2020年3月10日火曜日

関学闘争外伝~「日常生活構造批判」

 「日常生活構造批判」雄叫び4号(別冊)木田拓雄 1968年
                  関西学院大学社会学部学生自治会

 「学費闘争総括への提言」の第2章「日常生活構造批判」(以下「批判」)は関学6項目闘争を牽引した記念碑的文書である。木田はこの「批判」を結集軸にして革命的自立者同盟というノンセクトグループを社会学部闘争委員会内に組織して6項目闘争を闘った。全学執行委員会や法学部、商学部自治会を掌握していた反帝学評(解放派)は、その戦術とは相いれなかった(社闘の5別館封鎖の小ブル急進主義反対)が、心ならずであるが追随するしかなかった。「批判」はまず43学費闘争の社闘委の総括として関学新聞(68年4月15日)に掲載されたのが初出である。従来の学生運動形態を支えている国際情勢分析主義を批判した。何のために闘うかという、闘いと自己の関わり方を明確にしない闘いは、学生のアンガージュえを勝ち取れない。そして情勢が外在的でしかないということを内在的に把握することによって客体を引き寄せる方法の形成こそ「日常生活構造批判」だとした。そして「学費闘争総括のための提言」としてその第1章(知識人論と疎外論)が「雄叫び3号」に、続いて第2章(日常生活構造批判)が「雄叫び4号(別冊)」に掲載された。
 それではこの「批判」はいつ執筆されたのか。論考中には執筆終了は12月16日とあり、4号刊行日は68年12月21日である。また文章中、新聞総部の批判(「シチュアシオン68」関学新聞68年10月31日)に対する再批判があることなどから11月から12月上旬くらいと推測できる。この時期はこと関学キャンパスにおいてもまことに緊迫した状況であった。最後の兵庫県学連大会が2号別館で開催(11月10日)、フロントと反帝学評の対立で運動方針だせず人事案のみで終了。全執選挙で反帝学評系候補が当選(11月21日)、全執による公開質問状提出(12月2日)、反帝学評と革マル派の党派闘争(12月8~9日)、全執大衆団交要求(12月16日)などである。一方全国的には10・21新宿闘争は新左翼ムードの頂点を極めた。東大闘争も11・22には全国から各党派1万人を動員したが、12月に入り民青系との対決で緊迫化していた。
 「批判」は「序説」、第1節「大学の構造的把握」、第2節「家族の構造的把握」の3節からなっている。当初の予定では第3節「国家の構造的把握」や第3章として運動母体の問題などが構想されていたが、それらは書かれなかった。
「序説」は新聞総部による「知識人論」批判への反論である。新総は木田を「吉本の表皮的信仰に陥り」、「マルクスの初期草稿読み」から脱却できないで疎外論をいじくりまわしていると批判している。それに対して木田は、吉本隆明は現在を「相対的安定が国独資として永続化されつうある深刻な過渡期」とし、この状況を「構造改革的に止揚するのではなく、政治的アパシーに存在をもつ大衆を逆に彼らの実在たる生活の領域においこみ、(中略)大衆を自立化させ国家止揚の集中化を企て」ているのであり、「真の大衆へのコミュニケーションの方法を見つけんと」苦しい作業を続けていると反論している。そして自身も「ありのままの学生大衆を追求し、「大衆が耳を傾けるコミュニケーションをこれから見つけてゆく」と。そしてこれが第3章の課題であると。
大学の構造的把握)本論考のハイライトである。まずフロント派の「大学を反戦、平和、有機的知識人の創出の砦にして、そこから社会の構造的手直しをやる」という「大学革新論」の欺瞞性が論断される。資本と大学の連関は定期的労働人口法則の構造としてある。大学とは商品化した教育サービスを、自己のもとに包摂した教育労働者を使って販売するサービス資本である。この教育サービスは自由な販売が許されものではない。一定の売買契約に基づき、学則(法)に規制される。それ故学生と大学の始原的対立は、教育サービスが商品として売買されざるをえない大学の構造に原因がある。大学は定期的労働人口法則に包摂されていることから、労働力育成をその本質とすべく自己疎外している。故にその教育内容(質)は労働者を育成するための教育となり、教育形態(量)は産業界の労働需要に応ずべく(マスプロ化)規定される。この関係を木田は「知的疎外」という。4年間の「猶予」の後に落ち込む未来的自己(労働過程に入る自己)に自己存在の全集約を行い、この未来的自己に絶対的秩序と尺度を与え、かかる労働過程を肯定的に対象する自己以外は、一切圧殺せんとする。それ故未来的自己を否定せんとする自己存在と、激しい葛藤が生じる。例えば学生運動に身を投じるのは、未来的自己の自己否定となるものとして、抑圧の対象となる。この未来的自己と現在的自己の矛盾と葛藤は個人的な選択や意思などではなく、大学の本質(大卒労働者育成)に起因する。学生は4年間の「猶予」の後、一切の相対的自由をも拒否して、労働過程に入り込むことを与儀なくされる。人は生きるためには資本の存在を肯定的に対象化しなければならない。たとえ幻想的に資本の否定を企てる者も例外ではない。
 「批判」は関学6項目闘争を入試粉砕から2・8~9の5号別館死守闘争の高みにまで導いた。43学費闘争の限界を突破する理論的根拠を全共闘に指し示したといえる。その意味では木田は本望であっただろう。然し、その後の闘争の道標は与えなかった。それは「全国学園闘争の展開の中で、個別関学闘争を突破する方針を提起しえても、全国政治闘争としての方針を提起しえないという限界性」(「関学闘争の記録」)と指摘された通りである。
 今から振り返って「批判」に対する感想を2点述べる。第一は闘争終了後に総括を妨げる否定的要因になったことである。それは東大闘争における「自己否定」が総括作業を妨げる躓きの石となったのに近似している。第二は「批判」には68年当時の関学キャンパスの党派の状況がリアルに描かれていることである。たとえばフロント派。43学費前はフロント、闘争中は無党派もしくは無活動、終了後はまたフロントとある。これは6項目でもくりかえされる。歴史ある関学フロントだが、自治会民主主義の限界を口実に経自会から逃亡したり、メンバーがブントに移たりで消滅寸前。最も党派自体が機関紙を「戦旗」をもじった「先駆」に変え、構造改革路線を投げ捨てたのであるから。かつて兵庫県学連や関学学生運動を牽引した構改派学生運動。その「層としての学生運動」は時代に取り残されていた。木田自身もその周辺から出てきたはずである。「批判」は構造改革派学生運動の廃墟に咲くあだ花である。「批判」3章が未筆で終わったのは著者にとっては幸いであったと言わねばならない。