2017年2月8日水曜日

「シルクロードと近代日本の邂逅」を読む

 「シルクロードと近代日本の邂逅」 荒川正晴・柴田幹夫編 勉誠出版 2016年

 大谷探検隊研究の第一人者白須浄眞の広島大学退任を記念して刊行された論文集が本書である。最近ではこのような記念論文集の刊行はめずらしいという。親しい友人や門下生によるこの論文集は、平坦でない研究環境にありながら目覚ましい業績を残した白須に対するはなむけでもある。それでは白須の大谷探検隊研究における「目覚ましい業績」と、その経歴はどのようなものであろうか。
 (白須浄眞)年譜によれば白須は1949年浄土真宗本願寺派・安楽寺(島根県邑智郡矢上村)に出生。父は15世住職。74年龍谷大学大学院(修士課程)を修了し、広島県の県立高校(松永高校、廿日市西高校、五日市高校)の教諭を26年間務める。その後広島安芸女子大講師となるが、同校が3年で廃校。2003年安楽寺16世住職(現在まで)。2007年広島大学大学院教育研究科講師、10年同准教授、15年定年退職。3冊の著書(「忘れられた明治の探検家 渡辺哲信」1992年、「大谷探検隊とその時代」2002年、「大谷探検隊研究の新たな地平」2012年)と2冊の編著(「大谷光瑞と国際社会」2011年、「大谷光瑞とスヴェェン・ヘディン」2014年)、多数の論文がある。
 (その業績)大谷探検隊研究における白須の目覚ましい業績とは以下の3点である。第一は「忘れられた大谷探検隊」を高校教科書にとりあげるなどして、現代に甦らせ広く知らしめたことである(「高等学校世界史B」、「高等学校精選世界史B」、「高等学校世界史A」いずれも第一学習社1994年)。さらに「大谷探検隊」とその時代」(中国新聞連載1998~99年、その後勉誠出版より刊行)では、大谷探検隊の成果を「内陸探検の時代」と「日本近代史」との歴史的重層の所産であるとした。第二は大谷探検隊研究を20世紀の国際政治社会との関連で考える世界的視点に押し上げた。従来研究者にも未知であった日本外務省の外交記録の発掘と解読から驚くべき大谷探検隊の姿が浮かびあがってくる。そのアジア広域調査活動は、英露を中心とした「グレートゲーム」の舞台に飛び込むことであり、各国の疑惑を招くにいたった。所謂「スパイ疑惑」である。これら文書は国際問題化した大谷探検隊の外交処理の記録であった。敦煌・トルファン出土の古代文書研究の専門家であった白須が、その手法を援用して読み解いたのである。第三は大谷光瑞とヘディンの関係から李柏文書発見の必然性を究明したことである。「チベットに関する英清条約(1906年)や「英露協商(1907年)」は当時チベットを探検中であったヘディンを苦しめるものであった。この苦境を救ったのが光瑞であった。北京に乗り込み、ヘディンのため、西蔵域内での探検を可能とする清国護照(パスポート)の取得を試みたのである。その「謝意」としてヘディンは来日(1998年11~12月)のおり、楼蘭(LA遺址)の正確な位置(経緯度)を光瑞に伝えたのである。まさしく李柏文書は見いだされるべくして発見されたのである。
 白須は本書所収の「大谷探検隊に先行する真宗青年僧の英領下セイロンへの留学」で大谷探検隊の始源と終焉を明らかにしている。光瑞のアジア広域調査活動はヨーロッパの学界が主張する「大乗非仏説論」の克服を目指したものであった。それが大乗仏典の原典の探求・入手であれば必然的にチベットが視野に入ってくる。「第二回日英同盟」第四条(英国のインド保全を日本が約束)に抵触することを承知でグレートゲームの舞台にも飛び込んでゆくのである。白須によれば、大谷探検隊研究を志す者が忘れてならないことは、光瑞が宗祖親鸞の法灯と血統を継承する浄土真宗第22世門主だということである。「探検家がたまたま光瑞であったのではなく、新門として門主であった光瑞が、探検家と見紛うまでに行動した」(本書P728)のである。
 なお本書所収の論文には白須論文以外にも注目すべきももある。例えば入蔵者の一人である寺本嫣雅の知らざれる晩年を考察した高木康子「海闊天空ー『五台山』以降の寺本嫣雅」。歴史教育の実践法を説く池野範男「真正な歴史教育実践」など。