2023年10月2日月曜日

楼蘭王国の滅亡

「第5世紀東トルキスタン史に関する一考察」内田吟風 古代学10-11968年


 楼蘭はBC1500年頃、タリム盆地に進出したトハラ語派の人々によって設けられた、玉の取引のための市場であった。それはやがて周囲を土壁で囲む都市になった。市場の長は国王となった。楼蘭王国の成立である。そこはタリム河の末端、ロプ湖に近いあたり、中国(敦煌)に向け隊商が水を得ることが出来る最後の地点であった。東西の貿易ルートが、ここを通るかぎり、楼蘭は永遠の反映を約束されていた。それから千年以上の時が流れたが、トハラ語派の人々はまだこの地に住んでいた。楼蘭は漢(中国)と匈奴の間を振り子のように揺れたが、BC77年漢がこの国を決定的に支配下に置いた。国名を変えて鄯善国とした。「鄯」という漢字はこの時作られた。然し中国の正史(「漢書」西域伝)が雄弁に語る鄯善国が、その終焉まで連綿と続いたのではなかった。

(5王の時代)楼蘭(クロライナ=LA)やニヤで出土したカロシュティー文書は一緒に出土した紀年漢文書から、その歴史的範囲がブラフ教授によってAD236~341年(榎一雄AD256~341年、長澤和俊AD203~288年)にわたることが判明した。そして5人の王(ペーピヤ、タージャカ、アムゴーカ、マヒリ、ヴァスマナ)の存在が明らかになった。これらの王はクシャン朝の王に似た称号「大王、王中の王、偉大にして戦勝者であり、徳篤く正法に住したる国王陛下、天子アムクヴァガ」を持っていた。文書からは、クロライナからニヤに至る広ぼう900キロに及ぶ領域を駅伝で結ぶ楼蘭王国の姿が浮かび上がる。それはプラクリットを公用語とする北インド(クシャン)風の整然たる官僚国家であった。ブラフ教授はアムゴーカ王の17年をAD263年とする新説を発表した(後に榎は283年、長澤は228年に比定)。文書中の称号「ジツーガ」が「侍中」の音訳であり、アムゴーカ王が晋の宗主権を受け入れたため、クシャン風の称号から変わったとする。そこはクシャン朝の植民国家=第二鄯善王国であった。然し晋の西域進出により、この国は以降衰亡の道を歩み始めることになる。内田は、鄯善王国の滅亡が、巷間云われるようなロプ湖の移動など自然環境の変異によるものでないことを力説している。政治的混乱と貿易の途絶が、土地の生産力に比しはるかに多い人口を擁していたオアシス都市国家=鄯善の散滅の最大の原因だとしている。

(滅亡の過程)西北中国に五胡の諸王朝が成立すると鄯善は入朝形式の朝貢貿易を求めた。まず前涼は晋を踏襲しLAに西域長史府を置いた(AD328年 李柏文書)。AD335年前涼(楊宣)の西域遠征に鄯善王元孟は案内を務めた。前秦が優勢になると休密駄は入朝(AD381年)し、「使持節散騎常侍・都督西域諸軍事・寧西将軍」の官職に侍せられた。AD400年インドに求法途上の東晋僧法顕がLAに1か月ほど滞在し、楼蘭最末期の姿を伝えている。河西に北涼が建国すると、AD421年鄯善王比竜は北涼に入朝。北涼は河西全域を支配して、シルクロードを巡る東西貿易の実権を掌握していた。然し華北に北魏朝が成立すると、北涼による中間搾取の存在は好ましいものではなかった。はたせるかなAD439年北魏による北涼遠征が行われた。敗れた北涼王の弟たち(沮渠無諱と安周)は敦煌に逃れ、AD442年安周は鄯善(LA)を攻撃した。比竜は北魏の使者とともにかろうじて北涼軍を撃退、安周は東城に退いた。かつての伊循城である。比竜は安心できず、クロライナの4千余家(人口の半分)を率いて且末城(チェルチン)に逃れた。翌年無諱はクロライナに進駐、安周をローラン王とした。北魏に知られることを恐れ、安周は再び東西交通を遮断した。然しこの計画は北魏の知るところとなり、AD445年大武帝は万度帰を派遣してローラン遠征を敢行した。万度帰はローラン王真達(比竜の子)を捕らえて魏都に連行した。そしてAD448年交趾公の韓牧を鄯善王に任命、クロライナに駐屯させ(北魏の鄯善鎮)、北魏の郡県なみに税を徴収した。これによってひとまず鄯善王国は断絶した。かくして旧鄯善領は北部の鄯善鎮と南部の且末を中心とした地区(まだ比竜が命脈を保っている)に二分された。その後、南部はAD452年吐谷渾に制圧された。また北部は柔然、丁零など遊牧民の徹底的な略奪を受け、住民は四散した。然しLAにはまだ名目的ではあるが、北魏の鄯善鎮は存続していた。AD504,505,517年には白兎などを奉献している。AD542年頃且末王の兄鄴米が衆を率いて内附した。すでにAD542年頃旦末を通過した宋雲はその人口を百余家として、ほぼ散滅寸前の状況であった。そしてAD644年末に玄奘がこの地方を通過した時には人煙は全く途絶していた。