2015年12月26日土曜日

関学大「薬学部設置」反対闘争の勝利~関学闘争前史①

  「関西学院新聞」1965~1967年

 60年安保闘争時関学の学生運動は、全学連主流派(ブント)ではなく、全学連反主流派(日共系)全自連の翼下にあった。6月18日の全自連の全国集会(東京)には14名を代表派遣している。全自連多数派(構造改革派)は日共中央とは独自にフロント組織の拡大につとめていた。60年8月頃から「平和と民主主義を守る大学戦線」として全国的組織化を進めていた。関学でも10月26日に25名で関学フロントが結成されている。そして28日神戸大学住吉寮で100名(関学より5名)が参加してフロント兵庫結成大会が開催されている。この当時のフロントはまだ日共内の分派(構改派)であったが、61年日共神戸大細胞の集団離党を皮切りに新左翼への道を歩み始める。61年末までに400人(2000人中)の学生党員が離党し、全自連・再建協はその首脳部が去ったため崩壊状態に陥る。その多くが神戸大など兵庫県の学生であった。そのため62年10月の兵庫県学連大会(10/25~26)はフロント系と日共系の対立に終始し、県原水協(日共系)非難決議を採択する。その後崩壊状態に陥るが、65年構改派を中心に再建される(13回大会9月19日)。神戸大中執、関学文、社の代議員47名(定足数38名)、オブザーバーとして関学法、商、経済、甲南大、神戸医大、神戸女学院などが参加した。加盟校にもかかわらず神戸商大・神戸外大(日共系)はボイコットした。(関西学院新聞1965年9月19日)この時期関学の学生運動の主流は兵庫県学連に結集して日韓闘争など政治課題を戦っていた。これに対して日共系は「全学連」(64年12月民青系自治会のみせ結成)参加を掲げてセクト的分裂策動を繰り返していた。関学学生運動の主流は反日共ではあるが、翌年結成される「三派全学連」とも別個なところで構改派学生運動(自治会共闘)の流れにあった。これが大きな特徴である。
 (薬学部設置反対闘争)1966年篠山の兵庫農科大学跡地をめぐる反対運動が関学内で急速に浮上してきた。理事会は跡地払下げを受けて薬学部設置を検討していた。そして6月18日父兄会代議員会での父兄会費値上げ決定が反対運動の発火点となった。11/11,14と2次にわたる「父兄会費値上げ・薬学部設置に関する」公聴会(説明会)は全学執行委員会側と大学当局の物別れに終わった。全執は全学闘争会議を設置して闘争態勢を構築した。11月末の全学投票では90.5%の学生が反対していた。12月6日社会、法自治会がストライキに突入した。8日には文、商、経済学部自治会がスト権を確立した。
 「関西学院の薬学部設置に反対している同大学学生会全学執行委員会(石田委員長)の社会学部、法学部の2学部は、同構想の白紙撤回を要求して6日始業時より3日間のストに突入した。(中略)経済、商学部など残りの学部自治会も現在スト権の確立を急いでおり、8日ごろには全学部の足並みがそろうことになる。」(神戸新聞1966年12月6日夕刊)然し学院当局は12月7日緊急理事会を開き、「学生・教授の理解が得られない」として「薬学部設置」案を撤回した。
「関西学院では兵庫県多紀郡篠山町の兵庫農大跡地を買収、薬学部を新設する構想を進めていたが、7日の緊急理事会で同構想の白紙撤回を決定した。(中略)6日から社会、法学部がストにはいり、さらに文、商、経済の3学部が7日スト権を確立、8日からストを強化することになっていたが、理事会の白紙撤回の”表明”で7日夜ストを中止した。」(神戸新聞66年12月8日)この当時学内はまだ中央集権化されておらず、各学部教授会は「既存学部充実」で一致しており、薬学部設置には反対していた。
 かくして薬学部設置反対闘争は一定の「勝利」を勝ち取った。然しそれは学院当局側の「敵失」による「勝利」であり、全学闘指導部の方針は問題を残した。高揚した学生のエネルギーを集約できなかった。「既存学部充実、経済第一主義的教学方針ナンセンス」というかたちでしか闘争にとりくめず、教育総点検運動のような次元に終始した。闘争(ストライキなど)を圧力手段として、教授層の反対をうながし、当局に譲歩を迫るというものでしかなかった。これはフロント派の「大学革新論」につながるもので、なんら「大学幻想共同体」に対する物質的批判たりえなかった。そのような限界は「43学費闘争」でたちまち露呈する。(この項続く)

2015年12月9日水曜日

華北駐屯軍とは何か~昭和史の謎を追う⑪

   「華北駐屯日本軍」 櫻井良樹 岩波書店 2015年

 盧溝橋事件発端の原因となり、日中全面戦争の口火をきった華北駐屯日本軍。何故そこに日本軍がいたのか。駐屯軍成立の事情、その後の変遷、、終焉など「平和維持のための軍隊」が「戦うための軍隊」に変貌するさまを、本書は余すところなく解き明かす。
 (駐屯軍の成立)華北駐屯軍は中国に継続的に駐屯する条約上の根拠を持った唯一の外国軍であった。その成立の根拠は義和団事件後の北京議定書(1901年9月7日)による。駐兵権の規定はその第7条と第9条である。第7条1項で北京の天安門南東に位置する東交民巷の北京公使館区域を、外国公使館が使用する区域とし、清国人の居住を認めない地域とした。租界と同様の特権が与えられた。第2項によって規定された常時(設置)護衛兵に防御された。第9条は鉄道保護に関するもので、次の各地を占領(駐兵)する権利を認めた。黄村、郎房、楊村、天津、軍糧城、
塘沽、蘆台、唐山、灤州、昌黎、秦王島及び山海関である。調印国は日本、イギリス、アメリカ、フランス、ロシア、ドイツ、イタリア、オーストリア、ベルギー、スペイン、オランダの11ヵ国である。然し実際に駐屯したのは日、英、米、仏、露、独、伊、墺の8国(のち独、墺、露は撤退した)である。
(議定兵力)北京公使館2000人(うち日本300人)、天津6000人(同1400人)、北京~海岸間鉄道2700人(同600人)である。鉄道守備の区分けは日本(昌黎、濼州)、英(唐山、蘆台)、仏(塘沽、軍糧城)、独(楊村、郎房)、伊(黄村)。日本の議定兵力は2600名であった。これは目安であって実数とは異なる。義和団事件後の占領期が終わった清国駐屯日本軍は1400人(歩兵8個中隊、騎兵隊、砲兵中隊)の陣容であった。
そして駐屯軍は以下のような性格を合わせもっていた。①公使館・領事館保護及び外国人保護を基本勤務とするほか、避難路や情報・通信を反故するため鉄道線路上への駐兵が認められていたこと。②北京議定書は、単なる清国と列強間の講和条約ではなく、列強の中国大陸における行動を規制する側面をもった国際協定であるということ。したがって列強駐屯軍に共同指揮権を設けることは忌避されたが、その行動は北京の公使団会議や天津の軍司令官会議の強い影響を受けていた。
 このような駐屯軍による「国際処理体制」はその後約30年近く続いた。辛亥革命や内戦(安直戦争、奉直戦争)の危機に対してはその都度臨時造兵で乗り切った。然し1920年代後半の北伐にともなう内戦の激化は、列強に駐屯軍の大幅増加か撤退を迫りつつあった。英国はすでに沿線警備から召喚しつつあった。山海関・秦王島(1925年)、豊台(1926年)から撤退していた。仏国も楊村(1926年か翌年)から撤退している。僻地に小部隊を駐兵するのは危険であったからである。1920年代の中国ナショナリズムは、まだ日本だけを対象としたものではなかった。それ故かろうじて列強駐屯軍は協調することが出来た。
(転換点としての第2次山東出兵)「済南事件」(1928年5月3日)で最初に北伐軍と衝突した部隊は天津駐屯軍の一部(3個中隊と機関銃隊)であった。ここから任務外の行動(任務の拡大)と兵力のなしくずしの増加が始まった。すなわち第2次山東出兵により日本軍は6000人となった。それまでは議定兵力の上限を意識していたが、それを拘束と見なくなる動きが一挙に進んだ。そして北京~海浜間の自由行動の維持という条約上の権利=任務を分担して共同で行うことが放棄されたのである。独自の行動を深める日本駐屯軍と儀礼的な役割しか果たせない列国駐屯軍。かくして駐屯軍のみならず北京外交団の機能も低下した。いみじくも中国国民党政府の王正廷外交部長は「公使団を単なる社交機関としては認めるが政治活動をなす団体としては認められない」(1930年7月9日)と言明した。外交部も「今まで黙認してきたが今後は絶対に認めない」と補足した。
(1936年の大増強)1936年広田内閣は駐屯軍を大幅増強した。それまでの歩兵10個中隊1771人を一挙に3倍の5774人に増加した。司令官を親補職の中将に格上げし、部隊を1年交代から永駐制とした。歩兵2個連隊に砲兵連隊、戦車中隊、騎兵中隊、工兵中隊を加えた特別旅団編成とした。天津には軍司令部と第2連隊(うち1個大隊は山海関)、北平(北京)には旅団司令部と第1連隊。その1個大隊は英国の撤退した豊台に駐屯した。かくして駐屯軍は任務以外の任務(華北分離工作)を行う軍となり、戦争の尖兵(盧溝橋事件)となったのである。
(その後の駐屯軍)戦うための軍隊に変貌した駐屯軍は1937年8月末日中戦争の本格化とともに廃止された。北支那方面軍に組み込まれた二つの連隊は天津租界の消滅にともない天津を去った(1943年7月)。また英国は1940年8月5日全面撤兵を声明し、18日より撤兵を開始した。
米国は1941年11月25日以降撤兵を開始したが、一部兵員が太平洋戦争開戦の12月8日に日本軍の捕虜となった。
 戦うための軍隊に変貌し、平和維持のための任務を果たすことが出来なかった「駐屯軍」。然し駐屯軍創設から40年におけるこの変貌は必然的なものではなかった。「他国に軍隊が駐留し、さまざまなことに直面した時、当初の任務とは別の役割が期待されるようになり、一歩対応を誤れば、矛先はその軍隊に向けられ、それがまた駐屯軍を変貌させていく」(本書P262)と著者は指摘するのである。

2015年11月30日月曜日

ミイラは何語を話したか?~楼蘭王国③

    「楼蘭王国」 赤松明彦 中公新書 2005年

 2004年新疆文物考古学研究所の発掘隊はタリム盆地東端の楼蘭遺跡から西南140キロの小河墓(エルデク共同墓地)で「新しい美女」と名づけられた「楼蘭型」のミイラを発掘した。エルデク共同墓地はヘディン隊の考古学者ベイリマンによって1934年発見され一部発掘されたが、戦乱などにより忘れさられた。その後王炳華によって再発見され、2003年から本格調査が行われていた。「楼蘭型」ミイラの特徴は次のように要約できる。
①棺は野生ポプラの幹でできた厚板で作られている。②棺は牛などの皮で覆われている。③ミイラ
の全身は羊毛の毛織の布で包まれている。④ミイラはフェルトの帽子をつけている。⑤副葬品としてエフェドラの小枝や小麦の種もみが置かれている。⑥副葬品として植物繊維の編み上げた小籠が置かれている。
発掘された「新しい美女」は以上の特徴を全て合わせもっていた。また「楼蘭型」には絹製品が副葬品として出土せず、これらの墓は土着の住民たちのものである。ベイリマンたちは、この地で発掘したミイラの年代をBC100年前漢の時代、中国の影響が及びはじめる直前の時代と考えた。然しそれは違った。古墓溝や鉄板河で発掘された「楼蘭型」ミイラの炭素14による年代測定値は実に3800~4000年前を示していた。そしてこのミイラはいずれも非モンゴロイドのコーカソイド(白人種)の容貌をもっていた。
 (白人のミイラはどこから来たのか)小麦と羊を機軸とするメソポタミアの混合農業が拡散を始めたのはBC5000年頃である。タリム盆地への伝番経路は西(バクトリアモデル)と北(ステップモデル)が想定されるが、現在では後者が有力である。ステップモデルはロシアのクズミナが提唱した。後発のアンドロノヴォ文化(BC2000年紀)に押し出されるようにしてアファナシェヴォ文化(BC3600年)がタリム盆地に流入したとする。タリム盆地の最初の移住者は、アルタイ地方のステップから天山山脈の低い峠を越えて南下し盆地東部に居住した。その時期はBC2000年頃。その場所こそタリム盆地で最初の混合農業の遺跡古墓溝である。
 (ミイラは何語を話したか)19世紀末ペリオやル・コックによってタリム盆地の北東部で最後の印欧語の一語派であるトカラ語が発見された(発見された文書は8世紀のものであり、トカラ語は9世紀には死語になっていた)。そして驚くべきことに、この最も東端で発見された言語は印欧語の中の最も西端のケルト語に近かった。このトカラ語の祖語(原トカラ語、印欧語の西側グループ)がその他の言語(東側グループ)と分離したのは、BC2000年紀を更にさかのぼる。ミイラとトカラ語を結びつける輪は、アファナシェヴォ文化であると著者は推定する。すなわちアフォナシェヴォ文化は、後続する新しい印欧語派のアンドロノヴォ文化によって、ステップ地帯を東に追いやられたのである。つまり、古いトカラ語と同じように西に起源を持ちながら東の端に孤立しているのである。そして何より後代の楼蘭王国では、土地の人々がトカラ語の特徴を残した言語を話していたという事実である。スタインが発掘したカーローシュティー文書の解読によれば、3世紀頃の楼蘭王国では王の命令は全て、ガンダーラ語でカローシュティーという文字で書き写されていた。また土地の売買文書や高官たちの私信も同様である。そのような文書に記された人名・地名・土地の言葉には、トカラ語の特徴的な要素を保った単語が多く残されている。この事実はミイラがトカラ語を話したことを補強し、ミイラが楼蘭人の祖先であることを推定させる。
 楼蘭領域内で発見されたカローシュティー文書の解読について著者ならではの鋭い指摘がある。第一は「法(ダルマ)の観念」についてである。古代インドのダルマは内在的な原理である。例えば宇宙の法則や、社会的な法律、人間にとっての道徳や習慣など。一方中国の法は皇帝によって支えられている規範や枠組み。クロライナ王の命令文書(3世紀後半から4世紀はじめ)の時期は、西晋の宗主権を認めながら、実質的には自治体制を保持していた時期であった。文書345のキラムドラ(楔型の木簡)によれば「ダルマ」は「各地方・州における慣習的・伝統的なやり方」であり、前者である。「3世紀から4世紀にかけての楼蘭王国は、明らかに漢帝国のような国家とは違った統治の観念によって支えられた王国」であったと著者は指摘している。そして第二「はカローシュティー文書の王のいた場所」についてである。文書に現われる「クロライナ」という地名が漢字で「楼蘭」と音写されたことは間違いない。ヘディンが発見したLA(楼蘭)がそのままクロライナではない。そこが楼蘭と呼ばれるようになったのはAD222年以降である。「鄯善」と改名(BC77年)以前の楼蘭は領域名であって、一つの地点の名前ではない。したがって「文書」の中に現われてくるような場所は王都ではない。「文書」に現われない場所、木簡などが発見されない唯一の場所ミーランが王のいた場所だと著者は推定している。
 然し第二の推定については疑問もある。LAが楼蘭と呼ばれるようになったのは魏の西域長史府が置かれたAD222年以降とする根拠についてである。それはLA出土の文書の紀年、遺物の年代値が魏晋(3世紀)の時期をさかのぼれないということに過ぎない。これについては稿を改めたい。

2015年11月15日日曜日

「私の1960年代」を読む

    「私の1960年代」 山本義隆 金曜日 2015年

 山本義隆がながい沈黙を破って東大闘争と自らの1960年代について発言した。それが本書「私の1960年代」である。山本が入学した1960年の東大駒場は安保闘争の渦中にあった。全学連主流派(ブント)の下安保闘争に参加した経験は、その後の山本の「60年代」の原点となる。その後大管法闘争を闘い、東大ベトナム反戦会議を結成して砂川闘争・王子野戦病院闘争にとりくむ。東大闘争が始まった時、山本は大学院博士課程の3年生26歳であった。そして行き掛かり上東大全共闘(代表者会議)代表になる。本書には山本の「沈黙」の謎をとく興味深い記述もある。
 (今井澄とML派)東大全共闘は「自立した個人の集まり」というように「神話化」されて語られるが、実情はいくつかの政治党派(セクト)と無党派(ノンセクト)活動家の複雑な関係であった。山本によれば「学部の党派は、率直にいって口先ばかり達者」で、「もっとも協力的・献身的であったのがML派」であるという。そして11月段階で今井澄(ML派)が提起した「帝大解体・帝国主義大学解体」のスローガンが東大闘争を一歩高めたと証言する。この方針によって中途半端な妥協をせず69年1月の安田講堂死守闘争まで進むことが出来たたのだとも。今井澄はその安田講堂防衛隊長であった。東大闘争の意義の一つは、それまでの運動が法案の上程や条約の締結をめぐり街頭闘争で国会に圧力をかけてゆく運動であったのに対し、「帝大解体」を云うことによって、社会的に構造化された権力機構に自分たちの場であらがってゆくという運動を展開したことだとしている。
 (加藤近代化路線」と「総長室体制」)東大闘争敗北の最深の根拠は東大全共闘独力で全学封鎖できなかったことである。戦術的には全学封鎖の突破口たる図書館封鎖を日共=民青の「都学連」行動隊によって軍事的に粉砕されたことである。それに対抗するにはセクトの全国動員部隊に頼るしかなかった。その敗北過程で登場したのが加藤一郎総長代行(総長事務取扱い)による「加藤近代化路線」の導入である。加藤は代行引き受けに際して、「評議会で意見が分かれた時、または緊急を要するときは、その決定の責任を総長代行に任せる」という「紛争収拾」のための緊急措置を要求した。そしてこの「非常大権」は総長就任にともない「総長室体制」として既成事実化された。すなわち上からピックアップされた「特別補佐」として2名の有力教授と「補佐」として若手の近代派助教授数名が「総長室」を構成した。これを政策や方針の決定のため私的なブレーンとして若干名の教授と文部省から出向している大学の事務官僚が支えた。かくして「総長室」が情報を独占的に管理し、すべてを取り仕切る体制=「加藤近代化路線」が完成した。学部長会議や評議会は単なる事後承認機関に成り下がった。文部省や中教審が意図してきた「管理」と「教育・研究」の分離を大学の側から先取りするものであった。併行して「学部自治」、「教授会自治」は解体していった。これは大学が国家の官僚機構の末端に包摂される端緒となった。そこから国立大学の独立法人化は一瀉千里であると山本は云う。
 (「産学協同」について)東大闘争の時点においても「産学協同」は工学部や薬学部では広く進められていた。当時「反産協」をスローガンに掲げる反帝学評のようなセクトも存在した。然し個別の研究室レベルではなく、大学の機構そのものにおける「産学協同」となると話は別である。例えば「週刊金曜日」(2015.5.29)は次のように報じている。「三菱グループから東大に2013年度1年間で3億6700万円が寄付されている。同大学の『総長選考会議』と『経営協議会』という組織の委員には三菱重工相談役が就いている。国立大学法人・東京大学の大学運営に私企業である『三菱』が深くかかわっている」このようなあきれる現実は、東大闘争圧殺の過程で登場した「加藤近代化路線」の行き着いた先だと山本は指摘する。
 山本は「安田講堂陥落」後逮捕状を請求され潜行、その後全国全共闘結成日の9月5日会場で逮捕される。全国全共闘議長山本の活動阻止を狙ったものである。保釈(1970年10月末)後、東大地震研の臨職闘争に参加し2度目の逮捕(71年3月)。保釈後駿河台予備校の講師を勤めた。
専門の物理学の研究は、学会とは縁を切って独力で続け、「磁場と動力の発見」(毎日出版文化賞)など多くの科学史関係の書物を刊行している。然し、なにより「68・69を記録する会」を立ち上げ全共闘運動の記録を残す活動に挺身した。とくにその白眉は東大闘争中のビラ・パンフ・討議資料・大会議案・当局側資料など5000点を収録した「東大闘争資料集」(1967~69.2)の刊行である。ゼロックス・コピーのハードカバー製本28巻とマイクロフィルム3本。山本は保釈後広松渉に「立場上、今後いつまでも注目され、いろいろな人からいろいろなことを言われ、大変でしょうけれど、ひとつお願いしたいのは、評論家のようなものにはならないでください」と云われたという。その言葉どうり、東大闘争について評論家のように語ることは自ら厳禁した。そのような山本の「沈黙」をたてに「全共闘運動」の総括を回避しようとする風潮があるが、それは明確に違う。山本の「東大闘争資料集」の刊行はそのような「風潮」に「NON]をつきつけている。

2015年10月26日月曜日

「統帥権の独立」について~昭和史の謎を追う⑩

   「張作霖爆殺」 大江志乃夫 中公新書 1989年

 晩年の司馬遼太郎が異常なほど情熱を注いだテーマは「土地問題」と「統帥権」である。とくに後者については執拗を極めた。「統帥権が日本を滅ぼした」、「統帥権が次第に独立しはじめ、ついには三権の上に立ち、一種の万能性を帯びはじめた」、「統帥権の番人は参謀本部で、事実上かれらの参謀たち(天皇の幕僚)はそれを自分たちが所有していると信じていた」としばしば述べている。「統帥権」と「統帥権の独立」の区別は必ずしも明確ではない。然し今や死語となった感のある「統帥権」を再発掘した意義は評価されてよいと現代史家の秦郁彦は指摘している。
 (「統帥権」とは)「統帥権」とは軍隊に対しての作戦用兵に属する指揮命令権を意味する。それは国務各大臣の輔弼責任に属しないただ一つの大権とされた。ちなみに明治憲法では天皇大権は第6条から16条まで以下のように範囲されている。①立法権(第6~9条)②官制および任命大権(10条)③統帥権(11条)④編成権(12条)⑤外交権(13条)⑥戒厳権(14条)⑦栄典権(15条)⑧恩赦権(16条)である。「統帥権」はA軍隊の処理権または指導権B軍隊の指揮命令権を意味すると考えられていた。この二つは別個のものであるが、AはつねにBに服し、その規制を受けると考えられていた(藤田嗣雄)。これが「統帥権」の二重性である。明治憲法ではAは編成権であり、Bは統帥権である。美濃部達吉は統帥権にAの軍隊の処理権を含まない考え方である。明治憲法は「統帥権」が輔弼責任外であることを保障していなかった。「統帥権」の憲法からの独立は、「内閣官制」および、その下位法令である「陸軍省官制」「参謀本部条例」、さらには陸軍部内の「内規」などによって担保されていたに過ぎないのである。
 (「統帥権独立」を支えた小道具)憲法11条に依拠する「統帥権」の独立は不安定なものであった。それを強力にサポートする小道具が必要であった。それが「帷幄上奏権」「軍部大臣現役武官制」、「軍令」の三本柱であった。いずれも法律、勅令レベルの保障だが、憲法に根ざす統帥権を支える強力な補助線となった。
「帷幄上奏権」とは大元帥の幕僚長(参謀総長)が、内閣総理大臣と独立して、統帥事項については大元帥に直接会って献策し直言することが認められていることを云う。ラインではなくスタッフに過ぎないので、決定権も執行権もない。参謀本部条例および陸軍官制によって定められているに過ぎない。
「軍部大臣現役武官制」1899年(明治32年)軍機保護条例が制定された。「軍機」とは「軍事上の秘密の事項又は図書物件で」ある。陸海軍大臣が他の国務大臣と違う点は「軍機軍令」に直接関与する職務であり、この職務につく資格があるのは現役武官でなければならないとされた。
「軍令」一般の行政に係る勅令は内閣総理大臣と主任大臣の副署を必要とする。軍は内閣官制第7条をたてにとって、軍令に属する勅令には主任大臣(軍部大臣)の副署だけでよいとする例外規定を定めることに成功する。(明治40年9月12日)これが軍令第1号「軍令に関する件」の制定である。
 (「統帥権」の独立)著者によれば「統帥権の独立は、明治憲法からの逸脱に逸脱をかさねてつくりあげられた絶対君主制的な時代逆行の制度」(P147)であった。その制度的完成は明治末期の山県有朋による強引な「軍令」の制定を画期とする。そしてこの「時代おくれの制度が息を吹きかえしたのは、軍部がみずから政治的主導権の掌握へと乗りだすため『古い河袋』としであった」(P147)と述べている。更に軍部にこれらの制度を十分に利用する機会を与えたのは、即位まもない昭和天皇の張作霖爆殺事件をめぐる処理にあったと指摘する。
 (「統帥権」独立はいかになされたか)張作霖爆殺事件(以下「事件」)は国務としてでなく、統帥権の問題として処理されねばならない案件であった。陸軍官制第1条によれば、陸軍軍人の人事・賞罰などの権限は陸軍大臣にあって内閣総理大臣にはない。「事件」をめぐる法制上の権限はどこにあったのか。「省部規定」によれば、関東軍に関する事項は参謀総長の主管業務に属し、陸軍大臣の権限外であった。田中首相が上奏した時、天皇が制度上とるべき手続きは、鈴木参謀総長に職権による「事件」の真相調査と結果報告を命ずることであった。参謀総長がこの命令を関東軍指令官に伝宣するとともに、陸軍大臣に通牒することによって、はじめて公式のものになる。陸相は参謀総長からの通牒があれば、陸軍軍法会議法にもとづき、陸軍省法務局長に命じて司法捜査権を発動しなければならない。それは職権にもとづく権限行使となり、捜査の指揮監督権は陸相だけに属し、参謀本部による「事件」のもみ消しは許されないことになる。陸相は捜査の経過・結果について、「重要な国際条件」に係るものであるから、逐一首相に報告し、その処分の決定は閣議を経ねばならない。然るに白川陸相が田中首相の意を受けて峯憲兵司令官行わせた調査は、いわば行政上の調査にしか過ぎない。これでは司法処分は出来ない。
 「統帥権」や「統帥権の独立」は帝国陸海軍の解体とともに死語となった。晩年の司馬はこの用語を歴史の墓場から発掘した。司馬にはこの用語にある種の危惧があったのかもしれない。司馬の「危惧」が杞憂に過ぎないことを願うばかりである。

2015年10月9日金曜日

長澤和俊の「変節」~古書の宝庫を訪ねてみれば⑧

     「チベット~極奥アジアの歴史と文化」 長澤和俊 校倉書房 1964年

 「シルクロード博士」としてマスコミで華やかな脚光を浴びた長澤和俊に本書「チベット」の著書があることを知る人は少ない。1928年(昭和3年)生まれの長澤は理工系の学校を卒業した後史学
を志した。1948年早稲田大学第二文学部に入学し、1957年同大学院博士課程を修了した。理系出身らしく明晰でかつ流麗な文章で書かれた「シルクロード」(1962年)、「楼蘭王国」(1963年)などの著作は多くのファンを持った。その長澤が「チベット」を書いたのは何故か。「あとがき」によれば、津田左右吉より中央アジア研究にとってチベットの重要さを指摘されたからだという。そして直接的には大村謙太郎より「西蔵大蔵経」刊行の付録としてチベット史の概説を依頼されたことが動機になった。1957年に西蔵大蔵経研究会より刊行された「ティベット史概説」は大村の著者名になっているが、長澤の草稿を大村が校訂したものである。この「概説」が本人名義で本書を執筆する基礎となった。
 本書の構成はプロローグとAチベットの社会と文化、Bチベット史概説、Cチベット現代史の3部からなっている。Bは「ティベット史概説」(以下「概説」)をそのまま踏襲している。章立ても同様である。すなわち①チベットの開国伝説、②チベットの古代、③吐蕃王国、④分裂時代、⑤ダライラマ王国の成立と発展、⑥チベットの近代、は「概説」の3章から8章までにそのまま相当する。内容は旧稿に負っているが、その後の研究を取り入れてやや詳しくなっている。ダライラマとパンチェラマの関係や、中国の宗主権問題、中印国境問題などは詳述されている。Aは著者の西部ネパール学術調査(1963年)における、西ネパール北部に住むチベット人の民俗学的考察に裏付けられて、「概説」よりはるかに豊富な内容になっている。
  Cは「概説」にはなく新たに書き加えられた部分で、本書のハイライトである。「概説」刊行後、1959年ラサでチベット動乱が勃発し、ダライラマがインドに蒙塵したことによる。著者は「チベットの動乱や中印国境問題は、いずれも歴史的に深い根源を持つものであって、その解明には多くの努力を払った」(P291)としている。そして動乱の原因は①1912年のダライラマ13世のチベット独立宣言と②1914年あいまいに終わったシムラ会談(中国側は「チベット問題草案」調印を拒否、然し「草案」には中国の宗主権は明記されている)にあるという。「動乱」に対し全自由主義国は「第二のハンガリー事件」として「中共のチベット侵略」を非難したが、著者は中共のとった政策は国際法上、不当でも非合法でもないとする。そして「今回のチベット動乱によって、ダライラマ以下の封建勢力がインドに亡命した結果、土地や農奴の解放がおこなわれたことは、チベット史全体からみても一つの進歩が認められる」(P277)ともいう。然しながら疑問点もあるとする。すなわち①宗主権の確認がすべて軍事力によって裏付けられていること、②動乱は必ずしも特権階級が特権擁護のため武装蜂起したものではなく、チベット民族独立運動の意欲が見えるとする。
 長澤は初期の著作「シルクロード」(校倉書房1962年、同増補版1975年、講談社学術文庫1998年)、「楼蘭王国」(角川新書1963年、レグルス文庫1976年、徳間文庫1988年)、「敦煌」(筑摩グリーンベルト1965年、レグルス文庫1974年、徳間文庫1987年)などは度々改訂版を刊行している。自説の変化した部分や研究水準の進んだ部分を取り入れるなどしている。講談社版の「シルクロード」などはほとんど面目を一新している。その長澤が何故本書を絶版同様にしているのか。専門でもないチベット現代史を書くことに限界を感じたということもある。更に重要なのは状況の変化である。日中国交回復(1972年)以前なら、何を書こうと、少々筆がすべろうと問題はなかった。シルクロード(タリーム盆地)調査など夢にしかすぎなかったが、以降は全く違う。楼蘭遺趾探訪(1988年)やニヤ遺跡踏査(1980年)をひかえていた早稲田大学教授長澤和俊にとって、本書は極めて「危険」な書であったに違いない。チベットは中国の核心的利益そのものである。「シルクロード史観」論争で述べた東西交渉史や中国西域経営史の立場に立つ論者の「危うさ」とはいみじくもこれである。つくづく本書の改訂版がでなかったことが惜しまれる。

2015年9月28日月曜日

「シルクロード史観」論争その後③

   「東西ウイグルと中央ユーラシア」 森安孝夫 名古屋大学出版会 2015年

 かつての「シルクロード史観」論争にあえて「喧嘩を買って出た」森安孝夫の論文集が出版された。著者は「シルクロード」という術語と概念について、自らは「論争」の一方の当事者であったので、論争の経過に関するレファランスを挙げるだけに留めるとしている。そして間野英二の自著「シルクロードと唐帝国」に対する書評が「一方的で生産的でない」ので、具体的反論をおこなわず、「審判は第三者および後学に委ねる」と述べている。然し「シルクロード」の定義を次のようにしている。シルクロードを線ではなく、シルクロードネットワークで覆われた地域とみなし、前近代という時代性を持った「シルクロード世界」として提唱している。すなわち「シルクロード世界とは前近代中央ユーラスア世界のことである」と。
 (論争の経緯)「論争」の経緯を簡単に振り返ってみよう。間野は1977年「中央アジアの歴史」で所謂「シルクロード史観」を批判した。日本の中央アジア研究は、シルクロードの東西交通を重視する立場であり、かつ中国西域経営史に他ならない。然し現地史料によれば、中央アジア住民にとって東西交通や中国は関心外であり、それについての記述は皆無であるとし、「シルクロード」という概念に疑問を呈した。これを正面から批判したのが護雅夫(「草原とオアシス」1984年)である。然しこの批判を間野が黙殺したため、「論争」は継続せず、すれちがいで終わった。その後森安が「シルクロードと唐帝国」(2007年)で現地史料の解読により、間野が否定した「オアシス商人」の存在を確認できたと反論した。これに対し間野は書評(「『シルクロード史観』再考」2008年)で森安を反批判した。然しその内容は①「シルクロード」という術語を研究論文で使用することには賛成しないが、その他は自由である②イスラム化強調については、地域によって状況が異なるとややトーダウンした。
 (何故「論争」は起きたのか)1960年代末から、マスコミなどの安易な「シルクロードブーム」とそれに加担する一部の史学者に対する不満が中央アジア研究者の中に徐々に高まっていた。間野が直接批判の対象としたのは松田寿男の論考であったが、本当に批判したかったのは長澤和俊である。当時長澤は中央アジア踏査や、多くの「シルクロード」関係著作の出版などタレント教授として脚光を浴びていた。「シルクロード」などの表題のついた一般書を出す長澤は、マスコミに迎合する最もたる者と思われ、かつ松田の門下でもあった。それに対する批判は学術論文では不適当であり、一般書である新書版「中央アジアの歴史」での批判となったのである。「論争」はいわば屈折した形で始まった。このように「論争」は多分に表層的、感情的な原因が発端になったのであり、深化すべくもなかた。間野の反論がトークダウンする所以である。
 (審判の行方)森安のいう「第三者」たる吉田豊は「シルクロードという言葉を使うことに対する一連の批判には傾聴すべき点も多い」と留保をつけながら以下のように述べている。すなわち現地史料が希薄なイスラム化およびモンゴル以前の中央アジア研究と、史料が豊富になるそれ以降とでは研究対象が本来異質である。後者からの批判は必ずしも適当ではない。東西交渉のメインルートが海洋に移るまでは、中央アジアの交通路は世界史的意義があった。「前近代の内陸路としての『シルクロード』という概念の有効性を勘案すれば、学問的にこれを利用する手立て」を考えるべきだとしている。(吉田豊「ソグド人の交易活動の実態」)いずれにしても「論争」があぶり出したのは「史観」派・批判派を問わず論者たちそれぞれの立場の困難さであった。例えば長澤和俊の場合については続稿で検討する。
 ともあれ本書所収の森安の諸論文については、第一編の「ウイグルから見た安史の乱」、「西蔵語諸史料中に現われたる北方民族」、「吐蕃の中央アジア進出」、「増補ウイグルと吐蕃の北庭争奪戦及びその後の西域情勢」などは「シルクロードと唐帝国」の下敷きになった重要な論考である。とくに「増補」などはそれなりに面白いが、やや古さを感じさせる。かつての「大宛国貴山城」論争を思わせる。これを間野は「30年前の研究視角」と感じたのかもしれない。

2015年8月30日日曜日

アムネマチン初登頂~古書の宝庫を訪ねてみれば⑦

   「アムネマチン初登頂」 上越山岳協会 ベースボールマガジン社 1982年

 かつてエベレストより高いと思われたアムネマチンは最近まで謎の山であった。1960年中国の北京地質学院隊がベースキャンプで測定した標高は7160米。この標高は正確ではなかった。海水面ゼロメートル基準を元にした高さではなかったのだ。その後6282米に訂正された。また北京地質学院隊が登頂したとされる峰は主峰ではなく、その南に位置するⅡ峰(6268米)であった。これは1980年青海省登山協会によって明らかにされた。そのアムネマチン主峰に初登頂したのが、本書の編者渡辺義一郎(副隊長)ら上越山岳会協会アムネマチン峰友好登山隊(以下上越山岳協会隊)である。1981年5月22日のことである。
 1981年当時のアムネマチンへの行程はどのようなものであったのか。北京から青海省の省都西寧まで2098キロを鉄道で移動している。北京を夕方に出発した急行は3日目の昼頃西寧に到着する。現在なら飛行機で北京ー西寧は2時間10分である。登山隊は西寧から中型バス1台(隊員16名)と2トントラック1台でマチュン(瑪心 大武)に向かう。1泊2日の行程である。マチュンの正式名称は瑪心県大武であり、標高は3770米。チベットのラサと同高度である。ホテルの他に劇場、病院、郵便局、書店や商店・露店があり、人民解放軍が駐屯している。そして車で半日行程の登山の基地になる雪山公社に至る。雪山公社(村)は人口千人余り、戸数二百、牧畜専門。ヤク、羊、馬、牛など7万頭、鹿が250頭いるとある。
 雪山公社からは徒歩のキャラバンになる。BCは高原状の河岸段丘を登ったところ、標高4500米に設置される。雪山公社からBCまで1日行程。これは馬に乗ってのことで、徒歩なら2日の行程である。C1予定地区に登るルートはハロン1号氷河の右俣左沢である。氷河左岸のモレーンの上をあえぎながら登り、サイドモレーンの終了点からガレを下って氷河に降りる。クレパスの上に雪がかぶって隠されているヒドンクレパスがあり、危険きわまりない。氷河の奥まった二段目の台地の上にC1を設置する。標高は5175米。主稜線は目の前である。C2へのルートは主稜線最低鞍部(コル)へ抜けるもので、稜線上から氷河に降りている細い雪稜を登らねばならない。C2の標高は5700米。頂上アタック隊は渡辺副隊長と山本芳雄、三宅克巳の3名。7時15分C2を出発。主稜線に出るまでは急な雪壁で、苦しい登りの連続である。坊主ピーク(5977米)を経て頂上へ続く広い主稜線を行く。「主稜線の西側は、はるかチベットまで見えそうに頂上のあたりだけに雪をつけた小さな山々が連なっている。眼下には黄河源流地帯の星々海の小さな湖が2か所にかまって見えている。(中略)二つ目のピークは三宅隊員の高度計で6000米あった。(中略)きのうまで主峰でないかと思っていた北方の岩稜から主稜線に続く三角ピークと、その隣のおまんじゅうピークは進むにしたがって低く見えだす。その手前のなだらかな雪稜の、大きな雪庇をもつ右部分の高い所が主峰だろうと話し合う。(中略)私たちは東面へ張り出す雪庇を避けて西面寄りを登っていく。(中略)やがて広い雪原に出た。登りはそこで終わった。」そこがアムネマチンの頂上であった。アムネマチン主峰の初登頂は1981年5月22日12時10分である。
 本書にはアムネマチンの山名について興味深い記述もある。「アムネマチン」の山名を中国語で書くと「阿尼瑪卿」となる。中国語で発音すると「アーニエーマチン」。「アムネマチン」の語源はチベット語で「アムネ」は「老人」、「マチン」は「活仏の従者」を意味する。東京外大の星教授によるとラサ方言では「アニエマチン」、現地青海省のチベット方言では「アムネマチン」になるという。そして登山隊は現地で「アムネマチン」と発音されることを確認した。
 本書については更に印象深いこともある。アムネマチン初登頂(1981年5月)、本書刊行(1982年1月)はどのような時期であったのか。それは日中国交正常化(1972年)、日中友好平和条約締結(1978年)後の友好ムードあふれる時期であった。たとえば北京での歓迎宴では、乾杯は続き、「田中先生(田中角栄)のためにもj乾杯」し、終わることのないありさまだ。また高山病にかかった内薗隊員はマチュンの人民病院に入院して手厚い看護を受けている。束の間の友好期であったが、現在からみれば隔世の感がある。まだ人民公社というものが存在していた。雪山公社がそうである。人民公社が完全に解体されたのは1985年である。そして中国政府が「教科書検定問題」で日本政府に抗議したのは、本書刊行の半年後の1981年7月であった。

2015年7月16日木曜日

「『昭和天皇実録』の謎を解く」を読む

  「『昭和天皇実録』の謎を解く」 半藤一利他 文春新書 2015年

 「昭和天皇実録」は宮内庁が24年5か月をかけて編纂した1万2千頁にのぼる大冊である。この膨大な「実録」が今年(2015年)3月最初の2巻が刊行された。今後5年をかけて全19巻が完結する。「あの暗い時代に、昭和天皇がいかに苦悩し、苛立ち、あらゆるものと戦わねばならなかったのか。注意深く『実録』を読めばよむほどに、それがよくわかる」と本書の著者半藤一利は述べている。本書はこの長大な「実録」を読むための勘所を与えてくれる。
 昭和天皇には三つの顔があった。①立憲君主としての顔、②陸海軍を統帥する大元帥としての顔、③両者の上位にさらに、皇祖皇宗につらなる大祭司であり神の裔である「大天皇」がいた。立憲君主としての天皇の最初の試練=挫折は張作霖爆殺事件である。時の総理大臣田中義一の食言に対し辞職を迫った天皇は、元老西園寺公望から強く戒められた。たとえ意に沿わなくても、閣議で決められたことに「ノー」は云えないと。何よりも昭和天皇は軍人として育てられた唯一の天皇であった。11歳で陸海軍少尉となり、大佐までいって、大正天皇が崩御したのち大元帥となった。
軍は「統帥権の独立」をタテに、この立憲君主と大元帥の相克を利用した。その最もたるものは満州事変とその拡大過程である。これは太平洋戦争末期まで続いた。天皇の悩みは深かった。「実録」によれば太平洋戦争末期、特攻の報告を受けた天皇は「そのようにまでせねばならなかったか。しかし、よくやった」とという言葉を残している。前者は立憲君主としての言葉であり、後者は大元帥としての言だと半藤は解釈している。そして天皇は二つの顔をもっていることに極めて自覚的であり、それがまた苦悩を生むことになったとも。
 天皇は現人神に祭り上げられていたことには不満をもっており、それを語っている。然し現人神ではないが、神の末裔であるとは考えていた。これが皇祖皇宗に連なる大祭司であり神の裔という観念である。終戦のおりの「聖断」はこれによって説明される。この場合陸軍と天皇の「国体観」は微妙に違う。陸軍(国民)にとっての「国体」護持とは、武装解除されないこと、戦争責任をとらされないこと、賠償金を支払わされないことである。然し天皇の考える「国体」とは「三種の神器」すなわち皇祖皇宗の問題であった。
 「実録」は「さりげない描写や行間から、昭和天皇の息づかいや生身の肉声が聞こえてくるように思えた」と保坂正康は述べている。本書はこの長大な「実録」を読むうえでの、迷路に踏み込まないための指針を用意してくれる。

2015年6月18日木曜日

茶馬古道を行く~雲南からチベットへ

  「アジアの秘境 ゆったり紀行」 二村忍 七つ森書房 2012年

 中国からチベットのラサに至るには古来より三つのルートがあった。第一は青海省の西寧からタンラー山脈を越えてゆくルート。現在の西蔵鉄道はこのルートに沿っている。第二は四川省の成都から西行して川蔵公路をたどるルート。そして第三が雲南省の北西部から川蔵公路・南路を通ってラサに至るルートである。雲南の北西部はチベットの東南部に接するが、金沙江(長江)、瀾滄江(メコン川)、怒江(サルウィン川)の三江が至近の間を南北に並流し、急峻な横断山脈が東西交通を阻害してきた。然し昔から茶馬古道として使用されたように、距離は最も短い。それ故中国共産党はチベット独立運動に干渉するため、この地域に川蔵公路・南路(国道318号)、滇蔵公路(国道214号)を整備してきた。本書第2章「雲南・チベット 茶馬古道・ラサへの道」は、このルートをツアーガイドとして旅行した著者の記録である。
 雲南西北部からチベットに入る旅の起点は昆明である。昆明から大理を経由し麗江に至る。麗江はかつての木氏(ナシ族)王国の都である。麗江から国道214号線をシャングリラを経て徳欽に到着する。(麗江→シャングリラ180キロ、シャングリラ→徳欽190キロ)この当たりは横断山脈の間を金沙江、瀾滄江が170キロにわたって並流する「三江併流群」として世界遺産に登録されている。ここの標高差は760米の怒江峡谷から梅里雪山[6740米)まで6000米にも及ぶ。徳欽はかつて阿敦子と呼ばれた辺境の寒村であったが、茶馬古道の重要な中継地でもあった。住民の多くはチベット族である。徳欽から塩井(ツァカロ)は100キロ。ここからチベット自治区に入る。すなわちチベット自治区芒康(マルカム)県ツァカロである。ここではメコン川の標高は2450米。町は東岸の300米ほど高い段丘上にある。ツァカロの入り口には検問所がある。とくに2008年のラサ騒乱以降は、外国人のチベット入境を厳重に取り締まるようになった。個人客も旅行会社通じて許可証を得なければチベットに入境できない。団体客でさえ、陸路でのチベット入域は厳しく、旅行許可証以外にも軍や公安の許可証を取得しなければならない。著者によれば本書の旅を催行した09年を最後として、10年以降はここからの入域は禁止されているという。塩井にはメコン川の両岸に沿って塩田がある。川に沿った井戸には、かつて海底であったための塩分が地下水に混じって出てくる。ここの塩は「桃花塩」と呼ばれ雲南では高値で取引される。
 塩井を出て112キロで県庁所在地のマルカム(芒康)にいたる。標高は3870米。政庁の建物やミニスーパー、食堂、招待所がある。高度は一気に上がり、5000米級の峠を越える。そして怒江峡谷をぬければ八宿に着く。ラサまでの経路は以下である。八宿(パシュ)→然鳥(ラウォ)90キロ→波密(ポメ)130キロ→八一(パーイー)240キロ→ラサ400キロ
ラウォからポメのあたりはチベットのアルプスと称されるカンリガルポ山群や氷河がある。2009年11月神戸大・中国地質大(武漢)の合同登山隊が標高6805米のロプチン峰(KG-2峰の登頂に成功している。
 現在外国人のチベット自治区への旅行は、①旅行会社の募集するツアーへの参加②旅行会社へのツアーの手配依頼のどちらかでなければならないと厳格に措置されている。さらに自治区内の全行程をガイドとともに、車(バスは利用不可)で行動しなければならない。また自治区への旅行には「TTBパーミット」と呼ばれる「入域許可証」が必要になる。このほかラサ以外の場所を訪問するには「外国人旅行証」も必要になる。なお本書では2010年以降塩井からの入域は禁止されていると著者は述べているが、現在どうかはわからない。インターネットなどで、中国人になりすましてのこの地区からの入境が報告されているが、これは危ない。

2015年5月20日水曜日

ビェンチャンに消えた辻政信~昭和史の謎を追う⑨

  「蒋介石の密使 辻政信」 渡辺望 祥伝社新書 2013年

 1961年(昭和36年)4月21日朝ビェンチャンの西北端からルアンプラバンに至る13号公路を北に歩く黄褐色の衣を着た日本人僧侶がいた。元陸軍参謀の参議院議員辻政信である。北方5キロにはパテト・ラオ陣地に案内してくれるラオス人僧侶が待っている。この出立を見送ったのは金城辰夫(駐ラオス大使館員)と赤坂勝美(東京銀行ビェンチャン支店)の二人である。辻が目撃された最後であり、その後杳として行方が知れない。辻は参議院に公用旅券発給を請求し、インドシナ視察(4月4日~5月15日 南ベトナム、カンボジア、タイ、ラオス、ビルマ)と称していたが、実はラオスから北ベトナムへの潜行を企てていたという。現職の国会議員の身でありながら、何故再び「潜行三千里」ルートの潜行なのか。ビェンチャンからジャール平原に潜入し、北ベトナムのハノイに行き、ホーチミンにベトナム戦争をやめさせるよう説得するというのである。
 その後の辻の足跡は断片的な証言などから、わずかにたどれる。
①辻を案内したラオス僧は4~5日して帰ってきた。辻をパテト・ラオの部隊に預け、その後護衛  つきで奥地にむかったという。(赤坂証言)
②中国人難民によれば辻はバンビエン(ビェンチャン北方120キロ)で6月7日頃までに数回目撃されている。(外務省稲田繁東南アジア課長)
③辻はバンビエンからアントノフ機でジャール平原のカンカイに向かった。辻のパスポートを確認し、通行証にサインした。(中立派フェン・フォンサバン内相証言 サンケイ新聞野田衛記者)
④辻はカンカイでパテト・ラオに軟禁された。華僑の楊光宇によれば6月中旬から下旬の20日間である。
⑤辻は6月のある日パテト・ラオの指導者スファヌボン殿下と会見している。夫人に真珠のネックレスを進呈している。(サンケイ新聞野田特派員)
ここで辻の足取りは途絶える。
 然し2005年に公開されたCIAファイル(「CIA日本人ファイル 第12巻」現代史料出版 2014年)はCIAが辻について調査した驚くべき情報を明らかにした。なんと辻は蒋介石のスパイになることと引き換えに戦犯を免罪されたというのだ。そして著者は本書では、辻は戦後スパイになったのではなく、戦時中からそうであったと推論する。シンガポールの華僑虐殺など悪行はその最もな「手土産」であったとする。
 さらにCIAファイルは辻の「失踪」の新事実も明らかにする。辻はカンカイから雲南共産党の手引き(拉致)で北京に行き、10日間ほどの滞在期間中、中国共産党幹部に接触している。中共は辻を思想改造したあと、エージェントとして利用し、党の東南アジア戦略企画部長のポストを与えようとしていた。だが思想改造の段階になって、辻と共産党の間に致命的な齟齬が生じたという。中共の思想改造の過酷さは、辻が知る日本憲兵隊の比ではない。辻が耐えられるはずもない。客人から囚人に転落したのだという。著者はCIA文書の「改造」という言葉にひっかかるという。何故「齟齬」が起きたのか。それは共産党の思想改造の過酷さだけではない。国府のスパイであると同時に、CIAファイルが決して明らかに出来ないこと、すなわちCIAのエージェントであることが露見したからではないのか。そして辻の運命は決まったのである。
1969年6月28日東京家裁は辻政信に1968年7月20日付の死亡宣告を出した。

2015年4月30日木曜日

「証言 連合赤軍」を読む

   「証言 連合赤軍」 連合赤軍事件の全体像を残す会編 皓星社 2013年

 「連合赤軍事件の全体像を残す会」が2004年より発行してきた小冊子「証言 連合赤軍」が膨大な関係者へのインタビュウーなどを再編集して刊行されたのが本書である。本書の「証言」には貴重で興味深い記述もある。 たとえば「世界同時革命論」のブント赤軍派と「一国革命論」の革命左派の連合たる連合赤軍は異質の集団の野合と一般には思われていた。然し本書を忠実に読めば両者は同根の組織から派生したことがわかる。とくに豊浦清の証言は謎に満ちた革命左派誕生の秘密を明らかにして貴重である。
 60年安保後、機能停止した社学同は1962年9月再建大会(味岡委員長)を開催した。然し翌63年10月にはマル戦派と反マル戦のML派に分裂した。このML派内の多数派(さらぎ派)は独立派(65年3月)、関西派(65年7月)と社学同統一派を結成した。残ったML派は後にML同盟(68年10月)を結成する。この新ML派から66年6月ころ「警鐘派」が分離した。河北三男(社学同ML派委員長)によって密かにフラクを作り、なんら公開的な路線論争もすることなく機関紙「警鐘」を発刊した。この河北の手口が、後の革命左派の陰湿なイメージを決定づける第一の根拠となった。この時期、中国文化大革命の影響もあり、ML派、警鐘派は次第に毛沢東路線に近づいた。68年3月警鐘派は神奈川県の日共左派グループと日共神奈川県委員会左派(準)を結成した。日共の地下活動時代のスタイルを習得するなどし、これが警鐘派の第二の転機になった。その後69年4月、日共左派との統一を解消して、革命左派(日共神奈川県委員会革命左派)を名のるようになった。この時点で革命左派の指導権は河北より川島豪(元マル戦派)に移っていたという。革命左派は中共派のイメージが強いが、出生はれっきとしたブントである。
 塩見孝也インタビュー(90年3月10日)中の三戸部貴司(元三派全学連書記局員)の発言も興味深い。「本来なら社青同解放派でいえば山本浩司とか高橋孝吉かな、あの当時三派全学連を形成していた、あるいは成島忠夫とか成島道官とか、あの連中、あるいは中核だったら吉羽忠とか秋山勝行とか、そのへんのレベルがね、各党派それぞれ出てきて、被告を支援するという意味じゃなくて、連赤裁判全体をある程度みていくことが必要だったと思う。連赤は新左翼運動の鬼っ子だから、当然の帰結であったかもしれないわけでね。」(本書P408)成島忠夫はその後参加している。ブント系は各派閥の元領袖は三上治(叛旗派)、荒岱介(戦旗派)などほとんど「会」に参加している。参加していないのは山内昌之(戦旗派)くらいだ。
 革命左派の雪野健作によれば山岳アジトの日常は「食べ物はあまりまともなものがなくて、お金がなかったので、押し麦を炊いて、ラーメン等は非常にご馳走の類に入るという生活」と回想される。たまに日中友好商社からカンパが入ると「中国製のアヒルの缶詰、サバの缶詰、ザーサイをぶち込んだ雑炊」に歓声が上がったという。然し赤軍派の植垣康博には、こういうメニューは「粗食に耐える」という精神主義が濃くなったと思える。革命左派と赤軍派の体質の違いがうかがえる。然しなんという貧しさだろうか。現在ほど豊でないにしろ、当時は昭和元禄の時代である。やはりこういう記述に出会うと胸がつまる。

2015年4月13日月曜日

「ビルマ・ハイウェイ」を読む

   「ビルマ・ハイウェイ」 タンミュウー  白水社  2013年

 中国雲南省の西部からビルマ北部を経由してインドのアッサム州に至る地域は、ほとんど通行不可能なジャングル、死に至るマラリヤの猛威、猛獣、横断山脈による険しい地形によって人間の侵入をこばんできた。紀元前122年、前漢の武帝は中国から南西にぬけてインドに達する「幻のルート」を探るべく特別使節団を派遣した。現在の四川省を出発し、ようやく昆明のあたり(滇王国)に着いたが、そこから先は蛮族に阻まれて目的を達することが出来なかった。以来二千年、日中戦争中の「援蒋ルート」まで話題にもならなかった。然し近年中国から、広大な内陸部をインドにつなごうという構想が出てきた。(ベンガル湾からビルマを横断して中国に至る天然ガスパイプラインは2013年に完成した。)インドも東方政策をとり、ビルマ経由で古くからの極東との関係を強化しようとしている。第二次大戦中連合軍が造ったスティウェル公路を再び開通させようという案まである。現在この地域には1億5千万人が暮らす。その隣のバングラディシュと西ベンガル州には2億3千万人。反対の中国の四川盆地は8千万人、重慶特別市には3千万人がいる。この地域から入るアジアは、いわば「裏口から入るアジア」だと著者はいう。著者は何を見たのだろうか。
 (東部国境では)1989年ビルマ共産党が崩壊した。コーカンの町にいた部隊が漢人の司令官彭家声に率いられて謀反をおこしたのが発端である。彭は麻薬取引に関わっており、マルキストというより傭兵に近かった。謀反は数日中に広がり、共産党本部を占拠した。ビルマ軍はアヘン王ローシンハらの協力をえて、すべての共産党反乱軍組織との間で停戦協定を結んだ。そして共産党反乱軍は「ミャンマー民族民主同盟軍(MNDA)]に再編された。停戦協定から20年後の2009年8月「コーカン事件」が起きた。ビルマ軍はコーカンに侵入、2万人の難民が中国側に逃げ込んだ。コーカンはビルマ国境、瑞麗から東数十キロのところにある漢人の集落である。住民はすべて、中国地域から入ってきた開拓民と盗賊の子孫である。
 (西部国境では)アッサム解放統一戦線(ULFA 1979年設立)は1980年代、東方の反乱組織と接触するようになった。就中ビルマのカチン民族独立軍(KIA)は武器を提供し訓練を助けた。ULFAはマンダレーから北東に400キロ離れたビルマ軍の支配の及ばない丘陵地帯に基地を置いている。中国人やワ人からなる密輸業者のネットワークが雲南やワ州連合軍地域から武器を持ち込んでいる。ULFAの最高司令官パレシュ・バルアはビルマ・雲南国境のどこか、瑞麗にいるといわれている。ULFAともう一つの有力な反政府組織ナガランド民族社会主義評議会(イサークムィヴァ派)は2011年インド政府と和平交渉を開始した。
「長らくインドと中国を隔てていたかつての辺境は消えかかり、その変わり国と国が出会う新しい交差点が生まれようとしている」(本書P346)と著者には見えた。
 著者はビルマ人のビルマ史専門家で、かつての国連事務総長ウ・タントは祖父にあたる。ティンセイン大統領の諮問評議会の評議員で、現在進行中の自由改革の主流にいる人物である。欧米の経済制裁が解除され、投資や開発援助が進めば貧困が削減して中産階級が増え、民主政府の基盤ができる。また少数民族との対話が進み、辺境地域での武力紛争が終わると主張する。(本書の原書が刊行されたのは2011年の初秋である。)著者の予想は当たったのか。政治体制・経済の分野では周知のとおり大きな前進があった。然し一方新たな紛争の火種もおこっている。今年(2015年)2月9日にはシャン州コーカン地区でMNDAとビルマ軍との戦闘で150人以上の死者がでている。さらに2月13日ビルマ軍機の爆弾が雲南省臨倉市に着弾し、中国人4人が死亡するなどし、中国ービルマ関係は悪化している。

2015年3月23日月曜日

「万里の長城」~古書の宝庫を訪ねてみれば⑥

   「万里の長城」 植村清二 中公文庫 1979年

 かつて旧制高等学校には「名物教授」という存在があった。「学問がよく出来て、一風変わった脱俗の趣のある、そして人格的に魅力に富む先生のことである」と丸谷才一は云う。その丸谷が入学した旧制新潟高等学校には植村清二がいた。「当時この学校で最も人気のある教授は、東洋史の植村清二先生であった。いや、単に新潟高校の名物であるだけでなく、新潟という街全体の名物であったと言うほうが正しいかもしれない。その広い学識、その巧妙な話術、その辛辣な毒舌、その特異な風貌は強烈な印象を与えたし、かてて加えて、作家、直木三十五の実弟であるという条件は、奇妙にロマンチックな翳をその身辺に添えたのである。」(本書P289 丸谷解説)
 植村の講義はどのようなもであったのか。旧制高校の講義は50分単位だが、植村の講義は各回が50分の枠にキッチリと収まっていた。例えば秦の時代を扱う回の終わりなら、「何よりもふさわしいことでなければならぬ」としめれば、その時正確に終了のベルが鳴ると丸谷は回想している。植村の講義はもう受講できないが、本書でその部分を再現してみよう。第6章「支那の名称とその起源」は次のように始まる。「支那民族が黄河の流域に占拠した時、その付近に異なったいくつかの民族が存在して、蛮、夷、戎、狄などの名で呼ばれていた。(中略)支那民族が多くの国邑に分かれながら、なお諸夏もしくは中夏というような共同の観念を持っていたのは、全くこうした異民族との対立を意識していたからに外ならない。」(本書P32)そして外国が中国を支那と呼ぶのは、秦に由来することを、諸説を批判しながら以下のように結ぶ。「著者は秦の滅びた後に番禺に拠って独立して、百年近くも嶺南に君臨した南越が、南方民族から引き続いて秦の名で呼ばれ、やがてそれが西方に伝えられたのであろうと想像する。著者の想像の当否は別として、支那の名称が秦から出たことは、疑いを容れない。秦の王朝の名称が、永く国家の名称として呼ばれるようになったことは、支那帝国の建設者たる始皇帝に取って、何よりふさわしいことでなければならぬ。」(本書P37)
 本書のオリジナルが刊行されたのは新潟高校教授時代の戦争末期1944年である。著者の後記によれば「一般教養を目的にしている」が、「学界に承認された範囲内で、支那史広く東亜史に関する新しい研究の結果を、適当に配列することに力めた」ともしている。タイトルを「万里の長城」としたのは、「おのずから支那民族と塞外民族との問題に、若干の力点を置いた」からだと述べている。また記述を清朝中期で終えているのは、それ以降のヨーロッパ勢力に対する支那民族の自覚(第2部)、新支那社会の成立(第3部)という続編を構想していたからである。植村は教壇で常々本書を「ベストブック」と胸を張っていたというから、快心の一作であったのだろう。本書のオリジナルは創元選書だが、この中公文庫版も現在では品切れになっている。なお「万里の長城 大世界史③」(文藝春秋社 1967年)は同名異本である。

2015年2月25日水曜日

西北研究所は日本帝国主義の走狗か~昭和史の謎を追う⑧

   「回想のモンゴル」 梅棹忠夫 中公文庫 1991年

 梅棹忠夫は「一生のうち、もういっぺんだけいってみたいところ」として「張家口、大境門外」と「わが心のふるさと~海外版」に記している。そして張家口(内モンゴル自治区)は次のように回想されている。「町の北を万里の長城がはしっていた。(中略)長城には門があり、大境門といった。それが中国の文明とモンゴルの未開をむすぶ連絡口だった。(中略)北の草原からは、らくだのキャラバンがおりてきた。それは遠い砂漠のかなた、ハミやトルファンなどという町からうりやほしブドウをはこんできた。そして、衣類や日用品などをつみこむと、また草原へかえってゆくのだった。」(本書P217)張家口は当時日本の傀儡「蒙彊政権」の首府であった。その張家口に「西北研究所」はあった。
 1943年大東亜省の大使館が張家口に設けられ、翌44年にその付属機関として西北研究所が設立された。もともとあった蒙古善隣協会の調査部を母体にして新たな研究機関として設立されたのである。発起人は蒙古文化協会の江実。「純粋にアカデミックな研究所として、中国の西北地区すなわちモンゴル以西の内陸アジアの本格的研究をはじめよう」というものであった。機関長(理事長)は土橋一次(蒙古善隣協会理事長、陸軍予備役中将)、所長は京大生態学の今西錦司、次長は民族学者の石田英一郎。文系の主任として藤枝晃、理系の主任として森下正明がいた。プロジェクトとして今西・梅棹の「モンゴル研究」と佐口透・岩村忍の「イスラム研究」があった。然し活動期間が短く充分な成果はあげられなかった。
 然し何故敗色の濃くなった1944年になって、張家口に生態学の研究所として西北研究所を設立したのか。土橋機関長は、「西北研究所」を表看板にしながら、実際は調査部を作ってソ連の情報を分析するために対敵貿易を構想していたと藤枝晃は推測している。西域経由で運送されてくる荷物を包んでいるウイグル語新聞から情報を得ようとするものであった。これは特務機関が実際に行っていたもので、それを西北研究所に移管しようと考えていた。実現には至らなかったが、その設置には極めて軍事的色彩の強い目的が付与されていた。特務機関と西北研究所は直接関係はないけれども、調査研究や実施の段階では無縁であったわけではない。1944年の今西・梅棹のモンゴル探検のプロジェクトや磯野夫妻の西ウジムチンでの住み込み調査などでは「便宜」を受けていた。研究テーマや調査内容については各自で自由に設定したとはいえ、現地での「日本人顧問」すなわち特務機関と接触をもたねばならなかった。
 磯野富士子は「冬のモンゴル」でその調査がどのようなものであったか、戦時の研究を自己批判的に描いている。西北研究所の関係者は戦後アカデミズムの中心となり脚光を浴びたが、そのような反省はきわめて少ない。とくに梅棹には「西北研究所の楽しき日々」が日本帝国主義に守られたものであったことに対する自覚が欠如しているようだ。1943年10月「在学徴集延期臨時特例公布」によって多くの学生は学業半ばに心ならずも戦場に赴いた。所謂学徒出陣である。その一方大学院特別研究生という制度で梅棹は兵役を2年猶予されて張家口に来た。まさしく戦争の中で、「学問」のために兵役を猶予され、特別待遇を受けた学者によってモンゴルに西北研究所が開かれたのである。

2015年1月30日金曜日

「日本の黒い霧」改稿の秘密

   「日本の黒い霧」 松本清張  文春文庫  1974年

 前稿(「松本清張の秘密」)で松本清張が「日本の黒い霧」(以下「霧」)を書き変えたのは1973年刊行の単行本「日本の黒い霧 全」であるという渡部富哉の指摘(「白鳥事件~偽りの冤罪」)を紹介した。然しこれは訂正せねばならない。改稿はそれに先立つ「松本清張全集30」所収の「霧」でなされている。「霧」は最初雑誌文藝春秋(S35年1~12月)に連載され、最終的に文春文庫(S49年)として流布している。とくに「白鳥事件」(初出は「北の疑惑」)について検証してみよう。
A「北の疑惑」      雑誌文藝春秋  S35年4月
B単行本 「日本の黒い霧」     文藝春秋   S37年5月
C全集   「松本清張全集30」  文藝春秋   S47年11月 改稿
D単行本 「日本の黒い霧 全」  文藝春秋    S48年4月
E文庫   「日本の黒い霧 上」  文藝春秋   S49年7月
 初出の「北の疑惑」(以下「疑惑」)と文庫版ではかなりの異同がある。それは①単なる表現上の変更②時間的経緯による訂正③敬称の変更④重大な改変の4種類に分類できる。以下各々その代表的なものについてみてみよう。
①冒頭近くの「もう一台の自転車はそのまま、三百メートルぐらい進んで、やがて闇の中に消えた。」(「疑惑」P200)は文庫では「折からラジオは『三つの歌』を放送していた。」(文庫P181)
がつけ加えられている。そのかわり「ラジオが”三つの歌”を放送して間もなく起こったこの出来事は世にも奇怪な事の発端となった。」(「疑惑」P202)は削除されている。
②初出の「これは被告の上告によって現在は、札幌高等裁判所で係争中である。」(「疑惑」P214)は「その後、昭和三十五年五月の札幌高裁は『原判決(無期懲役)を破棄し村上被告に対し懲役二十年に処す』の判決を云い渡した。(罪名は殺人、爆発物取締罰則等十一件)被告側は直ちに最高裁に上告した。昭和三十八年十月十七日最高裁は、二審判決を支持して、上告棄却を云い渡した。」(文庫P207)というように時間的推移にしたがって書き改めている。
③「疑惑」では事件関係者は「追平君」「佐藤君」「高安君」宍戸君」などすべて君づけである。然し文庫では「追平」「「佐藤」「高安」「宍戸」と敬称抜きの呼び捨てである。また「共産党側」は「弁護団側」にすべて改められている。
④初出では「筆者はN君や音川君が『松村的』とは云わない。彼らはそれほど大物ではない。」(「疑惑」P227)文庫では「といって、私は吉田や、成田、音川が『松村的』とは云わない。彼らはまだそれほど大物ではない。」(文庫P229)と巧妙に吉田の名前を忍び込ませている。また文庫では「前記、吉田四郎は本事件で弁護側が証人申請ををしようとしたら突然居所から行方を絶ったそうだし、検察側もこの重要な証人に対して一指もふれていない。これは常識として小々奇妙に考えられる。」が挿入されている。また白鳥警部を射殺した銃について初出では「当時、そのような装置の出来るブローニング銃は、特殊な者にしか所持出来なかった筈である。」(「疑惑」P235)が「当時、そのような装置の出来るブローニング拳銃は、米軍用のものにしかなかった筈である。」(文庫P243)と書き変えられている。
 清張は何故④のような重大な改稿をしたのか。渡部は、日共北海道地方委員長(当時)吉田四郎の「スパイ説」と「失踪」をデッチ上げることで「共産党に対する大きな疑惑」を晴らすためだとしている。AからDの間の時期に清張が日共に入党(秘密党員)した時の手土産だとしている。松川事件の元被告佐藤一からその真相を聞いているという。
 清張の直接政治に係る活動はそう多くないが、特定の時期に集中している。S41年末のベトナム反戦広告募集の呼びかけ人になったのが最初である。これは翌年4月3日のワシトンポスト紙に掲載される。そしてS43年1月~4月のキューバ「世界文化会議」出席や北ベトナム視察旅行。S46年9月大江健三郎らと「司法の独立と民主主義を護る国民連絡会」の結成。S48年11~12月の北ベトナム再訪。この頃から俄然活発化する。S49年12月19日自宅で宮本顕治と池田大作の会談をセットする。これは翌年7月27日の「創共協定」という日共・創価学会の「歴史的和解」につながる。またこの年中野好夫らと「公職選挙法改正反対声明」を出す。その後「創共協定」の死文化などもあり、清張の政治への興味は薄れていく。S55年頃「文化勲章」の可能性がささやかれたが、それと関係あるかはわからない。この時期は「昭和史発掘」(S39年7月~48年4月)の執筆期と重なる。この政治活動への関与が活発化した時期に清張は日共に入党している。それは渡部のいうD(S48年4月)ではなくC(S47年11月)より以前のある時期である。
 佐藤一は「松本清張の陰謀」で「日本の黒い霧」は戦後史を辿るうえの「躓きの石」だとした。「白鳥事件」は「日本の黒い霧」全編中最大の躓きの石でもある。それは歴史的誤謬が明らかになった「革命を売る男・伊藤律」や「謀略朝鮮戦争」にましてそうである。

2015年1月2日金曜日

イザベラ・バード「日本奥地紀行」を読む

  「イザベラ・バードと日本の旅」 金坂清則 平凡社 2014年

 イザベラ・バードは明治11年(1878年)7ヵ月に渡ったて、当時禁断の日本の内陸を旅した英国の女性旅行家である。バードが我が国で広く知られるようになったのは、1973年の高梨健吉訳「日本奥地紀行」(平凡社 東洋文庫 以下「高梨訳本」)の刊行による。それを典拠にして加藤秀俊は「紀行を旅する」(中央公論社 1984年)で、旅行記をもってそのあとを旅するという旅行記の新しい読み方を示した。また宮本常一は「高梨訳本」をテキストとした講読会で、バードの記述を、旅を重ねてきた民俗学者の目で分析した。そしてその記述が研究の対象となりうることを示した。(「古川松軒/イザベラ・バード」未来社 1984年)
 バードの旅の目的は、西洋の影響を受けて変容しつつも、古来の日本に由来するものが何故存在するのか、それがよりよく残っている「内地」を旅することによって明らかにすることであった。然し1878年当時、外国人の日本旅行には多くの制限があった。外国人が自由な移動を認められていたのは横浜・神戸・長崎・新潟・函館の五つの開港場と二つの開市場(東京・大阪)から各々10里(40キロ)の範囲に過ぎなかった。「外国人遊歩規定」で定められた「外国人遊歩区域」は日本全体から見れば点にしか過ぎなかった。それ以外の内陸は「内地」ないし「奥地」で、いわば「禁断」の地であった。その「内地」を旅行するには「外国人旅行免状」が必要であった。それが認められた場合でも自由に旅行できたわけではない。「免状」には「旅行先及路程」などが明記され、事前にルートが定められていた。また「外国人内地旅行允準条令」では旅行期間も「三十日又は五十日」を限度とすると制限されていた。
 このような制約の中で、何故バードは自由に日本の内陸部を旅することが出きたのだろうか。それは英国公使パークスが用意した特別の内地旅行免状、「事実上何の制限もない旅行免状」によって可能になったのである。そして著者の仮説によれば、パークス公使こそがこの旅の実現を計画したプロモーターであった。その旅はルートの制限のない旅であったが、行き当たりばったりではなく、目的に従いルートを事前に設定していた旅であった。また用意万端整った旅でもある。バードは「プラトン氏の日本地図」と「サトウ氏の英語辞典」を携えたが、これらは事前にパークスが作成を命じていたものである。パークスは何故バードの旅をプロモートしたのか。それは、日本のありのままの姿を見極め、安全に旅行出来るかどうかを明らかにすることが英国にとって必要と考えたからである。バードこそが特異な変容を遂げつつある日本の目撃者としてふさわしかったのである。
 然し「高梨訳本」ではこのような事情はうかがい知れない。なんとなれば、それは「完全本」の全体を半分にした「簡訳本」に基づいているからである。「簡訳本」は「完全本」から関西方面と伊勢の旅を除いて、「旅と冒険の書物」として編纂されているのである。そして旧訳では意味不明の誤訳も散見される。例えば「裃(かみしも)」は「翼に似たうす青い羽織」などのように。これだは何のことか分からない。著者はそのため「完訳 日本奥地紀行」(平凡社 東洋文庫 2012~3年)と「新訳 日本奥地紀行」(同 2013年)を翻訳刊行した。