2017年12月18日月曜日

謀略「大山事件」~昭和史の謎を追う⑱

   「日中戦争全史」 笠原十九司 高文研 2017年

 日中戦争には「前史」と「前夜」がある。両者の間には引き返すことが不可能な地点がある。日本はいつから満州事変・日中戦争への道を歩み始めたのか。その「前史」の起点は1915年の対華21ヵ条要求である。その「前史」の転換点は1928年である。張作霖爆殺(同年6月4日)と治安維持法改正(最高死刑)、3・15弾圧である。国際的にはパリ不戦条約が締結され、「戦争違法化」に向けた世界史の転換点でもあったと著者は指摘している。「15年戦争」論者は満州事変と日中戦争を一体のものとするが、両者は全く別の戦争である。満州事変は塘沽停戦協定(1933年5月31日)で一旦ピリオドを打ったのである。日本が「前夜」に突入したのは2・26事件(36年2月26日)によってである。軍部主導体制を確立した陸軍統制派は華北分離工作に邁進した。然しそれは西安事件(36年12月12日)によって挫折した。西安事件による民族統一戦線の結成は中国にとっも「前夜」への突入を意味した。この時期日中両国には戦争を避けようとする真剣な外交交渉もあった。然し英国提案の対中国共同借款(2千万ポンド 英日半分)への参加を要請する川越大使の意見電が外務省に届いたのは、まさに盧溝橋事件勃発(1937念7月7日)の前日6日であった。
 盧溝橋事件はほんの偶発的な衝突に過ぎなかった。現地では停戦交渉も進んでいた。北京・天津地区を制圧し内地3個師団が到着した8月初旬段階でも、陸軍中央は戦闘は華北(保定の線まで)に止め、全面戦争は考えていなかった。然し海軍と蒋介石は違った。海軍は盧溝橋事件を好機として、大村基地から南京を渡洋爆撃する作戦準備を命令し、8月8日すでに出撃体制を整えていた。上海で「何かおこる」のを待っていた。井本熊雄の「支那事変作戦日誌」によれば「石原(参謀本部第一部長)は、盧溝橋事件以降の軍令部と第三艦隊司令部の動向を察知し、『海軍はきっと上海で事を起こす。その場合陸軍は派兵しない方針である。やむを得ない状況が起きても、居留民保護のため、せいぜい1,2個師団の派遣に止める』と明言していた」という。また蒋介石も、中国単独では日本に勝利できないので、日本軍を上海・南京など欧米列強の権益が錯綜する華中におびき寄せ、米英の武力干渉を引き出すことを狙っていた。まさに帝国海軍と蒋介石は同床異夢といえる。そして「大山事件」は起こった。
(大山事件)
 1937年8月9日夕刻、上海海軍特別陸戦隊の大山勇夫中尉は斉藤与蔵一等水兵の運転する車で中国軍用の虹橋飛行場に強行突入しようとして射殺された。軍装で軍刀のみ佩刀し拳銃は所持していなかった。7日陸戦隊司令官大川内伝七少将に密かに呼ばれ口頭秘密命令として、飛行場に突入して一方的かつ不法に殺害されるよう告げられたのである。
上官は家族の面倒を見るからと約束していた。その約束は果された。まず海軍省より素早く、10日午前3時20分発電で戦死の至急電が届けられた。同日午後7時50分発電で「9日付大尉ニ進級及正七位ニ叙セラル」、更に同日午後9時55分発電で米内海軍大臣より弔電。そして①海軍省より職務勉励に付徳に金245円、天皇・皇后より祭祀料金20円、海軍省より死亡賜金706円、埋葬料67円50銭(8日9日)。②厚生省より扶助料第1419号年額1950円(12月1日)。③論功行賞国債第一号1000円、第二号200円(40年5月10日 ただしこれは終戦により45年8月15日で無効となる)。上官が約束した家族とは老母と長兄とその家族である。小学校教員の初任給が45~55円の当時、これは十分な内容である。佐世保水交社での海軍特別葬の前日万松寺で行われた遺族の葬儀には米内海軍大臣、塩沢佐世保鎮守府長官が弔問した。また戦時中は、靖国神社遊就館に「海軍7勇士」の一人として胸像が陳列される厚遇ぶりであった。
(釜賀証言)
 大山事件の謀略性は「釜賀証言」によって明らかである。「大山中尉は、上官からお国のために死んでくれ、家族のことは面倒を見るからと言われて出かけた。こちらからは攻撃するなと言われ、武装せずに出かけた。中国側の防衛線は三線あって、第一線と第二線は無事突破し、第三戦目で射殺されたのだった」釜賀一夫少佐(参謀本部第18班長)は、陸軍はこの情報を海軍の暗号を傍受解読して得たとしている。当時陸海軍は敵国のみならず互いの暗号を解読しあっていた。この「証言」は「九条の会」の武藤通(当時東大数学科在学)が45年6月頃釜賀より聞いたものである。
 海軍は「大山事件」という謀略を用いて、8月13日第二次上海事件を発動し、折から始まっていた和平工作(船津工作)を阻止した。そして15日近衛内閣に「南京政府断固膺懲」を声明させ、南京渡洋爆撃を決行した。かくして日中全面戦争への道は切り拓かれた。しぶる陸軍をおさえて、海軍が日中戦争をしかけたのは、自分の担当区域(華中・華南)で戦争を起こし、軍備拡大、就中航空兵力の拡充をはかるためであった。海軍首脳の思惑では、それは来るべき日米戦争の予行演習のはずであった。

2017年11月5日日曜日

チベットの秘境

   「チベット 謀略と冒険の史劇」 倉知敬 社会評論社 2017年

 本書には、20世紀後半の知らざれチベットに関する未邦訳の書籍が紹介されている。その中で最も興味深いのがジョージ・N・パターソンの「Tibetan Journey(1953年)」である。パターソンは1920年スコットランド生まれのプリマス・ブレスレン派教会の宣教師である。1947年上海に行き、揚子江を遡りチベットとの国境の町康定(タ・チェン・ル)にたどりつく。カンパ族のリーダートプギャイと知り合い、ポミの町に移る。おりしも中国共産党政権のチベット侵攻前夜であり、それに対するカンパ族の抗争計画をラサ政府に伝えるべく困難な旅路につく。ラサへの通常の交易ルートをとれば4か月を要する。東南チベットを抜けてインドのサディヤへ出るルートは急げば2か月。そこからシッキムのカリンポンを経てラサへは数日で行ける。パターソンが辿ったルートはこの知られている中国からインドへの道より、さらに最短のルートである。以下紹介しよう。
 1950年1月7日パターソンはポミを出立した。金沙江を渡り、幾つか峠を越え、森林限界の雪道や熱帯のように熱い低地を通って、5千米の草原を行き23日芒康(マルカム 3860米)に着いた。ここで休養し、2月1日出発。メコン川を渡河し対岸のサンバ・ドルカに至る(2月2日)。3日山を登りジョ村(3910米)に着く。4日山を二つ越えてツカワ・チョルテン村に至る。5千米の森林限界で野営し、氷原を経て6日ドラユ・ゴンパに到着する。ここで2日間休養する。8日クリ村に至る。9日地滑りで崩れかかった山道通ってタンシュ・ドルカ村に着く。この日サルウィン川を渡河する。10日急な数時間の登りでドラシン村を経て、峠を越えてドゼア村に至る。11日ルツ族の村ズリを経て、ノエ村に到着する。ここがカンパ族の勢力範囲の境界である。したがって人足・動物の使役供与はここで終わる。12日短い行程でナクシュ村に着く。13日雪のナクシュ・ドリ峠(4870米)を越える。行路中の最難所である。ミジという夏だけの村に着く。14日ロヒト川沿いの高巻き道を通って森林地帯を抜ける。分水嶺を越えプラマプトラ水系に入る。キガシ村(20軒ほど)に宿営する。15日ツァチュン村に至る。16日ザユール(察偶)地区のシガ・タン(チベット名はリマ)に到着する。ロンゴ川とツァンポ川の合流点である。17日はチベット正月でこの町に滞在する。サマ村と野営の2泊を経て、20日ワロンに着く。ザユールとワロンの間にチベットとインドの国境がある。24日までワロンに滞在し、インド駐在官にサディヤ経由カルカッタへの旅行手続きをする。ここでキングトン・ウォード夫妻に出会う。27日チョンウィンティンに至る。ここで日記が1日ずれていることを指摘される。その日は27日であった。3月5日サディヤに到着する。サディヤはプラマプトラ氾濫原の北に位置している。プラマプトラ川にはフェリーがある。パターソンの行程は、伝統的な中国からインドへ抜けるルートとは違う。パターソンの方がより最短路である。知られているルートは、金沙江を越えて、メコン川に達し、玉曲(サルウイン支流)を経由して、サルウイン河畔の門空に至り、イラワジ川源流を越えてロヒト川のドロワ・ゴンパに抜けるものであった。ベイリー大尉(1911年)や中村保(2003年)が踏査したルートであった。これは伝説のルートであった。然しパターソンは、それよりも更に短くドロワ・ゴンパに達する現地人のみが知るルートを辿ったのである。西洋人としては初めてであり、わずかにパンディトのAKが通ったことが知られているのみである。
 

2017年9月23日土曜日

宇宙から来たブッダ

   「ナチスと隕石仏像」 浜本隆志 集英社親書 2017年

2012年秋、ナチス・ドイツのチベット探検隊(1938年)が持ち帰ったとされる仏像が、1万5千年前宇宙から落下した隕石でできているという驚くべき鑑定結果が発表された。日本でも日経新聞(同年9月27日)などによって報じられた。発表したのはシュットウットガルト大学のエルマール・ブーフナー博士。(「隕石学と宇宙科学」12年月)分析結果から仏像の成分は、1万5千年前にモンゴル国境に近いソ連のチンガー川周辺に落下した「チンガー隕石」であることが分かった。鉄、ニッケルを主成分とするアーキサイトである。仏像は重さ10・6キロ、高さ24センチ。チンガー隕石の中でも三番目に大きい隕石塊である。仏像の胸には「スワティカ」と呼ばれる左回りの卍の標章が刻まれている。ブーフナーは、この仏像は仏教の毘沙門天とボン教の「幸運の神」のハイブリッドであり、制作年代を11世紀頃と推定している。チンガー隕石が発見されたのは1913年であるが、それより随分早くチベットにもたらされたとしている。然し仏像に詳しいバイエル博士は「ズボンを穿いたラマ」という論文で、風貌や服装がチベット人と異なるなど13点の疑問を提起した。そして時代考証から、この隕石仏像は1910~70年の間にヨーロッパ人によってつくられたものだとした。
  これに対して著者はバイエル博士の論拠に依拠して、「仏像」の各パートについて次のように考察している。①頭帽はダライ・ラマをモデルにしており14世紀以前にはさかのぼれない。②顔立ちはイラン系アーリア人(ゾロアスターなど)をモデルにしている。③鎧の上にスワティカを刻印した仏像は例がない。④ズボンはイラン系遊牧民の服装である。⑤鎧に羽織るマントはアレクサンダーの軍装をモデルにしたものである。以上から、この「仏像」はアーリア人のイメージをモンタージュしたものであり、チベット人が制作したものではないと推定する。それでは誰がつくったのか。ドイツ探検隊(シェーファー隊長)は「仏像」を将来したのではなく、隕石を持ち帰ったのである。チンガー隕石は現在までに250キロ収拾されているが、その中の一つが、隕石信仰の強いチベットにまで運びこまれていたのである。それをシェーファーがドイツに持ち帰ったのである。この隕石塊から仏像制作を命じたのはナチスの親衛隊隊長ヒムラーである。アーリア人のルーツをチベットに求めるヒムラーの妄想が、隕石からの仏像制作を主導したと著者は推測するのである。
 何故ナチス・ドイツはチベットに探検隊を派遣したのか。それはこの探検隊のプロモーターであるヒムラーのオカルト癖に大きく帰する。チベットに存在したとされる地底王国シャンバラや、アーリア人種の一部がチベットにたどり着いたとする妄説にヒムラーは異常な興味を持っていた。アーリア人の原郷探査はチベットのみならず、アイスランドや北欧、クリミアなどにも及んだが、いずれも失敗に終わった。このアーリア人の原郷探しは、架空の「アーリア神話」を補強するためでもあった。たしかに「アーリア」という言葉はサンスクリットで「高貴な」という意味であったが、ナチスはそれを北方ドイツ人の「金髪、碧眼、長身、高鼻細面の白人」という身体的特徴に置き換えた。そもそもこれらドイツ人(ゲルマン族)はインド・ヨーロッパ語族の一部であるが、BC2000年頃北ドイツに移動し、そこで先住民「巨石文化人」と混血して形成されたものである。ナチスはインド・ヨーロッパ語族全体を「アリア人種」と名付け、その中で北方系を優等とした。このような「アーリア神話」は、言語が共通していることが同じ人種であるとするまやかしに立脚したものにすぎないのである。

2017年9月2日土曜日

「東トルキスタン共和国」の真実

  「東トルキスタン共和国研究」王柯 東京大学出版会 1995年

 「東トルキスタン」や「東トルキスタン共和国」の語句は現在中国では禁句とされている。「三区革命」は「中国人民民主革命の一部」として評価されているのに東トルキスタン独立運動について語ることはタブーなのである。何故か。それは中国共産党の民族政策の基調が民族区域自治政策であることに起因する。国内少数民族の自治権を特定地域にのみ限定して付与するが、分離独立は決して認めない。鄧小平はいみじくも「民族主義はブルジョワ思想の重要な側面であり、プロレタリアートの世界観とはあい入れないものであって、反マルクス・レーニン主義、反共産主義の思想である」(鄧小平報告 8期3中全)と述べている。かくも中国では民族自決主義は排斥されるのである。
 本書はこの「東トルキスタン共和国」の誕生から消滅までを、「三区革命に関するイリ州の未公刊資料」などをもとに余すところなく描いている。然し本書刊行後、ソ連崩壊によって公開された秘密文書から驚くべき事実が明らかになった。従来「共和国」と「独立運動」の最後は次のように信じられ、本書もそれに従っている。1949年8月三区の元「共和国」リーダー達は中共の「新政治協商会議」に出席するため、ソ連経由で北京に向かう途中、ソ連領内で飛行機事故にあい、全員死亡した。ただ一人新疆に残っていたサイフジンが改めて北京に向かい、9月中共に服従する旨を表明したと。だがソ連文書は、「飛行機事故」ではなく、全員ソ連に連行され殺害されたことを明らかにしている。
(東トルキスタン共和国」
 東トルキスタン共和国」(以下「共和国」)は第二次大戦末期から新中国成立までの混乱期に、新疆省の一部に存在したトルコ系少数民族の国家である。人口70万人の小さな国である。1944年7月7日イリ区のクルジャでゲリラによる蜂起が起き、12日「共和国」臨時政府を樹立した。ゲリラ側は新疆省政府軍より劣勢であったが、ソ連赤軍の強力な支援(飛行機、戦車、大砲など)があった。45年4月には1万5千人の「共和国」民族軍を創設し、8月までにはイリ、タルバガタイ、アルタイの3区を完全に制圧した。然し快進撃を続けていた民族軍は省都ウルムチを目前にして、攻勢を停止した。それはソ連の政策転換による。ウルムチのソ連領事館の仲介で、国民政府との交渉が始まり、46年1月2日に「クルジャ和平協定」が締結された。続いて民族軍の帰趨を決める第二段階の和平協定が6月6日に調印された。そして6月28日「共和国」政府は「自己の使命は終えた、三つの専区はそれぞれ連合政府に直接帰属する」と宣言した。「共和国」は誕生から2年弱で淡雪のように消えたのである。連合政府も1年足らずで崩壊し、「共和国」のリーダー達は三区に引き揚げた。
(ソ連の政策転換)
 ソ連の政策転換は何故起きたのか。45年2月のヤルタ会談で、米英はソ連の対日参戦を早期に実現すべく、ソ連の中国における権益要求を容認した。すなわち外モンゴルの現状維持、大連商港における優先的利益擁護、旅順港のソ連租借権回復、東清鉄道・南満州鉄道の中ソ合弁である。ソ連はこれらの権益を獲得するため「共和国」の独立を売り渡したのである。ソ連は最初新疆に外モンゴル型の独立衛星国を考えたが、その後国民党政府との友好維持と権益獲得のため、「共和国」を捨てたのである。「共和国」は国際戦略上の一つの駒にしか過ぎなかったのである。
 「共和国」は消滅したが、その母体となった第二次東トルキスタン独立運動は、その後の中国のトルコ系イスラム住民に強い影響を与え続けた。それは二つの特徴が刻印されていた。第一の特徴は、第一次独立運動がウイグル人主体であったのに対し、あらゆるトルコ系住民ーウイグル、カザフ、ウズベク、タタール、キルギスを抱合した民族独立運動であったことである。彼らはイスラム教徒であり、異教徒への聖戦として、強い求心力を持っていた。第二はそのリーダー達が親ソ派知識人であったことから、ソ連との結びつきが強かったことである。地政学的にもソ連の支援なしに、中国領内に民族国家を建設することは不可能であった。それはその後の新疆の現代史に深く投影されている。例えば大躍進時代に新疆で「百家争鳴」に参加した民族幹部は、ソ連で教育を受けた経歴を持つ、三区革命のクルジア・グループの生き残りであった。また1962年、6万人のトルコ系住民のソ連への越境・逃亡を指導したズヌン・タイボフは三区革命の生き残りで元「東トルキスタン人民軍」の副司令官であった。逃亡前は人民解放軍新疆軍区の副参謀長であった。
その後トルコ系住民の独立運動はソ連に代わって、周辺の民族共和国なかんずくカザフ共和国やアルカイダ系の援助を受けるようになる。とくに後者は97年に組織された「東トルキスタン独立運動」(ETIM)である。
 そして本書の著者王柯をめぐる事件である。王柯(神戸大学国際文化学部教授)は2014年3月17日、出張先の福建省泉州市で「西安の母親を訪ねる」との連絡後消息を絶った。公安に拘束されていたのである。18日間の取り調べの後24日に釈放された。王柯はその間の経緯を黙して語らない。サントリー学芸賞を受賞した本書は中国にとって「危険図書」であるのだ。中国で「東トルキスタン共和国」を語るのはタブーなのである。

2017年8月3日木曜日

楼蘭王国の王都はどこか

  「流沙出土の文字資料」 冨谷至編 京都大学学術出版会 2001年

 ロプノール湖畔に存在したオアシス都市国家楼蘭はその終焉と共に王都の位置についても大きな謎がある。この国はBC77年に王弟尉屠耆が即位した時、国名が漢によって強制的に「鄯善」と改められ、同時にその王都も南方のミーラン方面に移ったと従来考えられていた。
 「漢書」西域伝には「鄯善国、本名楼蘭、王治扜泥城」とあり、新国王尉屠耆が漢兵の駐屯を要請した伊循城についても記されている。「漢書」は明言していないが、旧説ではこの時国名のみならず王都もロプノール南方に移転したと考えている。楼蘭遺趾(LA)を発掘調査したスタインは、扜泥城の位置をミーラン、伊循城をチャルフリクに比定している。日本の東洋史学者(藤田豊八、大谷勝眞、松田壽男)も漢籍の考証によってそれを踏襲している。また中国人学者も伝統的に、扜泥城はLA,伊循城はミーランに比定し、改名時に王都は伊循城に移ったと考えている。この旧説に対して、カロシュティー文書の検討などから楼蘭=鄯善国の王都は一貫してクロライナ(LA)であるとしたのが榎一雄・長澤和俊の新説である。これはほぼ定説と見なされていた。本書の各論文(梅原郁
「鄯善国の興亡」、赤松明彦「楼蘭・ニヤ出土カロシュティー文書」)はこれにいくつかの疑問を提出している。
(榎一雄・長澤和俊の新説)
 榎一雄は漢文書とともにLAで発掘された二つのカロシュティー文書から、そこがクロライナであると断定した。No696文書は、クロライナから某地に出張中の息子がクロライナにいる父に出した手紙である。この手紙の出土地はすなわち受取人のいた所、クロライナであると榎は推定している。No678文書は「クロライナにおける、大都市の南側にある土地」を譲渡した証明書で、この出土地がクロライナであるとしている。また「扜泥城」は「扞泥城」で、それは都城を意味する「Kuhani(クゥハニ)」の音訳であるとした。文書に出てくる5人の王の絶対年代をAD256~341年とし、その期間王都はLAに在ったとしている。
 この榎説を敷衍・拡大したのが長澤和俊で、要約すると以下の様である。
①王の居る所はマハムタ・ナガラもしくは主都城(クゥハニ)と呼ばれ、そこはNo67
 8文書からクロライナを指す。
②扞泥城はクゥハニの音訳である。この時代王はクロライナの王廷に居て、ニヤに至る広
 大な王領を支配していた。
③3~4世紀の鄯善国は、プラークリット語による公文書をカロシュテーイ文字で記し、
 インド的な要素を持つクシャン朝の植民国家であった。
④BC77年に設立された鄯善第一王朝は、2世紀後半クシャン朝遺民団によって滅ぼさ
 れ、鄯善第二王朝が成立していた。
(榎・長澤説への疑問)
 赤松論文は、LAを王都扞泥城(クゥハニ)とする根拠としたカロシュティー文書の解釈に疑義を提示している。すなわち榎の文書No696の解釈は文法的に誤りで、正確には「私は、父がクロライナにいるときに、持って行くであろう、あなたが行くであろうときに」と訳されるべきとする。そしてこの手紙を受け取った時に父がクロライナにいたことは保証されない。従って文書の出土地がクロライナと断定できないとする。またNo678文書についても、「大都市」(マハムタナガラ)を首府と言い換える点、「大都市」=クロライナとする点を批判している。マハムタナガラは「大きな都市」を意味するだけで、「首府」や「王の居城」を意味しない。「クゥハニ」についてもクロライナと結びつける文書はないという。
 梅原論文では鄯善国成立時に新王は南部のミーラン付近に新城塞(扞泥城)をつくり、旧王族はそのまま楼蘭にとどまり、王国の核は二つになったとしている。そして漢兵が駐屯した伊循城は土根遺趾だとしている。また長澤のクシャン遺民による鄯善第二王朝論には批判的である。
 以上の批判について次の三点が指摘できる。
①LAは、そこで発掘された漢文書からその当時「楼蘭」と呼ばれた場所であることは間違いない。然しそこが「クロライナ」であることはカロシュティー文書からは特定できない。カロシュティー文書はLA=楼蘭=扞泥城=鄯善国をつなぐ弱い環でしかない。②鄯善第二王朝論について、長澤はその主体をクシャン第二王朝に敗れた第一王朝の遺民としている。然しラバタク碑文の発見(1993年)によって、クシャン朝の系譜に断絶がないことが立証されて、その根拠が失われている。ブァレリー・ハンセンによればAD200年頃のガンダーラからの移民の波は、一度に多くても100人程度の小さなものであった。鄯善国を転覆したり征服が可能な勢力ではなかった。現地に同化し、土着民と通婚しして、文字を伝え、書記の職についた。書記の職は世襲化された。カロシュティー文書は書記の名前がガンダーラ風で、王の名前が土着風であることを示している。また最初に仏教をもたらしたのは彼らであった。③東西交通路幹線の変化について。楼蘭の王都は、そのオアシス隊商都市の性格上、シルクロードの孔道に沿うことが必須の条件であった。LAこそがその条件に適合している。すくなくとも「魏略」西戎伝がいう新道(敦煌から白龍堆をさけて北上し高昌を経て焉耆に至り、西域北道に合流)が3世紀に開発されるまでは、楼蘭を経由する道(のちの中道)は中国から西域(タリーム盆地)に達する唯一のルートであった。この道はその後も新道と併用され、7世紀にはすたれた。

2017年6月29日木曜日

大空のシルクロード余話~昭和史の謎を追う⑰

「満州航空~空のシルクロードの夢を追った永淵三郎」杉山徳太郎 論創社 2016年

 1936年ベルリンで「日独満航空協定」が満州航空とルフトハンザの間で締結された。東京・新京とベルリンを空路で結ぼうというもので、いわば「大空のシルクロード」である。然しこの日付に明らかなように、同年11月8日には既に綏遠事件が勃発しており、日中は全面的軍事衝突に向かいつつあった。この構想を実施する物質的基礎を全く欠いていたことは拙稿「大空のシルクロード」で触れたところである。この協定ではドイツ側はベルリンからカブールまで、日本・満州側はカブールから新京(東京)までを担当することになっていた。日本機はこの空路をついに飛行することはなかったが、ドイツはベルリンからなんと西安まで試験飛行を実施していたのである。本書にはこの試験飛行の詳細な記録が紹介されている。また関東軍の対回教軍閥工作失敗の真相も示唆されている。
(ベルリンから西安へ)
 1937年8月ルフトハンザは新鋭機ユンカースJu-52型機で、ベルリンと西安間の試験飛行を敢行した。一番機の機長はガルブレンツ男爵で、操縦士ロベルト・ウンフツト、無線技師カール・キルヒホフである。二番機は機長ドクセル、操縦士テッテンボルン男爵、無線技士ヘンケである。強力発動機(BMW-ホーネット132L型)を搭載していた。ガソリンは翼面タンク収納(2500リットル)以外に510リットル缶5缶をキャビンに積み込んだ。
 8月14日未明ベルリン(テンベルホール飛行場)を離陸し、10時間後ロードス島に到着した。(2250キロ)15日早朝離陸後、給油のためダマスカスに立ち寄り、バクダードに向かった。16日早朝バクダードを発ち、テヘラン飛行場に向かった。ここで2日間休養した。18日テヘランを出発し、7時間後1700キロ離れたアフガニスタンのカブール飛行場に到着した。ここで搭乗員に対する歓迎宴が開かれ、機はパミール越えに備えて入念に整備された。24日未明カブール飛行場を離陸した。ここから難関のワハーン、パミールの天険を飛翔するのである。ワハーン回廊の西側の出口アンジュマン峠(4422米)に、ルフトハンザは1年前から測候所を設置して、パミール高原の気象を観測していた。ゼバックを過ぎてイシュシカムのあたりからワハーン回廊が始まる。ワハーンは東西300キロ、南北は最も狭い部分では10キロに満たない。北にはパミールの山、南にはヒンドゥークシュの高山が聳えている。この上を飛行するのは、まるで氷のトンネルを抜けるようである。回廊の中央を眼下に見ながら飛行を続けると、ワクジール峠(4907米)が前方に見える。ここを飛び越えるると中国新疆省に入る。北方に変針して、タクトバッシュ・パミールを北上すると高度は5千米に達している。左手前方にムスタグ・アタの白い山容が見える。しばらく飛行すると眼下にタッシュクルガンの石頭城が見えてくる。山脈を越えて徐々に高度を下げるとヤルカンド上空である。ここで機は方向を東に変え、西域南道に向かって飛ぶ。ホータン・オアシスが大海の小島のように見える。荒涼たるロプ砂漠上空にさしかかるが、この時ロプノールは水を満たしていた。こうして機は安西を経由して粛州飛行場に到着した。カブールから粛州まで1日で飛行したのである。カブールと安西間は無着陸である。そしてガルブレンツは馬将軍に喝見し、ここで2日間休養した。粛州から西安までは約1千キロ、もうすぐである。この年7月7日盧溝橋で日中両軍が衝突し、両国は戦争状態に突入していった。新京や東京への空路は閉ざされていた。西安は事実上の飛行の終着点であった。
(回教軍閥工作失敗の真相)
 粛州でガルブレンツが会った馬将軍とは粛州の旅団長馬歩康である。馬歩康は馬虎山の元部下であったが、その頃は青海省の馬歩芳の軍門に降っていた。馬虎山は1934年8月にはホータンを占領して「東干国」を設立していたが、1937年8月頃、ウルムチ政府との戦闘に利あらず、数人の側近と英領インドのレーに逃亡していた。関東軍(大迫武夫)が安西飛行場使用のため工作していた回教軍閥とは、馬虎山(そして馬歩芳)であったかもしれない。満州航空の第二次ガソリン輸送隊は、馬虎山が放棄した安西に向かっていたのである。この間の事情を知っていた馬歩康が押収物を馬歩芳に送ったと著者は推測している。関東軍は馬虎山との友好関係に期待を抱いていた。馬虎山はウルムチ政府(国民党政府)に対抗して、粛州からホータンまでの西域南道を一時的に支配下に置いていた。関東軍は馬に安西飛行場の使用許可を求め、馬もこれを認めていた。だが馬の逃亡により水泡に帰したのである。
  然し、たとえ回教軍閥による安西飛行場使用許可があったとしても、飛行する空域は国民党政府の領土主権の上空である。日中航空交渉が進捗しない状況下では非合法である。関東軍の防共回廊工作や満州航空のシルクロード構想の「空想性」には実に驚くべきものがある。一方ドイツは国民党政府とも友好関係を維持しており、飛行の物理的基盤を有していたのである。


 

2017年6月15日木曜日

「ユーラシア帝国の興亡」を読む

   「ユーラシア帝国の興亡」 C・ベックウィズ 筑摩書房 2017年

 「コミタートゥス」というのは、命をかけて支配者を守ると誓った友らによる戦闘集団である。彼らは最初インドヨーロッパ族の「二輪馬車の戦士」として現れた。その後中央ユーラシアの主役が、トルコ族や、イスラム、モンゴル族に代わっても存在し続けた。著者はこの「コミタートゥス」を核にして中央ユーラシアの歴史を描いている。「序」にあるように、当初は「中央ユーラシア素描」というエッセイのようなものを念頭においていたが、本書のようなやや冗長な通史風なものになった。然し本書にはインドヨーロッパ人の移動や、トカラ人・トカラ語に関する見逃せない考察がある。とくに付録A・Bは原書出版後、日本語訳書への追記として書いたもので、いわば日本語新版と呼ぶべきものである。
(インドヨーロッパ人の移動)
 インドヨーロッパ人の原住地はウラル山脈南部、北カフカス、黒海の間の平原で、中央ユーラシアである。4千年前から3回にわたって移動を開始した。第一波はBC3千年紀の後半で、一番遠くまで行ったのはトカラ人とアナトリア人の祖先である。(グループA)トカラ人は最終的にタリム盆地まで行き、そこに住み着いた。彼らが故地を離れたのは二輪馬車が発明される以前であった。第二波はイラン人がインド人を追い払うことによってBC17世紀頃起こった。インド人、ギリシャ人、ゲルマン人、イタリック、アルメニア人などである。(グループB)このグループはすでに二輪馬車を有していた。第三波はBC2千年紀の終わりからBC1千年紀の始めである。グループBの住んでいた外側に残っていたケルト、バルト、スラブ、アルバニア、イラン人の祖先である。(グループC)イラン人の中には中央アジアを越えて中国に達した者もいた。
(トカラ人)
 BC2千年紀のの始め頃、原始トカラ人のグループが甘粛の地域に到着した。彼らはシベリアを経由して北から来たと推測される。彼らはタリム盆地の東部ロプノール周辺にも住み着いた。後にクロライナ(楼蘭)と呼ばれる地域である。現在この辺りでは4千年前のミイラが多数発掘されている。それらは白色人種で、ウールの衣服を身につけ、一緒に埋葬された篭の中には、小麦の粒と麻黄という植物の枝が入っていた。これらは明らかにインドヨーロッパ人の特徴を示している。彼らその後「月氏」と呼ばれていた。月氏はやがて匈奴に敗れソグディアナに西走し、大夏(バクトリア)を征服してそこに大月氏国という巨大王国を建設した。その地は後にトカリスタン(トカラ人の地)と呼ばれるようになった。トカラ人のうち遊牧に従っていて部分(行国)が月氏である。一方クロライナ、トルファン、カラシャール、クチャなどのオアシスに定住した人達もいた。
(トカラ語)
 トカラ語は中世の初期まで「四つのトカラの地」と呼ばれたタリム盆地東部のオアシスで話されていた。クロライナの地もそうである。その近辺で発掘されたAD3世紀のカロシュテーイ文字で書れたプラークリットにもその借用語が多く残っている。今日トカラ語は地域で三つに分類されている。すなわちトカラ語A(トルファン)、トカラ語B(クチャ、カラシャール)、トカラ語C(クロライナ)である。トカラ語の命名者はミュラーである。ウイグル人はトカラ語から仏典を翻訳したが、その言語を「Toxariの言語」と呼んだ。ミュラーはそれを「Tocharisch(トカラ語)」とした。なおバクトリアを征服した大月氏(クシャン)がイラン語(バクトリア語)を使用したと考えられること(バクトリア語の碑文)から、月氏=トカラ人説に疑問を持つ者もいる。然しクシャンの民族連合においてトカラ人は少数であったかもしれない。彼らはバクトリアに侵入する以前にイラン語にシフトしていたという説もある。
 本書には「楼蘭王国史」の謎を解明するいくつかのヒントが示されている。例えばクロライナ人は月氏と同じトカラ人であるということ。またAD3世紀クロライナ人がクシャンの影響でプラークリットを取り入れたことなど。その頃クシャンはすでにイラン語(バクトリア語)の話者にはなっていたが。
 

 

2017年6月4日日曜日

内蒙独立運動と関東軍の内蒙工作~昭和史の謎を追う⑤

  「日本陸軍と内蒙工作」 森久男 講談社 2009年

 「15年戦争説」を唱える「進歩的歴史学者」は、日本陸軍の長期間に及ぶ中国侵略には、その背後に日本軍の中国侵略計画・陸軍軍人の中国侵略思想があったと見做している。例えば「日本には1931年9月から、東北だけでなく華北も支配しようという計画が一貫してあっただけでなく、それを実現するために軍事的圧力と政治工作をくり返し実行していた」’安井三吉「柳条湖事件から盧溝橋事件へ」研文出版 2003年)など。これは結果から原因を類推する方法で、陸軍軍人の内在的論理に対する考察が欠如していると著者は指摘する。1930年代の統制派に属する支那通軍人は伝統的な「志那分治論」に加えて、中国がソ連に加担する前に打撃を与えるという「中国一撃論」を体系化していた。
 関東軍は自らの担務でない華北分離工作に走った。それは親補職である大将を軍司令官に擁する関東軍は、軍司令官が親補職の待遇を受けない少将の支那駐屯軍を見下しており、「わが友軍」として手下扱いしていたからである。陸軍中央は華北分離工作の既成事実をしぶしぶながら承認した。然し関東軍の内蒙工作を条件付きで承認する一方、華北工作の権限を支那駐屯軍に移した。その結果、関東軍は欲求不満のはけ口として、急進的な内蒙工作に邁進することになる。外蒙・ソ連からの赤化防止のため、中央アジアに防共回廊を建設し、日本・満州とドイツを空路で結ぶという欧亜連絡航空路構想が内蒙工作に拍車をかけた。アラシャン・オジナに特務機関を進出させて、ゴビ砂漠地帯に補給基地を設営する。甘粛・青海の回族軍閥を懐柔して、安西に中継飛行場を確保し、さらに新疆地方に進出しようというものである。綏遠事件を誘発する原因となった。そしてこれが関東軍の中国一撃論の最終到達点であった。
 然しその前に内蒙の状況を概観してみよう。辛亥革命以降も伝統的な盟旗制度は維持されていたが、1928年9月国民政府は熱河・チャヤハル・綏遠に省制度を施行した。その結果蒙古族・漢族両者が共存する雑居地帯で二重権力・二重行政による矛盾が拡大した。盟旗には統一自治組織がなかったので、省・県の圧力には対抗できなかった。なおかつ盟旗制度の法的行政機構としての法的根拠も失われた。ここにジンギスカン30代目の末裔を称するシリンゴル盟副盟長・西スニト旗長の徳王(ドムチョクドンロブ)が現れ、シリンゴル・ウランチャブ・イクジョウ3盟による内蒙高度自治運動の推進を目指した。すなわち1933年7月26日に第一回百霊廟会議を開催し、内蒙自治政府設立の許可を求める自治通電を国民政府に打電した。
 関東軍は最初索王をチャヤハル工作の対象としていたが、百霊廟会議以降俄然徳王に注目し始めた。土肥原・秦徳純協定によって宋哲元軍が外長城線以北から撤退することにともない、徳王の動向を監視する滂江駐屯部隊も撤収した。そのため関東軍と徳王の連絡も容易になった。「協定」の条項には「チャヤハル省内に於いて飛行場及無線電信設置を許可」という一項が含まれていた。関東軍は徳王にスーパー機(米国製フオッカー・スーパー・ユニバーサル機の改良国産型 乗員2名、乗客6名)を専用機として贈呈した。燃料、パイロット、機関士も提供した。徳王は当初国民政府の力を借りて自己の勢力拡充を考え、日本側を適当にあしらうという二面政策をとっていた。然し蒋介石に武器を要求しても少量しか与えられず、なおかつ「地方自治」しか許されないので、次第に日本側に傾斜していった。おりから綏遠省との阿片通行税徴収をめぐる紛争などで、徳王のみならず雲王も蒙政会が国民政府から離脱して日本に依存することを決断した。1936年1月22日徳王はチャヤハル部を盟に改組してチャヤハル盟公署を設立した。国民政府はそれに対抗して、ウランチャブ、イクジョウ各盟旗、帰化トムト旗、チャヤハル右翼4旗、綏東5県を領域とする綏境蒙政会を設立した(委員長沙王 1936年2月23日)。そして百霊廟蒙政会の委員を兼務することを禁止した。なおかつ百霊廟蒙政会にはチャヤハル移転を命じた。かくして百霊廟蒙政会は国民政府側の綏境蒙政会と徳王の蒙古軍政府(旧蒙政会)に分裂した。南京は徳王の蒙古軍政府を察境蒙政会と読み替えて、察北になお国民政府の地方政庁が存在するという体裁をとろうとした。
(綏遠事件)徳王は関東軍の支援を利用して内蒙西部で、高度自治運動を進め支配領域を拡大したが、その勢力は綏遠省南部には及ばなかった。そこで関東軍第2課の田中隆吉参謀は、綏遠省主席傳作義に対し、特務機関の設置と「共同防共」を申し入れた。傳は特務機関の設置は受け入れたが、国民党関係機関の省外への撤収などには応じなかった。のみならず2万5千の兵力を綏東地区に集中し抗戦に備えた。これに対し田中は素質の悪いゴロツキなどをかき集めて漢族謀略部隊(王英軍10500人、張万慶軍3000人)を編成し綏東のホンゴルトを攻撃した(1936年11月15日)。満州航空の支援爆撃を受けながらも王英軍の士気は低く、綏遠軍の反撃に察北へ敗走した。さらに綏遠軍は蒙古軍第7師が守る百霊廟を攻略した。7師と日本軍特務機関は敗走した(36年11月23日)。この綏遠事件の敗北で関東軍の防共回廊工作は水泡に帰した。のみならず内蒙工作も危機に瀕した。綏遠事件の勝利は中国の民族主義を刺激し、西安事件(36年12月12日)を誘発する。これにより田中と徳王はなんとか事態収拾の糸口をつかむことができた。
 綏遠事件は関東軍第2課かぎりの謀略であるという。当時台湾軍司令官であった畑俊六は日誌に「関東軍の田中中佐あたりが中心となりある様なれば、頗る以って怪しきものなり。恐らくは十分中央の了解を得てやりあることにはあらざるべし」と記している。この田中隆吉は第1次上海事変の演出者であり、終戦後の極東国際軍事裁判では検察側証人として、自己の免責と引き換えに「侵略の共同謀議」を証言した張本人である。この「昭和史の謎を追う」シリーズもようやく、昭和史の黒い影正体のほんの一端をとらまえたというべきだろう。

2017年5月30日火曜日

パミール越えの道③

   「カラコルムからパミールへ」 H.W.ティルマン 白水社 1975年

 古来シルクロド中の難路と言われたパミール越えの道には北道と南道がある。パミール北道には、①カシュガルからテレク・ダワンを越えてアライ山脈の東北端を経てフェルガーナ盆地に達する道、②カシュガルからキジル・スーに沿ってドウシャンベに出てバクトリアに至る道がある。後者は比較的容易な道である。またパミール南道には次の三路がある。すなわち①ネザ・タッシュ峠(4548米)を越え、ビクトリア湖岸を経由してパミール川沿いにイシュシカムに至る道(大パミール路)、②ネザ・タッシュ峠峠を越えてチャクマンティン湖岸を迂回してワハンダリア沿いに下り、大パミール路に合流する道(小パミール路)、③ワフジール峠(4854米)を越えてワハーンを横断する道(ワフジール路)である。歴史的には北道が最もよく使われた。大谷光瑞やヘディンもテレク・ダワン越えでカシュガルに入っている。大パミール・小パミール路はマルコポーロや玄奘が通ったと推測されている。ワフジール路の峠以西のワハーン横断部分は2001年平位剛が踏査した道である。それは「ワハーン回廊を行く」で既に紹介した。ワフジール峠からタッシュクルガンへの道程については、現在では入域がむつかしいこともあって不明の部分が多い。この部分についてティルマンが本書でわずかにふれている。
(タッシュクルガン)
 タッシュクルガンはパミール高原のダグドウンバシュ地区の入口にある小さな城塞である。海抜3千米を越えるので農耕には厳しく、わずかな人口しか支えられない。近代の探検家が訪れた20世紀初頭は人口3百人ほどの寒村にすぎなかった。然し古来よりインドやアフガニスタン方面に抜けるシルクロードの要衝であった。漢では「蒲犁国」、唐では「朅盤陀国」と呼ばれた。唐代には安西都護府所属の辺防単位として葱嶺守捉が設けられらた。現在はタッシュクルガンタジク自治県の県庁所在地である。町の傍には唐の石頭城の遺跡がそびえている。タッシュクルガンの近傍を合わせて県の人口は2万人強である。カシュガルとイスラマバードを結ぶカラコルム・ハイウェイの中継拠点である。
(タシュクルガンよりワフジール峠へ)
 タッシュクルガンから2日行程(64キロ)でワヒ人の村ダフタールに至る。タッシュクルガン川に沿う平原の道である。「ダフタールからタッシュクルガンの間は、石や礫の平原を横断するいやな二行程であったが、ほとんど不毛の平原にも、ダグラズ・グンバズだけは香りのよい短い小さな草地があった。」(本書P150)村は川の傍の平坦地で、細長く家が散在している。2キロ離れたところに、当時は中国人部隊30人ほどが駐屯している砦があった。ダフタールから南行すると、北流するオフラジ川の合流点に小さな集落がある。高度3600米なのに大麦が生育していた。11キロ上がるとベイクに到着する。ベイクの警察は、そこから1日行程でソ連(現タジキスタン)領に通ずるベイク峠(4595米)を監視している。ベイクの中国軍は引揚、次の拠点ミンタカ・カウラルに分遣隊を置いている。ここはキリク峠、ミンタカ峠(ともにパキスタンに通ずる)、ワフジール峠(アフガニスタンに通ずる)、ティグルマンスー峠(タジキスタンに通ずる)を控える戦略上の重要拠点である。それらから流れ出る川もここで合流している。ここには砦が築かれている。ワフジール谷は広々とした草地は多いが、人は住んでいない。ワフジール峠の標高は4800米ほどだがひどく寒い。「峠の向こうの南側には、ヒンドゥー・クシュの最東端の、5700米級の立派な雪山が見える。ワハーン側に下降して行くと、雲が消え、太陽が現れてきた。はるか下には、まだ小さなオクサス川の源流が青く細い紐のように見える。(中略)ここでオクサス川はアブ・イ・ワハンと呼ばれる。」(本書P199)ここから川の右岸を30キロほど行くとボザイン・グンバスに至る。この道は2001年に平位が逆に通った行程である。
 本書の原題は「二つの山と一つの川」である。二つの山とはラカポシ(7788米)とムズターク・アータ(7546米)である。川はオクサスである。ティルマンはスイス人の仲間とラカポシを試登し、シンプトンとムズターク・アタの頂上近くまで登った。その間往路と帰路パミールを歩いた。第二次大戦後の1947年、中国革命直前の混乱期である。実際の行程はミスガル→ミンタカ峠→タッシュクルガンの往路とタッシュクルガン→ワフジール峠の帰路である。

2017年5月14日日曜日

「シナ」とは何か

   「逆転の大中国史」 楊海英 文藝春秋社 2016年

 英語の「チャイナ(China)」に対応する日本語の名称は「シナ(支那)」だが、この語は現在日本では使用が忌避難される。それはかつてのGHQの命令や過剰な自主規制による。それではこの名称は何に由来するのか。始皇帝の「秦」の古音「ヅィン」がインドで「チーナ」となり、ペルシア語では「チーン」となり、アラビア語で「スィーン」となった。インドを訪れたポルトガル人が、この「チーナ」を持ち帰ったと推測される。「チーナ」が英語で「チャイナ」、フランス語で「シーヌ」となった。「シナ」は他称であり、漢人は自国をその時代の王朝名で呼んでいた。例えば「漢」や「唐」などと。新井白石が日本に潜入したイタリア人宣教師シドッチから「チーナ」の名を聞き、それを「支那」と表記した。それ以来日本では「中国」を「シナ」と呼んだ。
 一方ヨーロッパでは「シナ」は最初「カセイ(Cathay)」という名称で知られていた。それはシナ北方地域のみに適用されるはずのものであったが、やがてシナ全域を指すようになった。この名称の起源は契丹(キタイ)民族に由来する。彼らは数世紀にわたってシナの東北方に割拠し、やがて北シナを占領し遼帝国を建国した。これによって、内陸から見てシナのことを「カタイ」と呼ぶようになった。そしてこの名称をヨーロッパに紹介したのはマルコポーロである。その後ヨーロッパでは、南廻りで宣教師が赴いた北京のある「シナ」と「カタイ」は別のものと考えられていた。これを同一のものと確証したのはベネディクト・ゴエスである。
(「シナ人」とは)
 岡田英弘によれば「シナ」とはBC221年秦の始皇帝による統一以降の名称で、それは1895年日清戦争敗北まで続いた。それ以前は「シナ以前の時代」であった。雑多な種族が接触して商業都市文明をつくりだした時代である。伝説上の最初の王朝「夏」は水路伝いに都市文明を黄河流域にもたらした。タイ系の「夷」の王朝で、その都市は秦嶺山脈南麓の、水路の船着き場にある。次の「殷」は黄河の北方から南下してきた東北の狩猟民「狄」の王朝である。「殷」を滅ぼした「周」は山西高原南部の汾河渓谷にいた「西戎」の一種たる羌族の王朝である。南方にいた「楚」は「南蛮」の王国である。この時代、これらの「東夷」「南蛮」「西戎」「北狄」の諸王朝が洛陽盆地をめぐり覇権を競っていたのである。「シナ人」=「漢人」とは、これら諸族が混交して形成された都市の住民のことである。人種的には「夷」「蛮」「戎」「狄」の子孫である。都市に住み着き(戸籍に登録し、納税・徴兵の義務を負う)、「漢語」を話し、規定された服装をすれば、それは「漢人」である。都市と都市の中間地帯は夷狄の住地であった。
(「漢語」とは)
 「漢語」の起源とはどのようなものであろうか。漢字が発生したのは長江流域である。この地方で話されていたのはタイ系の言語であった。漢字は表意文字の宿命で、同じ字形に幾通りかの意味をあてて、それをタイ系の言語で読んだ。後に整理して、一つの漢字には一通り、一音節の語をあてて読むようになった。然し、いかにタイ系の語であっても、すべての語が一音節からなるということはありえない。このため、漢字の音は、意味を表すというより、その字の名前という性格になった。漢字の実際の使用法は、人々が話す言葉の構造と関係なく、ある簡単な原則に従って排列するようになる。表意文字であるから、言語を異にする人々の間の通信手段として使えるようになる。このまったく新しい人工的な符号が「雅言」である。かくして漢字は、それを作り出した種族の日常言語と遊離することによって、他の種族にとっても有効な通信手段となった。漢字の組み合わせを順次読み下す「雅言」には性、数、格も時称もない。これは漢語が、夏人の言語をベースにして、アルタイ系、チベット系、ビルマ系の言語を取り入れて成立した都市国家の共通語=マーケットランゲージであり、ピジン風言語であることを意味している。
  以上が岡田英弘による「シナ」成立の経緯である。ここまでは大方の賛同を得ているといえる。然しそこから導きだされる①急激な人口減(前漢時代6千万人が三国時代には5百万に減少)による漢人の実質的消滅と②空白になった華北平原にアルタイ系胡族が移動し、その結果漢語のアルタイ語化(二重子音が消滅し、頭子音「r」が「L]に変化)が起こったなどは学界では少数説にしか過ぎない。この岡田説をふまえた本書の内容には特段目新しいものはない。だが著者がモンゴル人(内モンゴルのオルドス高原生まれ モンゴル名オーノス・チョクト)ということを考えればリアリティーがある。モンゴル高原から南を眺めれば、右に中央アジアなどユーラシアが、左手かなたには「シナ」が望める。「中原」と呼ばれる洛陽盆地のなんと小さいことか。そして遊牧文明の視点から見れば「中国文明」と言われるものはローカル文明の一つにしか過ぎない。中国4千年の歴史というが、「漢族」の歴史は漢王朝(400年)、北宋(160年)、明(300年)の計900年にもみたない。著者は、「漢族」であるといわれる漢、宋、明などの創始者の出自も実は怪しいという。然し疑問もある。例えばモンゴルでも「中国」を「シナ」と呼んでいたという件である。既述したようにモンゴルでは歴史的に「中国」は「カタイ」と呼ばれていた。「シナ」と呼ばれていたとすれば、それは日本軍進出(蒙疆政権時)の影響にほかならない。

2017年4月4日火曜日

通州事件~昭和史の謎を追う⑯

   「通州事件~日中戦争泥沼化への道」 広中一成 星海社 2016年

 2015年10月ユネスコは、中国政府の強い働きかけを受けて「南京大虐殺文書」を世界記憶遺産に登録した。日本側はユネスコ分担金を見直しするとして強く反発した。その一連の動きの中で、「新しい歴史教科書をつくる会」は同年12月11日文科省で会見し、「通州事件に関する文書」を2017年の世界記憶遺産登録を目指してユネスコに申請すると発表した。そして「通州事件」に関する書籍の刊行が続いた。すなわち本書(2016年12月)と「慟哭の通州」(加藤康雄 飛鳥新社2016年11月)である。まさに「水掛け論」の様相を呈している。80年前の「通州事件」とはどのような事件であり、また何故起きたのだろうか。
(通州事件)
 通州は北京の東20キロに位置し、大運河の北の終点であった。日本の傀儡冀東政権(冀東防共自治政府)の首都であり、盧溝橋事件勃発後も比較的安全と思われていた。その通州で1937年7月29日未明に冀東政権の治安部隊である保安隊が突如反乱を起こした。反乱したのは張慶余、張硯田に率いられた約7千人である。日本守備隊の兵力は少なく(歩兵1個小隊を中心に兵站部隊約140人)、兵営を包囲され交戦中に、反乱軍は多数の日本居留民(日本人と朝鮮人)を虐殺した。居留民の被害状況は死者225人(日本人114、朝鮮人111)、生存者196人(日本人94、朝鮮人102)であった。遺体の状態は凄惨で、それは虐殺、屠殺であった。この事実は日本国民に強い衝撃を与えた。7月7日盧溝橋で始まった日中両軍の衝突は停戦交渉と戦闘を繰り返していたが、これによって一挙に戦争への道を突き進むことになる。
(張慶余手記)
 何故保安隊は反乱を起こしたのか。従来Aデマ宣伝説(日本軍が29軍に敗北している)、B保安隊誤爆説(日本の爆撃機が29軍と間違えて保安隊を誤爆した)、C軍統謀略説、D中国共産党謀略説などがあり、日本ではBの保安隊誤爆説が信じられていた。然し1982年中国で長い間沈黙していた事件の首謀者張慶余が回想記(「冀東保安隊反正始末記」)を発表した。それによると張慶余と張硯田は、冀東政権成立前から抗日の意思を持ち、29軍の宋哲元と内通していた。日中両軍の本格的戦闘が始まったら、日本軍の不意をついて通州で反乱を起こし、日本軍を挟み撃ちするよう指示されていた。あまつさえ両者には宋より各1万元が贈らていた。
(通州の日本人)
 ところで通州の日本居留民はそこで何をしていたのか。彼らの中には密輸品や麻薬などの禁制品を扱うものが少なくなかった。冀東地区が緩衝地帯になってから、密輸品は大連から海路で運びこまれるようになった。そして冀東政権成立以降、「冀東特殊貿易」(1936年12月)という政策でピークを迎えた。すまわち「査検」のためとして国民政府の1/4相当の特別税を新設して密輸を合法化した。その税収は冀東政権の財政収入に匹敵する。のみならず国民政府の関税収入に大きな打撃を与えた。国民政府と中国人は国土を奪われることより、税収を盗まれることに怒りを覚えた。また熱河省のアヘンは坂田組のトラックで公然と冀東地区を通過した。山内三郎によれば、通州はヘロインの密輸基地の観を呈したという。「徴兵検査前の日本人の青少年がヘロイン製造と販売のいずれかにちょっと手を染めるだけで、身分不相応な収入を得ることができ」(山内三郎「麻薬と戦争」)、製造から中卸までは日本人が、小卸から先の販売はすべて朝鮮人が行っていた。
 「通州事件」は天津・北京では失敗したが、「「同時多発テロ」というべきものであった。上記のような日本居留民と、北京議定書や塘沽停戦協定に違反して駐留する日本守備隊がその標的とされた。然しこの保安隊の暴虐は後に「南京」で高い代償を払うことになる。日本の新聞は「通州事件」を「第二の尼港事件」として中国人の残虐性を呼号し、反中感情を煽った。鈴木茂三郎や神近市子の冷静な意見はあったが、それは少数に過ぎない。「通州事件」の遠因は支那駐屯軍の所謂「華北分離政策」の「空想性」の露呈に起因するのだが、日本国民の憤激は収まらなかった。「防支膺懲」と「抗日救国」の空疎なスローガンが飛び交い、停戦交渉は頓挫して、日中両軍は全面戦争に突入する。

2017年3月11日土曜日

東大全共闘運動の総括

 「東大全共闘運動総括と社会主義への展望」高口英茂 芙蓉書房出版 2016年

 著者は本書の過半に当たる245頁を費やして東大全共闘の総括にあてている。何故か。東大全共闘運動には定説がなく、各種の仮説がいくつかあり、「その一つで、放置しておくと『定説』となって『正史』になりかねない」ものがあるからである。それが小熊英二「1968年」であると著者は言う。そのため小熊全面的批判を本書で展開するとしている。とくに小熊のアイデンティティ・クライシスからの「自分探し」論は全共闘運動を貶めるものだとしている。全共闘が探していたのは「自分探し」ではなく「革命探し」であったのだとも。なんとなれば「運動参画者のひとりとして、運動が巻き起こるのは問題があるから必然であり、その運動参加を通じて、誰でもが急激に変わる、ということを『福音』として伝えたいと考えた」(本書まえがき)からである。
 著者は小熊仮説として「全共闘は民主主義を否定した」、「東大全共闘は『暴力学生』が主導した」、「その後の大学の政府支配を導いた」、「全共闘崩れが大衆消費社会になだれ込んだ」をあげ検証している。例えば「民主主義否定」について。東大全共闘は「自治会民主主義」を律儀に守っていたのである。69年1月7日には民青系、全共闘系共催による最後の学生大会である理学部学生大会が開かれている。激闘の始まる前々日である。この時点でも「ポツダム自治会」の多数決民主主義は重用であったのである。もちろん「ポツダム自治会」の訓育的側面は否定されていたが、学生が自主的に自分たちの状況を改善してゆく活動を行うことには積極的だった。また立命館全共闘による「わだつみの像」破壊が「民主主義否定」の象徴的事例とされるが、これも疑問が多い。破壊されたのは民主主義一般ではなく、形骸化した民主主義的諸制度就中「立命館民主主義」=末川体制であったのだ。「わだつみの像」設置は、戦時中学徒動員を賛美・激励した末川の、過去の言説を隠蔽するアリバイ工作でしかない。
 小熊の「全共闘批判」は文字資料を参照するリテラシーの不足と基本的事実の誤認に尽きると著者は断言する。それについて本書には興味深いエピソードがある。
(「高橋調査報告書」について)
 小熊のアイデンティティ・クライシスからの「自分探し」論には重要な下敷き的参考書がある。高橋徹が1967年冬に実施し、翌68年「中央公論」に掲載した調査報告「日本学生運動の思想と行動」である。高橋は六全協以前の日共の武装闘争を経験しており、アメリカのスチューデント・パワーにも精通していた。ルカーチの研究者でもあり、「主体性論争」にも詳しかった。この「報告書」は自治会の三役の党派活動家(革マル、三派、構革、民青)をアンケートの対象にしていた。実際に調査を担当したのは著者を含むアルバイト学生である。高橋が述べている学生のアイデンティティ探しとは「自分探し」ではなく、革命を領導するリーダーとなるための主体形成のことなのである。このように「報告書」は高橋の嗜好によってまとめられているのである。「報告書」の扱い方は要注意なのであるが、小熊はそれをストレートに使用しているのである。
(東大文学部革マル派の真実)
 東大文学部の革マル派は小野田啓介(全学連共闘部長)の強い影響下にあった。前年以来自治会執行部を掌握し多数の優秀な活動家を擁していた。スト実メンバーには白ヘル以外の着用を禁止していた。そのため外から見れば文スト実は、すべて革マル派に見えた。文スト実の提案は、学生大会をかさねるごとに支持を拡大していた。文学部学長団交や、東大闘争の高揚は、この革マル派の強固なイニシアなくしてはありえなかった。そこからは駒場での解放派との内ゲバ事件や「安田決戦からの逃亡」などの「革マル神話」とは異なったの東大文学部革マル派の別の姿が見えてくる。前者に関しては東大革マルを無視して、早大革マルが文連や早稲田祭利権獲得のために起こした「もらい火」だと著者はしている。この「内ゲバ」に本郷の革マル派、解放派は参加していない。後者に関しても、本体は撤退したが、文学部革マル派など10数名は法文2号館にとどまり戦ったのである。また9/5全国全共闘結成大会には文スト実の革マル派は東大全共闘として参加している。
(妥協の機会はあったか?)
 それは68年12月23日。加藤代行が7項目要求のうち文学部処分を除く6項目を受諾するとした時点である。文学部処分は、手続きは正統であるから破棄し撤回はしないが、「教育的処分」は破綻したので、処分制度を改める中で権利回復の余地はあるとした時である。フロント派の安東仁兵衛(統社同書記長)もその線で収拾を図っていたという。然し、これでは闘争の過程で学生に加えられてきた「おとなしくしないと単位はやらないぞ、処分もするぞ」との恫喝への反省が足りない。全共闘はともかく、文学部の闘う学生は革マル派も含めて納得できるものではなかった。もっともその時点で収拾されていれば、「超安定の就職先を失わずにすんだ」とは著者の感慨である。
 著者によれば東大全共闘の敗北は弾圧=暴力に負けたからである。それは第一義的には民青外人部隊(都学連行動隊)であり、そして機動隊(国家権力)に対してである。その総括とは「今度は敗北しないようにうまくやろう」ということに尽きるとしている。そのためには東大全共闘運動は何を達成したのかを伝えることだという。その教訓とは①東大全共闘が提起した「自己否定」は反システム運動を刷新する提起であったこと、②民主主義の原初的息吹を復活させたこと、③「大学解体」を提起して「知」の解放・開放を提起したことだとしている。それは「『社会主義的なるもの』の内容およびその実現方法の面から考えた、今思い浮かぶ経験」からの教訓であるとも。これは東大全共闘運動など意味がなかったことにしたい小熊「1968年」に対する返答である。
 

 

2017年2月8日水曜日

「シルクロードと近代日本の邂逅」を読む

 「シルクロードと近代日本の邂逅」 荒川正晴・柴田幹夫編 勉誠出版 2016年

 大谷探検隊研究の第一人者白須浄眞の広島大学退任を記念して刊行された論文集が本書である。最近ではこのような記念論文集の刊行はめずらしいという。親しい友人や門下生によるこの論文集は、平坦でない研究環境にありながら目覚ましい業績を残した白須に対するはなむけでもある。それでは白須の大谷探検隊研究における「目覚ましい業績」と、その経歴はどのようなものであろうか。
 (白須浄眞)年譜によれば白須は1949年浄土真宗本願寺派・安楽寺(島根県邑智郡矢上村)に出生。父は15世住職。74年龍谷大学大学院(修士課程)を修了し、広島県の県立高校(松永高校、廿日市西高校、五日市高校)の教諭を26年間務める。その後広島安芸女子大講師となるが、同校が3年で廃校。2003年安楽寺16世住職(現在まで)。2007年広島大学大学院教育研究科講師、10年同准教授、15年定年退職。3冊の著書(「忘れられた明治の探検家 渡辺哲信」1992年、「大谷探検隊とその時代」2002年、「大谷探検隊研究の新たな地平」2012年)と2冊の編著(「大谷光瑞と国際社会」2011年、「大谷光瑞とスヴェェン・ヘディン」2014年)、多数の論文がある。
 (その業績)大谷探検隊研究における白須の目覚ましい業績とは以下の3点である。第一は「忘れられた大谷探検隊」を高校教科書にとりあげるなどして、現代に甦らせ広く知らしめたことである(「高等学校世界史B」、「高等学校精選世界史B」、「高等学校世界史A」いずれも第一学習社1994年)。さらに「大谷探検隊」とその時代」(中国新聞連載1998~99年、その後勉誠出版より刊行)では、大谷探検隊の成果を「内陸探検の時代」と「日本近代史」との歴史的重層の所産であるとした。第二は大谷探検隊研究を20世紀の国際政治社会との関連で考える世界的視点に押し上げた。従来研究者にも未知であった日本外務省の外交記録の発掘と解読から驚くべき大谷探検隊の姿が浮かびあがってくる。そのアジア広域調査活動は、英露を中心とした「グレートゲーム」の舞台に飛び込むことであり、各国の疑惑を招くにいたった。所謂「スパイ疑惑」である。これら文書は国際問題化した大谷探検隊の外交処理の記録であった。敦煌・トルファン出土の古代文書研究の専門家であった白須が、その手法を援用して読み解いたのである。第三は大谷光瑞とヘディンの関係から李柏文書発見の必然性を究明したことである。「チベットに関する英清条約(1906年)や「英露協商(1907年)」は当時チベットを探検中であったヘディンを苦しめるものであった。この苦境を救ったのが光瑞であった。北京に乗り込み、ヘディンのため、西蔵域内での探検を可能とする清国護照(パスポート)の取得を試みたのである。その「謝意」としてヘディンは来日(1998年11~12月)のおり、楼蘭(LA遺址)の正確な位置(経緯度)を光瑞に伝えたのである。まさしく李柏文書は見いだされるべくして発見されたのである。
 白須は本書所収の「大谷探検隊に先行する真宗青年僧の英領下セイロンへの留学」で大谷探検隊の始源と終焉を明らかにしている。光瑞のアジア広域調査活動はヨーロッパの学界が主張する「大乗非仏説論」の克服を目指したものであった。それが大乗仏典の原典の探求・入手であれば必然的にチベットが視野に入ってくる。「第二回日英同盟」第四条(英国のインド保全を日本が約束)に抵触することを承知でグレートゲームの舞台にも飛び込んでゆくのである。白須によれば、大谷探検隊研究を志す者が忘れてならないことは、光瑞が宗祖親鸞の法灯と血統を継承する浄土真宗第22世門主だということである。「探検家がたまたま光瑞であったのではなく、新門として門主であった光瑞が、探検家と見紛うまでに行動した」(本書P728)のである。
 なお本書所収の論文には白須論文以外にも注目すべきももある。例えば入蔵者の一人である寺本嫣雅の知らざれる晩年を考察した高木康子「海闊天空ー『五台山』以降の寺本嫣雅」。歴史教育の実践法を説く池野範男「真正な歴史教育実践」など。


2017年1月16日月曜日

林芙美子の屋久島紀行

     「林芙美子と屋久島」 清水 正 D文学研究会 2011年

 林芙美子の「浮雲」は早稲田派文士の同人雑誌「風雪」に昭和24年11月から翌年8月まで掲載された。自由に書くためあえて同人誌を選んだ。その後9月から26年4月まで「文學界」に書き継がれた。小説の主要な舞台は仏印(ベトナム)の高原の避暑地ダラットである。物語はタイピストとして仏印に渡ったゆき子と農林技師富岡の不倫の恋の追憶から始まる。南方での甘美な時間の回復がめざされるが、敗戦後の日本ではそれは望むべくもない。そして最後に二人が行き着いた場所は屋久島であった。作者はなぜクライマックスの地として屋久島を設定したのだろうか。
 芙美子は「浮雲」連載中の25年4月屋久島に取材旅行を実施している。それは「屋久島紀行」(「主婦の友」25年7月号)として発表されている。4月13日急行の2等車で東京を出立し、門司で1泊し、長崎に1週間ほど滞在する。天草、熊本を経て鹿児島に着いたのは4月22日である。
欠航のため4日目の26日朝9時照国丸(千トン)に乗船、午後2時種子島の西之表港に着く。午後9時出航、翌朝6時屋久島宮之浦を経由し、午前9時安房の沖に到着。接岸できる港や桟橋はなく、艀で砂浜に上陸する。吊り橋を渡った所にある安房館に宿泊する。「屋久島紀行」では「安望館」と記されている。現在は建て替えられ「屋久島観光ホテル」になっているが、当時は民宿程度である。風邪気味であった芙美子には安房館の印象はよくない。特に「紀行」ではそうである。「宿は廻船問屋のようなかまへで、藁包みの積み上げてある荷物の横から、女中の案内で二階へ上がった。板をたたきつけた床の間にはランプが下がっていた。床の間いっぱいに俳句を書き付けた紙が張りつけてあった。(中略)二階は三部屋つづきだったが、表の間には、一緒のはしけで来た種子島の税務官吏が来ていた。(中略)オムレツに薄い味噌汁。黒塗りの飯びつにぎっしりと御飯が詰めこまれている。」翌28日、朝バスにて尾の間に行き、下屋久の村役場・砂糖製造所を見学。安房館に戻り、それからバスで十里の道を宮之浦に向かう。夜10時到着し田代館に宿泊する。一行は中山編集員、河内カメラマン、運転手・助手3名など総勢6人の大人数である。そして翌29日たちばな丸(350トン)で出航、30日鹿児島に帰着。正味2日間の屋久島滞在である。
 「浮雲」では安房館は「米の配給所と運送を兼ねている旅館は、旅館らしくないかまえで、陰気な店である。(中略)どこを見ても、壁土のない、板壁の素朴な旅館であった」(「浮雲」新潮文庫P346)と描かれている。そして「夕食が運ばれて来た。赤いカニの煮つけがつき、野菜らしいものは何もない。(中略)飯だけが、山盛りに、小さい塗りびつの蓋の間からはみ出ていた。米の不自由なところなのに、妙なことだと富岡は苦笑していた。酒は芋焼酎とかで、鼻へ持ってくると、ぷんと臭い。
徳利が、二本もやかんにつけてあったので、富岡は芋焼酎とは思わなかったのだ。女中に、日本酒はないかと聞くと、この島にはないのだと云った。」(同P348)とある。編集者の回想によれば、芙美子は種子島ではおいしいと焼酎を飲んだが、屋久島の焼酎は飲まなかったという。安房館のみならず屋久島の印象はよくなかったのだろう。ちなみにこの焼酎は「三岳」という銘柄で、現在では有名である。
 芙美子には印象の悪い屋久島だが、富岡は違う。種子島から屋久島に向かう航路で、「久しぶりに、島の濃緑な色を眺めて、富岡は爽快な気」がしている。富岡は屋久島に第二の仏印の夢を見ていたからである。米軍占領下のこの当時、屋久島は日本人が行ける最南の地であった(トカラ列島の復帰は昭和27年2月10日、奄美群島は28年12月25日)。然しそこは一か月に三十五日も雨が降るという陰鬱な島であった。
 高山京子(「林芙美子とその時代」論創社2010年)によれば、芙美子は幼少期から青年期にかけて最下層の庶民階級に属していた自己への劣等感があったという。そこから脱出したいという強烈な要求が、戦争への協力に結びついた。日中戦争での「漢口一番乗り」や太平洋戦争で「南方徴用」に応じたのも、その夢を追った結果である。シンガポールやジャワを巡った芙美子が仏印に立ち寄ったかは定かではないが(中川成美はその可能性を示唆している)、ダラットはその夢の目的地であった。然し敗戦は、その見果てぬ夢を無残なものにした。それのみならず戦争の加害者としてのうしろめたさを引きずらざるを得なかった。そういう意味で「浮雲」は戦争の加害者としての日本人を主人公とした作品であり、「植民地支配とはいったい何であったか」を描くいた小説である。日本人が戦争の加害性を意識するようになるのは、1960年代のベトナム反戦運動を通してである。「浮雲」はずいぶん早い例である。そしてそこから先に行く航路がないどんづまりのような屋久島は、「浮雲」のクライマックスの舞台にふさわしいといえる。