2022年5月16日月曜日

大月氏の五翕候とは 「敦煌懸泉漢簡に記録された大月氏の使者」小谷仲男 史窓72号 2015年

漢代の史料に見える大月氏の五翕候について現地(大夏)の土着勢力か、あるいは大月氏が分封した有力諸侯かという論争がある。これは東洋史上の有名な論である。前者には白鳥庫吉、桑原隲蔵、羽田亨、松田寿男、榎一雄などがいる。後者には江上波男、内田吟風がいる。日本の東洋史学会の主流は前者だが、著者は後者である。「翕候」は諸侯、小君長の意である。大月氏はアムダリアの北側に王庭を置き、征服した大夏の地に5人の翕候を置き統治した。すなわち休密、雙靡、貴霜、肸頓、高附の五翕候である。この翕候の実態を解明するに資する重要な発見が近年あった。 
(「懸泉漢簡」の発見)敦煌の東64キロの「懸泉置」と呼ばれる駅伝遺跡から大量の前漢時代の木簡が発掘された1990~92年)。出土木簡の総数35000本、うち文字の残るもの23000本。紀年木簡は1900本である。その中で大月氏の使者に関する木簡17本の存在が明らかになった。ただし第1簡は 烏孫簡で、実際は16簡である。そのうち最古の第2簡は甘露2年(BC52年)の紀年をもつ。それらの木簡は大月氏の使者が、漢朝への朝貢および帰国の途上、懸泉置において宿舎や食事、交通手段の便宜を供与されたことが記録されている。さらに驚くべきは、大月氏のみならず五翕候から派遣された使者の記載も見えるのである。すなわち第3簡(BC43年)は、大月氏への使者として派遣された柏聖忠が帰国に際し連れてきた雙靡翕候の使者萬若山と副使蘇に対して敦煌太守が発給した公用旅券である。第4簡(BC37年)は、自発的に朝貢目的で敦煌まで来た休密翕候ほか西域諸国の使者に対して、敦煌郡の太守が役人を派遣し、長安まで送迎させるために発給した公用旅券である。かくして大月氏の使者には、大月氏王から派遣された使者と五翕候がそれぞれ独自に派遣した使者の両様があることが分かった。これは「懸泉漢簡」によって初めて知ることが出来る歴史情報である。  翕候の実態はつかみにくいが、遊牧社会における支配体制に関する名称であり、小王に相当するもの(部族集団の長)と考えられる。五翕候を大夏の土着の支配者とする考え方は「漢書」西域伝の読み誤りによる。例えば小竹武夫「漢書」(ちくま文庫)である。 「大月氏本行国也。・・・・皆臣畜之。」でいったん区切らねばならない。ところが小竹訳では、次の文書を「皆臣畜之、共稟漢使者」と続けて読み、「大夏は・・・・いずれもみな臣従して月氏を養い、ともに漢の使者に糧食を供給した」と解釈するのである。然し「共稟漢使者・・・・」から始まる文書こそ、五翕候に関する「漢書」の独自情報なのである。その直前までは「史記」(大宛列伝)の引用である。著者が提案する読み方は「共稟漢使者、有五翕候。一曰休密翕 候・・・・」と続ける。以下五翕候の情報(治所、西域都護・陽関からの里数)が詳細に記される。漢王朝にとって、五翕候への関心は、漢の使者が大月氏に赴くとき、沿道で食料、宿舎、交通手段が確保できるかが問題であり、懸泉置で大月氏の使者たちが接待を受けたように、漢の使者たちが、大月氏王の領内や各翕候の領内で同様の接待が確保される必要があった。このような関係が成立したのは、西域都護の設置(BC59年)、烏孫の帰順(BC52年)以降であり、「漢書」の五翕候情報は以外に遅い時期のものである。  「懸泉漢簡」の解読により五翕候が大月氏に所属することが明らかになっが、それだけで大月氏の五翕候が人種的に大月氏と同一民族とは言い切れない。このことを解決しない限り、大月氏=クシャン人とすることはできない。