2020年10月25日日曜日

関学闘争外伝③~経済学部学生運動小史Ⅱ

序曲(1968年)  関学キャンパスの1968年新学期は全共闘指導部9名の逮捕(内1名は誤認逮捕)で始まった。処分を受けた各学部自治会では処分撤回闘争が組まれた。 最も民主的」な法学部教授会は4月17日に7名の停学処分を取り消すと発表した。然し「反動的」な社会学部教授会は5月8日の団交で「被処分者は学生でない」からとメンバーの参加さえ拒否した。被処分者のいない経済学部では民青系執行部が逃亡し自治会は空白のまま改選期を迎えた。革マル系(安長学425票)が反帝学評系(大西敏文274票)を破り、3度目の挑戦で執行部を確立した(5月8日)。然し安長執行部は弱体(委員長・副委員長1名のみ自派で、もう1名の副委員長はフロント、対立候補も執行部入り、革マル・フロント・反帝・の連立執行部)で、6月22日の学生大会は定足数不足で流会。9月20日再度招集したが、未成立で学生集会に切り替え、仮決議をして1週間の掲示期間を経て、規約により執行部として承認された。街頭闘争至上主義の中核派ーブントに対抗する革マルーフロントー反帝学評ブロックという1968年前半の状況の反映である。民青が逃亡した文学部ではフロント系が、商学部では反帝学評系が前執行部の青年インター候補を破り、自治会執行部を掌握した。  7月全学連大会の季節を迎えたが66年末に再建された三派全学連は分裂した。すなわち中核派全学連と反中核派の反帝全学連(ブント、反帝学評、ML派)の誕生である。その反帝全学連もブント(委員長、副委員長など中執16名選出)と反帝・ML(書記長など中執10名選出)が別個に大会を行い分裂必至である。革マル系、民青系、中核系、反帝系と4つの「全学連」が並び立ち、学生運動は党派全学連の時代となった。  再び関学キャンパスに眼を向ければ、11月21日全学執行委員長選挙が行われ反帝学評系(1351票)がフロント系(1164票)、ブント系(620票)を押さえ、執行部を掌握した。フロントの退潮と反帝学評、革マルの伸張が目立った。全執は学院当局に学費値上げなど6項目の公開質問状を出した。(11月22日)これは全共闘の「6項目要求」(12月19日)の基礎になるものである。然しそのさなか法学部を中心とする社青同解放派(反帝学評)と経済学部の革マル派の間で党派闘争が勃発した(12月8~9日)。早稲田大学での文連執行部をめぐる両派の抗争が飛び火したものだが、全執選で主導権を握った解放派が、一挙に革マル派の学外放逐を狙った。8日未明解放派は安長委員長を拉致し自己批判を強要、これに対して全学連関西共闘会議(革マル派)が介入、両者が乱闘(解放派50人、革マル派30人)したが数にまさる解放派が革マル派を学外に放逐した。フロントは両派の抗争は学院当局と右翼に利すると批判したが、学生運動(関学も)は党派によって担われいるのが実態であった。渡辺照全共闘議長は全関西反帝学評議長でもあり、安長経自委員長は全学連関西共闘会議議長であった。14日の経済学部委員総会で安長委員長の罷免が決まった。20~21日に行われた委員長選挙でフロント派の新川俊郎副委員長が当選(190票、総投票数321票))。新執行部は支持率も低く、前執行部よりも更に弱体であった。この中19日には法、文、社の3学部で6項目要求(①43・44連続学費値上げ白紙撤回 ②不当処分白紙撤回 ③機動隊導入、捜査協力自己批判 ④文学部学科制改変白紙撤回 ⑤学生会館の管理運営を学生の手に ⑥以上を大衆団交の場で文書をもって確約し、責任者は引責辞職せよ)の1日ストが打たれた。当局は拒否。23日の全共闘会議(100人参加)で学院本部封鎖が提起されたが支持派(社闘、フロント、ブント、人民先鋒隊)と反対派(反帝学評、ML派)にわかれ結論がでなかった。反帝学評は多数派にかかわらず主導権をとれなかった。革マル派を放逐したが自らのダメージも小さくなかったのだ。このような状況で6項目闘争はスタートするのである。 (6項目闘争ー①ⅤG封鎖から全学封鎖へ)  1月7日未明第5別館が全共闘の一部(社闘、フロント、ブント、先鋒隊30人)によって封鎖された。前日の全共闘会議で反帝、ML派の反対を押し切って封鎖が決行された。経自治会は8日に学生大会(14日)開催、10日に教授会会見(13日)を教授会に要望した。13日に前委員長と引継ぎ事務手続きがとれないとし14日の学生大会延期を申し入れ。そして14日の教授会団交を申し入れるが、差出人が経闘争委員長名になっていることにより受け取りを拒否される。16日に代替えとして教授・学生懇談会(18日)が学部側から提案される。出席者は学生側全執行委員(新川、上坂、吉村、旦野、中村、吉竹、田原)と教授側(豊倉、縄田、橋本、楠瀬、柚木)は学部長、学生部長など。22日に委員総会決議と7つのクラス・ゼミ決議に基づき22日の大衆団交を要求するが、参加メンバーが経闘争委員のみということで拒否される。集会は教授会・自治会の共催、参加は学部生に限る、時間は1時から4時という妥協案で27日の学部集会の開催が決まる。  その間全学の闘争は急展開する。17日全共闘60人(社闘、フロント、ブント、先鋒隊)によって学院本部が封鎖される。18日法学部が無期限ストに入る。24日全学集会(6000人)が開かれるが、全共闘150人で介入、大衆団交に切り替える。当局の無内容さに一般学生も憤激し、2000名の大抗議デモにになる。25日商学部スト権投票に入り、28日無期限スト突入。26日未明社闘30人社会学部封鎖。27日神学部無期限スト突入。  そして27日の経済学部集会。集会は質問者の学部長に対する追求(大衆団交の拒否)で始まり、一旦休息の後議題が学生の処分問題に移ると、突如この場を大衆団交に切り替えようという緊急動議が出され、議場が混乱した。右翼学生に守られて教授達は逃亡。新川委員長は予備折衝で取り交わした確認事項を破棄せざるを得ないとして執行部の解散を声明した。「経済学部の敗北は、全共闘を阻害するものであり、自治会運動の原則を守ってきた我々の運動の限界性を痛感するものである。故に執行部と闘争委員会を解散し、新たな闘う部隊に全権を委任する。従って、今までの闘争委員会の提起した学部投票は委員会総会決議により中止する。昨日の集会を右翼学生に守られて逃亡した教授会を弾劾し、ⅤG(第五別館)封鎖、本部、社封鎖の意義を確認し、経済学部学生がこれを破壊しないよう要請する。全ての学部学生諸君は新たな闘争委員会に結集し、六項目要求の貫徹をめざして闘われんことを要望する。」(1月28日 経済学部自治会執行委員長/闘争委員長 新川俊郎)スト権投票が過半数に及ばなかったのが「解散」の理由とも言われるが、真相は不明。いずれにしろ新川委員長(フロント)が執行部を投げ出したことに変わりはない。「自治会の解散」のみならず「招集権の放棄」までした。28日深夜文学部は全共闘(社闘、フロント、ブント、先鋒隊など300人)が封鎖。そして29日未明経済学部校舎と第3別館が新たに結成された経闘委によって実力封鎖された。かくして理学部を除く6学部が封鎖され、全学封鎖体制が確立し、この日から始まる後期試験はすべて無期延期になった。                   (6項目闘争ー②入試粉砕から大衆団交へ)  1月31日から全共闘と大学当局の間で大衆団交開催をめぐる予備折衝が開始された。然し団交開催の条件に関して折り合えず(交渉は全執であって、全共闘とはしない)2月3日交渉は決裂し6日の団交は流れた。当局の思惑とは裏腹に全共闘はウイングを拡げつつあった。サークル闘争委が結成され、1連協や4連協も広範なノンセクト学生を糾合しつつあった。また他大学(神戸大など)の支援部隊のみならず、西宮反戦や全兵庫地区反戦も支援に駆け付けた。全共闘は、全国私大で初めての入試粉砕闘争を打ち出した。  当局は7日から始まる入試に向けて4日から教職員(一部右翼学生含む)150名体制による入試会場(体育館、高等部、中学部校舎)の泊まり込みを実施した。6日払暁全共闘武装行動隊80名はは右翼学生、教職員が看守する体育館を火炎瓶と投石で攻撃、完全制圧した。逃げ遅れた教職員(学生部長、経済学部事務長など)、右翼学生ら6名を捕虜にし自己批判を要求。院長は5時10分に機動隊導入要請。13時機動隊500人正門前に待機。松田政男講演会を開いていたサークル闘争委の学生ら300人が正門を挟んで機動隊と対峙。14時機動隊が校内に入り試験会場に配置される。全学1連協の学生2000人が徹夜で座り込み、機動隊導入に抗議する。7日経済学部入試が始まる8時30分、全共闘武装行動隊80人が機動隊に突入(7名逮捕)、試験終了直後再び機動隊に激突。8日商学部入試。機動隊の強制解除に備え、5号別館と法本館のバリケードを強化する。   試験会場警備のみという学院当局の要請に反し、兵庫県警機動隊3000人は9日6時30分封鎖解除のため学内に侵入した。全共闘はこれに対決、法本館(反帝学評13人)、5G別館(革自同、ブント、先鋒隊など35人)で死守闘争を展開した。法本館は軍事的には脆弱で9時30分陥落(全員逮捕)。然し5Gのバリケードは固く攻防は熾烈を極めた。翌日11時52分陥落した(全員逮捕)。死守闘争は安田講堂攻防戦より長く、闘いの質も凌駕した。「第二の安田砦」を全国に喧伝した。12日全共闘はこれに抗議し「全関西労学関学奪還総決起集会」を3000人で行い、正門近くの上ヶ原派出所を襲撃した(3名逮捕)。14日の試験終了とともに機動隊はキャンパスから撤収した。15日全共闘は全学再封鎖を敢行、当局は「ロックアウト」を宣告。  当局は第二次収集策動として26日の全学集会を提案した。全共闘は100名の武装行動隊で会場の新グランドを占拠。当日1100人の部隊で全学集会(5000人)を追求集会に変えた。18時30分会場を中央講堂に移し、追及集会を継続。小宮委員長は「闘争弾圧をした」と自己批判書に署名。翌27日も中央講堂で全共闘1000人を含む2000人の学生で「追求集会」を継続し、訳9時間をかけて大衆団交(3月5日 中央講堂)の確認書を勝ち取った。 (この項続く)