2014年11月7日金曜日

「盧溝橋事件」の謎~昭和史の謎を追う⑦

  「盧溝橋事件の研究」 秦郁彦 東京大学出版会 1996年

 1937年(昭和12年)7月7日夜、支那駐屯軍の第1連隊第3大隊第8中隊(清水節郎中尉)は、「マルコポーロ橋」として有名な盧溝橋付近で夜間演習中に、2回の銃撃を受けた。第3大隊戦闘詳報によれば22時40分頃数発(第1次銃撃)、23時頃10数発(第2次銃撃)背後より発射されている。仮設敵の軽機(空砲)発射と第1次銃撃、集合ラッパと第2次銃撃はいずれも因果関係があったと清水中隊長手記は記述している。兵1名の行方不明(のち帰還)があり、清水中隊長は、ただちに一木大隊長(第3大隊)に報告。大隊長は牟田口連隊長(第1連隊)の命令下に、大隊主力を現場に出動させた。これが日中戦争、当時は北支事変の開幕である。
 然し何故北京から近いこの盧溝橋付近に日本軍はいたのか。まずこのことから説明しよう。
支那駐屯軍の駐兵権は北清事変最終議定書(1901年9月7日)に根拠を持っている。北京に列国公使館区域を設定するとともに、外国軍隊の平津地区における無期限駐屯を認めている。もう一つの根拠は1902年7月の天津還付に関する列国との交換公文。外国軍隊に鉄道沿線両側2マイルの範囲で犯罪捜査や処罰権を与える「弾圧治罪権」を認めている。
(駐兵の規模)1901年4月の列国司令官会議で、1万2千人(のち2万人)の総枠と国別割り当てが合意された。11ヵ国が駐兵権を得たが、ベルギー、スペイン、オランダは行使せず、のちロシア、ドイツ、オーストリアは途中で放棄した。日本(2600人)、イギリス(2550人)、アメリカ(150人)、フランス(2600人)、イタリア(950人)の5ヵ国が行使した。(ちなみにドイツは2600人であった)ただし実際の兵力は割り当てより少なかった。(日本は1910年当時1149人、英は747人など)その後各国は儀礼的役割しか果たさない駐屯軍になったが、日本軍だけが実践部隊に近い特異な性格を保持した。
(日本軍の増強)日本軍は1911年支那駐屯軍に改称したが、兵力は永く千人規模であった。1936年4月広田内閣は駐屯軍の増強を閣議決定。改編前(1771人)を一挙に3倍の5774人に増加した。司令官を親補職の中将に格上げ。部隊を1年交代から永駐制とした。歩兵2個連隊、砲兵連隊、戦車隊を加えた特別旅団編成とした。そして新編第1連隊の第3大隊が北京近郊の豊台に駐屯した。
(清水中隊の編成)歩兵第3大隊は第7中隊(青森歩兵第5連隊より抽出)、第8中隊(秋田歩兵第17連隊より抽出)、第9中隊(山形歩兵第32連隊より抽出)の3個中隊編成であった。そして問題の第8中隊の編成は新歩兵操典による新編成であった。すなわち小銃3個分隊と擲弾筒1個分隊の編成。小銃分隊は15人(小銃13、軽機1)、擲弾筒分隊は15人(小銃15、筒4)、小隊長連絡2人。したがって1個小隊は小隊長以下63人。1個中隊はおよそ200人である。強固なソ連軍陣地を突破するための編成で、夜間訓練に励んでいた。
 盧溝橋発砲の犯人として著者は次の諸説をあげている。A日本人説、B西北軍閥説、C藍衣社説、D中国共産党説、E偶発説。そしてA~Dは根拠が薄く、第29軍金振中指揮下の正規兵による偶発説が最も確度が高いとしている。「金振中回想」によれば
①部下の第11中隊を永定河の堤防に配地していた。
②7月6日何旅団長より219連隊に対し、日本軍の行動に注意、もし発砲してきたら必ず断固として反撃せよとの命令が来た。大隊はかねがね日本軍の挑発行動に憤慨していたので、決死で抵抗する意思を確認しあった。
③同日、日本軍の演習状況を視察したのち金は部下の各中隊に戦闘準備を指令し、日本軍が中国軍陣地の百米以内に侵入したら射撃せよ、と指示した。
永定河堤防に配兵していたのは決定的証言であり、夜間の千米(堤防と仮設敵の距離)は至近に感じやすく、「演習を目前に眺め、敵意と恐怖に興奮していたであろう堤防陣地の下級将校か兵士が、指示されたとおりの状況下にあると判断し、発砲するのは自然の成り行きだった」そして「その発砲者は単にナシュナリストとして抗日敵意に燃えた兵士であったかもしれないが、沈忠明のような中国共産党の秘密党員ないしシンパが混じていた可能性もあろう」(本書P180)と著者は推測している。29軍には多数の中共秘密党員が潜入していた。軍参謀副長や、団長(連隊長)3名、師参謀長2名。とくに現場の37師の110旅長何基澧はシンパに加わっていた。
 日中両軍の戦闘と現地での停戦協議は7月8日から11日まで同時併行的に続いた。そして11日20時には現地停戦が成立した。10万人の29軍に対して支那駐屯軍は5千余にしかすぎない。
北平の第1連隊は千余人の兵力で、保護する4千余人の邦人をかかえていた。現場の一木大隊は小兵力で周囲を中国軍に囲まれていた。とくに何基澧は日本軍への攻撃を画策していた。日本政府は現地停戦協定成立の寸前に華北派兵を声明した。関東軍から2個混成独立旅団、朝鮮軍から1個師団、内地2個師団。これは中国軍も同様だ。すでに中央軍が大挙北上を開始していた。そして7月17日蒋介石の「最後の関頭声明」として知られる「廬山声明」が出された。かくして支那駐屯軍と冀察政権(29軍)の局地紛争は日中全面戦争に燃え広がった。7日の「一発」から11日の「現地停戦協定」、その細目の成立(19日)を経て、28日には北京ー天津付近の29軍に対する総攻撃が始まった。中国側については「盧溝橋事件」の本質に対する「誤解」と日本軍の戦力に対する過小評価があった。また日本側にとっては武力の「威嚇」か「一撃」で中国は屈するはずだという「誤算」があった。「暴支膺懲」と「抗日救国」という空疎なスローガンが独自ノダイナミズムで自動し始めたと著者はいう。