2016年7月7日木曜日

1969年のクロニクル㊦~関学闘争後史②

   「関西学院新聞」 1969年②

 赤軍派を排除して結成された全国全共闘連合=8派共闘は当初から、「武装闘争主義」に傾斜するブント・中核派と反帝学評などとの間に相いれない亀裂があった。それはやがて「11月決戦」後分裂の火種となる。ともあれその闘争方針には赤軍派の「陰画」としての性質が深く刻印されていた。連合ブント(中核派も)は「武装蜂起主義」に傾きつつも、爆弾・銃器による「前段階蜂起」には踏み切れず、「武装蜂起宣伝主義」に陥らざるを得なかった。また反帝学評も少人数のゲリラ戦術を採用するしかなかった。これは革マル派が多用した戦術だ。いずれにしても市民主義左派としての本質を隠蔽するアリバイ工作以外の何物でもなかった。そしてそれが全国全共闘から赤軍派と革マル派を排除した最深の根拠でもあった。
 その赤軍派は9月大阪戦争・東京戦争を戦ったがいずれも不発に終わった。11月5日大菩薩峠での壊滅で「首相官邸占拠、臨時革命政府樹立」構想は瓦解した。一方連合ブントは秋期闘争を霞が関制圧の中央権力闘争とマッセンストで戦う方針を掲げた。そして関西では9月に結成された全関西スト実が中電マッセンストを提起した。
10/3全関西スト実集会
「10月3日には『安保スト貫徹全関西労学総決起集会』が午後6時より尼崎市労働福祉会館で反戦労働者・学生約1000名が結集し開かれた。(中略)集会では、戒厳令下の中電において同日朝より無期限ストに突入した中電労働者、関西スト実、各全共闘、各戦線などから報告された。この集会では当面10・21闘争に対する方針として、霞が関占拠闘争に呼応し、全関西の拠点を中電マッセンストにおき、北大阪交通集中機構攻撃としての方針が確認された。」(関西学院新聞562号69年10月9日)
10/8兵庫集会
「『安保決戦勝利、羽田闘争2周年、10・21拠点政治スト貫徹、佐藤訪米阻止、佐藤帝国主義内閣打倒』全兵庫統一集会が三宮、神戸市役所前で各大学全共闘、地区・職場反戦、べ平連など約700名によって開かれた。」(同563-4号 10月31日)
10/10全関西総決起集会
「10/10全関西総決起集会は1時より、丸山公園の野外音楽堂において、労働者・学生・市民約6000名の結集する中で開催され、10・21首都・北大阪制圧が確認された。(中略)集会中、演壇上で反帝学評と中核派との間に衝突などもあったが、4時頃インター斉唱の後、京都市役所までのデモ行進に移った。」(同563-4号)これが秋期闘争に向けての最後のカンパニアとなった。一方関学キャンパスでは学内各セクトが10、11月闘争の準備に邁進していた。関学全共闘はこの時点で総逮捕者120名、拘留者91名、起訴71名という甚大な打撃を受けていた。(救対ニュース)
10/9社本館封鎖
「9日午前8時ごろ、西宮市上ヶ原、関学大でヘルメットをかぶった全共闘派学生約50人が、社会学部本館入口を机、イスでバリケード封鎖した。(中略)全共闘派学生は安保破棄などを叫んで中央芝生付近をデモしたあと、午前11ごろ同本館内に数人を残して学外に出、ほとんどは神戸地裁に向かった。」(神戸新聞69年10月9日夕刊)この日神戸地裁では5G死守闘争の分離公判(17名)が行われ、I元全共闘議長らが出廷予定であった。全共闘側は56人全員の統一公判を主張、被告団は傍聴学生とともに60人で地裁に押し掛けたが、地裁は閉廷した。
10/14西宮で反戦派決起
「『安保粉砕』のスローガンのもとで10月14日大学生協神戸同盟体労組の反戦労働者4名は同盟体西宮共同購入事務所を封鎖し、無期限ストに突入した。この山ネコストは10・21闘争を中心とする10月、11月永続武装闘争として展開され、街頭闘争と拠点陣地闘争の結合を意識したもの」(関西学院新聞563-4号)西宮共同購入事務局とは大学生協神戸同盟体(関学、神戸大、神戸外大、神戸商大)と西宮北口などの団地の主婦が結成した消費者団体。産地からの一括購入で安い牛乳を2000世帯(4000本)に配達した。事務局は関学キャンパスとは別の西宮市津門西町にある。事業に従事している5人のうち4人が決起した。学生アルバイトも同調した。
10/15全学封鎖から10・21闘争へ
15日7学部校舎が全共闘派学生によって封鎖された。「同日午前7時半ごろ、武装した学生約100人が大学正門などから乱入、警戒にあたっていた教職員400人を押しのけ、経済学部校舎を皮切りに約1時間で7学部校舎の本館全部封鎖した。(中略)一般学生は午前8時ごろから登校、約千人が封鎖校舎を遠巻きにして見守り、一部封鎖学生との間にこぜりあいもあった。(中略)午前11時15分機動隊250人が正門から入ったが、いち早く封鎖学生が逃走したため各校舎はもぬけのカラ。」(神戸新聞10月15日夕刊)この日の封鎖は10・21国際反戦デーに向け組織の立て直しを図ったもので、神戸大など40人の外人部隊が加わっていると神戸新聞は報じている。ついで16日全共闘(50人)によって法・経・文の校舎が封鎖されたが、機動隊により排除。逃げ遅れた2名が逮捕された。封鎖を敢行した反帝学評、ML派、フロントなどの部隊は即日上京した。そして反帝学評は18日首相官邸(7名突入、5名逮捕)、自民党本部(7名突入、全員逮捕)に突入した。またML派は18日東京拘置所(17名全員逮捕)、19日自衛隊市ヶ谷駐屯地(5名)に突入した。フロント派は21日銀座・築地方面で火炎瓶闘争を敢行した。関学の反帝学評、ML派、フロント派のメンバーはこれに加わり、多くは帰らなかった。残存の全共闘部隊は「北大阪制圧闘争」に参加した。「10・21大阪中電マッセンスト・北大阪制圧闘争は、扇町公園に約2万人の労働者、学生が結集するなかで開始され、集会、デモ後の国鉄大阪駅周辺などでは、夜11時ごろまで機動隊・官憲との対峙が続いた。」(関西学院新聞563-4号)
関学全共闘は組織的にも人的にもほぼ壊滅していたが、権力は攻撃を強めた。「10月15,16日と連続して展開された関学における封鎖闘争に対して、(中略)11月6日早朝、権力はついに3名の学生を自宅でそれぞれ逮捕した。逮捕された学生はY(理3)、M(理1)、F(商2)の3君で、いずれも凶器準備集合、暴力行為、威力業務妨害などの容疑で事後逮捕されたもの。」(同563-4号)7日生協喫茶部付近でK社会学部闘争委員長が学内に潜入した私服警官によって逮捕された。サンケイ新聞によれば、17日佐藤訪米阻止闘争を未然に圧殺するため、学院生20数名の逮捕状をとっているという。これは学院当局ともに関学全共闘を最終的に壊滅に追い込むためである。
11/13佐藤訪米阻止全関西総決起集会
11月13日総評は公労協、公務員共闘など63単産で佐藤訪米に抗議する統一ストを構えた。量的には60年安保を超えるものだが、大半は早朝ストで物理力は弱かった。そして関西では。「13日、『佐藤訪米阻止全関西総決起集会』が扇町公園で開かれ、例の機動隊による徹底した検問体制下をくぐり抜けて、全関西から反戦、全共闘、高校生、べ平連それに総評労働者など約3万人が結集した。(中略)集会後の午後6時頃、総評系労働者を先頭に中央郵便局前までのデモに移ったが、この際、機動隊は10・21北大阪闘争と同様、分断策で弾圧にのりだした。これに対し、関西スト実、社学同など約200の反帝戦線部隊は同公園付近の機動隊に火炎瓶、投石などで急襲、さらにプロ学同50の部隊も”鉄材”などで突破し、一時的に機動隊の指揮系列をマヒさせ、弾圧体制を分断した。しかし隊列をたて直した機動隊は、警棒、大盾をふりかざして公園内に乱入、無差別の警棒乱打という暴挙にでた。この時、岡大生糟谷君が後で死去する原因となった警棒乱打を頭に受けたのを始め、63名が重傷を負わされたまま不当逮捕されている。」(関西学院新聞565号)この集会には関学全共闘の旗の下約80名が結集した。この部隊は69年新入生のノンセクト共闘会議が「小寺近代化路線粉砕」など戦う中で組織した「新たな戦う部隊」であった。そして11/16~7闘争は「首相官邸占拠」ではなく訪米阻止闘争として戦われた。それは各党派軍団による国電蒲田駅を中心にしたゲリラ戦に終始し、1493名の逮捕で幕を閉じた。10・21や11・16はなどの街頭武装闘争は党派軍団ごとのゲリラ戦であり、全共闘部隊登場の場はなかった。これはなによりも全国全共闘結成が、8派による全共闘活動家の取り込み、手駒化が目的であったことを逆証明している。21日佐藤ーニクソンによる日米共同声明が発表され、安保堅持ー72年沖縄返還を表明した。
11/26「日米共同声明粉砕・弾薬輸送阻止」集会
「11月26日の午後6時から大阪剣崎において『日米共同声明粉砕ー弾薬輸送阻止集会』が、約500名の参加で開かれた。集会は糟谷君への追悼で始まり・・・・・(中略)途中革マルと中核派の間で衝突が起こったため集会を中止し、大阪駅前までのデモに移った。」(同565号)関西でも革マル派と中核派の暴力的衝突が始まった。
関学キャンパスの状況
一方関学キャンパスでは、10,11月闘争で反帝学評がほぼ姿を消したこととあいまって、革マル派(関学全学闘)が1年ぶりに登場した。革マル派は外人部隊(全学連関西共闘会議)50名を投入して、中央芝生で集会後、学生会館に突入し情宣活動を展開した。そして全共闘不在の学内では正常化路線の一貫として「学長選挙」が着々と進行していた。学長選考規定および学長辞任請求規定信任(11/8)、第一次学長選挙(11/29)、そして第二次選挙(12/24)で小寺代行が学長に就任した。これに対しこれに対しノンセクト共闘会議は、学長選の実施自体が小寺近代化路線の内実であることを暴露する情宣活動を経済学部、社会学部で強力に展開した。戦う部隊は他にはいなかった。なお旧全共闘系は訪米阻止闘争の前日(11/12)に中央協議会を開き、任期切れの全執の任期を来年1月末まで延長するとし、2月はじめに選挙を行うとした。然し中央協議会は12/1,9と開催されたが、全執・学部自治会とも理学部以外は代理を立てるしかなく、経済学部はそれもなかった(経自は委員長が招集権を放棄し崩壊)。責任者はすべて10,11月闘争で逮捕され拘留中であった。中央協議会と学院側のこの時点での了解事項は「全執の1月末までの任期延長は認める。学生自治の問題で学院の関与する問題ではない」、「学生会予算については、全執を通さない限り交付を受けない」(上ヶ原ジャーナル18号)というものであった。然しこれは実質的に自治会の崩壊状態をいいことに学院当局が手を貸す(放置する)ものであった。この時点で自治会が存在していたのは法学部、理学部、神学部であり、他は任期切れ(社会学部、文学部、商学部)か崩壊(経済学部)していた。
 12月27日(土)衆議院選挙が(投票率68.5%)が行われ、戦わざる社会党は歴史的な大敗北を喫した(51議席減の90議席に)。学生運動の支持者が棄権にまわり、都市部で強かった社会党は大打撃を受けた。これがその後転落・消滅する引き金となった。そしてこの選挙は日曜日以外に実施される最後の選挙となった。またテレビの政権放送もこの選挙から始まった。(この稿続く)