「私の1960年代」 山本義隆 金曜日 2015年
山本義隆がながい沈黙を破って東大闘争と自らの1960年代について発言した。それが本書「私の1960年代」である。山本が入学した1960年の東大駒場は安保闘争の渦中にあった。全学連主流派(ブント)の下安保闘争に参加した経験は、その後の山本の「60年代」の原点となる。その後大管法闘争を闘い、東大ベトナム反戦会議を結成して砂川闘争・王子野戦病院闘争にとりくむ。東大闘争が始まった時、山本は大学院博士課程の3年生26歳であった。そして行き掛かり上東大全共闘(代表者会議)代表になる。本書には山本の「沈黙」の謎をとく興味深い記述もある。
(今井澄とML派)東大全共闘は「自立した個人の集まり」というように「神話化」されて語られるが、実情はいくつかの政治党派(セクト)と無党派(ノンセクト)活動家の複雑な関係であった。山本によれば「学部の党派は、率直にいって口先ばかり達者」で、「もっとも協力的・献身的であったのがML派」であるという。そして11月段階で今井澄(ML派)が提起した「帝大解体・帝国主義大学解体」のスローガンが東大闘争を一歩高めたと証言する。この方針によって中途半端な妥協をせず69年1月の安田講堂死守闘争まで進むことが出来たたのだとも。今井澄はその安田講堂防衛隊長であった。東大闘争の意義の一つは、それまでの運動が法案の上程や条約の締結をめぐり街頭闘争で国会に圧力をかけてゆく運動であったのに対し、「帝大解体」を云うことによって、社会的に構造化された権力機構に自分たちの場であらがってゆくという運動を展開したことだとしている。
(加藤近代化路線」と「総長室体制」)東大闘争敗北の最深の根拠は東大全共闘独力で全学封鎖できなかったことである。戦術的には全学封鎖の突破口たる図書館封鎖を日共=民青の「都学連」行動隊によって軍事的に粉砕されたことである。それに対抗するにはセクトの全国動員部隊に頼るしかなかった。その敗北過程で登場したのが加藤一郎総長代行(総長事務取扱い)による「加藤近代化路線」の導入である。加藤は代行引き受けに際して、「評議会で意見が分かれた時、または緊急を要するときは、その決定の責任を総長代行に任せる」という「紛争収拾」のための緊急措置を要求した。そしてこの「非常大権」は総長就任にともない「総長室体制」として既成事実化された。すなわち上からピックアップされた「特別補佐」として2名の有力教授と「補佐」として若手の近代派助教授数名が「総長室」を構成した。これを政策や方針の決定のため私的なブレーンとして若干名の教授と文部省から出向している大学の事務官僚が支えた。かくして「総長室」が情報を独占的に管理し、すべてを取り仕切る体制=「加藤近代化路線」が完成した。学部長会議や評議会は単なる事後承認機関に成り下がった。文部省や中教審が意図してきた「管理」と「教育・研究」の分離を大学の側から先取りするものであった。併行して「学部自治」、「教授会自治」は解体していった。これは大学が国家の官僚機構の末端に包摂される端緒となった。そこから国立大学の独立法人化は一瀉千里であると山本は云う。
(「産学協同」について)東大闘争の時点においても「産学協同」は工学部や薬学部では広く進められていた。当時「反産協」をスローガンに掲げる反帝学評のようなセクトも存在した。然し個別の研究室レベルではなく、大学の機構そのものにおける「産学協同」となると話は別である。例えば「週刊金曜日」(2015.5.29)は次のように報じている。「三菱グループから東大に2013年度1年間で3億6700万円が寄付されている。同大学の『総長選考会議』と『経営協議会』という組織の委員には三菱重工相談役が就いている。国立大学法人・東京大学の大学運営に私企業である『三菱』が深くかかわっている」このようなあきれる現実は、東大闘争圧殺の過程で登場した「加藤近代化路線」の行き着いた先だと山本は指摘する。
山本は「安田講堂陥落」後逮捕状を請求され潜行、その後全国全共闘結成日の9月5日会場で逮捕される。全国全共闘議長山本の活動阻止を狙ったものである。保釈(1970年10月末)後、東大地震研の臨職闘争に参加し2度目の逮捕(71年3月)。保釈後駿河台予備校の講師を勤めた。
専門の物理学の研究は、学会とは縁を切って独力で続け、「磁場と動力の発見」(毎日出版文化賞)など多くの科学史関係の書物を刊行している。然し、なにより「68・69を記録する会」を立ち上げ全共闘運動の記録を残す活動に挺身した。とくにその白眉は東大闘争中のビラ・パンフ・討議資料・大会議案・当局側資料など5000点を収録した「東大闘争資料集」(1967~69.2)の刊行である。ゼロックス・コピーのハードカバー製本28巻とマイクロフィルム3本。山本は保釈後広松渉に「立場上、今後いつまでも注目され、いろいろな人からいろいろなことを言われ、大変でしょうけれど、ひとつお願いしたいのは、評論家のようなものにはならないでください」と云われたという。その言葉どうり、東大闘争について評論家のように語ることは自ら厳禁した。そのような山本の「沈黙」をたてに「全共闘運動」の総括を回避しようとする風潮があるが、それは明確に違う。山本の「東大闘争資料集」の刊行はそのような「風潮」に「NON]をつきつけている。
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