)
 その文壇のかげり、いわば「終わりの始まり」を著者は1970年代半ばに見る。最後の文士といわれた高見順が死んだのはそれより早い1965年であった。文壇とは文士が肩寄せ合って生活する世界であった。かつて「文藝」は埴谷雄高・吉本隆明・三島由紀夫・高橋和己の4本柱を持ち、文芸誌として異例の3万部の部数を維持していた。然し70年の三島、71年の高橋の死によって発行部数は激減した。60年代高度成長前期、出版界は大量の日本文学全集や個人全集を刊行したが、70年代になると潮が引くように、それらは姿を消した。川端康成、小林秀雄なきあとの文壇を指導したのは井上靖と山本健吉であったが、井上の死後、文壇を牽引するものは誰もいなくなった。「文壇とは異なる経路から作家が生まれ、読者もまたそうした経路から作品をしる」(大村彦次郎)時代になった。その象徴が村上春樹である。本シリーズ第69章「村上春樹の冒険」で幕を閉じる。「いま、彼自身が一つの普遍となっている。異端が正統なき時代の正統になったのだ。春樹が正統になるようなッ時代に文壇が過去と同じ役割を担う必要はなくなったと言ってよい」(本書P341)。かくして「文士」や「文壇」は死語となった。