2017年8月3日木曜日

楼蘭王国の王都はどこか

  「流沙出土の文字資料」 冨谷至編 京都大学学術出版会 2001年

 ロプノール湖畔に存在したオアシス都市国家楼蘭はその終焉と共に王都の位置についても大きな謎がある。この国はBC77年に王弟尉屠耆が即位した時、国名が漢によって強制的に「鄯善」と改められ、同時にその王都も南方のミーラン方面に移ったと従来考えられていた。
 「漢書」西域伝には「鄯善国、本名楼蘭、王治扜泥城」とあり、新国王尉屠耆が漢兵の駐屯を要請した伊循城についても記されている。「漢書」は明言していないが、旧説ではこの時国名のみならず王都もロプノール南方に移転したと考えている。楼蘭遺趾(LA)を発掘調査したスタインは、扜泥城の位置をミーラン、伊循城をチャルフリクに比定している。日本の東洋史学者(藤田豊八、大谷勝眞、松田壽男)も漢籍の考証によってそれを踏襲している。また中国人学者も伝統的に、扜泥城はLA,伊循城はミーランに比定し、改名時に王都は伊循城に移ったと考えている。この旧説に対して、カロシュティー文書の検討などから楼蘭=鄯善国の王都は一貫してクロライナ(LA)であるとしたのが榎一雄・長澤和俊の新説である。これはほぼ定説と見なされていた。本書の各論文(梅原郁
「鄯善国の興亡」、赤松明彦「楼蘭・ニヤ出土カロシュティー文書」)はこれにいくつかの疑問を提出している。
(榎一雄・長澤和俊の新説)
 榎一雄は漢文書とともにLAで発掘された二つのカロシュティー文書から、そこがクロライナであると断定した。No696文書は、クロライナから某地に出張中の息子がクロライナにいる父に出した手紙である。この手紙の出土地はすなわち受取人のいた所、クロライナであると榎は推定している。No678文書は「クロライナにおける、大都市の南側にある土地」を譲渡した証明書で、この出土地がクロライナであるとしている。また「扜泥城」は「扞泥城」で、それは都城を意味する「Kuhani(クゥハニ)」の音訳であるとした。文書に出てくる5人の王の絶対年代をAD256~341年とし、その期間王都はLAに在ったとしている。
 この榎説を敷衍・拡大したのが長澤和俊で、要約すると以下の様である。
①王の居る所はマハムタ・ナガラもしくは主都城(クゥハニ)と呼ばれ、そこはNo67
 8文書からクロライナを指す。
②扞泥城はクゥハニの音訳である。この時代王はクロライナの王廷に居て、ニヤに至る広
 大な王領を支配していた。
③3~4世紀の鄯善国は、プラークリット語による公文書をカロシュテーイ文字で記し、
 インド的な要素を持つクシャン朝の植民国家であった。
④BC77年に設立された鄯善第一王朝は、2世紀後半クシャン朝遺民団によって滅ぼさ
 れ、鄯善第二王朝が成立していた。
(榎・長澤説への疑問)
 赤松論文は、LAを王都扞泥城(クゥハニ)とする根拠としたカロシュティー文書の解釈に疑義を提示している。すなわち榎の文書No696の解釈は文法的に誤りで、正確には「私は、父がクロライナにいるときに、持って行くであろう、あなたが行くであろうときに」と訳されるべきとする。そしてこの手紙を受け取った時に父がクロライナにいたことは保証されない。従って文書の出土地がクロライナと断定できないとする。またNo678文書についても、「大都市」(マハムタナガラ)を首府と言い換える点、「大都市」=クロライナとする点を批判している。マハムタナガラは「大きな都市」を意味するだけで、「首府」や「王の居城」を意味しない。「クゥハニ」についてもクロライナと結びつける文書はないという。
 梅原論文では鄯善国成立時に新王は南部のミーラン付近に新城塞(扞泥城)をつくり、旧王族はそのまま楼蘭にとどまり、王国の核は二つになったとしている。そして漢兵が駐屯した伊循城は土根遺趾だとしている。また長澤のクシャン遺民による鄯善第二王朝論には批判的である。
 以上の批判について次の三点が指摘できる。
①LAは、そこで発掘された漢文書からその当時「楼蘭」と呼ばれた場所であることは間違いない。然しそこが「クロライナ」であることはカロシュティー文書からは特定できない。カロシュティー文書はLA=楼蘭=扞泥城=鄯善国をつなぐ弱い環でしかない。②鄯善第二王朝論について、長澤はその主体をクシャン第二王朝に敗れた第一王朝の遺民としている。然しラバタク碑文の発見(1993年)によって、クシャン朝の系譜に断絶がないことが立証されて、その根拠が失われている。ブァレリー・ハンセンによればAD200年頃のガンダーラからの移民の波は、一度に多くても100人程度の小さなものであった。鄯善国を転覆したり征服が可能な勢力ではなかった。現地に同化し、土着民と通婚しして、文字を伝え、書記の職についた。書記の職は世襲化された。カロシュティー文書は書記の名前がガンダーラ風で、王の名前が土着風であることを示している。また最初に仏教をもたらしたのは彼らであった。③東西交通路幹線の変化について。楼蘭の王都は、そのオアシス隊商都市の性格上、シルクロードの孔道に沿うことが必須の条件であった。LAこそがその条件に適合している。すくなくとも「魏略」西戎伝がいう新道(敦煌から白龍堆をさけて北上し高昌を経て焉耆に至り、西域北道に合流)が3世紀に開発されるまでは、楼蘭を経由する道(のちの中道)は中国から西域(タリーム盆地)に達する唯一のルートであった。この道はその後も新道と併用され、7世紀にはすたれた。

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