2021年8月31日火曜日

関学闘争外伝⑤~経済学部学生運動小史Ⅳ

 69年度の新学期が始まったのは6月30日であった。全共闘は6・9王子集会で24名の逮捕者をだし、13日の上ヶ原キャンパスの封鎖解除により闘争拠点を失うなど、大きな打撃を受けていた。然し組織が雲散霧消したわけではなかった。神大の六甲台に拠点を移し、キャンパス奪回を狙っていた。授業再開の30日、法学部本館(法闘委8時)、第一別館(文闘委10時)を封鎖した。当局は11時40分機動隊を導入した。キャンパスは鉄柵で囲まれており、逃げ遅れた学生5人が逮捕・検挙された。この「戒厳令」状況(校内ヘルメット着用禁止、柵の設置)に新入生の反発は強かった。社会学部1年7組が「我々は6・30の大学側の一方的な機動隊導入に断固抗議する」という学長代行宛ての抗議声明(クラス決議)を出した。これに並行して全共闘は、授業等に介入して新入生に情宣活動を行った。経済学部でも7/7,14のチャペルアワーや授業に介入した。キ反連(キリスト者反戦連合)や経闘委で、いずれもノンヘルである。  参議院での大学立法強行採決(8/3)に抗議して4日8時全共闘は100人で5学部(法・商・経・文・神)を封鎖した。各学部100名ほどの学生が討論に加わった。経済学部でも200人ほどが参加した。その後150名で大阪城公園の「大学立法粉砕・全国全共闘統一行動」に向かった。社闘委はこの日の闘争に参加しなかった。経闘委では,すでにフロントや先鋒隊が消滅し、ブント、ML、中核の数名とべ平連、自主講座などのノンセクトでようやく封鎖部隊を編制していた。また経済学部(森ゼミ)と社会学部(森川ゼミ)の1年生が「大学立法反対」のゼミ決議を呼びかけ、10を超えるゼミ・クラスが賛同した。新入生の闘争組織の萌芽がようやく現れた。一方全共闘は9月の全国全共闘結成と11月決戦に希望をつないでいたが、各党派内で分裂が進行しつうあり、商・神など組織が崩壊、機能不全に陥る闘争委員会もあった。反帝学評は社青同解放派を主軸に社青同国際主義派など加えた緩い組織であったが、革労協結成に向けて解放派左派に純化しつつあった。フロントもブントに追随する左派が「平和共存と構造改革路線」を揚棄し、小集団になった。ブントも社学同関学支部(中間派)と関学反戦(右派)に分裂含みであった。 9月5日全国全共闘連合結成大会が日比谷公園で開催された。全国の大学から3万4千人が結集した。議長山本義隆、副議長秋田明大だが、実態は書記局員の構成(中核派、社学同、社青同解放派、学生インター、ML派、フロント、プロ学同、共学同)に明らかなように8派共闘にほかならなかった。「来るものは拒まず、去るものは追わない」のが全共闘の流儀であった。然し新しく結成された赤軍派は連合ブントにより入場を拒まれた。また革マル派中心の東神大、国学院、ICUの全共闘には招請状すらなく排除されていた。それは8派による11月決戦に向けての全共闘大衆の囲い込みの場であった。関学全共闘も参加したが発言の場はなかった。然しその8派連合は最初から分裂含みであった。赤軍派の陰画である連合ブント(中核派も)は、銃器・爆弾による「前段階武装蜂起」には踏み切れず、「武装蜂起宣伝主義」に陥らざるを得なかった。また反帝学評も小人数のアリバイ的ゲリラ闘争を採用するしかなかった。これは革マル派が多用した戦術である。他派もその中間で右往左往することになる。  10月関西では10-11月闘争に向けて、「全共闘軍団」への参加要請(中核派)や「中電マッセンストと北大阪制圧闘争」(連合ブント)が呼号されていた。関学キャンパスでも各セクトは準備に余念がなかった。10月15日7学部校舎が全共闘100人(神大など支援40人含む)によって封鎖され、16日も法・経・文3学部が全共闘(50人)に封鎖された。いずれも機動隊により即日解除された。封鎖を敢行した反帝学評、フロント、ML派などの部隊は即日上京した。反帝学評は18日首相官邸(7人突入、5人逮捕)、自民党本部(7人全員逮捕)に突入した。ML派は18日東京拘置所(7人全員逮捕)、19日自衛隊市ヶ谷駐屯地(5人逮捕)に突入した。またフロントは21日銀座・築地方面で火炎瓶闘争を敢行した。関学のメンバーもこれに加わり、多くは帰らなかった。残存のブントなど全共闘部隊は「北大阪制圧闘争」に参加した。関学全共闘は組織的にも人的にもほぼ壊滅した。すでに入試闘争以来、逮捕者120名、拘留者91名、起訴71名という甚大な被害を受けていた。さらに事後逮捕が相次いでいた。  そして11月。13日扇町公園で「佐藤訪米阻止全関西総決起集会」が全共闘、反戦、高校生、べ平連それに総評労働者など3万人が結集して開かれた。16-17現地闘争に向けての最後のカンパニア集会のはずであったが、多いに荒れた。機動隊の徹底した検問、弾圧に対し連合ブント・プロ学同は火炎瓶・鉄材攻撃で阻止線を分断したが、この過程で岡山大生糟谷君が虐殺され、63名が重傷を負わされたまま逮捕された。この集会には、関学全共闘の新たな部隊80名が参加した。これは経済学部を中心にした69年度新入生のノンセクト共闘会議が「小寺近代化路線粉砕」などクラス討論を組織して結集した新たな闘う部隊であった。 10-11月闘争で反帝学評がほぼ姿を消し、革マル派(関学全学闘)が1年ぶりに登場した。外人部隊(全学連関西共闘会議)50人を投入して、中央芝生で集会後、学生会館に突入し情宣活動を展開した。そして全共闘不在の学内では、正常化路線の一環として「学長選挙」が着々と進行していた。学長選考規定及び学長辞任請求規定信任(11/8)、第一次学長選挙(11/29)、第二次選挙(12/24)で小寺代行が学長に就任した。これに対しノンセクト共闘会議は、学長選の実施自体が「小寺近代化路線」の内実であることを暴露する情宣活動を経済学部・社会学部で強力に展開した。旧全共闘派はなにおしたのか。彼らは訪米阻止闘争の前日(11/12)に中央協議会を開き、任期切れの全学執行委員会・各学部自治会の任期を来年1月まで延長し、2月初めに選挙を行うとした。然し中央協議会は12/1,9と開催されたが、全執・学部自治会とも理学部以外は代理出席でしかなく、経済学部はそれもなかった(経自は新川委員長が招集権を放棄し辞任)。責任者はすべて10,11月闘争で逮捕、拘留されていた。学院側の中央協議会との了解事項は「全執の1月末までの任期延長は認める。学生自治の問題で学院の関与する問題ではない」、「学生会予算については、全執を通さない限り交付を受けない」(上ヶ原ジャーナル)というものであった。これは実質的に自治会の崩壊状態に学院側が手を貸すものであり、「小寺近代繪路線」の実質を象徴するものであった。この時点で自治会が存在していたのは法、神、理の3学部であった。旧全共闘派はこれに対し、状況を打開するいかなる方針もなかった。  11/16-17佐藤訪米阻止闘争は、各党派軍団による国電蒲田駅周辺のゲリラ闘争に終始した。4/28の限界を乗り越えるいかなる方策もなく1493名の逮捕で幕を閉じた。21日佐藤ーニクソン会談による日米共同声明が発表され、安保堅持ー72年沖縄返還が表明された。12月27日衆議院総選挙が行われ、闘わざる社会党は歴史的大敗北を喫し、1969年は暮れた。(この項続く)

2021年5月31日月曜日

「地球の歩き方 東京2021~22」 ダイヤモンド・ビッグ社 2020年

 「地球の歩き方 東京」の売れ行きが好調だと言う。「歩き方」は1979年にそれぞれアメリカ編、ヨーロッパ編として創刊された。初めて知らない国や都市を訪ねる旅行者のために、客観的な視点で情報を提供するという編集方針はその後も変わらず一貫している。  本書でも「旅の準備と技術」のコーナーは設けられている。例えば「習慣とマナー」では銭湯の入り方が入念に説明されている。あたかも「トルコ」編のハマムの記述を彷彿とさせる。さらに国の登録有形文化財「稲荷湯」や昭和情緒が残る「大黒湯」、壁面に富岳三十六景」が描かれた「荒井湯」など7件の銭湯が紹介される充実ぶりである。また「文豪たちが愛した名店と味」も必見である。森鴎外の「雁」に登場する「伊豆栄 本店」の鰻や、、芥川龍之介が愛した「浅野屋」の天ぷらそば、三島由紀夫が最後の晩餐に選んだ「鳥割烹 末げん」の鳥鍋などが紹介される。見逃せないのは東京に唯一残る路面電車である「東京さくらトラム」(都電荒川線)の案内である。沿線には、昔ながらの商店街や名所旧跡が多い。一日乗車券を使って散策すれば、昭和の下町情緒が甦る。かつて都電は40路線もあったのである。これらを読めば東京はまるで未知の街のような相貌をもって現れてくる。それは明治の初めに禁断の日本を旅したイザベラバードの紀行を読むかのようでもある。  東京に住んでいる人にもそうでない人にも本書は有益である。とくに昨今のコロナ下で不自由な「ステイホーム」を強いられている人々には、本書を読むことはささやかな福音である。

2021年2月11日木曜日

「語り継ぐ1969」 糟谷孝幸50周年プロジェクト(編) 社会評論社 2020年

 1969年11月13日大阪扇町公園において開催された全関西佐藤訪米阻止集会・デモの渦中で岡山大学生の糟谷孝幸が虐殺された。機動隊による暴行の結果翌14日に亡くなった。1967年の10・8羽田闘争の山崎博昭に続く二人目の犠牲者であった。山崎の死は70年闘争の激動の幕開けを告げる死であったが、糟谷のそれは文字通り70年闘争の弔鐘であった。然し糟谷は何故死を強制されねばならなかったのか。その原因は第一には暴行・虐殺の下手人である大阪府警寝屋川署の機動隊員3人(荒木幸男、赤松昭雄、杉山時夫)にある。そして第二には糟谷が当日その隊列に参加したプロ学同就中共労党(共産主義労働者党)の路線転換にある。    (11・3扇町闘争)     「佐藤訪米抗議11・13統一行動」には、沖縄で10万人県民集会、本土では67単産83万名の統一ストが行われた。大阪ではこの日公務員共闘6単産3万9389名、公労協2単産4314名、民間では17単産2万3519名がストで決起した。扇町公園の総評集会は17時と18時の2部に分かれて開催された。一次集会には時限ストを打った全国金属を中心に民間労働者1万5千名、二次集会にはその他の民間労組、官公労など2万名が公園を埋めていた。公園の北側には全共闘、関西地区反戦、べ平連など新左翼7千名が4時から結集していた。この日の集会は16日の現地闘争を控えての前段集会であり一大カンパニアとして実施されるはずであった。「11月決戦」用に編成された中核派などの「全共闘軍団」はすでに現地に向かっていた。然し8派のなかでもブントやプロ学同など一部党派は違った。総評の二次集会のデモ隊が出発し始めた6時30分頃、突如公園内から火炎瓶を機動隊に投げかけるのを契機に、4~500名の反戦や学生が火炎瓶・鉄棒を持って機動隊に突入した。公園南側の扇町線路上は、一時火の海となった。然し圧倒的多数の機動隊は態勢をすぐ立て直し、無差別にデモ隊に襲い掛かり、多数のケガ人、逮捕者がでた。この過程でプロ学同の隊列にいた岡山大生糟谷幸弘が重傷を負い逮捕されたのである。7時過ぎ総評系デモ隊の間に割り込む形で、地区反戦、全共闘部隊がジグザグデモで梅ヶ枝町ー淀屋橋ー肥後橋ー中郵まで行進した。梅田周辺の商店はシャッターを下ろし、機動隊は歩道橋の上で通行人を検問し、戒厳令下のようであった。大阪府警は7000人の機動隊を動員し、警戒は異様に厳しかった。集会参加者に対する私鉄・国鉄駅や公園入口での違法な所持品検査は暴力をともなう執拗なものであった。     (虐殺の真相)     このような暴力的対応は全共闘・反戦のデモ封じ込めにも続いた。扇町公園南西出口を出たデモ隊の進路を塞ぐように6大隊(17、18中隊190名)、8大隊(21,22,23中隊340名)が交差点に配置されていた。機動隊の壁の中を通らねば出発できないのだ。この壁を突破するため、公園内からの火炎瓶投擲を合図に、関西スト実・社学同の200名が投石・火炎瓶で機動隊を急襲した。続いてプロ学同50名が突撃。しかし機動隊の反撃により制圧された。プロ学同の突撃隊はまず火炎瓶を投擲した。当たりは火の海になった。機動隊がひるんで後退したスキに(大盾防御隊形を左防御隊形に移した)、鉄板棒で攻撃した。機動隊は態勢を立て直し(大盾防御隊形)、直ちに増員して反撃。学生達は扇町線を水道局方向に逃げた。それを追撃して、「殺せ!殺せ!」と絶叫しながら警棒と盾を振りかざして殴る、蹴る、突き倒すの暴行を加え、60名余を逮捕した。逮捕を免れた者も40名が重軽傷を負った。糟谷もこの時逮捕された。3人の機動隊員は糟谷のヘルメットをはがし、警棒で左側側頭部に致命的な打撃を加えた。とくに直接の下手人荒木の警棒には糟谷と同じ血液型の血が付着していた。糟谷は頭蓋骨陥没骨折の重傷を負ったまま徒歩で曽根崎署まで連行され、取り調べ中に「黙秘します」とだけ言って倒れた。翌日行岡病院で死亡した。警棒で機動隊の襲撃は後続の関西大学の学生部隊にも加えられた。2名が重傷を負い、その後遺症で苦しみ1年後死亡した。            (共労党の路線転換)   民学同(民主主義学生同盟)は共労党系(構造改革派)と日本の声系(ソ連派)からなる学生組織であった。共労党系は同盟内分派として「民学同左派」を名乗るようになった。構改諸派(フロント、共学同)と「自治会共闘会議」を結成(67年10月)して学生戦線の統一を目指した。その基調は平和共存と反独占であり、民青や「トロ諸派」(三派、革マル)とは一線を画していた。然し68年の激動は構改諸派に左傾を促した。民学同左派も69年3月27日の民学同9回大会で構造改革路線の廃棄を宣言し、翌日プロ学同を結成した。ヘルメットを白から緑に塗り替えた。共労党も「平和共存と反独占民主主義を通じた社会主義革命」を投げ捨て、「現代世界革命派」を自称し(69年5月 3回大会)、最後の新左翼党派になった。ブントの「マッセンストと中央権力闘争」に煽られて、「一周遅れのトップランナー」の揶揄を後目に、11月佐藤訪米阻止闘争を拠点スト(山猫スト)と地域的街頭反乱の大衆的実力闘争(武装闘争)として闘うという方針を打ち出した。それを牽引する「政治的権力奪取の意識性に貫かれた突出集団」=突撃隊の編成が要請された。  糟谷はその突撃隊に「志願」したのである。糟谷のノートには「ぜひ11・13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。」(11月8日)と記されている。本書を企画刊行した内藤秀之(当時青井秀之)の強いオルグによって二人で扇町に向かった。プロ学同岡大支部は10・21闘争(東京)で逮捕者(5名)があり、救対責任者を除いて同盟員は青井ただ一人だったのである。大言壮語と裏腹に共労党が用意したのは鉄板棒(幅32ミリ、厚さ6ミリ、長さ130センチ)と火炎瓶(栄養ドリンク容器)という貧弱な「武器」である。こんな武装で機動隊の壁を突破できるはずもない。      プロ学同はその後、ヘルメットの色を赤に変えた。その色は糟谷が流した血の色だともいう。共労党は71年に三分解した。左派の赤色戦線と中間派のプロ青同、そして構造改革派に先祖帰りした右派の労働者党である。赤色戦線は間もなく消滅。労働者党も地方の議会政党になった。中間派のプロ青同派が共労党として残った。そして71年9月16日プロ青同とブント(叛旗派)は三里塚東峰十字路の戦闘で機動隊堀田大隊(神奈川県警)の柴田小隊を撃破し3名の機動隊員を殲滅した。78年3月26日には、プロ青同・ブント(戦旗派)・第四インターの赤ヘル三派は成田空港管制塔を占拠して空港開港を阻止した。「春秋」の筆法で言えば、「等価報復」により糟谷ら3名の血債を償わせ、大衆的実力闘争の爆発により11・13扇町闘争の恥を拭いさったのである。 青井は、岡山大医学部を辞め、日本原へ行き、自衛隊との闘いに身を投じた。その過程で地元農民の内藤家の婿養子となり、以後牛飼いの内藤秀之として50年間自衛隊に反対する活動に取り組んでいる。50年間、糟谷の分まで生きてきたのである 一方糟谷を死に至らしめた下手人の三名の警官はどうなったか。彼らは特別公務員暴行陵虐致死で告発された(1969年12月13日)が、76年10月20日大阪高裁は抗告棄却を決定した。同年11月13日時効が成立した。彼らはその責任を他県の機動隊員の死に転嫁し、卑怯にも生き延びた。そればかりか、そのうち一名は2018年秋に危険業務従事者(大阪府警元警部)として叙勲(瑞宝単光章)を受けている。危険業務とは11・13扇町公園警備事案に関するものである。