「楼蘭王国」 赤松明彦 中公新書 2005年
2004年新疆文物考古学研究所の発掘隊はタリム盆地東端の楼蘭遺跡から西南140キロの小河墓(エルデク共同墓地)で「新しい美女」と名づけられた「楼蘭型」のミイラを発掘した。エルデク共同墓地はヘディン隊の考古学者ベイリマンによって1934年発見され一部発掘されたが、戦乱などにより忘れさられた。その後王炳華によって再発見され、2003年から本格調査が行われていた。「楼蘭型」ミイラの特徴は次のように要約できる。
①棺は野生ポプラの幹でできた厚板で作られている。②棺は牛などの皮で覆われている。③ミイラ
の全身は羊毛の毛織の布で包まれている。④ミイラはフェルトの帽子をつけている。⑤副葬品としてエフェドラの小枝や小麦の種もみが置かれている。⑥副葬品として植物繊維の編み上げた小籠が置かれている。
発掘された「新しい美女」は以上の特徴を全て合わせもっていた。また「楼蘭型」には絹製品が副葬品として出土せず、これらの墓は土着の住民たちのものである。ベイリマンたちは、この地で発掘したミイラの年代をBC100年前漢の時代、中国の影響が及びはじめる直前の時代と考えた。然しそれは違った。古墓溝や鉄板河で発掘された「楼蘭型」ミイラの炭素14による年代測定値は実に3800~4000年前を示していた。そしてこのミイラはいずれも非モンゴロイドのコーカソイド(白人種)の容貌をもっていた。
(白人のミイラはどこから来たのか)小麦と羊を機軸とするメソポタミアの混合農業が拡散を始めたのはBC5000年頃である。タリム盆地への伝番経路は西(バクトリアモデル)と北(ステップモデル)が想定されるが、現在では後者が有力である。ステップモデルはロシアのクズミナが提唱した。後発のアンドロノヴォ文化(BC2000年紀)に押し出されるようにしてアファナシェヴォ文化(BC3600年)がタリム盆地に流入したとする。タリム盆地の最初の移住者は、アルタイ地方のステップから天山山脈の低い峠を越えて南下し盆地東部に居住した。その時期はBC2000年頃。その場所こそタリム盆地で最初の混合農業の遺跡古墓溝である。
(ミイラは何語を話したか)19世紀末ペリオやル・コックによってタリム盆地の北東部で最後の印欧語の一語派であるトカラ語が発見された(発見された文書は8世紀のものであり、トカラ語は9世紀には死語になっていた)。そして驚くべきことに、この最も東端で発見された言語は印欧語の中の最も西端のケルト語に近かった。このトカラ語の祖語(原トカラ語、印欧語の西側グループ)がその他の言語(東側グループ)と分離したのは、BC2000年紀を更にさかのぼる。ミイラとトカラ語を結びつける輪は、アファナシェヴォ文化であると著者は推定する。すなわちアフォナシェヴォ文化は、後続する新しい印欧語派のアンドロノヴォ文化によって、ステップ地帯を東に追いやられたのである。つまり、古いトカラ語と同じように西に起源を持ちながら東の端に孤立しているのである。そして何より後代の楼蘭王国では、土地の人々がトカラ語の特徴を残した言語を話していたという事実である。スタインが発掘したカーローシュティー文書の解読によれば、3世紀頃の楼蘭王国では王の命令は全て、ガンダーラ語でカローシュティーという文字で書き写されていた。また土地の売買文書や高官たちの私信も同様である。そのような文書に記された人名・地名・土地の言葉には、トカラ語の特徴的な要素を保った単語が多く残されている。この事実はミイラがトカラ語を話したことを補強し、ミイラが楼蘭人の祖先であることを推定させる。
楼蘭領域内で発見されたカローシュティー文書の解読について著者ならではの鋭い指摘がある。第一は「法(ダルマ)の観念」についてである。古代インドのダルマは内在的な原理である。例えば宇宙の法則や、社会的な法律、人間にとっての道徳や習慣など。一方中国の法は皇帝によって支えられている規範や枠組み。クロライナ王の命令文書(3世紀後半から4世紀はじめ)の時期は、西晋の宗主権を認めながら、実質的には自治体制を保持していた時期であった。文書345のキラムドラ(楔型の木簡)によれば「ダルマ」は「各地方・州における慣習的・伝統的なやり方」であり、前者である。「3世紀から4世紀にかけての楼蘭王国は、明らかに漢帝国のような国家とは違った統治の観念によって支えられた王国」であったと著者は指摘している。そして第二「はカローシュティー文書の王のいた場所」についてである。文書に現われる「クロライナ」という地名が漢字で「楼蘭」と音写されたことは間違いない。ヘディンが発見したLA(楼蘭)がそのままクロライナではない。そこが楼蘭と呼ばれるようになったのはAD222年以降である。「鄯善」と改名(BC77年)以前の楼蘭は領域名であって、一つの地点の名前ではない。したがって「文書」の中に現われてくるような場所は王都ではない。「文書」に現われない場所、木簡などが発見されない唯一の場所ミーランが王のいた場所だと著者は推定している。
然し第二の推定については疑問もある。LAが楼蘭と呼ばれるようになったのは魏の西域長史府が置かれたAD222年以降とする根拠についてである。それはLA出土の文書の紀年、遺物の年代値が魏晋(3世紀)の時期をさかのぼれないということに過ぎない。これについては稿を改めたい。
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