2015年1月30日金曜日

「日本の黒い霧」改稿の秘密

   「日本の黒い霧」 松本清張  文春文庫  1974年

 前稿(「松本清張の秘密」)で松本清張が「日本の黒い霧」(以下「霧」)を書き変えたのは1973年刊行の単行本「日本の黒い霧 全」であるという渡部富哉の指摘(「白鳥事件~偽りの冤罪」)を紹介した。然しこれは訂正せねばならない。改稿はそれに先立つ「松本清張全集30」所収の「霧」でなされている。「霧」は最初雑誌文藝春秋(S35年1~12月)に連載され、最終的に文春文庫(S49年)として流布している。とくに「白鳥事件」(初出は「北の疑惑」)について検証してみよう。
A「北の疑惑」      雑誌文藝春秋  S35年4月
B単行本 「日本の黒い霧」     文藝春秋   S37年5月
C全集   「松本清張全集30」  文藝春秋   S47年11月 改稿
D単行本 「日本の黒い霧 全」  文藝春秋    S48年4月
E文庫   「日本の黒い霧 上」  文藝春秋   S49年7月
 初出の「北の疑惑」(以下「疑惑」)と文庫版ではかなりの異同がある。それは①単なる表現上の変更②時間的経緯による訂正③敬称の変更④重大な改変の4種類に分類できる。以下各々その代表的なものについてみてみよう。
①冒頭近くの「もう一台の自転車はそのまま、三百メートルぐらい進んで、やがて闇の中に消えた。」(「疑惑」P200)は文庫では「折からラジオは『三つの歌』を放送していた。」(文庫P181)
がつけ加えられている。そのかわり「ラジオが”三つの歌”を放送して間もなく起こったこの出来事は世にも奇怪な事の発端となった。」(「疑惑」P202)は削除されている。
②初出の「これは被告の上告によって現在は、札幌高等裁判所で係争中である。」(「疑惑」P214)は「その後、昭和三十五年五月の札幌高裁は『原判決(無期懲役)を破棄し村上被告に対し懲役二十年に処す』の判決を云い渡した。(罪名は殺人、爆発物取締罰則等十一件)被告側は直ちに最高裁に上告した。昭和三十八年十月十七日最高裁は、二審判決を支持して、上告棄却を云い渡した。」(文庫P207)というように時間的推移にしたがって書き改めている。
③「疑惑」では事件関係者は「追平君」「佐藤君」「高安君」宍戸君」などすべて君づけである。然し文庫では「追平」「「佐藤」「高安」「宍戸」と敬称抜きの呼び捨てである。また「共産党側」は「弁護団側」にすべて改められている。
④初出では「筆者はN君や音川君が『松村的』とは云わない。彼らはそれほど大物ではない。」(「疑惑」P227)文庫では「といって、私は吉田や、成田、音川が『松村的』とは云わない。彼らはまだそれほど大物ではない。」(文庫P229)と巧妙に吉田の名前を忍び込ませている。また文庫では「前記、吉田四郎は本事件で弁護側が証人申請ををしようとしたら突然居所から行方を絶ったそうだし、検察側もこの重要な証人に対して一指もふれていない。これは常識として小々奇妙に考えられる。」が挿入されている。また白鳥警部を射殺した銃について初出では「当時、そのような装置の出来るブローニング銃は、特殊な者にしか所持出来なかった筈である。」(「疑惑」P235)が「当時、そのような装置の出来るブローニング拳銃は、米軍用のものにしかなかった筈である。」(文庫P243)と書き変えられている。
 清張は何故④のような重大な改稿をしたのか。渡部は、日共北海道地方委員長(当時)吉田四郎の「スパイ説」と「失踪」をデッチ上げることで「共産党に対する大きな疑惑」を晴らすためだとしている。AからDの間の時期に清張が日共に入党(秘密党員)した時の手土産だとしている。松川事件の元被告佐藤一からその真相を聞いているという。
 清張の直接政治に係る活動はそう多くないが、特定の時期に集中している。S41年末のベトナム反戦広告募集の呼びかけ人になったのが最初である。これは翌年4月3日のワシトンポスト紙に掲載される。そしてS43年1月~4月のキューバ「世界文化会議」出席や北ベトナム視察旅行。S46年9月大江健三郎らと「司法の独立と民主主義を護る国民連絡会」の結成。S48年11~12月の北ベトナム再訪。この頃から俄然活発化する。S49年12月19日自宅で宮本顕治と池田大作の会談をセットする。これは翌年7月27日の「創共協定」という日共・創価学会の「歴史的和解」につながる。またこの年中野好夫らと「公職選挙法改正反対声明」を出す。その後「創共協定」の死文化などもあり、清張の政治への興味は薄れていく。S55年頃「文化勲章」の可能性がささやかれたが、それと関係あるかはわからない。この時期は「昭和史発掘」(S39年7月~48年4月)の執筆期と重なる。この政治活動への関与が活発化した時期に清張は日共に入党している。それは渡部のいうD(S48年4月)ではなくC(S47年11月)より以前のある時期である。
 佐藤一は「松本清張の陰謀」で「日本の黒い霧」は戦後史を辿るうえの「躓きの石」だとした。「白鳥事件」は「日本の黒い霧」全編中最大の躓きの石でもある。それは歴史的誤謬が明らかになった「革命を売る男・伊藤律」や「謀略朝鮮戦争」にましてそうである。

2015年1月2日金曜日

イザベラ・バード「日本奥地紀行」を読む

  「イザベラ・バードと日本の旅」 金坂清則 平凡社 2014年

 イザベラ・バードは明治11年(1878年)7ヵ月に渡ったて、当時禁断の日本の内陸を旅した英国の女性旅行家である。バードが我が国で広く知られるようになったのは、1973年の高梨健吉訳「日本奥地紀行」(平凡社 東洋文庫 以下「高梨訳本」)の刊行による。それを典拠にして加藤秀俊は「紀行を旅する」(中央公論社 1984年)で、旅行記をもってそのあとを旅するという旅行記の新しい読み方を示した。また宮本常一は「高梨訳本」をテキストとした講読会で、バードの記述を、旅を重ねてきた民俗学者の目で分析した。そしてその記述が研究の対象となりうることを示した。(「古川松軒/イザベラ・バード」未来社 1984年)
 バードの旅の目的は、西洋の影響を受けて変容しつつも、古来の日本に由来するものが何故存在するのか、それがよりよく残っている「内地」を旅することによって明らかにすることであった。然し1878年当時、外国人の日本旅行には多くの制限があった。外国人が自由な移動を認められていたのは横浜・神戸・長崎・新潟・函館の五つの開港場と二つの開市場(東京・大阪)から各々10里(40キロ)の範囲に過ぎなかった。「外国人遊歩規定」で定められた「外国人遊歩区域」は日本全体から見れば点にしか過ぎなかった。それ以外の内陸は「内地」ないし「奥地」で、いわば「禁断」の地であった。その「内地」を旅行するには「外国人旅行免状」が必要であった。それが認められた場合でも自由に旅行できたわけではない。「免状」には「旅行先及路程」などが明記され、事前にルートが定められていた。また「外国人内地旅行允準条令」では旅行期間も「三十日又は五十日」を限度とすると制限されていた。
 このような制約の中で、何故バードは自由に日本の内陸部を旅することが出きたのだろうか。それは英国公使パークスが用意した特別の内地旅行免状、「事実上何の制限もない旅行免状」によって可能になったのである。そして著者の仮説によれば、パークス公使こそがこの旅の実現を計画したプロモーターであった。その旅はルートの制限のない旅であったが、行き当たりばったりではなく、目的に従いルートを事前に設定していた旅であった。また用意万端整った旅でもある。バードは「プラトン氏の日本地図」と「サトウ氏の英語辞典」を携えたが、これらは事前にパークスが作成を命じていたものである。パークスは何故バードの旅をプロモートしたのか。それは、日本のありのままの姿を見極め、安全に旅行出来るかどうかを明らかにすることが英国にとって必要と考えたからである。バードこそが特異な変容を遂げつつある日本の目撃者としてふさわしかったのである。
 然し「高梨訳本」ではこのような事情はうかがい知れない。なんとなれば、それは「完全本」の全体を半分にした「簡訳本」に基づいているからである。「簡訳本」は「完全本」から関西方面と伊勢の旅を除いて、「旅と冒険の書物」として編纂されているのである。そして旧訳では意味不明の誤訳も散見される。例えば「裃(かみしも)」は「翼に似たうす青い羽織」などのように。これだは何のことか分からない。著者はそのため「完訳 日本奥地紀行」(平凡社 東洋文庫 2012~3年)と「新訳 日本奥地紀行」(同 2013年)を翻訳刊行した。