2019年12月9日月曜日

「ウイグル人に何が起きているのか」を読む

  「ウイグル人に何が起きているのか」福島香織 PHP新書 2019年

 共同通信は,ICIJ(国際調査報道ジャーナリスト連合)がウイグル族に対する大規模監視システム「一体化統合作戦プラットフォーム」(IJOP)運用の指示を記した中国当局の内部文書入手し、内容を公表したと報道した。(2019年11月25日)中国当局はただちに「フェイクニュース」と否定した。然し人工知能による顔認証など駆使した恐るべき情報収集や民族文化を抹殺する運営方針など、本書が指摘した事実が図らずも立証された。
 苛酷な対ウイグル政策は「泣く子も黙る三大酷吏」陳全国(2016年8月より新疆ウイグル自治区書記、17年政治局委員)によって発案された。陳はチベット族弾圧でその腕を買われ書記に任命された。その内容とは次のようである。①新疆全域に7300か所もの安全検査ステーションを設置、②脱過激化条例の施行(17年4月1日)、③職業技能教育センターの設置(18年秋、これは強制収容所で200万人が収容されている)、④パスポートの回収、⑤社会信用システムのスコア制度実施(基礎点100でウイグル人であるだけで-10ポイント)、⑥所持している携帯に監視アプリのダウンロードの強制、⑦強制健康診断による血液・DNA・虹彩・指紋の採取(すでに3600万人のサンプル収集)何故このような内部文書の内容が明らかにされたのか。まずその背景たるウイグル族の苦難の歴史を知らねばならない。

 (ウイグル族とは)現在中国で55の少数民族の一つであり、新疆には1002万人(2009年自治区政府統計)が居住する「ウイグル族」。彼らはいかなる人達なのか。ウイグルとは彼ら民族の自称であり、日本ではウイグル人やウイグル民族と呼ばれるテュルク系の人々である。その起源はモンゴル高原から南下してきたテュルク系遊牧民族の回鶻と従来からタリム盆地のオアシスに住んでいた印欧語族に属する人々が混血・融和して形成されたものである。10世紀中葉カラハン朝がイスラム教を受け入れたことによりこの地域のイスラム化が進んだ。16世紀頃には盆地のイスラム化が完了し、現在のウイグルに見られる社会や文化が形成された。字義通りの東トルキスタンの成立である。
(東トルキスタンの政治的独立は喪失された)清朝の乾隆帝によるジュンガルとヤルカンドハン国の征服によって1759年には東トルキスタンは清朝の領土となった。新たな境域という意味で「新疆」と名付けられ大清国の版図に組み込まれた。然し清朝の統治は「回部」と呼ばれたタリム盆地のオアシスには少数の軍事力を駐屯させ、民生と徴税には現地人の有力者を官吏として当たらせるという比較的微温的なものであった。各オアシスの駐屯基地は城市の外に設けられ、現地人との接触は避けられていた。
(最初の試み)然し19世紀に入ると清朝の力が衰え、太平天国の混乱が新疆にも飛び火した。回民とムスリムの反乱が新疆全土におよんだ。これに乗じてコーカンドハン国の将軍ヤクブ・ベクが天山以南を征服しムスリム政権を樹立した。漢人から独立して、東トルキスタンにテュルク系ムスリム国家を樹立する最初の試みであったが短命に終わった(1865~77年)。まだ近代的な民族意識に立脚したものではなかった。清の再征服後新疆省が設置された。その統治は、現地の有力者の介在なしには実行することが出来ない脆弱なものであった。そして同化政策の試みが、逆に住民の民族主義的覚醒を促した。
(2次の独立運動)辛亥革命が勃発すると新疆はウルムチ地区の知事楊増新の掌握するところとなった。楊は新疆を中国本土と遮断することに腐心し、あたかも独立王国の観を呈した。後継者の金樹仁や盛世才も同様であった。一定程度の安定を果たしたが、その結果住民の民族的自覚は更に進んだ。彼らは従来民族名を持たず異教徒に対しては「ムスリム」と自称していた。ソ連留学生を中心に、1921年アルマ・アタの会議で、古代の民族名「ウイグル」を自らの民族名にすることを決定した。この民族的高揚を背景に2次の独立運動が起こり、東トルキスタンにテュルク系民族の国家を樹立した。すなわち「東トルキスタン・イスラム共和国」(1933年)と「東トルキスタン共和国」(1944年)である。然しいずれも短命に終わった。前者は英国インド政庁の隠然たる支援はあったが、同じイスラム教徒の回族すら糾合できなかった。後者はソ連赤軍の強力な支援があり1万5千人の民族軍を有し軍事的にも優勢であった。然し大国間の取引(モンゴル独立承認と新疆の引き渡し)により解散を余儀なくされた。1949年中共政権成立後旧共和国幹部は謀略的に抹殺され、民族軍は人民解放軍に編入された。かくして「東トルキスタン共和国」の名は回避され「三区革命」として中国革命の一部とされた。
(中国の植民地に)中共政権は人民解放軍と生産建設兵団(屯田兵)の武力を背景に土地制度の改革(1952年)や、イスラム法廷の廃止などを行い55年10月新疆ウイグル自治区を成立させた。その統治は徹底しており、東トルキスタンは中国の植民地になった。中共は政権獲得前は、領域内の少数民族の自治を認め、中国から独立して国家を樹立する権利を認めていた(1931年瑞金ソビエトの憲法大綱)。然し解放後は「多民族国家の少数民族に自決権は適用されない」と前言を翻した。政治的独立は喪失されたのである。
ウイグル族の独立への模索は続いたがいずれも不発に終わった。東西冷戦崩壊期のカザフやキルギスなどのテュルク系民族国家の誕生は新疆の独立運動を活発化させた。①バリン郷事件(1990年4月)、②グルジャ事件(1997年2月)、③7・5事件(2009年7月)の3大事件である。中国政府ははいずれも東トルキスタン独立運動(ETIM)の引き起こしたとし、テロとの戦いを正当化している。

 その後のETIMが引き起こしたとされる「テロ」事件については本書の記述が詳しいが、それらは国際社会の注目も低く報道されることも少なかった。潮目が変わったのはトランプ政権の対中国政策の変更である。米中貿易戦争の白熱化を焦点とする米中新冷戦構造の深化がウイグル族の「人権侵害」をあぶりだしたのである。ペンス副大統領は「数十万人、もしくは数百万人の規模でイスラム教徒のウイグル族を再教育施設という場所に収容している」(2018年7月20日)と講演で非難した。また同年8月超党派の議員が、陳全国ら7人の中国当局者に対し、米国内の資産凍結や入国制限を求める書簡をポンペイオ国務長官に送った。まさしく「ウイグル問題」は米中新冷戦のカードとなったのである。このような文脈の中で「ウイグル弾圧」を指示する内部文書が公表されたのである。

2019年10月24日木曜日

マルコポーロ写本の謎

  「マルコポーロ/ルスティケッロ『世界の記』~東方見聞録対校訳」 高田英樹訳
                 名古屋大学出版会 2013年

 「東方見聞録」として知られる「世界の記述」には140とも200ともいわれる写本がある。その成立の経緯はマルコポーロの生涯と同様に謎に満ちている。マルコの冒険の情報をもとに、全体の構想を練り、創作も交えて一遍の物語に仕立て上げたのは、ピーサの騎士道物語の作家ルスティケッロであった。この意味で「世界の記述」は二人の共作であった。この書物は世に広く流布したため、イタリア各地の言葉のみならずラテン語やフランス語にも訳され、それゆえ大きく変容することになる。そして多数の写本が作られた。
 それらの写本にもとづくテキストは次の7グループに大別できる。すなわち①フランクーイタリア語版(F)、②フランス語グレゴワール版(FG)、③トスカナ語版(TA)、④
ヴェネット語版(VA),⑤ピピヌスのラテン語版(P),⑥ラテン語セラダ版(Z)、⑦ラムジオのイタリア語版(R)である。これらは内容によって①から⑤のF系のAグループと⑥~⑦のZ系のBグループに大別できる。BにはAにない多数の記事が含まれるが、Aの記事はすべてBに含まれる。Fは内容的には全114章からなりAグループの中では最も完本である。1824年パリ地理学協会が刊行している。Pは写本の中で最も多く残っている。1485年アントワープで刊行され、コロンブスが航海に使用した。Zは1932年デーヴィッド卿によってトレド大聖堂古文書庫で発見されたセラダ手稿。35年印刷、38年出版。Rは1559年ヴェネツィアで出版されたラムージォのイタリア語集成訳。主底本はPで、ギジ写本なども用いられている。
 主要テキストの関係は次のように想定される。原資料としてのO(マルコの話、メモ・ノート類、ルスティケロのもとにあった情報など)。ここから二人によって編まれた第一次祖本(O1)。よりO1に近い第2次祖本(O2)によってZ(ゼラダ写本)やR(P+ギジ写本)が成立した。またやや省略された第2次祖本の異本(O3→O4)からF系の写本が誕生した。1298年ジェノヴァで作成されたオリジナル(O1)にはZやRに伝わるものを含めすべての記事が揃っていた。言語的にはFが最も古いが、転写・翻訳の過程で省略・改変がほどこされていった。
 なお「見聞録」の邦訳には現在入手できるものとして以下のようなものがある。
愛宕松男訳註(東方見聞録1.2 平凡社 1970、71年)ベネディットのイタリア語集成版(フランス語原典fr.1116を基礎にして、他の写本・刊本から記事を補った集成本のイタリア語訳)のリッチによる英訳本からの翻訳。中国史料による註が豊富。
長澤和俊訳(東方見聞録 小学館 1996年)青木和夫訳(東方見聞録 校倉書房
1960年)もリッチ英訳本からの邦訳である。
月村辰雄・久保田勝一訳(マルコポーロ東方見聞録 岩波書店 2002年)は初期テキストの一つ(中世フランス語fr.2810)から直接日本語訳したもの。
それらに比して本書は代表的テキスト3種(F,R,Z)を全訳し対比した労作で、極めて「学術的価値は高い」(海老原哲男)。マルコは記述する記事の多弁に比し自らの旅程を語ることは極めて少ない。完全対校訳によって中央アジアの旅程(とくにパミール横断ルート)を正確に推測することが可能になった。あわせて写本成立の解明を簡潔に解説したことなど本書の意義といえる。







            

2019年9月24日火曜日

ミスターXの退場

  「内閣調査室秘録~戦後思想史を動かした男」 志垣民郎(岸俊光編)
                        文春新書 2017年

 昭和53年一人の政府高官が退官した。高官とはいううものの行政の表舞台には出ず、公安・警備関係就中国民意識の分析を専門にしていた。東京新聞大槻立一記者はいみじくも彼を「ミスターX」と名付けた。Xは内閣調査室に所属し、戦後一貫して保守党政権の屋台骨を裏から支えてきた。普段素顔をさらさないが、毎年8月になると国民の前に姿を現していた。テレビ局の終戦記念番組で放映される「学徒出陣」のニュース映像。その画面の中に、秋雨煙る神宮外苑競技場を角帽、学生服にゲートル姿で行進している。重い三八式小銃を肩にめりこませて悲壮な表情で、東大の前から7番目の列で行進している姿が映し出されている。
  内調(内閣総理大臣官房調査室)は昭和27年4月9日付けで発足した。村井順のもとXを含めた4人が支えた。日本独立の直前に、親米反共の首相直属の情報機関として新設されたのである。内調の組織は6部からなり、Xは主に5部(学者)を担当した。政府に味方する保守の言論人を確保することが彼の仕事であった。いまだ右傾するか、左傾するか分からない有望な学者に研究費を与え、保守陣営に繋ぎとめる。その顕著な例が藤原弘達である。佐藤政権の終盤にXが白羽の矢を立てたのが山崎正和、佐藤誠三郎、高坂正堯、黒川紀章、香山健一、志水速雄らであった。彼らは中央公論などの総合雑誌で健筆をふるい、世論をリードした。本書は彼らを含む125人の学者たちが内調の委託費を受けていたことを明らかにしている。もちろん上山春平のように委託費を受けることを峻拒した例はある。
 委託研究費を受けた125人の中で特筆すべきは江藤淳である。江藤の「秘録」への初出は昭和46年10月21日。日米関係、米政府要人、外交問題など詳しく、「シャープな頭脳、よく勉強もしている」とある。そして「月7万円くらい」の研究費を支給するという。翌年3月10日には「危機の処理についてー勝海州と現代」なる講演をし、江戸城明け渡しをめぐる勝の遠望深慮を解説している。7月にはアメリカ研究会のメンバーは軽井沢で合宿し、その後江藤の「立派な別荘」を訪問する親密ぶりである。 
 Xとはもちろん本書の著者志垣民郎である。なぜ志垣は回想録の形で内調の秘録を公開したのか。志垣は学徒出陣後入隊。中国戦線に配属となり、終戦後「あの戦争の意味」を問い続けた。その後文部省の「雇」という最下級の事務員から戦後復帰。27年に新設された内調に移る。内調の仕事に対する自負心と組織原理にとらわれない志垣の価値観が秘録を公開したと編者は推測する。日本ニュース第77号(昭和18年10月27日)に収められた神宮外苑の「学徒出陣」こそが志垣の戦後の原点であった。本書の意義は松本清張が「深層海流」という小説の形でしか書けなかった戦後裏面史-内調とCIAの密接な関係が内部から明らかにされたことである。
 

2019年8月26日月曜日

新疆に入った日本人・追補~大西忠について

   「馬仲英羈下の日本人」 中田吉信 白水社
         ヘディン探検紀行全集12月報1979年所載

 前稿で紹介した大西忠については、特務機関説と単なる冒険好きの日本人青年説がある。いずれとも決めがたいが、中田は興味深いエピソードを示している。
 盛世才は「回想録」で「1930年8月、東京は馬のところに、密使としてタダシ オオニシを、『于華亭』という変名で、送り込んだ。于は馬に、新疆をとり、そこにイスラム教徒国家を建設することを奨め、日本が必要な武器や資金を供給するだろうと約束した」と述べている。然し盛は「カメレオン将軍」(ラティモア)と揶揄されたように、節操のない人間で、その回想録は自己弁明的で、信用するに足らない。「オオニシ タダシ」についても隠された事情があると中田は推測している。
 盛世才時代の新疆研究者ワイティングは大西が「ひとりぼっちの冒険家であったにせよ、また満州の関東軍の特務機関の一人であったにせよ、プラウダは、彼によって、日本帝国主義についての解説に、挑発的な解釈を付することができた」のであり、特務機関員とする決め手は乏しいとしている。
 盛は、于華亭が日本が馬仲英幸作に派遣した特務機関員であることをしきりに力説している。然し、外務省外交資料館所蔵の暗号電報ファイル(昭和8年11月20日発電、上海の有吉公使が天津に宛てた暗号電報29)によれば、于華亭すなわち大西なる人物は、昭和6年頃、楊虎城の部下、第14師長魯大昌の代表とともに天津から新疆に入った。潜入には天津駐屯軍の内密の援助があったらしいが、軍命によって潜入したのではなく、背後に複雑な事情があった。その事情について外交史料館所蔵ファイル文書(昭和8年10月21日付有吉公使から外務大臣宛「参謀本部派遣新疆視察、将校随伴ノ陶考潔ノ帰来談ニ関スル件」)から次のように推察される。すなわち「数年前天津ニ於イテ行先不明ヲ伝ヘラレ居タル陸軍将校某」こそ大西であり、共産党員か否かは疑わしいが、思想上の理由で、陸軍から逃亡したか、追放された。天津駐屯軍は、何らかの役に立つかもしれないと、内密に新疆入りに援助した。そしてその新疆入りに関与したのが、北京のイスラム教徒の川村狂堂である。川村は甘粛のジュヘリア派とも関係があり、川村の紹介状があればこそ馬仲英は大西を受け入れたのである。
 その頃大西の他にも新疆を目指した日本人はいた。ヘディンが記述している「李教授」である。「小さな黒ひげ」の李教授は4人の学生とともに、1933年6月に北京を発ち、歩いて10月にハミまで来た。12月にトルファンに到着。その後ウルムチで逮捕され、学生の一人が射殺された。彼は「オオニシ」ではないが、特殊任務を与えられ潜行したのである。大西はウルムチ第5監獄で獄死したともいわれるが、その後の消息は不明。共産主義者であることを主張したとしても盛世才時代を生き延びることは不可能だったとは著者の弁である。彼らは何故新疆を目指したのか。それはアラシャンとオチナにおける航空基地の建設、更にシルクロードを越える日独航空路延伸のための寄港地確保であった。

2019年1月17日木曜日

ミイラは何処へ行ったか

 「砂漠にさまよう舟」細谷葵 (弘文堂2013年「イエローベルトの環境史」所収)

 後にトカラ人と呼ばれるトカラ語派の人々は、BC2000年以前にアルタイ山脈の東方から、天山山脈の低い峠を越えてタリーム盆地に到達した。その形跡が孔雀河沿いの鉄板河古墓や古墓溝、小河墓の遺跡で発掘されたミイラである。
(古墓溝のミイラ)は発掘当初6400年前の「美少女ミイラ」と報道されたが、これは誤りである。その後3800年前(BC1800年)と訂正された。古墓溝(北緯40度40分35秒、統計88度55分21秒)はロプノールの西方約70キロ、孔雀河北岸の第二台地にある。遺跡は42座発掘されており、古い第1類型(36座)とより新しい第2類型(6座)に区別される。いずれもコーカソイドに属するが、第1類型はアフォナシェヴオ文化、第2類型はアンドロノヴォ文化に属する。「美少女」は前者である。
(鉄板河古墓)はLAの東北、土根遺跡の西南約2キロ、ロプノールの北端に注ぐ鉄板河(孔雀河の下流)河口の北岸2キロに位置する。通称「楼蘭の美女」と呼ばれるミイラが発掘された。年齢40代前半、コーカソイドに属している。炭素14修正測定によれば、3880±95年前という数値が得られている。中国の孟凡人は、これらの人々は孔雀河下流域で原始的な農耕を行いながら定住していたとしている(「楼蘭新史」)。
 (小河墓遺跡)この遺跡はかつて1935年に西北科学考査団のベイリマンによって発掘された「エルディクのネクロポリス」だが、その後戦乱などでその位置が忘れられていた。新疆ウイグル自治区文物考古研究所が2000年に再発見。2002年予備調査、2003~5年本格調査された。その後同研究所と総合地球科学研究所との日中共同研究として調査された。本論考はそのレポートである。この遺跡はLAから西に175キロ、旧タリーム河の流域標高827米に位置する。すでに盗掘された墓(190基)と手付かずの墓(167基)があった。合計350基ほどの墓が500~600年間につくられており、そのコミュニティーはそれほど大きなものでないことが予想された。墓域は胡楊材の柵で南北2区に区切られており、北区で8基、南区で139基が調査された。南区は第1期(13)、第2期(27)、第3期(23)、第4期(38)、第5期(38)の5層にわかれていた。炭素14年代測定によれば第1~3層がBC1700~1400年頃、第4~5層がBC2000~1700年頃、北はBC1950~1500年頃とされた。現時点では中国で発見された最古のミイラである。さらに分子生物学分析によるミイラの人種については、コーカソイドのみならず北アジア、中西アジア、東アジア、南アジアなどが複雑に混在することが分かった。東西交渉を示唆する東ユーラシアと西ユーラシア系譜の混在が層が新しいほど高まってゆく。BC1400年頃を境にこの辺りから人跡が消える。この人々は何処に行ったのか。
 (玉の交易市場)玉(軟玉)は中国の貴石である。新石器時代から使用されていた。中国では産出されず、その産地は西域のホータンである。明確にホータン産と発表されている先秦時代の事例としては殷墟婦好墓(BC1200年)がある。玉はホータンから、敦煌地方に住んでいた月氏によって中継貿易されたものと思われる。長澤和俊によれば月氏はおそらく楼蘭で玉を中継貿易したと考えている。「寓氏(月氏)の玉」という古典の表現はその証左である。小河墓付近に住んでいた人々は玉の中継市場として孔雀河河口地帯に、敦煌地方と交易するための隊商都市を建設する必要があった。そこから400キロ離れた敦煌までは、一木一草ないロプ砂漠であり、そこはこの地方で水が得られる最後の地点である。それが「楼蘭」であり、建設の時期はBC1500年頃と推定されている。当初の「楼蘭」は玉の中継市場と隊商宿だけの小さな町であった。やがて外敵を防ぐための城壁を築き、城郭都市に成長していった。中国記録に「楼蘭」が現れるのはBC176年だが、西側の記録にはすでにBC5世紀(ヘロドトス)やBC7世紀(アクステアス)に「イセドン」の名が見える。
 既述したように小河墓は謎の遺跡である。BC2000年頃から500年間に渡って使用され、そして突然その活動が停止した。現在不毛の砂漠であるこの地区は、当時タリーム河に沿って胡楊樹の森が続き、小麦が稔る緑豊かな土地であったと思われる。棺の覆いに使われた牛の皮は、大量の牛が飼育されたことを物語る。また棺の材料、木柱など相当量の胡楊樹の存在を示す。なにより「舟」型の棺そのものが、水の豊富な環境に住む人々の発想を暗示する。何故人々は消えたのか?そのヒントは遺跡から発見された「コムギ」にあると著者は考える。このコムギはDNA分析により、普通体(6倍体)のパンコムギで、他のコムギよりずばぬけて高い生産量となるが、大量の水を必要とする。基本的に乾燥地である小河墓地区は、降水量は多くない。水源から水を引く「灌漑」という人工的方法がとられることになる。水を他所から引くと、その中に含まれる塩分を持ち込むことになる。乾燥地では、水分は蒸発して、中に含まれる塩分のみ地表に残され、堆積してゆく。そして塩分が植物に取り込まれて生育をはばみ、「不毛」という結果を招くことになる。小河墓後期において、コムギ一粒の重量が減少してゆく。乾燥化に対して、より「灌漑」システムを拡大しようとする努力が、環境劣化に更に拍車をかける。そしてついに小河墓地区は放棄される。人々はこの地区から移住して新たな隊商都市、後に「楼蘭」と呼ばれる都邑を建設する。この地区の環境劣化は、人口規模の小ささもあって局地的にとどまったが、やがて千年後それはこの地区の乾燥化とあいまって、更に地域的なものになる。