2017年3月11日土曜日

東大全共闘運動の総括

 「東大全共闘運動総括と社会主義への展望」高口英茂 芙蓉書房出版 2016年

 著者は本書の過半に当たる245頁を費やして東大全共闘の総括にあてている。何故か。東大全共闘運動には定説がなく、各種の仮説がいくつかあり、「その一つで、放置しておくと『定説』となって『正史』になりかねない」ものがあるからである。それが小熊英二「1968年」であると著者は言う。そのため小熊全面的批判を本書で展開するとしている。とくに小熊のアイデンティティ・クライシスからの「自分探し」論は全共闘運動を貶めるものだとしている。全共闘が探していたのは「自分探し」ではなく「革命探し」であったのだとも。なんとなれば「運動参画者のひとりとして、運動が巻き起こるのは問題があるから必然であり、その運動参加を通じて、誰でもが急激に変わる、ということを『福音』として伝えたいと考えた」(本書まえがき)からである。
 著者は小熊仮説として「全共闘は民主主義を否定した」、「東大全共闘は『暴力学生』が主導した」、「その後の大学の政府支配を導いた」、「全共闘崩れが大衆消費社会になだれ込んだ」をあげ検証している。例えば「民主主義否定」について。東大全共闘は「自治会民主主義」を律儀に守っていたのである。69年1月7日には民青系、全共闘系共催による最後の学生大会である理学部学生大会が開かれている。激闘の始まる前々日である。この時点でも「ポツダム自治会」の多数決民主主義は重用であったのである。もちろん「ポツダム自治会」の訓育的側面は否定されていたが、学生が自主的に自分たちの状況を改善してゆく活動を行うことには積極的だった。また立命館全共闘による「わだつみの像」破壊が「民主主義否定」の象徴的事例とされるが、これも疑問が多い。破壊されたのは民主主義一般ではなく、形骸化した民主主義的諸制度就中「立命館民主主義」=末川体制であったのだ。「わだつみの像」設置は、戦時中学徒動員を賛美・激励した末川の、過去の言説を隠蔽するアリバイ工作でしかない。
 小熊の「全共闘批判」は文字資料を参照するリテラシーの不足と基本的事実の誤認に尽きると著者は断言する。それについて本書には興味深いエピソードがある。
(「高橋調査報告書」について)
 小熊のアイデンティティ・クライシスからの「自分探し」論には重要な下敷き的参考書がある。高橋徹が1967年冬に実施し、翌68年「中央公論」に掲載した調査報告「日本学生運動の思想と行動」である。高橋は六全協以前の日共の武装闘争を経験しており、アメリカのスチューデント・パワーにも精通していた。ルカーチの研究者でもあり、「主体性論争」にも詳しかった。この「報告書」は自治会の三役の党派活動家(革マル、三派、構革、民青)をアンケートの対象にしていた。実際に調査を担当したのは著者を含むアルバイト学生である。高橋が述べている学生のアイデンティティ探しとは「自分探し」ではなく、革命を領導するリーダーとなるための主体形成のことなのである。このように「報告書」は高橋の嗜好によってまとめられているのである。「報告書」の扱い方は要注意なのであるが、小熊はそれをストレートに使用しているのである。
(東大文学部革マル派の真実)
 東大文学部の革マル派は小野田啓介(全学連共闘部長)の強い影響下にあった。前年以来自治会執行部を掌握し多数の優秀な活動家を擁していた。スト実メンバーには白ヘル以外の着用を禁止していた。そのため外から見れば文スト実は、すべて革マル派に見えた。文スト実の提案は、学生大会をかさねるごとに支持を拡大していた。文学部学長団交や、東大闘争の高揚は、この革マル派の強固なイニシアなくしてはありえなかった。そこからは駒場での解放派との内ゲバ事件や「安田決戦からの逃亡」などの「革マル神話」とは異なったの東大文学部革マル派の別の姿が見えてくる。前者に関しては東大革マルを無視して、早大革マルが文連や早稲田祭利権獲得のために起こした「もらい火」だと著者はしている。この「内ゲバ」に本郷の革マル派、解放派は参加していない。後者に関しても、本体は撤退したが、文学部革マル派など10数名は法文2号館にとどまり戦ったのである。また9/5全国全共闘結成大会には文スト実の革マル派は東大全共闘として参加している。
(妥協の機会はあったか?)
 それは68年12月23日。加藤代行が7項目要求のうち文学部処分を除く6項目を受諾するとした時点である。文学部処分は、手続きは正統であるから破棄し撤回はしないが、「教育的処分」は破綻したので、処分制度を改める中で権利回復の余地はあるとした時である。フロント派の安東仁兵衛(統社同書記長)もその線で収拾を図っていたという。然し、これでは闘争の過程で学生に加えられてきた「おとなしくしないと単位はやらないぞ、処分もするぞ」との恫喝への反省が足りない。全共闘はともかく、文学部の闘う学生は革マル派も含めて納得できるものではなかった。もっともその時点で収拾されていれば、「超安定の就職先を失わずにすんだ」とは著者の感慨である。
 著者によれば東大全共闘の敗北は弾圧=暴力に負けたからである。それは第一義的には民青外人部隊(都学連行動隊)であり、そして機動隊(国家権力)に対してである。その総括とは「今度は敗北しないようにうまくやろう」ということに尽きるとしている。そのためには東大全共闘運動は何を達成したのかを伝えることだという。その教訓とは①東大全共闘が提起した「自己否定」は反システム運動を刷新する提起であったこと、②民主主義の原初的息吹を復活させたこと、③「大学解体」を提起して「知」の解放・開放を提起したことだとしている。それは「『社会主義的なるもの』の内容およびその実現方法の面から考えた、今思い浮かぶ経験」からの教訓であるとも。これは東大全共闘運動など意味がなかったことにしたい小熊「1968年」に対する返答である。